第二章 姫蓮

 


                 1

 少女は一人、暗くて狭い部屋の中にいた。黒目がちで大きな瞳は、部屋の中にぽつんと置かれている、台座の上に据えられた宝玉をじっと見つめている。宝玉―心映珠の中には、大きな声で笑う少年達の姿が映っていた。

 少女―姫蓮きれんは、姫氏一族の末娘であった。彼女もまた、一族特有のたぐいまれなる力を受け継いでいたが、彼女は他の姉妹たちと異なる扱いを受けていた。彼女は、部屋から出ることを許されなかったのである。

 「蓮様、お食事の時間です」

 そう言って、一人の女が入り口の扉を開けて入ってきた。ふくよかな体をして、人のよさそうな笑顔を浮かべている彼女は、蓮の婦功である娰瑜じゆである。蓮は、めったに彼女以外の人間と話すことがなかった。

 蓮は慌てて宝玉から目を離し、体を娰瑜の方へと向ける。彼女が目を離したと同時に、宝玉は光を失い、本来の紅い色を取り戻す。

「ありがとう、娰瑜」

 蓮はかすれた声で礼を述べた。膳を見ると、たかつきの上に米がこんもりと盛られており、かなえの中には魚を煮込んで作ったらしいあつものがふちぎりぎりにまで入っていた。その他にも、季節の果物や、ごく一部の土地でしか取れない貴重な野菜などが、小さな器の上に盛られている。

「こんなに食べられないわ」

 毎度のように出て来る数々の料理には、辟易させられることがたまにある。

 そんな蓮に、娰瑜はいたずらっぽく微笑みかけた。

「どうしたのですか?食がお進みにならないのでしたら、私が食べて差し上げますよ」

「じゃあ、この羹を半分ぐらい食べてもらってもいいかしら」

 蓮が遠慮がちにそう言うと、娰瑜はおほほと、声をあげて笑った。

「もう、蓮様ったら。しっかり食べないと、体を悪くなさいますよ」

「いいのいいの。食べ過ぎたら動けなくなるしね」

 食事をとるときは、蓮にとって数少ない息抜きの時だった。いつも彼女の向かい側では、娰瑜が満月のように丸々とした頬を揺らしながら、咀嚼を行っている。彼女の食事は、蓮の物にくらべると、かなり質素だった。盛られた米は蓮の半分ぐらいの量であり、羹の中にも具材が少ない。しかし、小食な蓮はいつも過剰な量の食事を娰瑜に分け与えていた。食べる事が大好きな娰瑜は、それをもぐもぐと嬉しそうな様子で食べる。その様子を見ているとき、蓮は幸せだった。にっこりと微笑む蓮を見て、娰瑜が蓮に問いかけた。

「蓮様、最近のご様子はいかがでしょうか」

「もう退屈でしょうがないわ。せめて裏庭に出ることが出来ればいいのだけど」

 蓮はそう答えて俯いた。黒いさらさらとした長い髪が左右に分かれて、青白いうなじが露わになる。この頃は日の光すら、満足には見ていない。

「そういえば裏庭の池で、最近蓮の花が満開なんですよ。蓮様は蓮がお好きでいらっしゃいましたよね?」

 娰瑜が気遣うような様子で言った。

「そうね、私の名前がそれだし―何より、愛らしくて綺麗」

 そう言うと、蓮は黙り込んでしまった。蓮は生来、口数が多い方ではない。ひっきりなしに喋るなどといった芸当は、彼女には到底不可能だった。

「何とかお庭にお連れできたらいいのですが―」

 娰瑜はふと、何かを考え込むような様子を見せた。暫くすると、彼女は良い考えが浮かんだというばかりに、手をぽんと叩き、声を潜めて言った。

「他の御姉妹に変装されてはいかがです?」

 実際、蓮はそれを実行したことがあった。それは変装というより、憑依に近かったのだが。しかし、このことが他の者に発覚すると、かなりまずいことになるのは目に見えていた。

「成程。それはいいわね」

 何も知らないふりをして、蓮は相槌を打った。

「でも、機会がないんじゃないかしら。この頃、お姉さま達は宮の中に籠っておられることが多いし」

「ああ、そろそろ冠礼の時期でございますからね」

 その言葉を聞いて、蓮は胸がちくりと痛むのを感じた。

 あの少年は、無事にここまで来ることが出来るのか。ここまで来るには、目をかいくぐらねばならない。融を使いこなすものですら、目を欺くことは容易ではないのだ。

 胸の鼓動が更に速くなっていく。心を乱されているのを悟られないよう、蓮はつとめて冷静に言葉を発した。

「もうそんな時期なのね、時の流れの何と早いこと」

 そう言うと、彼女は遠くから聞こえる、小鳥の軽快な鳴き声に耳を傾ける。そうすると、心の中に生み出される荒波が、徐々に静まっていくような気がした。

「今年、もしかしたら、蓮様の伴侶となる者が来るかもしれないですよ」

 蓮は、この年で十五になる。姫氏に限らず、姫周では女たちは十五の年になると、伴侶となる者を探し始める。本来この王宮は男子禁制であったが、一部の職業に属する者や子女達の伴侶、それにその候補となる若者は、入ることを許されていた。王宮の深部には、国民全員の姓名、年齢、体格、地位などの基本的な情報を記した戸口(こせき)が存在する。そこから巫王が候補として選んだ数人の若者が、王宮に招集され、その中から子女は伴侶を選ぶのであった。




                   2

 数年前、姉の姫汪の伴侶となった青年を、蓮は見かけたことがあった。それまで、生みの親の奵瑛以外の男性を見たことがなかった蓮は、彼の姿をまじまじと見てしまった。

 儀礼を行う康宮から、自身の暮らす部屋へと伸びる道を歩いていた時、蓮はその男と出会った。いや、鉢合わせたといった方が正しいかもしれない。その時、小柄な彼女は大きな壁に衝突したと感じた。しかし、感触が無機質な壁のそれではなく、少し間をおいて、彼女はやっと人間にぶつかったことを理解したのだった。

 見上げると、彼の頭は蓮よりも遥かに上に位置していた。顔の線が鋭く、端正な印象の若者だったが、無表情だったせいか、その瞳は饕餮のそれを連想させた。

「ひっ、も、申し訳ございませんっ」

 蓮は素っ頓狂な声をあげてその場を飛びのいてしまった。恐る恐る彼を見やるとこの世の終わりといわんばかりに険しい顔をしながら、ひれ伏そうとしているところだった。

「姫汪様の妹君に、とんだ無礼を働いてしまい、本当に申し訳ございません!どうか、命だけはお助けください!」

「いやいや、お気になさらないでください!」

 蓮は完全に混乱しきっていた。そもそも、今の彼にどの様に声をかけたらよいのかさえ考えられなかった。宮中では、婚姻を結んでいない男女の接触に対し、一定期間の謹慎などの厳しい措置がとられる。このような誤った事故によるものでさえも、それは適用された。

「お前たち、何をしているのだ」

 そこにやってきたのは、巫王姫旋が長女、姫瑳その人であった。紫の祷裙の上に、黄色がかった瀟洒な薄衣を羽織る彼女は、とても美しかった。巫王そっくりの切れ長の目。雪のように白い肌に紅い唇が映えている。

 混乱し、ひたすらに手を横に振る少女と、何度も何度も頭を下に擦り付ける青年の二人。彼らが鷹に見つめられた小動物のような目で自身を見た時、姫瑳は大笑いした。

「はっはっはっ。お前たち、本当に面白いな」

 大笑いをする姫瑳を、二人はきょとんとした目で見る。蓮自身、これまで笑っている姉を見たことがなかったが故に、余計に狐につままれた気分にさせられていた。

 姫瑳はほころんだ表情を正し、二人の顔を交互に見つめる。

「ここで見たことは、不問に付す。だから二人とも、案ずるな。ただし」

 彼女はそこで一瞬黙り込んだ。

「汪に発覚したときは、お前たちの責任だからな」

 三女の姫汪は、母の性格を受け継いでおり、苛烈な人柄で知られていた。これまで、男女問わず多くの者たちが、彼女の異常に鋭い勘に引っかかってきていたが、双方の口が堅ければ問題ない話である。

 そう言って、安堵と怯えが混ざった複雑な顔をした二人を残し、姫瑳は去っていった。

 青年は何も言わず蓮に向かって一礼すると、先程と同じ方向に歩いて行く。彼の口は、張りつめた糸のように固く引き結ばれていた。

 今のは何だったんだろう。

 蓮は不思議な気持ちで二人の後姿を交互に見つめる。蓮は年の離れた跡継ぎである姫瑳とはめったに話すことがなかったが、彼女は巫王とは性格が似ていないという噂を小耳に挟んでいた。そして、温厚で寛大であるが故に、彼女との関係が円滑であるということも。

 瑳姉様になら、憑依できるかもしれない。

 蓮はその時の姫瑳の様子をみてそう考えた。一度、姫汪にも憑依を試みたことがあったが、失敗に終わったのだった。彼女の精神はかなり自我が強く、蓮の意識が入り込むすきを与えなかったのである。




                   3

 彼女は、その後試しに心映珠の前に向き合い、姫瑳への精神の干渉を試みた。彼女が念じると、紅い玉は透明になり、他の姉妹とともに朝議に出席し、議論を行っている姫瑳の姿を映し出す。康宮は儀礼を行う祭祀場とともに、朝議の場も兼ねている。

 「巫王、今度の燎祭についての提言がございます」

 紅唇を動かし、玲瓏とした声で姫瑳が言う。

 「なんだ、言ってみろ」

 冷たい声が姫瑳の視線の先にある、純白の垂幕の中から聞こえる。

 「最近、鹿の捕れる量が減ってきたと、各小邑の長達から報告があります。これでは捕獲量は、前年に比べて更に減少を見せているということになります。そこで、今年は小動物の割合を増やすよう指示してはいかがでしょうか」

 燎祭とは、毎年秋に行われる、夒や龍などの自然神に対し豊作を感謝する祭りである。その日には、数十頭の捕らえた獣を殺して血抜きを行い、火であぶって丸焼きにして食べる。しかし、捕れる獲物の数は年によって変動しているので、毎年同じように行うわけにはいかなかった。

 垂幕の奥の様子は、全く伺い知れない。

「瑳、確かにお前の言うことにも一理ある。よかろう」

 垂幕の向こう側の人物―巫王姫旋は暫くすると、納得したように発言した。

 母上の声は、未だに聞きなれない。

 蓮は心中がごろごろと痛むような気分になった。だが、暫くすると、気を取り直して、機会を狙う態勢を取り戻す。

「私からも提言させていただいてもよろしいでしょうか」

 そう発言したのは、次女の姫佳だった。彼女は姫瑳とは似ても似つかない、太い眉を片方ぐいとあげて垂幕の方を向いた。

「いいだろう」

 そう言うと、姫佳は意見を述べ始めた。

「各小邑に、巫王様が出向くことも良いと考えているのですが」

 よし、今が絶好の機会だわ。

 そう思って、蓮は意識を姫瑳に向かって集中させる。姫瑳には、姫汪の意識に入り込もうとしたときに感じられた、精神の侵入を阻む堅牢な壁のようなものがなかった。代わりに彼女に見られたのは、弾力のある白い薄皮のようなものだった。それは意識だけの存在となった蓮を、受け止め遠くに跳ね返すものだった。何度も宙に跳ね返され、めまいを覚える。

 これもこれでまずい。

 そう考えた蓮は、薄皮を細かな粒となってすり抜ける自身の姿を思い浮かべる。すると、意識が真っ白になるのを感じた。

 「佳、それには賛同しかねる」

 巫王姫旋の声が近くから聞こえた。視界は暗闇が広がるばかり。

 そうだ、目を閉じていたんだわ。

 蓮は逡巡したのち、やっとそのことに気づいた。意識を身体に移した瞬間は、それぞれが上手く結びつかないため、行動が把握できないのが常であった。

 蓮はうっすらと目を開いた。辺りにはぼんやりと、女達の長い黒髪が靡いているのが見える。

「姫旋様、なぜいけないのですか」

 姫佳の焦る声が聞こえた。それをきっかけに、目の焦点があうのを感じる。鮮やかな祷裙じゅくんを着た女が十数人。彼女らは全て蓮の姉妹や叔母に当たる人物である。姫瑳―今は憑依されているので蓮と呼ぼう。彼女は、全員の中でも最も上座に位置するところに立っていた。

 厳しい表情をした女達の中で、通路を挟んで左斜め前にいる姫佳だけが一人憔悴した表情をしている。女にしてはがっしりとした肩が、小刻みに震えていた。

「お前は、わたしを冒瀆しているのか」

 垂幕の向こう側の声は、憤りが混ざっていた。

「いいえ、少しもそのつもりはございません」

 姫佳は更に焦りを募らせた。顔には冷や汗のようなものが浮き出ている。巫王姫旋は冷酷で猜疑心の強い人であると、一部の臣下から噂されていた。確かに、それはいつもの彼女を見れば明らかだった。蓮は未だに自身が彼女の血を受け継いでいることを実感できずにいる。様子を見るたびに、それがひしひしと感じられるのだった。

 怖い。でも、佳姉様を何とかしてあげなければ。

 蓮の心の中の様子は、姫佳と同じだった。ただただ巫王に対し恐れを抱くという感情。しかし、今だけは、姫旋と同等に渡り合える姫瑳になりきらなければならない。

 瑳姉様、本当に申し訳ございません。でも、今だけはお許しください。

 蓮は姫瑳に心の中で謝った。

 蓮は深呼吸をして、大きく朗々とした声で発言しようとした。しかし、思った通りに声は出なかった。喉の奥でひゅうひゅうと息が鳴るばかりである。どうやら、喉の奥に痰が絡んでいるようだった。蓮はとっさにせき込んだ。

 すると、一斉に女たちが蓮の方を向く。

「申し、いや、皆の者、すまない」

 ようやく声が出る様になったところで、蓮は急いで謝った。

「佳が言っていたことですが、代わりに私が出向くということで良いでしょうか」

「いや、お前は私の後を継ぐのだから、下界におろすような真似はできぬ」

 蓮は一瞬ひるんだが、直ぐに気を取り直した。

「それでもやはり、私達も下界の者も同じ人間であることには変わりありません。我々の祖先の意志だけではなく、小邑に出向き、下界の者たちが望むことを時には聞き入れる度量も必要なのではないでしょうか」

 蓮は思いがけずすらすらと口から出てきた言葉に焦った。彼女自身が感じていたことを述べただけだったのにどうやら、外観が変わると、意識によって話し方まで変わるらしいということに気付いた。

「成程、それも一理ある。良いだろう。だが、これには神託が必要だ。占を行った結果で決めることにしよう」

「ありがとうございます」

 姫佳の方を見やると、目が合った。彼女は蓮のことを睨んでいるように見えた。恐らく、この場では良い扱いを受けていないのだろう。どの様な事情があるのかはわからないが、とりあえずは場を丸く収められたことに蓮は安堵した。

 意識の分離を行うため、蓮は再び目を閉じる。すると、また視界が白くなるのを感じ、気が付くと、個室の中で心映珠の前にいた。

 何とか無事に戻ってこれて、良かった。

 蓮はほっとして、大きく息を吐き出した。なんとか、憑依はうまくできそうだ。蓮が憑依の機会を得たのは、姫瑳が融軍の視察に行くという話を聞いた時だった。巫王自身が姫汪か姫瑳どちらを派遣するかと迷っていたので、蓮は気が気ではなかった。何しろ、少年の様子を間近で見ることができる数少ない機会なのだ。逃すわけにはいかなかった。




                 4

 どうして蓮がその少年に目をつけているのか。それは、彼女の父―奵瑛ていえいが関係していた。奵瑛は、姫氏の伴侶としては異例の歩兵の出身であったが、巫王に聡明さを気に入られ、宮中に組み込まれることになった男だった。彼は、死ぬまで宮中に留め置かれる人生に飽いていた。

 例えこの身が滅びようが、何としても隔壁の外を見たい。蓮、お前が代わりに見てきてくれ。

 彼が最期に言った言葉を、蓮は今でも覚えている。外の世界に出ることに興味を持つことすら許されないこの地において、彼の考えを他に伝えることは死を意味する。彼女は日頃から極力父については話さないようにしていたが、ある日の出来事がきっかけで、それが発覚するに至ってしまった。

 奵瑛は、宮中での生活で、書を読むことが唯一の趣味だった。生活に飽いているであろう彼に、巫王姫旋が唯一与えた娯楽―それが、文字を読むことである。それまで文字というものが存在したことすら知らなかった彼は、婦功に教えられた内容を、水を得た魚のごとく吸収していった。月ごとに、巫王から代わる代わる送られてくる書物も全て読み終えた彼は、物事を知りたいという欲求をさらに募らせた。ある種のずる賢さも持ち合わせていた彼は、王宮の深部にある甲骨文の所蔵場に通ずる抜け道を密かに見つけることに、ある日成功した。そこには、姫周に古くから伝わる話を記した文献が数多くあり、それを読み漁ることが、彼の心の安息に繋がっていた。

「蓮、世界の東には、れいという強大な国があるらしい。そこでは、生涯豊かな暮らしが約束されているとか」

 その日も、目を輝かせて仕入れた知識を披露する奵瑛を、蓮は誇らしいと幼心に感じていた。

「それは素晴らしい国でございますね。蓮も将来そこを訪れとうございます」

 にこにこと笑い、蓮は嬉しそうな奵瑛の顔を見つめていた。

 その日は年の変わり目であり、姫氏一族全員が顔を合わせる日だった。宮の壁の隙間から冷たい風が差し込み、蓮は下に着こんだ袍を思わず両手で抱きしめる。

「それにしても、今日は本当に寒いですね。早く春が訪れてほしいです」

 廊下を奵瑛とともに歩く蓮は、丸く膨らんだ頬を上気させながら言った。

「蓮、冬の花は桜にも勝る、という言葉を知っているか」

 蓮は首を傾げてきょとんとして言った。

「いえ、全く聞いたことがないです」

 すると、奵瑛は笑みを浮かべて言った。浅黒い肌に刻まれた、目じりのしわが深くなる。

「雪が降る季節になると咲く、黄色い幸運草があるだろ。あれは、一見小さくて可憐だが、雪深い厳しい環境の中で育って、おまけに毒も持っている。春に咲く花よりも、生き抜くための戦略を備えて咲いているんだ」

「それを言うなら、道の隅に生えている、名もなき草もそうですよね。あれも、手塩に掛けて育てられている花よりも強い気がします」

「さすが俺の血を継いでいるだけあって、賢いな。その通りだ」

 そう言うと、奵瑛は蓮の頭をくしゃくしゃと力任せに撫でる。

 そのようなことを話しているうちに、二人は康宮にたどり着いた。拱手を行い、一礼をして、それから入口の中へと入る。

 中には、姫氏一族の人間が大勢いた。女たちのまとう錦の色とりどりの衣が目に入り、晴れ晴れとした気分になる。

 二人は一族が座る席の中でも、玉座から近くも遠くもないところに案内された。そこには綿を詰められた敷物が置いてあったので、二人はほっとした。

 全員が出そろったところで、巫王姫旋が新年の挨拶を行った。壇上に一人座る彼女は、その日は姿を見せていたものの、顔を仮面で覆ったままである。

「皆の者、恙なく暮らしているようで、良かった。今年もよろしく頼む」

 そう言うと、彼女は三つ指をつき、深々と頭を下げた。蓮は頭上に戴いている大きな冠が落ちないか心配だったが、全く落ちなかったので不思議に感じた。

「今年もよろしくお願いします。姫周に、恙なき時が続くよう、私達も尽力していく所存でございます」

 姫旋のすぐ下の妹である姫抄が、一族を代表して返答を行った。周りの者たちもそれに倣い、深々と頭を下げる。

 挨拶が終わると、下女たちが皆の前に酒を注いだ尊を持ってきた。蓮達未成年の者の前には、清水を注いだ小さなそん(酒器の一種)が置かれた。姫抄の号令がかかってから、皆は一斉にそれを飲み干す。

 それから、姫抄から順に、その年の抱負などを一言ずつ述べていく時間が設けられた。

「ということで、今年も遍くこの国が治まるように努めていきとうございます」

 そう言って深々と頭を下げたのは、三女の姫汪だった。かなりの野心家であると言われている彼女の顔には、溢れんばかりの自信があふれて見えた。

 次は私の番だ。

 蓮の胸の鼓動は次第に早くなっていき、先程まで感じていた、刺すような冷気はなくなり、代わりに冷や汗がじわりと湧き出た。

「姫蓮」

 矢のように鋭い声が壇上から飛んできた。

「はい!」

 蓮ははいの「は」を強調して返事をする。

「ずいぶんお前にしたら、威勢の良い返事ではないか」

 そう言って巫王は笑った。その言葉は言うまでもなく皮肉だが、どうやら印象よく聞こえたようだ。しかし、蓮はそれに次ぐ言葉をなかなか紡ぎ出すことができなかった。気の利いたことを言おうとも、それは奵瑛から教わった「禁じられた教え」が殆どであり、それを口に出そうものなら、どの様な処遇を受けるか分かったものじゃなかったからだ。彼女は考えに考え抜いたすえ、こう述べた。

「今年も、人民たちのことを第一に考え、実践に努めていきたいと思っております」

 我ながら良い言葉だったと、蓮は感じていた。差し障りのあるようなことは一切含まれておらず、それなりに気も利いている。蓮の胸は徐々に落ち着いていった。しかし、その後、予想だにしないことが起きた。彼女の頭に挿していた簪が一本、ごとり、と音を立てて落下したのであった。それは、蓮の見慣れない意匠をしていた。蚩尤の顔があしらわれていたのだ。

「蓮、ちょっと待て」

 氷柱のような声が再び降り注いだ瞬間、彼女は全身をまたもや硬直させた。

「簪を拾い上げて私に見せろ」

 蓮はそう言われたものの、体が言うことを聞かず、動かなかった。巫王姫旋が顎をしゃくると、閽人が後ろからぬっと姿を現した。彼は蓮を腕をぐっと押さえつける。

「嫌よ!離して!」

 蓮は叫んだが、閽人に力で叶うはずもなく、簪は巫王姫旋の元へと持っていかれた。その瞬間、蓮はとある重大なことを見落としていたことに気付いた。

 蚩尤の簪は、巫王に対する叛意を意味する。

 それに気付いた途端、蓮の体からは血の気が引いていった。

 巫王姫旋は、渡された簪をしげしげと眺める。

「蓮、もしや私に含むことでもあるのか?」

 蓮は間髪入れずに答えた。

「いいえ、貴方様に含むところは何一つございません」

 蓮は必死に弁解をした。巫王に頭の中を見透かされているように感じたからだ。実際、その嫌な予感は的中した。

「もしやお前―奵瑛に何か嗾けられたか?」

 それでもなお、蓮は言い逃れを続けようとした。

「いや、決してそのようなことはございません。父は巫王様に送られた書物以外は一切手を着けていないです」

「その言い切る様子がとても怪しい。別室行きだ」

 巫王姫旋がそのように言い捨てると、彼らの背後から屈強な兵が二人姿を現した。他の者たちが身じろぎもせず、ただその様子を見守っているのが不気味だった。蓮は力では到底太刀打ちできなかった。融を使おうと試みたが、兵の手甲に融による損害を防ぐ水晶の腕輪が付けられていることを知り、どうしようもなかった。そのうちの一人、背が小さいほうに羽交い絞めにされると、もがくことすらできずに裏口から連れていかれた。一方の奵瑛も同様に、背が高い方の兵に羽交い絞めにされた。しかし、彼は兵の顔面に勢い良く頭突きを繰り出し、苦痛で鼻を抑えているすきに逃げ出した。そのまま蓮を助け出そうとしたが、正気を取り戻した兵に手甲を装着した手で後頭部を殴られ、気絶した。

 そのまま二人は手枷を嵌められた。蓮はのろのろと歩き、奵瑛はずるずると引きずられての移動である。

 これからどうなるんだろう。

 蓮は一連の流れに頭がついていかず、呆然としていた。





                  4

 裏口から続く、外に面した廊下をたどった先には、歴代の巫王が祀られている大廟がある。入り口は強固な鉄の扉であり、外からは、長方形の立方体の形をした、非常に小さい謎の空間にしか見えない。閂はついておらず、姫氏一族の直系の女已が鍵を開けることができる。

 大廟の前にたどり着くと、閽人が蓮の肩を後ろから小突いた。

「この先へは、貴方の力がないと入ることができません。さあ、ご開錠を」

 それから、兵は長い鎖のついた手枷を手放す。

 幸い、長い鎖のおかげで腕の可動域は思ったよりも広かったが、ひどく重い重りが鎖に繋がれていたので、腕を前に出すのに時間を要した。

「なぜわざわざここまで連れて来たの? ここに牢があるなんておかしい」

 蓮は厳しい口調で言った。

 「あるのですよ、それが」

 兵は薄ら笑いを浮かべる。

「さあ、姫蓮様、扉をお開けください」

 蓮は腕を持ち上げたが、引き裂かれるような痛みに顔が歪んだ。それでも、なんとか手をかざすことに成功した。蓮は心の中に西母を思い浮かべ、念じる。

 すると、扉は音もなくふっと透明になって消え去り、奥の暗がりが丸見えになった。二人はその中に引きずられて連れていかれる。

 暗がりの奥には、数多くの方鼎が規則正しく横一列に並んでいる。中には、歴代の巫王の遺骨が規則正しく収められており、そこへと至る通路には石畳が敷き詰められている。兵の一人がおもむろに、敷き詰められている石の一つを両手で持ち上げる。その下には、地下へと続く梯子が渡されていた。

 兵に促されながら梯子を下った先には、鉄格子が入った堅固な牢が並んでいる。松明であかあかと照らされており、周囲は明るい。二人は別々の牢にぶち込まれるような形で入ることになった。

 どんと突き飛ばされ、蓮は地面に肩を強く打ち付けた。肩を抑えながら、むっくりと起き上がる。それと同時に、隣の牢の戸にがちゃりと閂がかけられた。

「やめなさいよ!私たちを何だと思ってるの」

 蓮は思わず声を荒げた。兵たちは蓮に反抗されると思っていなかったらしく、ひるんでいる様子だった。しかし、暫くすると言葉を見つけたらしく、落ち着き払った様子に戻った。

「もちろん、れっきとした反逆者でございますが。もとはと言えば、貴方様が怪しいことをしたのがいけなかったのです」

 教え諭すような様子で言われたので、蓮は余計に逆上した。ここになってやっと一連の流れの整理がついてきたのだった。

「怪しいことって何よ?少しの間黙っただけじゃないの」

「そうだ。少しの間流れを止めただけで、このような事態になるなんて、心外だな」

 意識を取り戻したらしい奵瑛も上半身を苦し紛れに起こし、加勢した。

「とにかく、あなた方には新年の儀礼が終わり、巫王の神託が下る準備が整うまでここに居ていただくことになりますので、ご了承を」

 それから、兵は牢を後にした。退出すると同時に、松明の炎が消されてしまったので、周囲は闇と化した。

 牢の中ではどうにか動くことができるものの、手枷についている重い鎖のせいで、かなり動作の素早さが制限されてしまっていた。暫くすると、となりの牢から鎖ががちゃりと動く音がする。

「大丈夫ですか?怪我などはありませんか?」

 蓮は心配して奵俊に容態を問うた。

「ああ、特には。でも、少し左手首を捻ったかもしれないし、左肩が痛むな」

「頼りにならず、申し訳ございませんでした。あの時、私が少しでも早く機転を利かせていれば」

「いや、いいんだよ。お前はまだ一三かそこらの餓鬼だ。それに、急に状況が変わると、とっさの判断ができなくなるのも無理はない」

 奵瑛は蓮を擁護してくれたが、心は罪悪感でいっぱいだった。もしかすると、この状況は二人の生死にかかわるかも知れないのだ。

「その割には、貴方様は落ち着いていますね」

「俺は、これより前にも牢に入れられたことが一度あるからな」

「そうなのですか。どうしてそのようなことに?」

「以前、私は裏庭に生えている薬草を無断で採取してしまったことがあってな。それを巫王姫旋に咎められ、反省の意味で閉じ込められた」

 それを聞いて、蓮はつい吹き出してしまった。

「もしかすると、仙華でございますか」

「そうだ。あれの花の蜜はとても旨くてな」

 あまりにも得意げな奵瑛の様子に、蓮は声をあげて笑った。今から思うと、これも心を紛らわせるという計らいだったのだとわかる。そうして話しているうちに時間は過ぎ、先程の兵が二人とも駆け込んできた。

「急いで出てください。巫王姫旋様が待っておられます」

 小さい方の兵が、手枷に付けられた鎖をぐいと引っ張り、蓮を無理やり起こした。

 奵瑛も同様にして引きずり出される。

 康宮にたどり着くと、誰もいなくなった空間の中央にただ一人、巫王姫旋が佇んでいた。こうしてみると、彼女は実際よりかなり大きく見える。

「座れ」

 彼女は自身の真向かいにある、床の上で石を並べて作られた二つの正方形

 を指し示した。二人は言われた通り、それぞれ枠の中に入る。

「神託が下されるまで、その中から出てはならぬ」

 そう言うと、彼女は壇上の脇に姿を消した。

 暫くして、彼女は手に何か平べったく、大きいものを持ってきた。よく目を凝らすと、亀甲である。彼女は突然、それを上に大きく掲げた。

 そこに刻まれていたのは、縦横無尽に走った線。

「残念だったな。我々の祖先は慈悲を垂れて下さらなかったみたいだ。ということで、お前たちには再び牢の中に入ってもらう。朔、延。お前たちは奵瑛と蓮の部屋を隅々まで調べてこい」

「御意」

 兵はそれから小走りで康宮を出て行こうとした。

「おい、しばし待て」

 奵瑛は去っていく背中に向かって叫んだ。

「なんだ。もとはと言えばお前が元凶だぞ。文句あるのか」

 奵瑛は下から、大きな目で立ち止まる二人と、巫王姫旋を交互に睨みつける。

「蓮を巻き込むことは許さん。俺の部屋だけにしろ」

 二人が有無を言わさぬ迫力にたじろいでいる中、一人巫王姫旋だけがせせら笑う。

「ふん。お前は子にてんで無関心だと思っていたが、こういうときだけ、親の情を発揮するんだな。お前のような男は少ないから見ものだ」

「それはあんたの見ているほんの一面に過ぎなかったということだ」

 暫く黙り込んだあと、巫王姫旋は口を開いた。

「―まあいいだろう。奵瑛の部屋だけ調べろ」

「は、かしこまりました」





                  5

 そう言って、二人の兵は再びその場を去る。暫くして、彼らはそれぞれ両手に大量の甲骨文を持って戻ってきた。

「姫旋様。奵瑛の部屋から、閲覧禁止の書物が数多く検出されました」

「どれどれ。ここに置いてくれ」

 すると、彼らの目の前の床が、円形に白く照らし出された。二人がそこに甲骨文を置くと、それは一瞬にして消え失せ、巫王姫旋の手元に移動する。彼女は亀甲の表面をなぞり全ての内容を確認したのち、こう告げた。

「朔、延。文字が読めないのによくやったな。ここにある書物のうち、二つが国家機密の伝承を記した第二類に分類されるものだ」

 それから、彼女は怒り心頭といった様子で、奵瑛に向き直る。

「どうやってこれを見つけ出した。これでは、私はお前を死刑に処さねばならぬ」

「姫周の真実を知りたかったからだ。ここはあまりにも歪んでいる。巫王姫旋、お前も私たち配下に隠していることがあるのでは?」

 そう言われると、巫王姫旋は、明らかに狼狽していた。

「私は、ただ秩序を保つために立ちまわっているだけだ。何一つ隠すことなどない」

 巫王姫旋に構わず、奵瑛は冷静に続けた。

「この国は、最初は平和だったが、徐々に血塗られた歴史がその大半を占める様になっていった。その血を流す役割を果たしてきたのは誰だ?俺たち下層階級、それも男だ」

 蓮を始めとした四人は、身じろぎもせず彼の話に傾聴する。一言も挟むことは許されないという空気が、奵瑛から発せられていた。

「初代巫王の姫后稷こうしょくは、商寧という国で王の代わりに神との交渉を行う巫女の一族の出身だった。后稷の出身の姫族は、男王が治める商寧に従属している状態であり、朝貢や祭祀などの場面で、度重なる搾取を受けてきた。今から丁度二千年前、そんな后稷が当時の商寧王・紂に謀反を起こし、それから樹立されたのが姫周と言われている。最初姫周は、女の巫王とその補佐である男の貞人による連立政権によりこの地を統治してきた。しかし、次第に貞人の立場は弱まっていき、今では冠礼の際の立会人としての役割に留まっている。私はそこで疑問に思った。后稷が目指していたのは、果たして今のような状態だったのか?と」

 蓮ははっとした。それは、奵瑛から夕食のたびに聞かされていたことだったからだ。しかし、外部には決して漏らしてはいけないと言われていたので、この場でそれを堂々と述べる奵瑛に驚いていた。

「時を経るにつれて、姫周にはひずみが出てきている。そのひずみを直さなければならないと私は考えているんだ。しかし、そのひずみを治す方法は私にはわからない。そこで私は、この姫周の隔壁の外に出てみたいと感じている」

「何を言う!朔、延、こいつを今すぐ縛り上げろ!」

 巫王姫旋が命令するや否や、二人は鎧の下の衣の懐から長く太い麻ひもを取り出し、奵瑛の両手首をがっちりと掴んだ。奵瑛は大人しくされるがままになっている。

 蓮はただただ目の前の状況を受け入れることができなかった。しかし、奵瑛が非常事態にあっていることは確かである。蓮はなりふり構わず立ち上がり、気が付くと、奵瑛の腕を縛ろうとしている兵に向かって、突進していた。

「その手を放せ!」

 身体が当たってもびくともしなかったが、兵をたじろがせるには十分効果があったらしく、兵は一瞬掴んでいる腕を手放した。奵瑛はその場に崩れ落ちる。

「奵瑛様!」

 蓮は奵瑛のもとに駆け寄る。

「もういいんだ、蓮。俺がやりたかったことを成し遂げられたから」

「奵瑛様―」

 彼は口元に微笑みすら浮かべていた。それを見て、蓮の奵瑛の袖をつかんでいた腕が緩む。

 次の瞬間、兵は再び二人をそれぞれ拘束した。先ほどよりも、籠っている力がさらに増しているように蓮には思えた。

「思ったより手間取ったが、取り敢えずは成功した。朔、奵瑛を牢に閉じ込めておけ。蓮は―死ぬまで部屋から出すな」

「御意」

 大柄な方の兵は、奵瑛に手枷をはめ、康宮を後にした。

「蓮様、さ、お部屋にお戻りください」

 小柄な方の兵が蓮に声をかける。

「嫌よ!今すぐ離して!」

「お前たちは一族の恥。自由にさせるわけにはいかぬ。しかし、安心しろ、蓮。お前の命は奪わないと約束する」

 巫王姫旋は落ち着き払った様子で言った。

「奵瑛様はどうなるのですか?」

「お前、そんなことも知らないのか。隔壁の外に出たいと言った者が、どんな目にあうか」

 巫王姫旋は嘲笑うような様子を見せた。

「―絞首刑、又は燎刑」

「なんだ、知っているのか。お前は姫氏の女だから、伝承を知っても死刑になるには及ばぬ。それでいいだろう」

「しかし、奵瑛様は私の親であり、師でございます」

「親?師?そんな言葉を男に使うだなんて。あ奴はやはり、危険だ」

 それから、巫王姫旋は背中を丸め、低い声でぶつぶつと何かを呟いていた。蓮には彼女が二回りほど縮んでしまったように思えた。しかし、声をかけることで事態がさらに悪化することしか考えられなかったので、何も返す言葉はなかった。暫くして、気を取り直したかのように彼女は顔を上げる。

「―延。取り敢えず、蓮を部屋に戻せ」

「承知致しました」

 小柄な方の兵は手枷を引っ張り上げ、蓮を強引に立たせた。その体と心には、もはやつゆほども抵抗する力は残っていない。

 奵瑛の処刑が公に言い渡されたのは、その二日後のことであった。処刑場となるのは、大邑へと続く商門の前にある、大きな広間である。群衆が入ることができないようにするため、中心から半円状に一定の距離があるところに木の柵が打ち込まれている。彼は占により、燎刑を受けることが決まった。蓮は部屋での謹慎、といってもほぼ監禁状態でいることを言い渡され、外出できずにいたが、処刑の直前に部屋から出され、奵瑛との面会を許された。巫王姫旋がそっけない様子で言う。

「きっかり五分だ。行って来い」

 延に連れられ、商門の前に来た蓮は、奵瑛の姿を見るなり、駆け込んだ。

「奵瑛様」

「―蓮」

 無表情な執行人に囲まれた彼は、ぼろぼろの麻衣に身を包んでおり、顔には数多くの傷を負っていた。しかし、その双眸には強い光が宿っている。

「取り敢えず、手を出せ。私はこれから、お前にあるものを渡す」

 蓮が奵瑛の前に両手を差し出すと、奵瑛の口から何やら赤いものが手に向かって吐き出された。目を凝らすとそれは、紅い玉でできた獣面紋であった。両耳のところに、ひもを通すための穴があけられている。べたべたとした感触で気持ちが悪かったが、今はそれに着目している場合ではない。

「今すぐそれを懐に隠せ。絶対に無くすなよ」

 奵瑛が小さいが、それでいて鋭い声で言う。蓮が獣面紋を懐に入れたのを見届けて、奵瑛は言葉を続ける。

「今渡したのは、私が巫王姫旋より賜った頸飾の一部だ。それには、多大な力が宿っていてな―例えばお前が、言葉が通じるかとか関係なく、意思疎通を取りたい相手がいたとする。そいつの姿を思い浮かべながらこれを握っていると光り出して、お前が考えていることがそのまま相手に伝わる、という代物だ。もちろん、相手が考えていることもお前に伝わる。玉同士が共鳴する、ということだ。その特異な能力により、これには心映、という名が付いている。謹慎中のお前にとって、いい働きをすることだろう。あと、」

 それから奵瑛は、さらに言葉を一つ一つ絞り出すようにして言った。

「地下の書物から仕入れた知識なんだが、これと同じものが、この姫周のどこかにあるらしい。それは、この王宮の中かも知れぬ。また、どこかの小邑にあるかも知れぬ。とにかくお前は、それを持つことになる人間を、どうにかして見つけ出してほしい。そして」

 奵瑛は、一瞬黙り込んだ。蓮は瞬きすらせずその顔を見つめる。

「そいつと共に、ここではないどこかへと行ってほしいんだ」

「―それが例え、ここに入ることが出来ない方だったとしても、ですか」

「構わぬ。むしろその方がいい。私は例えこの身が滅びようが、何としても隔壁の外を見たい。だから―蓮、お前が代わりに見てきてくれ」

 奵瑛がそう言い終わったところで、再び巫王姫旋の抑揚のない声が聞こえた。

「時間だ。離れろ」

 それと同時に、屈強な兵が二人駆け寄ってきて、蓮は奵瑛のもとから引きはがされた。

「―奵瑛様!」

 蓮は力の限り声を振り絞って叫ぶ。執行人に促され、とぼとぼと歩く奵瑛の後ろ姿が急速に遠のいていった。商門は開け放されており、その向こうには、燎刑の台と、鋭くそびえたつ木の柵が見える。その間から覗く、数多くの顔。顔。顔。心なしか、その全てに微かな笑みが浮かんでいるように見えた。

「ここから先は、貴方様に見せられるようなものではありません。部屋にお戻りになることをお勧め致します」

「いや、私は、見届ける」

 兵に言われ、何故その言葉が口から出てきたのかは分からない。しかし、蓮はすべてが終わるまで、ここから離れてはならないように感じた。

「―承知致しました」

 兵は黙り込んだ後に、そう言った。

 暫くすると、赤々とした炎の軽やかな舞が、商門の向こうから見えた。全てを焼き尽くし、無にする光。叫び声は一切聞こえなかった。自分と同じものが焼ける様子を見続けるのに耐えかねた群衆が去った後も、蓮の双眸は燃える炎をじっと見続けていた。


 




                  6

それから何日も部屋で泣き続けたのちに疲れ果て、泥のように眠っていた蓮が目をうっすらと開けると、部屋の奥に、それまでにはなかった、赤く光る宝玉が置かれていた。

 これと同じものが、この姫周のどこかにあるらしい。

 奵瑛の声が、頭の中に響いた。それと同時に、また目頭が熱くなり、堰を切ったように涙が溢れてくる。それと同時に頭の中にとめどなく生まれ出る後悔の念。蓮は懐を探り、手に固いものが当たる感触を覚え、安心する。

 奵瑛様、何故、あなたが。私があの時、姫旋様がいる場で何かを言っていれば。

 その後、彼女の心に生じたのは、巫王姫旋に対する漠然とした怒りだった。

 何故、奵瑛がこのような目に合わなければならなかったのか。それは元をたどれば姫旋様が元凶だ。

 蓮は重い体を起こし、融を使って、床に穴をあけようと試みたが、木板張りの床をはがしてみると、そこに水晶の板が敷かれていると知り、怒りのやり場がないことを理解した。しかし、彼女はそこではっとした。

 先程の言葉。しかし、どうやって探し出せば良いのだろう。

 蓮は取り敢えず、その宝玉の前に向き合ってみることにした。すると、懐の中で、紅い玉の獣面―心映が光を放った。それは目の前の紅い玉と共鳴しているように感じた。これも、もしかしたら心映なのではないか。蓮は袖で涙をぬぐい、しっかりと赤を見つめた。

 これと同じものを持っている人、持つことになる人はどこにいるの、教えて。

 蓮がそう念じた時、玉は赤い色を失い、完全に透明になった。しかし、次第にその中心部に色が増していき、気が付くと、ある小邑の門の様子を映し出していた。

 ここは。

 だいたいどこの小邑にも、出入りのための門に、文字が彫り込まれる形の表札が付いている。蓮がそれをじっと見つめると、「小邑甲・嬀」と書いてあるのが見えた。それから、視点は変わり、玉はその中の様子を映し出した。円の形に並んで、鼎の中にある煮物をつつく男達。玉の中の像は、次第に拡大され、やがてそのうちの一人の少年を映し出す。

 この子が、玉の持ち主。

 彼は、粗野で危なげだ、という印象を蓮に与えた。しかし、それと同時にどこか寂しそうな印象を持ったのも事実だ。だが、何よりも印象的だったのは、その強く、野性的な光を湛えた双眸である。彼に見つめられると、心の中まで見通されてしまうような、そんな気がした。これに睨まれたら、ひとたまりもないだろう。しかし、彼が自身にとって途轍もない力になることは間違いないと彼女は感じた。揺るがない何かを彼は持っている。

 その時蓮の心は決まった。奵瑛のためにも、少年を何としても王宮に連れてくる。そう考えたのだった。

 蓮は、それから頭の中に直接語り掛けることによって少年と交信を行っていた。かなり慎重に行わなければならなかったが、それも結果は概ね良好であったように思う。思念を送ったことにより、少年に対する情報の黙秘も保たれていた。蓮にとって、彼との交信は監禁生活の中での数少ない息抜きともなっていたのだ。しかしある日、このままではだめだ、と思った。

 悩みこんでいたある日、蓮は娰瑜から姫瑳が融軍の視察に行くことを聞いた。

 これはまたとない機会だ、と彼女は喜んだ。姫瑳に憑依することも、この間の実験で成功していた。普段姫氏と接触がない彼らなら、万が一姫瑳が姫瑳らしくない振る舞いをしたとしても、気づかないだろう。娰瑜から視察の時間帯も聞き出し、蓮は憑依に挑んだ。

 憑依しているとき、蓮はそれまで感じたこともない、軍の訓練場特有の空気を肌で感じることができ、心が浮き立っていた。草いきれの匂いが微かにする、暖かで澄んだ空気。その中に漂う、兵達の活気。その場を構成する何もかもが、蓮にとって懐かしく、尚且つ新鮮であった。

 そういえば、彼が所属しているのは、第七隊だっけ。先程へまをした、彼の友人のことも伝えてあげなければ。

 蓮は訓練場の閽人に道を聞き、第七隊の方へ足を進めた。

「姫瑳様、足下は危険でございます。私共が御輿をご用意いたしましょうか」

「いや、これまであまり歩けてなくて、身体がなまってるから、用意しなくても別に大丈夫だぞ」

 蓮がそう言うと、二人いる閽人は驚いたように顔を見合わせた。久しぶりに外の空気を感じたかったのは事実であるが、このような反応をされるとは思わなかったので、蓮は困惑した。

「本当にいいのですか」

 一人が念を押すように蓮に聞いた。

「ああ、問題ない。何ならお前たちの護衛も要らぬ」

 二人は再び顔を見合わせ、逡巡したのちに言った。

「せめて、お供させてください。あなた様はお強いですが、御身に何かあってからでは遅いので」


 蓮は内心冷や汗をかいていたものの、なんとか第一の関門を潜り抜けられたことに安堵した。第七隊の訓練場への道は案外険しく、起伏のある岩道を歩くたびに、息がぜえぜえと喉の奥で鳴った。額からは汗がぽたぽたと垂れている。

「大丈夫ですか、私が負ぶって差し上げましょうか」

「大丈夫。私は自分の足で歩きたいんだ」

 その声の意志の強さに気おされたのか、閽人はそれから沈黙した。暫くすると、三人は開けた平地へと出ることができた。正面には、背の高い崖がそそり立っている。

「第七隊と騎馬第一小隊は、羌の襲撃に備えた訓練を行っています。騎馬隊には、急斜面に強い大鹿を乗りこなすのに慣れていない者が多く、まだまだ試行錯誤の毎日です」

 そのような閽人の説明も、蓮の耳に入っていなかった。

 あの斜面を滑る者の中に、少年がいる。

 それを直感していたからだ。自室の置いてきている自身の体の、懐の中に忍ばせている心映が光を放ち始めたのを、蓮は感知した。彼の心映も、光を放ち始めていることだろう。そう彼が考えた瞬間、何か人の体のようなものが空高く舞い上がるのを、蓮は感知した。目を凝らすと、件の少年だった。

 危ない。

 蓮は全速力で兵が集まっているところに駆け寄った。それから、空に手をかざし、少年を空中で停止させ、手に持った蛙を放すように地面にゆっくりとおろす。蓮の心配に反し、少年は直ぐにむくりと起き上がり、ほっとした。それから少年と簡単なやり取りを行った。友人のことを伝えても、狼狽していないのが意外に感じた。それから蓮は意識を自身の体に戻す。

 なんとか目的を達成することができたものの、閽人に違和感を覚えさせてしまったことを、蓮は反省していた。しかし、少年の様子を間近で確認することができて、かなり容姿などの詳細な記憶が頭に残ったので、満足出来たといっても良い。

 しかし、真に困難なのはこれからのことである。どの様に少年をここまで連れてくるか、だ。冠礼の日に犀融宮で儀礼が行われ、そこに成人を迎えるものが来る。今年十六になる少年も、必ず来るはずなのだ。蓮は当日、儀礼を終えた少年を、王宮の近くにある桃の林の奥深くに存在する、王宮の隠し門に案内するつもりだったが、果たして、上手くいくのだろうか。失敗に終われば、少年は処刑され、彼女は一生監禁生活。それだけは嫌だった。





                  7

「蓮様、どうなさりましたか」

 娰瑜の声が耳に響いた。蓮は我に返ったように前を向く。

「ああ、ごめんね。少しばかり考え事があって」

「蓮様は昔から、意識ここにあらず、といったことが多いですよね」

「最近は特にだわ。外の情報が入ってこないと、色々考えるのがめんどくさくて」

 娰瑜はその言葉を無視して、先程の話題に戻った。

「ところで、蓮様のご伴侶の話ですが、蓮様はどのような者をご所望でございますか」

「あれって、私が決められるものなの」

「いや、それは不可能ですけど、少し聞いてみたかっただけです」

 蓮は考え込んだが、本当のことを言っても、支障があるだけだとすぐに悟った。あの少年を連れてくることができたら、どんなに良いだろうか。

「あまり、押しつけがましくない人かな」

 娰瑜は目を見開いた。

「蓮様は本当に変わっておられますね。他の姫様方は皆、こぞって背の高い者だとか、容姿の整っている者をお好みになるのに」

「―うーん、私は、どういうことか分からないの。人を好きになることが」

 蓮はそれから、残っている米をいそいそと口に運ぶ。

「左様でございますか。何故なのか、理由をお聞きしてもよろしいですか」

「―奵瑛様以外の男の人のことを知らないから、かな」

 それと同時に、初夏の爽やかな風が壁の隙間から吹き抜けていった。



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