第一章 嬀昭

 

 嬀昭ぎしょうは悲鳴と共に飛び起きた。首に手をやると、かなりの量の冷や汗をかいている。彼は一月ほど前から、このような夢を時折見る。仮面の男が迫ってきたところで目が覚めるのが殆どだった。

 大きな寝室の中、寝ているのは老若問わず大勢の男。辺りを見回したが、起きたのが自分だけと知り、胸をなでおろした。彼の朝は早い。まだ寝ている者たちを一瞥すると直ぐに鍛練用の粗末な麻衣に着替え、たった一人屋敷の外へと駆け出していく。

 決して平坦とは言えない道を暫く歩き、立派な作りの楼閣の前にたどり着くと、十代半ばから二十代半ばの男たちが整列していた。彼らはこの国、姫周の軍隊に属する者である。その時は丁度、軍長である若い男がこれから点呼を取るところだった。

 昭を見かけると、軍長はにきびだらけの面を真っ赤にして怒鳴った。

 叱咤の声とは別に、遠くからいくつか心無い陰口が彼の耳をかすめたが、嬀昭は気にする様子を見せない。だが、その直後この様な言葉が聞こえてきた。

「この成り上がりが」

 それと同時に、隊列の中から複数の忍び笑いが聴こえる。だが、昭が声の聴こえる方を鋭い目つきで睨んだ途端、笑い声は収まった。睨むな、という軍長の声に被せる様に昭は謝罪の旨を述べ、自身の属する隊の列へと並んだ。

 昭の属する隊は、融軍という特殊部隊であった。融軍の「融」とは、この姫周の支配階級である姫氏一族に主にもたらされる超能力のことを言う。融は通常、それを扱う者の背中に憑依する形で存在しており、必要に応じて波動や武器などの道具に姿を変える。姫氏は大昔から融によって、荒れた農地を一瞬で緑に戻すなどの奇跡を民にもたらしており、それ故に姫周には姫氏一族が残りの人民を支配するという構造が成り立っていた。融軍とは、そんな融を国で唯一使用することが許される特権を持った集団なのである。当然、軍への入隊条件は非常に厳しく、入隊試験で数々の少年が命を落としていた。昭はそんな入隊試験に齢十二という最年少で合格し、天才と祭り上げられていた少年である。だが、彼は武器を扱うことの不得手さによって中々昇進できずにいた。因みに、先程のにきび面の軍長は現在、彼より一つ年上の十七歳である。

 朝の訓練が終わり、そこから少しの間休憩の時間が設けられた。少年達は我先に配給場へと走っていく。手のひらに掬った水を飲む昭の隣に、彼より頭半分背の高い、端正な顔立ちの少年がやって来た。昭は彼をふて腐れた顔で見る。先程、嬀昭は彼との手合わせで負けたところだった。彼は苦笑しながら言った。

「まあまあ、そんな怖い顔すんなって。お前ただでさえ元の顔立ちがきついのに、余計怖がられるぞ」

「余計なお世話だ」

 昭は不機嫌そうな様子をしている。しかし、姚向は別にそれに気を止めることもなく前を向いた。

 姫周の行政区画には、まず姫氏が主に居住する大邑姫氏領が存在し、それを取り囲むようにして平民階級が居住する小邑が十箇所存在している。小邑にはそれぞれ十干の名がつけられていた。また、姫氏とは別に平民階級にはきょうきつようえいていの七つの姓があり、それぞれの家を区別して呼ぶ際には、甲邑姜氏、乙邑姚氏というように呼称する。

 昭の隣にやって来た少年の名を姚向ようこうという。彼は昭と同い年で、一年遅れて入隊試験に合格したが、代々融軍の兵を輩出している名家である甲邑姚氏の出身であり、剣や槍などのあらゆる武器の扱いにたけていた。それ故に昇進は非常に早く、この間の羌との戦いにおいては、しんがりを努める第八隊の隊長を任されていた。嬀昭が彼との試合で勝ったのは、体術に於いてのみである。彼は訓練において優秀なだけでなく、人当たりが良くそつがないので、軍において非常に人望があった。

「ま、お前には体術という圧倒的な強みがある。あの軍長の言うことは気にすんな」

 姚向は宥めるように言った。

「彼奴、大将軍の息子ってだけで成り上がりやがって、親の七光りめが」

「ま、俺らは彼奴が戦いでくたばるのを待つしかねえな。所詮男だから、負傷して使い物にならなくなったらその辺にほっぽり出されるだけだ」

 姫周では、女尊男卑の傾向がある。国の支配階級である姫氏が女系一族であるのがその最たるものだ。国の頂点は巫王という女性聖職者であり、亀の甲を用いた占いによってでた結果神の意志を主とする神権政治の中心を担う。また、年貢、貨幣等の財政管理、軍隊の徴収も全て姫氏の女性が担う。また、庶民の家庭においても一家の長はほとんどが女性である。男性は、狩りや戦いにしか従事しないのが常だった。故に、姫周では男性が知識や技術に重点を置く職業に就くことは難しく、そういった者たちは貴重な存在である。八割がたの男は特筆する知識や技術がない故に軍隊や狩りに従事し、負傷または死亡すれば捨て置かれるという待遇を受けていた。故に彼らの口からは時に「俺は男だから」という言葉が飛び出す。二百年程前には姫氏に対し軍が反旗を翻した事があったみたいだが、姫氏が持つ圧倒的な融により、雑兵たちの

 頭を一瞬で粉砕され降伏したそうだ。姫氏の女性達は、そういった理由で男達から恐れられていた。無論、彼女らは嬀昭達からすれば雲の上の存在に等しい。最も、日頃から嬀昭は彼女らの存在など、気にかけてはいないのだが。

 「今度あのニキビ面に罵倒でもされたら、俺は彼奴をただじゃ置いておかねえ」

「それを実行したら洒落にならんぞ。国外追放決定だな」

 国外追放は、姫周の中で最も重い刑罰の一つだった。国外追放にされたということは、それ以降の姫周への入国を禁じられるということである。また、姫周には国外追放に関するある言い伝えがあった。それは、姫周の外には荒ぶる戦神の手先がいて、追放された国民を次々に襲ってくるということである。姫周の伝承によると、外界で数多くの国々が争いを起こしているのは戦神・蚩尤の仕業であると言われている。

 姫周は周囲を堅牢な外壁で覆われており、それには呪いを避けるための融がかけられていて、それによって蚩尤からの攻撃を免れているらしい。だが実際、嬀昭は追放された者について聞いたことがなかった。姫周の男たちは大昔からの支配による経験で、追放されるような罪を犯さないように細心の注意を払っているからだ。

 追放の刑を受ける罪は姫周においては三つあった。一つ、軍内での同士討ち。軍内では、一人の兵が仲間を殺すことは禁じられている。二つ、国の中心部にある姫氏の居住区域内に許可なく立ち入ること。姫周では男性が立ち入ることを禁じられている区域が多い。姫氏の居住区域内においては特に、侵入した際に問われる罪が大きかった。

 追放に加え、侵入した者が融軍に属していたならば、所有している融の剝奪という刑罰も受けることになる。融というのは蚩尤の呪力から自身の身を守る役割も果たしているので、奪われると蚩尤の手下に出会った時、呪いをもろに身に受け、全身を黒い痣に覆われ死亡すると言われている。三つ、姫周の女性の間にだけ代々語り継がれる伝承の内容を知ることや、教えること。姫周では、男性は十七歳、女性は十五歳になると成人式を迎える。その際、女性は自身の所属する邑の長から、男性に口外してはならない伝承を伝えられるのだ。姫氏領に於いても、それは同様であった。有事の際はその内容を知った男性が、受けることになる。

 握り飯を口に運びながら、嬀昭は深いため息をついた。

「なあ、姚向。お前は上司に対して不満を感じたことはあるのか」

 姚向は形の良い切れ長の目を伏せ、少し考え込んだ様子を見せる。

「あまりそんなことは思わないな」

「そうか」

 姚向は呆れたように言う。

「あまりこの話題は口にしない方が良いぞ」

 そのように話をしているうちに、時はすぐにやって来る。後半の訓練の始まりだ。軍の者たちはまた自身が所属する隊の列へと戻っていく。



   


                  2

 午後の訓練の内容は、融軍のそれぞれの隊対抗で行われる一対一の練習試合であった。この練習試合に用いられる融の形態は自由であるので、剣や槍で戦う相手に対し、体術で応戦することもあり得る。試合の決まりとしては、地面に円の形に縄が張り巡らしてある範囲内で、二つの隊の中からそれぞれ一人ずつが対峙し、審判の合図で戦い始める。

 融が剣や槍の形を取る場合は、実際には殺傷効果のない模擬刀や模擬槍にする必要がある。これらは斬られた際にそれ相応の痛みを感じるが、実際には身体に傷はつかないという代物である。嬀昭のように体術を用いる場合は、拳を守る役割を果たす手甲などに融の形を取らせる必要があった。

 最初に試合を行うのは、先鋒を務める第一隊と、守備専門の第四隊だった。第一隊からは娰朔じさくという狐目の少年が、第四隊からは姞良きつりょうという大柄な体格をした少年がそれぞれ名乗り出、前へと進む。二人はそれぞれ縄の範囲内に入り、少し離れて向かい合う形で立った。その後、二人は目を閉じ、何かを念じるような素振りを見せる。すると、姞良の手は赤色、娰朔の手は緑色にそれぞれまばゆく光を放った。その後、光は細長い形に伸び、武器の形を成していく。十秒程たつと、姞良の手には柄の部分に夔竜きりゅう文のついた大錘、娰朔の両手には刃の部分に蝉文が彫り込まれている短剣が握られていた。

「始め!」

 審判の声が大声で響き渡ると同時に、両者は動き出した。姞良も娰朔も互いに間合いを取り、攻撃し始める機会を狙っている。少し経ち、先に動き出したのは姞良の方だった。姞良は大錘を大きく振りかぶって、娰朔の頭めがけて振り下ろす。娰朔はそれを野生動物並みの敏捷さで避けた。大錘はそのまま娰朔の立っていた地面へと叩きつけられる。地面の周囲に火花が散り、大きくひびが入った。おおー、という感嘆の声が周囲からあがる。娰朔は高く飛び上がり、姞良の首元目がけて右の刃を閃光の如く振り下ろす。だが、姞良は巨体からは信じられぬような速さで大錘をかざし、娰朔の刃を制した。赤と青の閃光が辺りに激しく飛び散る。娰朔は大きく後ろへと跳ね飛ばされ、背中を強く打った。呻き声をあげてうずくまる娰朔に対し、姞良は最後のとどめを刺そうと、また大錘を振り下ろした。大錘は見事にうずくまる娰朔の脳天に命中し、その結果彼は気を失った。この試合、姞良の勝ちである。試合は通常、どちらかが気を失うまで行われるのだった。

 その後、数回程第一隊と第四隊の試合が繰り返され、結果的に勝ったのは第四隊だった。第四隊の少年達は大声を上げて喜ぶ。嬀昭達第七隊は、彼らの次である。遊撃部隊を務める第七隊が対戦するのは、攻撃に特化した第二隊であった。―げ、よりによってなんで第二隊なんだ。嬀昭は心の中で文句を言った。第二隊には、彼のことを快く思っていない者が特に多かった。実際、今朝彼が遅刻していった時に聞こえた忍び笑いの多くはこの隊の少年たちのものである。第二隊は、八つある隊のうち、特に名家の出身の者が多かった。彼らに比べると、嬀昭は身分の低い出であり、コネも何もない。そのことは内心彼を長い間苦しめ続けてきた。だがここまで来るともうやるしかない。今できることは、第二隊に勝つことだ。

 第七隊隊長の嬴夏えいかという青年が嬀昭達隊員を招集する。嬴夏はどちらかというと無口な部類であり、隊員とあまり打ち解ける感じではなかったのだが、下す判断は端的にまとまっていて的確であり、ある意味嬀昭にとってはやりやすい上司であった。 

「今回はまず姜環きょうかん、その次に姚洋ようよう、その次に俺、そして最後に嬀昭で良いか」

 嬴夏は眉一つ動かさず提案した。隊員たちは暫く考え込む。少し経ったのちに、嬀昭と姚洋は同意の姿勢を見せたが、姜環は迷っていた。姜環と嬀昭、彼らは二人とも体術を得意とする兵である。姜環は嬀昭を同じ隊に属し、同じ分野を得意とする者として敵対視していたが、嬀昭との勝負において一回も勝ったことがなかった。だが、彼の矜持は非常に高かった。いつか必ず嬀昭を超えたい。その思いが彼の頭の中を支配していた。

 試合の中でもそれぞれの隊で最後の順番を務める兵というのは、特に隊の勝敗に影響する。それはなぜかというと、この試合は点数制であり、最初から最後になるにつれて点数が高くなる方式になっているからである。故に、最後になる兵は戦闘能力の高い者が多い。実際は分からないが、現時点では、隊長の嬴夏が、能力が高いと見込んでいたのは嬀昭であったから、彼を最後に持ってきたと解釈出来る。だが、姜環はそれに異議を唱えることを決めた。

「隊長、なぜ嬀昭が最後なのですか」

 嬴夏は暫く考え込んだ後にこう言った。

「まあ、その理由は伏せておく」

「俺は弱いとでも言いたいのですか」

 姜環は声を荒げて反論した。彼の額には汗が噴き出ている。それを見て昭が言った。

「ここはまず、俺と貴様で勝負した方が手っ取り早いかもしれねえな。隊長はどう思いますか?」

 嬴夏は間髪入れずに言った。

「いいだろう」

 特例として、隊の中で順番が決まらない場合は隊員同士で勝負を行うことが許されている。これもどちらかが気絶するまで行われるのが通常であった。地面に引かれた円の中に二人は入り、向かい合う形で対峙する。姜環の目からは嬀昭を倒して見せるという決意が感じられた。周囲には二人の勝負を見届けようと、沢山の少年たちが集まってきている。

 嬀昭はまず目を閉じ、意識を両手の指先に集中させる。すると、両手の指先に熱が集中し、異様に熱くなってくる。そのうち彼の両手は黄色の光を放った。一方で、姜環の体の部位の中で発光したのは、右手と左足だった。

 彼奴、足甲も着けるつもりだな。

 昭は思った。みるみる間に二人の体から発せられる光は形を成していき、鋼鉄製の手甲へと変貌していく。特に姜環の手甲は大ぶりで、かなり鋭い突起が付いていたので周囲は姜環が勝つのではないかという予測をせざるを得なかった。また、彼の神経を更に逆撫でする物があった。第二隊の少年たちが飛ばす罵声である。

「くたばれや、この成り上がりめ!」

「お前が姜環なぞに勝ってたまるか」

 腹の底が煮えくり返るような感覚に襲われる。だが、これから勝負であるという時に彼らといざこざを起こすわけにはいかない。昭はぐっと堪えた。

「始め!」

 審判の声が朗々と響き渡る。


 



                  3

 姜環は昭よりも大柄な体を前進させ、にじり寄ってきた。次の瞬間、彼は嬀昭の顔面目がけて蹴りを放った。嬀昭はそれをすんでのところで避ける。彼が二発目の蹴りを放とうとした瞬間、嬀昭は姜環の軸足を蹴った。姜環は後ろに大きく体制を崩し倒れこむ。嬀昭は姜環の鳩尾に蹴りを入れようとするが、それを察した姜環は身体を素早く後転させて攻撃を避けた。二人は改めて向き合うと、態勢を立て直した。姜環は嬀昭の顔を見るなり、目を大きく見開いた。その鋭い目には、さっきまでの彼にはまるで感じられなかった濃厚な殺気が漂っている。何なのだろう。油断していたら小鹿である自分をあっという間に嚙み殺してしまう狼のような、この、殺気。対戦しているこちらを圧倒するなにかが、嬀昭にはある。そう姜環は感じた。それと同時に姜環の心の中に生じる焦り。周囲の者たちにも次第にそれは伝わっていく。

「おい、なんか姜環がおかしいぞ」

「本当だ、具合が悪そうだ」

 周囲のざわざわとした声によって、姜環の焦りは増幅された。俺が言い出したからには勝たなければならない。勝たなければ、勝たなければ、勝たなければ。そう思えば思うほど、胸の鼓動は早くなっていく。

「おい、何愚図愚図してるんだ、早く再開しろ!」

 審判の鋭い、恫喝するような声が耳に入る。姜環はハッとして、嬀昭に対する攻撃の間合いを取り、勢い良く拳を前に突き出した。飛んできた拳を嬀昭はさっと避ける。姜環の身体は大きく前へと泳いだ。その次の瞬間、姜環のあばらの辺りに激痛が走る。彼は悲鳴を上げた。嬀昭が鋭く速い手刀を姜環の脇腹に叩きこんだのだ。どさり、と大きな音を立てて姜環の身体はその場に倒れ込んだ。彼が立ち上がろうとするよりも先に、後頭部に嬀昭のかかと落としが決まり、姜環は気を失った。

 結局、試合の順番は嬴夏が提案した通り、嬀昭が最後を務めることとなった。気を失った姜環に対し、嬴夏が蘇生を施す。その後、結局先鋒を務めた姜環は第二隊の先鋒である奵峨に敗北したが、二番手の姚洋は姜寅に、三番手の嬴夏は娰燕に勝利した。次はとうとう嬀昭の番である。嬀昭の相手は嬀智、あの問題児達の中心にいる少年である。嬀智は姚向と同じく一見人当たりは良い上に、人を動かす能力に長けているが、接している者が自分の気に食わない相手と見ると、取り巻きに虐めを行わせる非常に質の悪い性格であった。その上嬀智は名家の出身だった。それも並みの名家ではなく、姫氏から特別に寵愛を受けているとされる壬邑嬀氏である。同じ嬀氏でも嬀昭の所属する甲邑嬀氏はあまり融軍に兵を輩出しておらず、どちらかと言えば近年衰退してきている家系であり、嬀昭は彼らの間では貴重な有望株として知られていた。

 ここでこいつに負けるわけにはいかない。勝って必ず甲邑嬀氏の名を上げてみせる。その思いが嬀昭を突き動かした。彼らは向かい合って対峙し、戦闘の準備を進める。



 

                  4

「始め!」

 その声が響いた瞬間、嬀昭は嬀智の口角がニヤリと歪むのを見た。嬀智の手に握られているのは束の部分にぎょろりとした目玉、饕餮とうてつ文が彫り込まれた長剣である。それを見て嬀昭は驚愕した。これはまずい。饕餮は蚩尤が使役していると言われる伝説の魔物、四凶の内の一つに数えられ、魔を食らう存在として知られている。四凶はこの世界に数多く跋扈ばっこする魔物の内でも最強の部類であり、それがあしらわれた武器を具現化させた場合、対戦相手に与えられる痛みは通常の武器の二倍に値するとも言われる。青銅器に刻印されて残されてはいるものの、聴き伝えによって伝承されているだけの存在を頭の中に思い浮かべ、具現化させるのは困難なことであり、それだけに具現化が可能になった時は、その者の実力は相当高いと言える。恐らくこの時の嬀智の力は融軍の中でも一、二を争うものだったと思われるだろう。融を上手く使いこなすのに一番必要なのは想像力だ。頭の中に武器の構造をしっかり描くことで、融はより強固な武器に変じる。その力が嬀昭には欠けており、それが剣術や槍術での対戦の際不利に働いたのだろう。手甲は数ある武器の中でも具現化させるのが容易なのだ。だが、今の彼に必要なのは、彼を上回るだけの魔物をあしらった武器を具現化させることである。嬀昭は自身の頭の中にあるありとあらゆる知恵を絞り出すことを試みた。だが、一向に思いつかない。額を二筋の冷や汗が流れ落ちた。その時だった。時が止まったように、周囲が動かなくなったのは。

 嬀昭、西母を思い浮かべなさい。そうすれば、あなたは勝つことができる。

 嬀昭は驚いた。突如頭の中に振ってきた軽やかな声。それは明らかに自身と同じ年頃の少女のものだった。嬀昭は声の主を探そうと周囲を見渡すが、見当たらない。急にここにいるはずのない女の声が聞こえるなんて、頭がいかれているのか。そう一瞬思ったが、今の声は確実に幻聴ではなかった。西母とは、あの姫氏の祖先神である女神だ。ということは、この声の主は姫氏一族の中の誰かである可能性が高い。姫氏一族は一人一人が特殊能力を持つと言われているが、これもそのうちの一つなのだろう。―それにしても、何故姫氏が俺のような一兵卒に?

 嬀昭の思念に答えるようにして、少女の声は言った。

―あなたがここで負けてしまったら、我が一族の根幹に関わるからです。

―根幹? 俺の一族は名家でも何でもない、ただの平民家系だけど?

―とにかく、西母を思い浮かべなさい。

 そう言ったきり、その声は途絶えた。嬀昭は驚きを残しながらも、声の主の言う通り、西母を頭の中に描いた。西母は頭上に玉勝たまかんざしを戴き、つくえに寄りかかり、杖を付いていると言われる。彼女は青銅器の表面に彫り込まれる事が多く、それ故に想像するのが容易な存在として知られているが、だとしても、ここまで詳細に思い出せるとは。嬀昭の頭の中に生み出された西母は、まるで図案というよりは一人の人間としての存在に近かった。彼女の外見は優しげな初老の女性だったが、その眼には何とも形容し難い色が浮かんでいた。生まれてから現在に至るまで、世界の全てを俯瞰してきた深淵のような黒い瞳。その瞳を見た途端吸い込まれそうな気がして、嬀昭は彼女を手甲に変換しようとした。すると、彼女は光を放ちながら手甲へと変じていく。気が付いた時には、嬀昭の両腕をすっぽり覆う形の強固な手甲がつけられていた。表面には人面虎身の恐ろしい顔をした女の姿が刻み込まれていた。

 その直後、息を吹き返したように世界は動き出す。嬀昭の手に付けられた手甲を見て、観衆は驚いた。その中で誰よりも驚いていたのは、無論対戦相手の嬀智である。

「お、お前―その腕、どうしたんだ」

 嬀昭は不敵な笑みを浮かべる。その眼には、先程姜環が味わったのと同じ、濃厚な殺気が漂っていた。

「ま、ちょっと力を借りたのさ」

 嬀智は思わず後ずさりする。そして円の中から飛び出し、一目散に逃げようとした。だが、そんな嬀智を審判の男が制止する。

「円の外へ出るのは禁じられている。早く決着を付けろ」

 そう言われ、嬀智は渋々円の中に戻る。だが、嬀昭の目に射抜かれると、どうしても身体が竦んでしまうのだった。

「無理です、もう」

 しかし、彼の勝敗によって、壬邑嬀氏のこれからの運命が左右されることもまた然りである。このまま立ち向かわなければ、彼の一族は転落の一途を辿る。その思いが頭の中をよぎった時、彼はようやく自身を奮い立たせることができた。嬀智は目を赤く血走らせて言った。

「嬀昭、貴様なんぞにやられてたまるか、貧乏な貴様なんぞに」

 それを聞き、周囲で見守る奵峨や姜寅らが声援を送る。

「いいぞもっとやれ! 嬀昭なぞとっちめてしまえ!」

 嬀智は再び口にニヤリと笑みを浮かべた。

「嬀昭、貴様はもう終わりだ」

 彼はそう言って、長剣を手に構えにじり寄って来た。次の瞬間、素早い斬撃が嬀昭の身に襲い来る。彼は地面に膝をつき、大きな刃を腕部分で受け止めた。嬀智の刃の衝撃は大きく、腕にびりびりと振動が伝わってくる。嬀昭は力を込めて刃を腕で押しのけた。その反動で嬀智の身体は大きく後ろに傾き、手から長剣が離れた。長剣は紫色の光の粒となって消え失せる。

「嬀智、これで俺とお前は対等だな」

 嬀昭は薄ら笑いを顔に浮かべる。嬀昭は兵の中では決して大きくはない。どちらかと言えば小柄な方であり、身体も筋肉が付いて引き締まった体格ではあるものの、大柄な部類に入る嬀智より力がありそうには到底見えなかった。一体あの身体の何処から自身の刃を押しのけるような力が湧いてくるのか嬀智は不思議だったのである。嬀智は体術においては、嬀昭より不得手であるという自負があったので大いに焦った。だが、それを嬀昭に悟られれば一巻の終わりである。嬀智は焦りが顔に出そうになるのを必死に覆い隠し、拳の構えをとった。非常に分が悪くても、戦わなければならない時はある。

 一回武器を取り落とした場合、再錬成することは基本認められない。しかし嬀智はずる賢かった。この絶望的な状況において、たった一つの突破口を見つけ出したのだ。それは、審判に対する提言であった。

「審判、ちょっと僕の話を聞いてくれ」

 審判は訝し気な顔をして嬀智を見る。

「なんだ?」

「嬀昭は以前、僕に対して脅しをかけてきたことがあったのは覚えているよな?」

「ああ、そうだったな」

 嬀昭は耳を疑った。確かに第二隊の者たちとはひと悶着あったが、脅しをかけた覚えはない。彼らが融軍でない少年たちに対し嫌がらせを行っていたので、彼なりの忠告をしたまでである。嬀智は部下の奵峨や姜寅に命じて、彼らの家に放火を行っていたのだ。ある日その現場に偶然出くわした嬀昭は関節技を決め、腕の骨を折るという重傷を嬀智に負わせた。嬀智は軍に復帰するまで相当な時間を要し、第二隊の戦力には大きな影響がでた。当然悪事を働いたのは嬀智なので、この事件は本来なら嬀智に対する制裁ということで収まる。しかし、これには一つ問題があった。この騒動が起こった当時、その場にこの審判も居合わせており、事件について記憶していたのだ。審判は名家の出身の者が多いという点から第二隊を贔屓している面もあるので、この状況は危険だった。

 嬀智は必至な様子で続ける。

「奴は僕の出身の壬邑嬀氏に泥を塗ったんだ」

 嬀昭はそれを聞き、はらわたが煮えくり返るような思いに駆られ、思わず叫んだ。

「それは思い違いじゃねえか!」

 それに構わず嬀智は続ける。

「こいつには注意しておくことだな。本当に何をしでかすか分からないから」

 審判は納得した様子を見せ、言った。

「良いだろう。嬀智の武器の再錬成を認めよう」

 観衆のうち、第二隊がいるあたりから大きな歓声が沸き起こった。嬀昭は黙って唇を強くかむ。嬀智は満面の笑みで嬀昭の方を見やった。「再錬成で済んだだけありがたいことと思え」とでも言わんばかりに。そして彼は目を閉じ、その腕は紫色の光を放つ。嬀昭にはその光が禍々しいものに思えた。やがて気がつくと、彼の腕には先程よりも更に大きな長剣が握られていた。かなり重そうなのに、嬀智は素振りを軽々と行っているように見える。嬀昭は一瞬ひるんだ。だが、今の彼には西母という絶対的存在が付いている。神の恩恵を受けている彼が恐れることは何もないのだ。そう思い、嬀昭は戦闘の準備を改めて整えることにした。二人は改めて向き直り、審判の号令が再びかかる。二人は示し合わせたように襲い掛かり、激突した。





                 5

 訓練が終わり、嬀昭は姚向と共に帰路についた。二人は同じ甲邑に属している。時は夕暮れ、空は橙から青みがかった黒へと色を変えつつあった。彼らは決して平坦とは言えない道を、草鞋を履いた足で石ころをかき分けながら歩いていた。

 姚向は笑いながら言った。

「それにしてもお前、かなり派手にやったよな」

「彼奴だけは気に食わねえからな。やられてちゃ寝覚めが悪いや」

 嬀昭は顔をしかめながら言う。だが、その表情にはどことなく清々しさが漂っていた。彼は最後、嬀智を以前の騒動と同じ、腕の骨を折ることによって気絶させ、勝負を付けたのだった。武器の都合上、嬀智には外傷は見当たらなかったが、彼はこれから幻の激痛に悩まされることになるだろう。

「それにしてもあの声はどうしたんだろな――」

「へ?」

「いんや、なんでもねえ」

 嬀昭は慌てて胡麻化した。なんとなく先程起こったことは知られてはならない気がしたのだ。

 互いの家族や、気になる異性についてなど様々なことを語り合っているうちに、嬀昭の住む甲邑嬀氏の集落が近づいてきた。

「じゃあな」

「うん、また明日」

 嬀昭は姚向に軽く手を振り、別の道へと進んだ。

 姫周の集落は、男性と女性で居住区域が分けられていて、女性は十五になり成人式を迎えると個室が与えられる。それから個室の中で何が行われるかは秘密であり、部屋の所有者以外が許可なく中を覗いた場合は重罪と見なされ刑罰の対象となるのだった。昭は男性が集団で過ごす屋敷へと進む。茅葺屋根で、泥壁の簡素な建物だが、大人数の生活の場となるので、中はかなり広い。木枠で固められた入り口から中に入ると、数人の男が夕食の支度を行っていた。それぞれ鼎の中の具材をかき混ぜたり、米を炊く火の具合を見たり、様々なことをしている。そのうち入り口近くにいた初老の男性が顔をほころばせる。この男の名を嬀健という。

 「おお、昭。お疲れ様」

 「誰かと思ったら健爺か。お疲れ」

 「お前、今日いいことがあったな」

 健は昭の顔を見て言った。

「まあな。ちょっとしたことだけど」

 そう言って昭は背嚢を地面に下ろし、口を開け、逆さにした。やがて出来たのは、色とりどりの宝貝の山。これは姫周で通貨の役割を果たすものである。それを見て健は思わず目を見開く。

「お前――。これは――」

「今日の訓練の成績が良かったからな。嬀智からかっぱらってきた」

 そう言って昭は鼻の下を人差し指でこする。

 それを見て、他の男たちも続々と周りに集まってきた。彼らはそれを見て大きな歓声を上げる。

「やったなお前!これで当分何とか暮らせそうだな」

 そう言ったのは嬀恩という男。彼は父親であり、昭に狩りを教えたりした。現在も彼は昭にとって、信頼できる兄のような存在であると言ってもよい。 

 騒いでいる男たちを尻目に、昭は奥にある寝室に向かった。中に入ると、木張りの床の上に瘦せた小柄な少年が背中を向けて座り込み、昭には一切目もくれずに、畑を耕すのに使う鋤をじっと見つめ何やら考え込んでいる。

「燦、帰ったぞ」

 少年は全く気付く様子を見せない。

 昭は少年の近くに来て、耳元に向かって大声で叫んだ。

「燦!帰ったぞ!」

 小さな身体をびくりと震わせ、少年は怪訝そうな顔をして振り向いた。その大きく黒目がちな双眸からは、彼が生来持っている利発さが伺える。

「なんだよ昭。びっくりさせるなよ」

「お前こそもうすぐ飯の時間だってのに、何ぐずぐずしてるんだ」

「鋤の改良だよ。今使っているのは使い勝手が悪いだろう?」

 この少年―嬀燦ぎさんは言わば嬀昭の弟のような存在である。彼は病弱で兵士には向かず、軍に志願することはなかったが、非常に利発であり、頭の回転の速さも、手先の器用さも同年代と比べると抜きん出ていた。彼は幼少期から建物や日常生活で使用する道具の構造に興味を持っており、農耕を行う大人達を観察しては、どの場面で不便を感じているかを見抜き、農具の改良を行おうとした。製造する際に必要な金属の鋳造技術を教わることは本来女性にしか許されないが、燦はその聡明さを見込まれ、伝授されることをゆるされたのである。工房で職人達の手を借りながらも、彼は遂に千牙せんがという道具を開発した。千牙は言わば脱穀に使用する道具であり、木製の台に付属した足置きを踏んで体重で固定し、櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥させた稲や麦の束を振りかぶって叩きつけ、引いて梳き取るという使い方をする。これにより甲邑嬀氏の農業生産効率は上がり、燦の名は他の邑にも知られるようになった。甲邑嬀氏の者たちは非常に感謝していた反面、どこか彼を畏怖する様子も見せていた。齢十四の少年に相応しくない彼の言動を見て、一種の不気味さを感じ取ったからなのかもしれない。いつからか同年代にも遠巻きにされ、彼は一人で行動することが多くなった。今日、昭は彼の数少ない友人であり理解者の一人とも言える。

「俺、今日飯はいらないや。健爺達に言っといてくれるかな」

 燦は再び手元の鋤を見ながら言った。

「馬鹿言え、飯は食っとける時に食っとかなきゃだめなんだぞ」

「じゃあ、後で食べるから、持って来てくれる?残った分だけでいいからさ」

 嬀昭は下を向きため息をついた。

「面倒くせえやつだな。そんなんだから身体が成長しねえんだよ」

 その言葉にむっとした様子を見せ、嬀燦は反論した。

「昭に言われたかないね。融軍の中では小柄な方のくせに」

「なんだと!」

 こうして、取っ組み合いの喧嘩が始まり、あまりの騒々しさを聞きつけ、居間から嬀健がやって来た。彼は元々八の字の形をした眉を更に下げて言う。

「どうしたお前達、また喧嘩か?」

 彼らは身体を硬直させ、恐る恐る入り口の方を向いた。その時嬀昭は嬀燦を組み敷いている最中であり、些か可笑しな格好で嬀健の方を向く形となった。それを見て嬀健は笑いをこらえきれず爆笑した。くくくっ、と笑い声を響かせる嬀健を見て二人は呆然とする。

「お前達、本当に仲が良いな。もう飯が出来てるからそろそろ来いよ」

「お、おう。分かった」

 拍子抜けした様子で二人は答えた。年長者である嬀健に言われたからには嬀燦も行かないわけにはいかない。二人はのそのそと立ち上がり、食事の場へと向かった。

 その日の夕食は、いつもと違い豪華なものだった。嬀恩が猪を仕留めたらしく、猪鍋が振舞われることとなったのだ。巨大な鼎の中で槐頭(かいとう)という、うまみのある茸からとった出汁と共にぐつぐつ煮立っている豪快な肉の塊が、何とも食欲をそそる一品である。男達は皆口の中に唾が湧き出て来るのを抑えられなかった。配膳作業が済むと、彼らは無我夢中で玄米と共に肉を頬張る。中にはあまりの美味しさに恍惚とした表情を浮かべる者さえいた。蟀谷と髭が輪のように繋がっているのが特徴的な嬀加がふと呟く。

「これぞ、勝利の味だな」

「おう、そうだな」

 それに周りの男達も同意する。

「昭、ありがとよ」

 昭に礼を最初に言ったのは、燦だった。男達は一斉に彼の方を見やる。

「燦、お前が言うなんて珍しいな」

 口の周りに肉のくずを付けて、加が言った。燦は食事の場では無口なたちであり、発言するのは非常に稀だった。彼は顔を赤らめ、照れたように俯いてしまった。それを見て、すかさず昭は彼を弁護する。

「そこまで注目してやることもねえだろうが。逆に緊張しちまう」

 それを聞き、男達は苦笑した。

「大丈夫大丈夫。そこまで他意はねえよ」

「そんな緊張してるなんて思わなかったぜ」

 それを聞き、燦はほっと胸をなでおろす様子を見せた。そして、無我夢中で器に盛り付けられた米を掻き込み、食べ終わると食器を洗って奥の部屋へそそくさと引っ込んでいった。去っていく燦の様子を見て、眉の脇にある大きな黒子が特徴的な嬀項が眉をひそめて言った。

「全く、彼奴の考えていることは読めないな」

 それを聞き、辺りはしん、と静まり返った。それは甲邑嬀氏の男達が抱えている最も重大な問題の一つであったからだ。燦は言葉で自己表現することが非常に苦手であり、周囲から誤解を受けることが多かった。特に、大人数の場で発現することを彼は不得手とした。周りの人間達の視線が痛いほどに自身を刺す感覚に襲われるのだと、彼は言う。食事の場に姿を現すことを拒むのはそういう理由からだろうと昭は分かっていたが、普段燦と接する機会が多い彼すらも、彼の心の底に秘められた真意は理解しかねた。一年ほど前に彼と二人、夜に起き出して、外の景色を見た時の出来事を昭は思い出す。

 姫周では、夜は妖魔が跋扈する時間帯であると言われているので、日が暮れて少し経つと、就寝する者が殆どである。男達はその日も例外なく、だだっ広い板張りの床の広間に雑魚寝していた。昭は大きないびきをかきながら、広間の隅の方で大の字になって寝ていたが、突然、左頬を力任せにぐいと引っ張られる感覚を覚え、飛び起きたのだった。いってえな、と言おうとして左を見ると、そこにいたのは片膝を立てて床に座っていた燦だった。小脇には何やら黒い布を抱えている。

「しっ、静かに。他の人達が起きてしまうだろう」

「え?何してんだお前」

 昭は目を見開き、きょとんとした表情で言った。それを見て燦は渋い顔で言う。

「んったく、だから声小さくしろって言ってるだろ。張り込みだよ、張り込み」





                 6

「は?張り込み?」

 昭は更に訳が分からなくなる。燦は持っていた黒い布を両手で広げた。それは、頭の頂点から足の先まで覆い隠せる程に大きかった。

「どうしたんだ、それ」

「ああ、これは厨房の竈の裏側に隠してあった例の物だ」

 それを聞き、昭は驚愕した。燦が手に持っている黒い布は姫周の男性が、女性が住む部屋を訪れる時、所謂妻問の際身を隠すために用いられるものである。男性は妻問の際、自身が女性の居住域に向かっていることを知られてはならないという決まりがあるのだ。勿論布の使用は、昭や燦のような未成年には禁じられている。本来彼らは成人の儀の際に妻問の方法を年長者から教わるのであり、それ以前に女性の居住域に立ち入ることは、年に数回しかない。故に彼らにとって女性という存在は壁を隔てた先にある別世界の住人に等しかった。男児は生まれてから数えで七になるまでは女性の手によって養育されるが、それ以降は男性の居住域で生活することを強いられ、そこで年長者による狩猟や武器の扱いなどの手解きを受けるのであった。

「お前、それがどういうことなのか分かってんのか」

 昭は声を低めて言った。悪びれた様子も見せずに燦は答える。

「わかってるよ。ただ、興味があって」

「何に?」

「全く、これだから馬鹿は。竈に隠されていた布は三枚だ。だが、僕が今持っている布は二枚。これが何を意味するかは分かるな?」

「まさか」

「お察しの通り、この中の誰かが妻問に向かっているということだ」

 そう言って彼は大きないびきが聞こえている暗がりを顎でしゃくった。その日は新月の夜だったので、窓から差し込む月光はなく、夜目はある程度効くものの、寝ている一人一人の顔ははっきりとしない。燦は色白の顔に薄ら笑いを浮かべて言った。

「まあ、今日は絶好の機会だということだ。どうだ、昭は興味ないのか」

 こいつ、中々恐ろしいことを言いやがる。昭は思った。燦の性格上、この様な事を言い出すというのもかなり意外だった。だが、興味が無いと言えば嘘になるのは明らかだった。

「まあ、そこそこな。でも明日も軍の演習があるしよ」

「明日は、確か冠礼(成人式)の日だから、休みだな」

「ぐっ―そうだった」

 そう燦に言われ、昭は靡かざるを得なくなった。燦は昭に布を一枚手渡した。二人は足音を立てないよう慎重に部屋の外に出た。途中、んがっ、と大きないびきが途切れる音が聞こえ、昭はびっくりして足音を立てそうになったが、何とか踏みとどまった。

 被った布の隙間から上を向くと、群青を更に深くした青色の空間に、よく磨かれた白輝石のような星が美しく散らばっていた。その日は特別綺麗な星空だったのだ。空を見つめる昭に、燦は囁くように言った。

「屋敷を壁伝いに行くんだぞ。分かったな」

「分かってる」

 昭は答え、自身らが住む屋敷から少し離れたところにある女性の居住域に向かって歩いた。男性の居住域に近い場所は地面が土であるため、足音を立てずに歩くのは容易だったが、女性の住む屋敷の前には、砂利が敷かれているため、屋敷の壁に対し垂直に突き出ている床のへりに足を乗せて歩かなければならない。この幅はぎりぎり昭の足が乗るぐらいなので、気を抜けば砂利の上に足が乗ってしまうのだった。暫くして、屋敷が近くなってきた。

「じゃあ、俺から先に行くぞ」

「分かった」

 そう言って、昭は片足をへりの上に乗せ、歩き始めた。昭と五尺ほど間隔をあけ、燦も後ろについて歩き始める。二人は壁に手をつき身体を支えながらゆっくりと歩く。こうして歩いてみると、布が足に絡まり、足を動かしづらい。だが、直ぐに歩き方のこつを掴み、昭は速く足を動かせるようになった。速く、されど丁寧な足運びを心掛け前進する。暫くして突然、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、追いついたらしき燦が片手で耳を示し、もう片方の手で壁を指さしていた。どうやら、壁に耳を付けろ、という意味らしい。昭は身体の向きを変え、燦に言われた通り壁に耳を付け、中での会話に耳をそばだてた。中からは途切れ途切れだが、男と女の声が聞こえる。間違っていなければ、中にいる男は恩だろう。だが、女の方は誰が話しているのか特定出来なかった。

「――んた、結局―うするつもりなの」

「いや、―だ決めていな―だが」

「―って、まだあの子達は―を迎えていないんでしょう」

 二人の身体に悪寒が走った。女の言う「あの子達」とは間違いなく彼ら二人を指すと直感したからだ。その続きを聴こうと、二人は壁に耳をぎゅっと押し付ける。

「特に―は将来私達に――をもたらす可能性があるわ。それでもいいの?」

 それを聞き、二人は更に不安を覚えた。一体どっちなんだろう。彼らは、自身が普通の子供ではない事を薄々感じてはいたが、この様な場で自身の話題が出ると、かなり心が痛くなった。恩は二人にとって特に関わりの深い人物であるので、なおさらだ。

「まあ、―様にお伺いを立てるしかなさそうだな。―を国に受け入れることを決めたのは、あの方だから」

「あの方にいずれお会いしなければならないなんて、噓でしょ」

 二人はどちらの事を話しているのか、聞いているだけでは分からなかった。しかし燦は悟ったように昭の顔を見て、頷く。昭はその時の燦の様子に強い違和感を覚えた。まるで、この時に彼の話題が出ることを分かっていたかのようだったからだ。燦は始めから彼にこの話を聞かせるためにここに連れて来たのだろうか。そうだとしたら、どうやって知ったのか。

 結局彼等は誰にも知られずに屋敷に戻ることが出来たが、その日から燦に対する謎は深まるばかりだった。





                 7

 気が付くと、他の男達はもう食事を終える間際だった。

「どうした昭、お前が食べ終わるの、一番最後だなんて。全く今日は珍しいことだらけだな」

 そう言って、加が高らかに笑った。

「すまねえ、直ぐ食べ終わる」

 昭は慌てて器の中の米を掻き込んだ。

 寝る前に屋敷の裏手にある小川で昭が水浴びをしていると、燦が隣にやって来た。どうやら彼も身体の汚れを落としに来たらしい。彼も昭と同様服を脱いで、水の中に入ってきた。こう見ると、服を着ている時よりまだ痩せて見える。日々の鍛練で筋肉がしっかり付いている昭と比べると、燦はかなり貧弱な体型をしていた。

「話したいことがあるんだけどさ」

 燦は昭にしかしない話をする場合は、水浴びの場ですると決めていた。

「なんだよ、言ってみろ」

 その時、燦は眉間にしわを寄せ、唇を噛み、どこか悲壮な顔つきをしていた。彼なりに抱え込んでいる苦悩があると思ってはいたものの、実際のところよく分からなかった昭は、彼の急な表情の変化の仕様に驚いた。暫くして、ようやく燦は口を開いた。

「隔壁の外って、どうなっているんだろうね」

 吐き捨てるように燦は言った。

「蚩尤がいるとか言われてるけどさ、僕は噓じゃないのかって思ってしまうよ」

 外界について話をしないということが暗黙の了解となっているこの国では、話が出来るのは何故か水場だけと決まっていた。

「それは、俺もそう思う」

 そういうと、燦の表情が少しだけ和らいだ。

「僕は、蚩尤の伝説には別の意味があると考えている。多分、これは僕達を国から出さないために作られたものなんだ」

「それは考えすぎだろ。被害妄想ってやつだ」

 昭は間髪入れずに言った。あるいは、そのことについて深く考えるのを本能的に忌避していたのかも知れなかった。軍で一番仲が良い姚向に帰り道、この話を振ってもやんわりと断られたことで、昭はこの話をする危険性を感じ取ったのだ。万が一、耳がある所で話をしたらどうなるか。それは分からなかったが、碌なことにならないのは明らかだった。燦の表情が再び硬くなる。

「まあ、余計な話はしない方が身の為だということだ」

 そう言って、昭は小川から上がり、身体を乾いた布で拭こうとした。その時、背中に声が飛んできた。

「昭はいっつもそう。僕がこの話を振ったら直ぐ切り上げる。必要だと思うのに、何故だ?」

 振り返り、昭は思わず声を荒げて言った。

「お前は分かってなさすぎる!どれだけ危険か分かってねえのか、その話をすることが」

 それは、昭が軍で対戦する際に見せる様子と同じだった。その剣幕に押され、燦は押し黙る。

「いいか、二度とするなよ」

 そう言って、彼は着替えを済ませ、その場を足早に去っていった。

 燦は漆黒の川の中に呆然と突っ立っていた。彼は下唇を強くかんで下を向いていたが、暫くして誰も周りにいないことに気が付くと、小川から上がった。その顔には、面が張り付いたように何の表情も浮かんでいない。


 



                  8

 そこから半月程たったある日、昭が演習場に向かうと、当然のことながら嬀智の姿はなかった。その日は騎馬部隊の練習場の足場が悪いとかいうことで、騎馬部隊と彼らは一つの演習場を木でできた長い衝立で仕切って使っていた。あの日から、びっくりするほど彼は気分が良かった。あの日まで第二隊の連中に脅されていた者もいたようだ。彼らの間に活気が戻ったことで、融軍の雰囲気も全体として良く収まっていたと言える。彼に話しかける者も次第に増えた。

「おい、嬀昭。飯にしよう」

「おう、分かった」

 昼休憩の時間、昭に声をかけたのは、狐目が特徴的な第一隊の娰朔である。彼も嬀智に脅しをかけられていたうちの一人だった。

 途中で遅れて姚向もやってきて、その日の昼食は三人で食べることとなった。軍長の悪口などは時折挟まれたが、交わされているのは至って他愛もない話だ。

「そういえば今日、姫氏の方々が軍の視察にくるんだってよ」

 姚向の言葉に、娰朔はかなり驚くようなしぐさを見せた。

「俺も隊長から聞いたけどそれ、本当かよ?将軍の口からは聞かなかったけど」

 昭は肩をすくめて言った。

「ま、彼奴のことだからな。何だか知らんが、どうせ抜き打ちとか、変なこと考えてるんだろ」

 それを聞き、三人は大きな笑いの渦に巻き込まれた。しかし、暫くして娰朔がふと真顔になって話を切り出した。

「でもよ、姫氏のどなたがおいでになるんだろうな」

 姚向は腕を組んで考え込む。

「巫王でいらっしゃる姫旋様は現れないとして、軍の徴発権をお持ちである長女の姫瑳様か、三女の姫汪様か―そもそも、巫王には何人子供がいらっしゃるのか、定かではないからな」

「ま、誰が来たって別に変らんだろ。ただ俺らが訓練してる様子を、見て帰るだけなんだからよ」

 事もなげに言う昭を見て、娰朔は呆れたように言った。

「お前は逆に無関心が過ぎるぞ。どなたが視察にいらっしゃるかで、軍のこれからの在り方が変わってくるというのに」

「そうだったのか」

「確かな、姫瑳様は融軍の人数を削減しようとしているって専らの噂なんだぞ」

 昭はそれを聞き、目を見開いた。

「本当に? だとしたら俺の身が危ないかもしれねえ」

「そこは案ずるな。それは巫王が占によって決めることだし、多分真っ先に除外されるとしたら第二隊の奴らだ」

「なら良かった」

 昭は無関心な振りを装ってはいたものの、あの日の出来事もあり、実際は姫氏のことが気掛かりだった。だが、その日は声の正体を知るためには、絶好の機会と言っても良かった。少なくとも、視察に来た者たちの中にいるかいないかだけは、分かる。少し経って、姚向が大きく伸びをしながら言った。

「でも、俺もある意味心配なんだよな」

 娰朔は不思議な顔をして返す。

「なんでだよ。お前、普通に優秀だろ。第八隊の隊長だし」

「ああ、お前の姉ちゃんのことか」

 昭は思い出したように言った。

 姚向には、三つ年上の父母を同じくする姉がいるのだ。昭自身、小さい頃は彼女に遊び相手になってもらった記憶があった。彼女は甲邑姚氏の中でも才女として知られており、姫氏の子女達の婦(きょういく)功(がかり)の一人として領に出仕している。姚向が軍の中で一定の評価を得られているのは彼の才能だけでなく、この姉の力も大きかった。姚向は端正な顔を険しくして言った。

「姉上はとても優秀な婦功だ。だが、優秀すぎる。俺は姉上のおかげで姫氏から目を付けられたと言っても過言ではないんだ。聡明で強かで美しいあの姚(よう)玲(れい)の弟、ってな」

 彼等は暫く黙り込んでしまった。昭はこのような彼の様子を見慣れていたが、娰朔は初めて直面する事態のようで、困惑していた。彼の様子を見て、姚向は慌てて弁解した。

「悪りい。こんな話終わりにした方がいいな」

 娰朔は、困惑した様子を残しながらも言った。

「いや、お前に姉さんがいたなんて、初めて知ったよ。すごいじゃないか、婦功だなんて。女だとしても、そうそうなれるものじゃないし」

 甲邑姚氏は、優秀であることを義務付けられた一族、と言っても過言ではなかった。現に、婦功である姚玲以外にも、歩兵隊の隊長を務める姚嘉、将軍の補佐役を務める姚范など、名だたる地位に身を連ねている者が多かった。そのような環境に身を置いていたからか、彼は内心かなりの重圧を背負っていた。それを表には殆ど出さないところが、彼の人望がある理由なのだが。

「お前の姉ちゃんは来ねえよな、流石に」

 昭は軽口を叩くつもりで言ったが、姚向は真面目な顔で言った。

「いや、来るかもしれない」

「何故だよ。婦功って基本屋敷の中に籠っているんじゃねえのか」

「いや、そうでもないんだ。この間うちの連中に聞いたところ、姉上は姫汪様から寵愛を受けているらしい。姫汪様は、気に入った女をいつも傍に置いておくことで有名と言われているしな」

「へぇ、色々と大変なんだな」

 娰朔は同情するように言う。そろそろ訓練を再開する時が迫っており、彼等はそこで話を切り上げざるを得なかった。三人は立ち上がり、演習場へと向かう。歩いている時、姚向は娰朔の肩を叩き、気遣う様子を見せた。

「ま、そこまで気に病むことではないから、気にするな。今日は何事もなく終わる」

「そうか。そうだといいな」

 娰朔は少し安心したようだった。彼らは足早に自分の所属する隊へと戻っていく。




                  9

 午後からの練習内容は、騎馬隊と連携しての訓練だった。融軍が近接格闘を行い、騎馬軍団が遠距離から弓による攻撃を行うと連携攻撃という形で、訓練が実施されていた。融軍には基本、歩兵しかおらず、融を使用することの出来る騎馬兵が存在しない。何故か馬と融は相性が悪く、馬に乗りながら融を使用すると、悉く落馬事故に遭うのが常だったからだ。そのため、姫周周辺に点在する羌との戦闘においては、この連携攻撃を行うことが普通だった。昭達第七隊は、騎馬第一小隊との合同練習を実施していた。嬴夏は騎馬第一小隊隊長の姞弧と訓練の打ち合わせを行い、兵の配置を行っている。勿論羌はこの場に存在しないので、兵の中で、羌の役割を果たす者が要ることを考慮しての配置を考案しなければならない。配置が決まるまでの時間、昭が蹴りの姿勢の確認を行っていると、姜環が彼に声をかけてきた。彼等はあの日から数日間口をきいていなかったが、二日ほど経ち、姜環の方から謝りに来たことで、元の関係を取り戻したのだった。

「嬀昭、あとどれぐらいで来るんだろうな」

 彼は浮足立ったような口振りだった。そこそこの家が一番気楽だよな、と内心思いながら昭は言った。

「さあな。それにしても、来るの遅えよな」

「そうなんだけれども、流石にこれだけ遅いと、何があったのか気掛かりというか―」

「まあ、そのうち来るだろう」

 昭が姿勢の確認を続けたかったので、話を切り上げようとしたその時。

「伝令―! 第一隊から伝令―!」

 昭達の後方から叫び声と共に、伝令の男がものすごい速さで走りよって来た。彼はかがんで息も切れ切れに言った。

「第一隊伝令の奵嵯と申す。今し方巫王が三女、姫汪様が本部にお出ましになったところだ」

 それを聞き、木簡に描かれた図面を覗き込んでいた二人の隊長は、鎧の音をがちゃがちゃと立てながら急いで伝令の元へと走っていった。隊の空気が一瞬にして固いものとなる。姞弧は眉をひそめ、厳しい口振りで質問した。

「どのような行程で視察なさるかは聞いているか」

 周囲の者たちは固唾をのんで、三人の様子を見守る。奵嵯は間髪入れずに言った。

「姫汪様は現在、融軍第一隊と騎馬軍第五小隊の合同演習の様子をご覧になっている。この後も順に視察なさるおつもりだ。ところでお前たちはわが隊の娰朔を知っているか」

「知っています」

「俺は知らぬな」

 兵たちは口々に答えた。彼らの間にも張り詰めたような空気が漂っていたが、一番気が動転していたのは昭だった。先程彼には問題がないように見えていたが、何か良くないことが彼の身に起こっているのだろうか。思わず彼は口を開いた。

「はい、俺の知り合いです。彼奴に何かあったのですか」

 奵嵯は下を向き、かなり話すことが憚られそうな様子を暫く見せていたが、やがて前を向き、固く結んだ口を開いた。

「君には非常に言いにくいが、娰朔が融軍を一定期間外されるかもしれない」

「何故なのです」

 彼は半ば食って掛かる様子で問い詰めた。奵嵯は更に表情を曇らせて言う。

「それが、平伏して許しが出るまでの間に、一瞬だけ面を上げたからだと。姫氏の素顔を見たものは目が潰れると言われているのにも関わらずな」

 昭はため息をついた。それを、姜環を含む周囲の兵たちは不思議そうな顔で見つめる。昭は思った。彼奴、肝心なところでやらかして、阿保じゃねえのか。ただ彼女らが通り過ぎるまでの間、頭を上げなければいいだけの話なのに。

「まあ、彼奴なら大丈夫でしょう。そこまで思い詰めるようなことではなくて安心しました。ありがとうございます」

 昭の口振りを聞いて、奵嵯も少し安心したようだった。

「まあ、それは姫旋様が後に占でお決めになることだからな。それに最悪の場合でも短期間訓練から外されるっていうだけ。大したことではない」

 兵たちも安心したようであり、先程の張り詰めた空気は薄れつつあった。奵嵯は様子を見て、再び口を開いた。

「何が起こるかばかりは想定できないから、油断はしないことだな。それでは、また」

 そう言って彼はその場を去っていった。兵たちは練習前の確認に戻る。走っていく後ろ姿を見送ってから姜環が言った。

「良かった。もっと重大なことかと思ってたよ。ただでさえ姫氏と対面した時って重圧がすごいのに。娰朔ってやつ、逆に尊敬するわ」

「ま、彼奴はかなり真面目なんだが、抜けている所もあるからな―お前も準備ぐらいはしといた方がいいぞ」

 そう言って、昭は姿勢の確認に戻る。暫くして、配置の確認ができたらしく、隊長二人が兵に招集をかけた。結果、姜環は味方側の役割で、昭は羌の役割だった。   





                 10

 崖に近い、傾斜がきつく入り組んだ場所で演習は行われる。姫周の隔壁を乗り越え攻め入ってくるいみんぞくはどんなに傾斜のきつい場所であっても、馬で楽々と乗り越えてくるので、こちらもそれに対応する必要があったからだ。昭達羌隊は崖の上へと昇ろうとしていた。騎馬隊は馬ではなく大鹿に騎乗している。騎馬兵が二人、融軍兵が四人。大鹿の足に人間がついていくのはなかなかに大変だった。軽々と崖を登っていく騎馬兵とはどんどん距離が引き離されていく。融軍兵は慎重かつ素早く、崖を登ろうとした。実際彼らが登ろうとしている崖は、急すぎるわけではないが、足場となる突出した岩があまりなかったので、彼らはつるはしを両手に持ち、登っていくしかなかった。先頭の姚洋から順番に、つるはしを崖の面に垂直に刺し、登っていく。重い甲冑を装着しているので、通常時よりも登るのはかなり大変だった。しかし、彼らは入隊試験時に試練として崖のぼりをこなして来た者ばかりである。乗り越えられないはずがなかった。

 昭は姚洋、嬴参の後ろについて、つるはしを使って登り始めた。僅かにある突起に足をかけ、手足を交互に動かし、登っていく。腕を汗が一筋、二筋と伝わっていった。

「あともう半分だ」

「おう!」

 先頭を行く姚洋が言った。それに後ろに続く嬴参、嬀昭、娰薫は応える。

 それからもう暫くして、姚洋は崖の上に無事に辿り着いた。手を支えにして、身体を崖の上にぐいと持ち上げる姿が下から見えた。またしばらくして、嬴参、嬀昭、娰薫も上に無事登りきることができた。彼等は息も切れ切れに、襲撃の準備に入る。騎馬兵二人を挟むようにして、融軍兵四人は左右に二人ずつ配置された。

 襲撃の開始はまず、羌側の融軍兵が融を照明弾のようにして打ち上げ、それに下の融軍兵が合図として融を打ち上げ返すことで行われる。合図は、羌側の代表として姚洋が行うこととなった。準備が整ったことを確認すると、彼は目を閉じ、白い光を放つ長剣を錬成する。そして、その剣を上に向けると、白い光が素早い狼煙のように上に放たれた。数秒後、崖の下の木の茂った場所からも、赤い光が放たれる。それを見て、姚洋が声を上げた。

「それでは、これより攻撃を開始する。準備はいいか」

「おう!」

「では始め!」

 その声を合図に、彼らは崖を駆け下りていった。鹿は軽快な足取りで、崖を下っていく。だが、大鹿が跳ねた時に人間が身体に受ける衝撃は並大抵のものではなく、最初のうち、騎馬兵は呻き声を上げていた。昭達融軍兵は融による浮力を利用して、転がり落ちないように崖を滑り降りていく。左翼にいる昭の内側に配置されたのは、嬴参であった。昭は彼の少し後ろを滑走し、距離を保っている。嬴参は昭に言った。

「お前、そっちはかなり危険だから気を付けろよ」

「分かってる」

 嬴参が滑っている場所に比べ、昭が滑走している場所はかなり凹凸の激しい場所だった。苔の生えている岩の隆起がびっしり並んでいる所もある。彼は上手にそれらを避けながら滑っていた。右翼にいる二人とは、距離が遠く隔たっている。彼はふと、右翼の方に目をやった。右翼では、姚洋と娰薫が何食わぬ顔で滑走していた。あちらの方も、特に難なく滑ることが出来ているようだった。

 昭は右翼の上空を行く鳥に目を吸い寄せられた。雀の群れ、時々混じる烏、これといった特徴もない鳥たち。しかし、羽の一枚一枚にまで目を吸い寄せられてしまう。烏。烏。烏。遂には烏の羽の黒い艶がどんどん拡大されて、漆黒の闇が視界を覆った。

 あの夢。

 ふと、脳裏に蘇った、あの仮面。

 青い髪の女。

 昭は戦慄した。身体の震えが徐々に大きくなっていく。

 次の瞬間、彼は上半身に大きな衝撃を感じた。ふと周りに目を向けると、彼の身体は遥か上空に投げ出されていたのだった。岩に身体がぶつかり、融の力による斥力が働いた結果だった。眼下には、斜面にそそり立つ無数の木々が見え、軍の人間たちは点のように見える。昭は自身の身体が急速に落下していくのを感じた。背筋が急速に冷え込むような感覚に加え、内臓がぐっと持ち上げられる感覚に襲われる。

 死にたくない。

 けど、ここで死ぬんだろうな。

 そこで、昭はふと、奇妙な感覚に襲われた。あれ、俺って、何のために生きているんだっけ。一生をこの国に捧げるため? 俺は、死んだら何処に行くんだろう。姫氏のように、祖先神になれるのだろうか。いや違う。俺らは死んだら何も無くなる。姫氏と違って、集団墓地に埋められ、土の中で腐った肉と化し、やがてただの土くれになる。

 やっぱり、死にたくない。

 生きたい。

 そう思った瞬間、彼の身体は宙で停止した。

 彼が驚いて下を見ると、かなり地面に近い位置になっており、視線の先には、手をかざしている女が見えた。女は丈の長い白い衣を着て、複雑な文様が刻まれた仮面を被っており、その隙間からは黒檀のように豊かな黒い髪が見えている。昭は仮面をまじまじと見たが、彼が夢の中で見たものとは全く異なっていた。軍の人間たちを見やると、彼らはきっちりと等間隔に並んで平伏している。だとすると、この女の正体はただ一つ。

 姫氏だ。

 ゆっくりと時間をかけ、地面に昭を降ろすと、彼女は口を開いた。

「さぞや幸運だったろうな、この私に助けられるなんて」

 女にしては、低くかすれた声。あの時とは違う。昭は体制を立て直し、平伏の姿勢を整え、頭を地面につけた。取れかかっていた披膊が、前にずれ落ち、何とも言えない気持ち悪い感じがした。姫氏に対して使用する最上級の敬語が出てこず、苦戦する。その時、女の声が言った。

「面を上げても良いぞ」

 昭は言われた通り、顔を上に上げた。厳めしい表情をした仮面を見つめて、彼は言葉を発した。

「何故、おれ―いや、私を助けて下さったのですか」

 すると、仮面の奥から女の笑い声が高らかに響いた。声の印象が先程とは打って変わったので、昭は内心驚いた。

「お前は運が良かったのだよ。巫王から、あまり軍の人員を減らしてはならないというお達しがあったからね」

「左様でございますか」

 とりあえず、この女のおかげで彼の命は助かったのである。昭は例を言った。

「とりあえず、命を助けてくださって、誠にありがとうございます」

 女はまた笑い声を響かせた。暫くすると、思い出したように彼女は言った。

「そういえば、先程の娰朔の件についてだが、私は恩赦しようと考えている」

「本当ですか」

「ああ。娰朔は勤勉な性格だし、そもそも軍隊の管理権は私にあるからな」

 昭は内心娰朔のことが気掛かりだったのでほっとした。彼は再び頭を下げて礼を言う。

「友人を助けて下さり、誠にありがとうございます」

「礼には及ばぬ。これからも、精進するのだぞ」

 彼女はそう言い残して、その場を去っていった。

 女が視界から見えなくなった後、やっと兵たちは顔を上げた。彼等は再び訓練の準備に取り掛かる。隊長の嬴夏が昭の元へと歩み寄ってきた。顔は相変わらずの無表情であったが、声は優しかった。

「今回の事故、運が良かったな。だがとりあえず、お前という隊員が無事でよかった」

「ありがとうございます。まさか姫氏の人が助けてくれるなんて思いませんでした」

 嬴夏はふと考え込むような仕草を見せた。

「しかし、実に珍しいな。あのお方は本来兵を助けるような人情味溢れる方ではない」

 昭はその言葉を聞き、先程の女の名を知らなかったことを思い出した。しかし、この場で隊長に言うわけにはいかない。この場には耳があるからだ。これについては後に姚向に聞こうと彼は考えた。しかし、あれはあの時の少女の声ではないことだけは、確かである。

 訓練が終わった頃には、空は既に暗くなりかけていた。

 彼らは撤収を終えると、帰路に就く準備を始める。荷をまとめ終わると、彼等は解散し、帰路に就いた。

 昭は姚向と待ち合わせると、元来た道を帰っていく。昭は姚向に、偵察に来た姫氏の女について聞いた。

「そういえば、今日来た姫氏の方って、なんて言う名なんだ?」


 姚向は形の良い眉をひそめながら言った。

「お前、分からなかったのか? もし耳のある場所でそれが知られたら相当まずかったぞ。あの方は姫瑳様だ」

「姫瑳様か」

「まあ、俺は正直、姫瑳様でほっとした。あの方は姉上とあまり癒着していないからな」

 昭は急に、先程のことを思い出して言った。

「だったら、今日は俺とお前と娰朔、三人とも運が良かったな」

「へ?それって、どういうことだ」

 姚向はきょとんとした顔で訊ねた。

「いや、さっきの練習の時、崖を使った訓練をしてたんだけど、崖を滑るとき、俺がぼーっとしてて融の力で跳ね飛ばされちまってよ。死ぬとこだったんだけど、姫瑳様が俺が落死するのを防いでくれた」

 それを聞き、姚向はかなり驚いた。

「それはお前―良かったな。命がなくなったら元も子もないもんな」

「しかもな、知ってるか。娰朔が姫瑳様が巡回してきたときに許しが出ていないのに顔を上げたんだが、それを恩赦してくれるんだってよ。凄かねえか」

 姚向はそれで納得したようだった。

「そうか。それでやっとお前の言葉の意味が理解できたよ。今日はいい日だな」

「だろ」

 昭は嬉々として言った。偶然とはいえ、その日は非常に幸運だったのだ。いい気分だったのは確かである。だが、この日の出来事が後に自身にとって大いに関係することを、昭はまだ知らない。 

 




                 11

 屋敷に帰り、いつものように夕食を済ませると、彼は当番だったので、食器洗いをした。小川から桶に組んできた水を使って、汚れを落とす。その日の夕食はあっさりしたと煮物だったので、洗浄するのは比較的楽だった。彼が水で洗った食器を乾いた布で拭いていると、後ろから足音がした。

 振り向くと、立っていたのは燦だった。顔には笑みを浮かべ、うなじのあたりで結んだ直毛のさらさらとした髪が風になびいている。彼はこの頃、驚くほど素直になっていた。現に、この間の口論ののち、謝って来たのは彼が先だったのだ。燦は相変わらず夕食の時間に姿を現さないこともあったが、それ以外は至って普通だった。それどころか、同年代の少年達にに気安く話しかけさえもしていたのだ。彼の変化に、周りの人間も驚いたようだったが、自分から他人に関わりに行く彼を、周りは気安く感じたようだ。彼は驚くほど周りに溶け込みつつあった。少し変わり者な部分もあったが、それがかえって皆に気に入られるという点もあったようだ。

「昭、手伝おうか」

「おお、ありがてえ。ちょうど今、手が足りてなかったとこなんだ」

 そう昭が言うと、燦は昭の隣にちょこんと腰を下ろした。

 こいつ、本当に小さいな。改めて昭はそう思った。彼が持つ、年齢不相応な外見と頭脳。しかし、この頃、彼の「頭脳」の片鱗は見えていなかった。物腰もかなり柔らかくなっていて、打って変わったように年相応の少年へと変貌していたのだ。燦は笑みを崩さずに口を開いた。

「そういえばさ、今日はうちのと一緒に、姚氏のちびっ子達の相手をしてたんだ。姚媛様に頼まれてさ」

「へえー。それは良かったな。お前、ちびに受けよさそうだもんな。身体の大きさとかよ」

 昭がからかうと、燦はむっとして言った。

「黙れよお前、大変だったんだぞ。転んで鼻水垂らしながらびぃびぃ泣き出すやつもいたし、木登りしようとして落下するやつもいたりでよ」

「あの年頃のちびはやんちゃだからなあ。なめてたら痛い目に遭うぞ」

「それにしても、嬀氏はただでさえ子供が少ないからな。ちび達にとっては、いい機会だったんじゃねえか」

「まあ、それはそうだな」

 燦は納得したように言った。甲邑嬀氏には、二十歳までの若い世代の数が極端に少なかった。その理由は、昭や燦が幼いころに起きた、とある事件が由来している。それは何か。流行り病である。凄まじい程の高熱が出た後、赤い斑点が肌に浮き出て死に至るこの病に罹ったことで、昭や燦と同世代の幼児たちが次々と亡くなっていったのだ。現在彼らの世代で生き残っているのは、彼ら以外に、燦より三つ年下の昱だけであった。それ故、甲邑嬀氏から徴収することが可能な兵の数は極端に少なかった。しかし、今の幼い世代の数は多いので、彼らにかかっている期待は大きい。

 彼らは食器を洗い終えると、元あった場所へと片付けて、就寝の準備をした。

 歯を磨いた後、床に就こうとしていた昭に、嬀健が声を掛けた。戸の隙間から何やら手招きをしている。

 昭が嬀健のもとに寄ると、嬀健はいつものごとく人のよさそうな顔に笑みを浮かべながら言った。

「そういえばお前、あとひと月で、一年に一度の祭りの日、ということは分かっているよな」

「ああ、分かってる。冠礼だよな」

 嬀健は軽くうなずくと、言葉を続ける。

「お前はあの冠礼で十七になる。厳正な儀式だから、お前はそろそろ冠礼においての立ち居振る舞いを学ぶ必要がある。そこでな」

 嬀健はそこで言葉をいったん切って、懐をごそごそと探り、何か紅いものを取り出した。それは、光り輝く玉で作られた獣面だった。透き通っており、その紅さはどこか血を連想させるものがある。両耳の部分には、紐を通す穴がついていて、首にかけられるようになっていた。

「この魔除けを持っておけ。これから何が起こってもおかしくないからな」

「何が起こってもおかしくないって、どういうことなんだ」

 嬀健は急に神妙な表情になり、口を開いた。

「それは、言ってはいけないことになっている」

 昭は気落ちしたように言った。

「そうか」

「とにかく、これから邑で成人する者たちと、儀式の練習をすることが多くなると思うから、それは肝に銘じておいてほしい。あと、このことは他の者に絶対に口外するな。獣面も、決して誰にも見せるなよ」

 昭はこくりとうなずいた。

「分かった」

 そう言うと、健は満足したように頷き、その場を去っていった。昭は玉の獣面を首にかけ、外から見えないように袂をきっちりと閉めた。玉のひんやりとした感触が肌に伝わる。彼は足早に寝室へと戻った。寝室では、既に何人かの男達が寝ている。昭は空いている場所に身体を滑り込ませた。床に体を横たえると、彼は闇に吸い込まれるように、すぐさま深い眠りへといざなわれていった。





                 12

 彼はその夜、また例の夢を見た。しかし、その時はいつもと違った。何かに取りつかれたように彼が走っていると、急に周囲の人々が足を止めたのだった。あまりにも急で、彼は前を走っている女にもう少しでぶつかるところだった。すぐさま人々は一斉に後ろを振り向く。その時彼は後ろを振り向いた女の目が透き通った金色をしていることに気づいた。

 綺麗な目だな。

 昭が見とれていると、女は口を開いた。

「吖瑟达,胩哪位科维呿期望答」

「へ?」

 夢の中で人に話しかけられたのは初めてだった。だが、それ以前に彼は女が話している意味が全く理解できなかったのだ。昭がそのまま呆然としていると、女の顔はだんだんこわばっていった。彼女は後ろの方を執拗に指さす。

 昭が慌てて後ろを見ると、遠くにある山並みが眩い光を放っているのが見えた。

「吖呵,难耐娃速八让四壹」

「练练,练练」

 周囲の人々が何やらぶつぶつ呟きながら合掌の姿勢をとっている。光は更に大きさを増し、やがて視界を全て覆うようになった。昭はあまりの眩しさに目を細めた。

「练练,练练」

「练练,练练」

 人々の唱える言葉と共に、次第に光は収斂していく。しばらくして光が成した形は、昭が良く知る動物そのものだった。

 狼。

 途轍もなく巨大な、狼。

 それが、宙に浮いていたのだった。太く力強い四肢には、こちらを一瞬で捻りつぶしてしまうような気迫がみなぎっている。しかし、その双眸にはどこか慈悲深さを湛えたような、優しげな雰囲気が漂っていた。

 「吖嘛达,微软趿拉嗯啊喀!」

 女の鋭い怒声が後ろから聞こえてきた。その声に押されるように昭が周囲を見ると、人々は跪く姿勢を取っていた。どうやら祈っているらしい。

 昭も人々と同様に、頭を地面につけて跪いた。

 こいつらにとっては、狼が神なんだろうか。俺たちが見てきた羌(いみんぞく)とは違う。彼は羌との戦闘について思い出していた。

 羌は、姫周の周辺に点在している。彼らは当然融を使うことはできないが、その身軽さ、勇猛さは凄まじく、姫周の軍隊は手を焼いていた。彼らは隔壁を乗り越えて襲来するのだ。軍で崖を利用した訓練を行っていたのもそのためである。

 去年の暮れの頃に、羌は一度襲来しに来た。その日は巫王姫旋の占により、羌の襲来が予想され、軍は所定の配置に駐在せざるを得なくなったのだ。夜になると、隔壁に沿って配置されている高台の見張り役がカンカンカンカン、と合図の鐘を打ち鳴らした。

「羌の襲来だ!」

 見張り役がそう叫ぶと、軍は一斉に戦闘準備を始めた。昭達第七隊は崖の下に配置された。

 隊長の嬴夏が号令をかける。

「第七隊、出動!」

「はっ!」

 隊列を組んだ第七隊がそれに呼応するように叫んだ。彼らが配置された場所は崖に面した隔壁だった。遠くに見える斜面には、木々がぽつぽつと点在している。彼らはそのまま待ち構えていたが、羌は一向に姿を現さない。

 ただ冷たい冬風が彼らの間を吹き抜けていく。彼らは鎧の内側に袍を着込んではいたものの、その冷たさは身の内側にまで染み込むものだった。それでもなお彼らは待ち続ける。

 やがて、融軍の周囲で待機している、業を煮やしたらしい歩兵がぐずりだした。それに続いて他の者も口々に叫ぶ。

「いつまで待たせるつもりだよ。早く帰りてえのに」

「そうだそうだ!」

 彼らは融軍や騎馬兵と比較すると、かなりの軽装備であると言っても良かった。融軍や騎馬兵が青銅製の鎧であるのに対し、一般兵は木を紐でつなぎ合わせただけの簡素な鎧である。その下には、家から持参してきたなけなしの麻衣。自身の生存が不利だと思われる状況において、彼らがこのようなことを言い出すのも無理はなかった。騎馬隊隊長の姞弧は彼らに向かって叫んだ。

「お前たちには、戦意というものがないのか!」

 あまりの剣幕に、一般兵達はひるんで肩を縮こまらせた。彼らは不安げな顔をして姞弧の顔を見る。中には目を見ず、下を向いたままの者もいた。姞弧はため息をつく。暫くすると、姞弧の隣で待機している嬴夏が口を開いた。

「今回の戦、俺たちが生き残る勝算は高い。大丈夫だ。肩の力抜いて戦え」

 その冷静沈着な口ぶりに、歩兵達は救われたようだった。嬴夏はいつも無愛想な男だが、同時に大概のことに対しては動じない強さがあった。軍がどのような状況に陥っても、彼の指示を聞くだけで歩兵はたちまち落ち着きを取り戻す。今回も例外ではなかった。

 冷静沈着な様子を取り戻した彼らの様子を見て、姞弧は小さな声で言った。

「とりあえずは何とかなりそうだな」

 嬴夏は満足げに頷く。

 そう言った直後、崖の中腹にある木々の茂みから、馬に騎乗した黒い影が二つ飛びだしてきた。どうやら、羌の先鋒を務める若い兵士のようだ。月の光に照らし出され、後ろで一つに編んだ髪が翻る様子が見える。頭には羊の角のついた飾。

 襲い来る、脅威。それを兵達は感じていた。それにしても、何故このような小隊ですらない、たった二人だけでこちらに向かって来るのか。暫く考えて、姞弧ははっとした。彼は重大な事実を見落としていることに気づいたのだ。

「全軍、防御!」

 彼は力の限り叫んだ。それと同時に、歩兵達は盾を掲げ、防御の姿勢をとる。青銅製の分厚く巨大な盾は、あらゆるものを防ぐ。これは兵達の命を守る役割を果たすと同時に、女子供の住む村に羌が到達するのを防ぐ役割をも果たすのだった。

 そのうち、崖の上から何か黒いものが転がり落ちてくるのが見えた。

 巨岩か。それも数が多い。

 姞弧は眉をひそめた。羌は崖の移動に極めて強い。姫周の兵達が直面している崖はかなりの角度があったが、羌はそれを物ともせず乗り越えていく。巨岩を崖の上に運ぶのだって、相当な時間を要するはずだ。しかし彼らはそれを短時間でやってのける。彼らと手を合わせた回数は相当多いが、姫周の部隊はその理由を未だ解明できずにいた。

 そう言っているうちに、巨岩がだんだん目の前に迫ってくるようになった。兵達は固唾をのんで襲来に備える。

「ぐあああああああ!」

 その次の瞬間、一番左側を守っている兵士の群れが大量の砂埃と共に宙に舞い上がった。巨岩に身体を弾き飛ばされたのだ。他の歩兵たちは怯えた様子を見せる。そんな兵たちに姞弧は喝を入れた。

 「見るな!目の前の状況に集中しろ!」

 そう言われ、歩兵たちは慌てて自身の任務に集中する。

 その時昭は、前線にて姜環や姚洋と共に、融による防壁を作っていた。彼等の前にも巨岩が迫っており、防壁によって巨岩の衝撃を和らげることで、邑の内部に巨岩が到達するのを防いでいたのだ。

 「くっ―!」

 あまりの巨岩の衝撃の強さに、姜環が呻き声を上げた。融と巨岩が接している面に激しい火花が散る。昭は不思議そうな顔で言った。

 「お前、俺と同じ体術使いのくせして、何でそんなにつらそうなんだよ」

 姜環は恨めしそうな顔で昭の方を見る。

 「うるせえな―」

 他の者たちは素知らぬ顔だ。思えば、姜環があの日決闘を申し込んできたのも、このことが原因の一つだったのかもしれない。昭はこの出来事について今でも少し後悔していた。

 そう言っているうちに、岩の衝撃が和らいできた。暫くして彼らは、岩を完全にせき止めると、前線にて羌の兵士を倒しに行った。姚洋は長剣を振りかざして、果敢に羌に立ち向かっていく。彼は早速、一人の羌を討ち取っていた。

 昭や姜環も、岩をその場に置くと、直ちに羌を討ちに行った。前線の方に向かうと、何にも武器を持っておらず丸腰と見たからか、羌の兵士が二人係で彼らの方に走ってきた。二人とも双刀使いらしく、四本の大きく反り返った曲刀が、ぎらぎらとした不気味さを醸し出している。

「嬀昭、行くぞ」

「おう」

 そう言って、彼らは羌に立ち向かっていく。二手に分かれて、一人ずつ羌を相手することになったのだ。昭が相手をする兵士は、彼よりかなり大柄で、糸のように細い目には、弱いものをいたぶるような残虐さが漂っていた。

 この目、あまり好きじゃない。

 そう昭は直感した。兵士が剣を大きく振りかぶる。彼はその斬撃を俊敏にさらりとかわす。

「卡萨丁很快期货市场,能看见hi我v后!」

 兵士が叫んだ。当然ながら意味は理解できない。その言葉と同時に斬撃がもう一つ襲い掛かる。今度は交差させた双刀を、内側から外側に広げるようにして襲い掛かって来たので、一瞬の間合いに入る余裕ができた。彼は鎧で覆われた兵士の鳩尾に鋭い拳を放った。拳は鎧を貫通し、手甲についた鋭利な突起が兵士の腹の肉をめりめりと引き裂く。兵士が断末魔の悲鳴を上げた。大きな身体がその場にどたりとくずおれる。

「―未考虑从未v会,i符合你一―・」

 兵士は何か呟き、震える手で仲間の方を指差したのち、こと切れた。その先を見ると、姜環と格闘しているもう一人の姿が見える。特段大きくもない兵だったが、姜環はかなり悪戦苦闘していた。その兵士の様子を見て、昭は何かがおかしいことに気づいた。兵士が動くたび、ぎしぎしとした音が全身から鳴っているのだ。それに、刀の束を握った手元。そこは、普通の人間の肌の質感とは異なっていた。あれは見たところ、木だ。ということはこいつ、まさか―・

 蚩属か?

 戦神蚩尤の手先。蚩尤によって命を吹き込まれた分身体。言い伝えでは聞いていたが、まさかこんな所で出くわすことになるとは。

 「姜環、逃げろ!」

 昭は姜環に向かって叫んだ。彼に昭の声は聞こえていないようだった。目の前のことに必死で気づけないのだ。昭はチッ、と舌打ちをして、腕を兵士の身体から引き抜き、姜環の近くまで走っていった。

「おい! 判らねえのか! そいつは蚩属だ!」

 そう昭が叫んでも、姜環は戦い続ける。そのうち蚩属の皮膚の表面に赤いひび割れができ始めた。

 危ない!

 昭は姜環の腕を掴み、崖の方に全速力で走っていった。これは邑の方に被害をもたらさないためである。姜環は呆然とした顔で昭の方を見た。姜環は不思議そうな顔で言う。

「なにやってるんだよ、お前までやられるぞ」

 昭は蚩属の方を顎で示した。

「ほら、彼奴を見ろ」

 姜環は、昭の示す方を見ると、急に背筋がぞっとした。

 兵士の身体は、鎧や衣服がはがれ落ち、見るも無残な姿と化していた。露出した皮膚に出来た、無数のひび割れの隙間からは、禍々しい深紅の液体があふれ出している。その液体は生き物のようにぬるぬると動き、やがて、とある形を成した。

 「ひっ」

 姜環が呻き声を漏らした。昭は急いで姜環の口を手のひらで塞いだ。彼は身じろぎもせず、動く液体をじっと見つめている。その姿は実に醜かった。

 それは、伝承で伝えられていた蚩尤そのものだった。筋骨隆々とした全身を、無数の鱗が覆っており、顔の鱗の隙間からは二つの残忍な紅い瞳が覗いている。

 これは少し厄介だな。

 昭はとりあえず、融による干渉を試みることにした。彼が持つ融で、周囲の気温を自由に調整することができる。昭は目を閉じて念じ、手の先に意識を集中させた。指先が熱を持ち、金色の閃光が迸る。両手を前で合わせると、融は太い光の束と化した。それを蚩属に向けて放出する。

 蚩属はその身体から、何か光るものを昭に向けて放出した。毒である。昭はその光線を迎え撃つように、融を蚩属に向ける。

 蚩属の光線と昭の融が空中で拮抗した。境目から、盛大に火花が飛び散る。

「ぐっ―。」

 昭は歯を食いしばった。相手はなかなかに強い。

 そこに、体制を立て直したらしい姜環が、援護をしにやって来た。

「昭、大丈夫か!」

「姜環!」

 姜環は昭の横に並び、同じく手をかざした。彼の融は稲妻を発することが可能である。白い閃光が飛び散る。

 その刹那だった。いきなり、辺りに雷鳴が轟いたのは。昭は意識をその場に引き戻される。前方を見ると、狼に何やら巨大などす黒い影が纏わりついている。あれは蚩尤だ。

 昭は突発的に周囲の人々に向かって叫んだ。

「今すぐ逃げろ!」

 しかし、その声は当然ながら受け入れられない。そのうち、群れの中から一人の男がこちらへと向かって来た。長い青髪を左耳の下辺りでまとめ、みすぼらしい毛皮の腰巻きを着ている。その顔を見て、彼は驚愕した。

 男の顔は、彼に瓜二つだった。くっきりとした太い眉に大きいが、黒目が小さいせいで悪く見える目つき。筋の通った鼻梁。

 こいつは一体何者なんだ?

 昭はその男の顔を瞬きもせず見つめていた。男は突然、その顔を見て、泣き出した。目から大粒の涙を流している。

 昭は余計に頭が混乱した。何故この男は泣き出したのか。まるで自身の泣き顔を見ているようで嫌だった。昭はこの状況から、用意された二つの同じ器にそれぞれ水と酒が入っているような、奇妙な印象を受けた。

 彼はそこで目を覚ました。今回は穏やかな目覚めだったが、どことなくもどかしさが心に残っている。夢というのは、大概きりの悪いところで目覚めるものだが、続きを見る方法はどうしたら良いのか。そのようなことを考えながら昭は体を起こし、立ち上がった。





                  13

 昭はいつも通り朝の支度をした。外に出ると、山際に暁の空が広がっている。

 今日はいつもより早く到着しそうだな。

 彼はその日、何故か上機嫌だったので、野道を全速力で駆けた。暫くして突然、足の小指に強い衝撃を感じる。一拍置いて、激痛が走った。

「痛っっって」

 しゃがみ込んで、小指を見ると爪が割れていた。どうやら大きな石にぶつけてしまったようだった。割れ目からは、一筋の鮮血が流れている。

 それは、戦闘で見た蚩属を思い出させた。

 昭はかぶりを強く振って、その記憶を頭の中から取り払おうとする。あの時のことはできる限り思い出したくなかった。その刹那、後ろから明朗な少年の声がした。

「嬀昭、おはよう。お前、今日は早いじゃないか」

 後ろを見ると、姚向が佇んでいた。

「おう、おはよう」

 昭は顔を歪めたまま、姚向の方を向いた。昭の怪我を察したらしい姚向は、持参していた小さな薄い布切れを昭の小指に巻いて止血してやる。そこから彼らは再び歩き出した。

「そういえば、もうすぐ俺たち冠礼だよな」

 姚向が話を切り出した。

「ああ。なんか予行練習があるんだってな。だるいわ」

「始まる前から言うなよ。確か、七日後らしいぞ」

 姚向は苦笑しながら空を見上げて言う。

「そうか、近いうちだな」

「ま、冠礼を迎えたからって、直ぐに何か変わるわけでもないけどな。俺らにとっては」

「それはそうだな」

「ただ、歩兵の奴らは大変だ。俺らのように融が使えるわけでもなく、実戦経験があるわけでもない。いきなり十七の年で戦場に放り出されるんだからな。燦は運が良いぜ、本当に」

 昭は鼻の下を人差し指でこすった。

「まあな。彼奴は本当に頭が良い。良すぎて俺には何を考えているか判らねえ時もあるけどな。とりあえずは、一族の誇りだ」

「そういえば、俺のとこの女の子たちが、燦のこと、噂してたぞ。目が黒目がちで夜空の色をしていて綺麗ってな」

「え、俺のことは?」

 昭は自分の方を指さす。姚向は少し申し訳なさそうな感じで言った。

「お前に関しては、一回も聞いたことがないな」

 昭は笑いながら言った。

「本当かよ。見る目無さすぎだろ」

「お前はちょっとがさつ過ぎるからな。女の子は、案外あんな繊細な感じのやつが好きなんだよ」

「そうかぁ。俺もセンサイになろうかな。ていうか、お前も人気あるんじゃねえの、色男」

 昭は姚向を軽く茶化した。彼は確かに、少女たちから非常に人気があった。その噂を聞きつけて、よその邑からこっそり彼の姿を見に来る娘たちがいる程である。しかし、姚向自身はそのことをあまり良く思っていないようだった。

「人気なのも考え物だぜ。お前ぐらいが一番いいって」

「えっと、なんていうの、お前のそう言う謙虚さ? 俺も見習いてえわ」

 姚向はため息をついた。

「それぞれの邑同士の行き来はあまり奨励されてないんだぞ」

「それは分かってるけども」

「俺が危険にさらされるんだ。それを少女たちは分かっていない」

 昭は姚向の言葉に違和感を感じた。

「どういうことだよ」

「万が一、俺をこっそり見に来てた娘が俺と同じ甲邑姚氏の人間に見つかったとする。だとすれば、娘たちは元の邑に引き戻されるが、その責任は俺に降りかかるんだ。少なくとも、娘の親から責められる」

「それは初めて聞いたな。でも最近お前、色々考えすぎな気がするぞ」

「俺もお前ぐらい楽観的になれたらいいんだがな。なかなかそういうわけにはいかねえ」

 姚向は下を向いて、物憂げな表情をする。昭は彼の肩を強くたたいた。

「気にすんな。俺が何とかするって」

 ニヤリと笑った昭の顔を見て、姚向は吹き出してしまった。

「お前、本当に何とか出来るのかよ」

 昭は肩をすくめて言った。

「わからねえけど」

「無責任だなおい!」

 二人の笑い声が山道に響き渡った。





                 14

 その日の訓練が終わり、彼らが帰路につこうとした、ちょうどその時。将軍から彼らに招集がかかった。

 昭と姚向が指定された場所へ行くと、冠礼で十七の年を迎える少年たちが同様に集められていた。彼らは揃いもそろって神妙な顔をしている。確かに、無理はなかった。冠礼を迎えることに対する不安は、全員にあると言っても過言ではない。しかし歩兵。彼らはどうなのだろう。融軍とは違って、十七になるといきなり戦場に放り出される者たち。融軍の五倍はいる彼らは、融軍からかなり後方に離れた場所に集まっていた。彼らの多くは、日頃耕作を営んでいる。融軍や騎馬隊のように特別な軍事訓練を受けるわけでも、日々の食が保証されているわけでもない。彼らが抱える不安は、昭達の比ではないのだ。しかし、それは融軍に属す者たちには伺い知れない。

 昭はふと疑問に感じて聞いた。

「あれ、娰朔は?」

 姚向は顎に手を当てて言った。

「彼奴確か、俺らより一つ上だろ」

「てことは、彼奴もう冠礼を済ませたのか」

「そういうことだな」

 そう言ったきり、姚向は黙り込んだ。

 空はどんよりと曇っており、如何にも雨が降り出しそうな様子だった。時折唸り声のように響き渡る雷鳴が、彼等の心中に波を無慈悲にかきたてる。東屋には屋根がついていたが、如何にも脆そうで、崩れてもおかしくない状態だった。

 この日は、事前の説明が行われた。直前の説明は行われないとのことで、心して聞くようにとの達しがあった。冠礼において、男性の立会人である貞人を務めるのは、姫栢きはくという初老の男性である。

 彼は仮面をつけておらず、白装束をまとっていた。大勢の少年の前に立ち、彼は口を開いた。

「お前達はこの冠礼で、未曾有の出来事に立ち向かうことになるだろう。これは厳正なる儀式だからな」

 年を感じさせない、朗々たる声が辺りに響き渡った。背筋が自然とすっと伸びる。

「予行は姫氏の宮殿の西側に面している、犀融宮せいゆうきゅうで行われる。訓練が終わった後、半時間程で開始されるから、くれぐれも遅れることのないように」

 御意、といった声があちこちから響く。

 不意に姫栢が、昭達の付近にいた軍団に目を向けた。その眼の冷たさに、彼らが縮み上がっている様子が、昭達にも伺い知れる。

「お前たちが無事に冠礼を乗り越えられたら良いのだがな」

 姫栢は無表情で告げ、次の説明に移った。

「犀融宮に入ってからは、私が命じること以外を一切行ってはならない。頭をかいたり、鼻をすすったりする行為でさえもだ」

 そこで姚向が手を挙げた。

「大変申し訳ございませんが、私から質問を一つさせて頂いてもよろしいでしょうか」

「そなたは確か―・あの姚玲の弟か。承知した。言うがよい」

 その時、姚向の顔が一瞬曇ったように見えた。

「あの、もし先程姫栢様が提示された行為、例えば、身体の一部を触ったりする行為の要因が外部からもたらされた場合は、どうしたら良いのですか?」

 姫栢は少し考え込む様子を見せる。

「それは何とも言えないな。そもそも、儀式の際には巫王によって、宮の周囲には結界が張られる。外部から影響がもたらされることはないはずなのだ」

 姚向は逡巡したのち、こう言った。

「万が一の場合は?」

 姫栢は下を向いて再び思考を巡らせる様子を見せた。歯ぎしりをしているかのように口元が動いている。かなりの間が空いたのち、姫栢は答えた。

「それ以上は聞くな」

 この時、姚向の胸の中にある一つの疑念が浮かんだが、場に漂っている空気から、これ以上深入りしてはならないと判断した彼は、引き下がることを決めた。横顔には、かすかだが悔しげな表情が浮かんでいる。彼は深々と頭を下げ、礼を述べた。

「承知致しました」

 姫栢は軽くうなずき、次の説明に移った。

 その後、儀礼に出席する際の服装や礼儀などが事細かに説明された。聴き落とすと冠礼当日大変な目に遭いかねないので、少年たちは姫栢の言葉を聞き逃すまいと必死だった。自然と視線は姫栢の顔に向く。姫栢の話す速度は比較的緩やかであったが、はっきりとせず、どこか眠気を誘うものであったから、訓練で疲労している少年達にとって、この時間は苦行であると言っても良かった。

 ようやく説明が終わり解散すると、少年達は皆帰途についた。練習場を出て、それぞれの邑へと続く山道に出ると、疲れた、という声があちこちから聞こえてくる。その時はかなり強い雨が降っており、強い逆風が少年たちの足を遅くしていた。

 帰り道、姚向は腕を組み、険しい顔でずっと何かを考え込んでいた。昭が理由を聞いても、応えようとしない。ほつれて顔に落ちた髪の先から、雫がぽたぽたと垂れ、形のよい鼻をつたっていた。

「どうしたんだよ、お前。元気ねえぞ」

 昭は肩を軽くたたいた。水を吸った布の重い感触が手に伝わる。姚向は暫くすると、口を開いた。

「すまん。今日はほっといてくれ」

 姚向がこのような状態の時は、深入りしてはならないと昭は分かっていた。

「分かったよ。じゃ、先に早足で帰るぜ。それじゃ」

 そう言うと、昭は姚向を残し、跳ねるような足取りで一人走っていった。沓を履いた足が、一足ごとにばしゃばしゃと音を立てる。姚向はそれをぼんやりとした視線で見送る。その姿が見えなくなると、彼は深いため息をついた。




 


                 15

 昭が領に帰ると、男たちは夕食を済ませた後だった。昭の分の汁物が皿に取り分けてあったので、冷めきったそれを腹の中に流し込んだ後、昭は就寝の準備をした。昭が寝るころには、既にほぼ全員が床に就いていた。

 こんなに遅く寝ることになったの、いつ以来なんだ。

 昭は半ばそのようなことを考えながら歯を磨いていた。これからはこのような機会が増えることは間違いなかった。来週からは一週間、これよりも遅い時間に帰ることになるのだ。翌日の訓練に間に合うかどうかすら、危うくなって来ることは間違いなかった。

 寝室の床の上に座り、昭はふと、左手の甲にある、醜く引きつれた傷痕に目をやった。彼が十四の時の戦いで負ったものである。その時対戦した羌が飼っていた犬に引っかかれたのだ。この犬の爪には、遅効性の毒が仕込まれており、昭は死線をさまよったのだった。軍に入っている以上、死に晒されることは間違いなく起こる。もちろん、彼らはそれを承知した上で融軍に入っている。しかし、死の瀬戸際にぶち当たる度に、自身の存在意義とは何なのか、について考えてしまうこともまた事実であった。

 めんどくせえ。

 昭がかぶりを振って、その記憶を頭から取り払ったその時。

「昭、今帰って来たのか」

 後ろから燦の声がした。昭は振り返って言った。

「そうだけど。何か用か」

 ちょっとためらいがちな燦の声が、暗がりから聞こえてくる。

「いや、いつもはこんなに遅くないから」

「今日は訓練が長引いたんだよ。別に気にするほどのことじゃないから、さっさと寝ろ」

 そう言うと、燦の声はぴたりとやんだ。

 昭は必ず起きられるように、心に暗示をかけて、床についた。


 



                 16

それから一週間後。姚向は何か考え込んでいる様子が次第に多くなってきた。訓練においては上手くやっていたようだが、昭と話さなくなる機会がふえたのだ。彼はあの日を境に、明らかに昭を避けるようになっていった。帰りの時も昭が声をかけようとすると、決まって、会議があるので先に帰るようにと言うのだった。

 どうして姚向がそのような振る舞いをするのか、昭は理解できない。しかし、昔から彼を知っているので、機嫌が悪いだけであると考えていた。

 訓練が終わると、儀礼の予行練習が行われた。昭達は一斉に犀融宮へと向かう。

 昭は姚向の方を見やると、第八隊の少年達と談笑していた。総じて背が高い傾向にある第八隊の中にいる姚向は、いつもより小さく見えた。

 そう考えたら、俺に同年代の友達って少ねえんだなあ。

 昭はそう感じた。融軍の成員の年齢はばらつきが小さく、十代前半から二十代前半までであったので、友人となるものが同い年である確率は高いのだが、以前から昭は嬀智との出来事による風評被害により、元々友人だった者が離れていくことが多かった。嬀智との勝負に勝った後は、彼に虐げられていた隊員から声をかけられることも多くなったが、そのほとんどが、彼と対等な目線で話しているようには思えなかったのだ。その上、元々嬀智の腰巾着だった者たちは、表面だって昭に突っかかってはこなかったものの、ありもしない噂を広めたりするなど、陰湿な行いをしていた。最も、それだけ姫周における名家の影響が強く、彼等の発言や行いがかなりの効力を有するというのは確かであるが。

 俺はつくづく人間に恵まれねえな。

 その考えが一瞬頭に浮かんだが、彼はそれをかき消すように被りを降った。


 犀融宮は、小ぶりだが壁が分厚く、頑丈な造りをしていた。建物の外側には、巫王姫旋による強力な結界が張られているらしく、冠礼を迎える者以外が壁にうっかり触るなどすると、触れた部位が消し飛ぶという恐ろしい目に遭うと言われていた。

 少年達はその日持参してきた白装束に着替えていた。儀礼の時には、これと褌の二つしか身に着けてはいけない決まりになっている。一人白装束を持参するのを忘れた少年がいた。彼は今回の予行に参加するのを禁止され、他の者より先に帰宅した。

 儀礼の手順としてはまず、全員が姫栢の引率によって、一列になって宮の中に入場し、その後一人ずつ名を呼ばれ、洗礼を受けるというものだった。儀礼の最中は、許可がない限り声を発してはならないという決まりがあり、これを破ると冠礼を乗り越えられないということになる。

 少年達の心は張り詰めていた。

 厳めしい表情の面をつけた姫栢が、前方の広場で祈祷を行っている。

「―にありて、―、―ほっせざらんことを――」

 朗々たる声で、無心に何かを唱えているが、それが何を意味しているのかは伺い知れない。

 昭は必死に下を向いて、少女の声について考えていた。あの軽やかで甘い声は耳に心地よく、彼の頭の中で反芻されることがよくあった。この間の出来事を鑑みると、あれは姫瑳の声ではないことは確かである。彼は、姫氏の内部事情についての知識はあまり持っていない。そもそも姚向など、身内が姫氏に仕えている身分の人間は数が少なく、それ以外の人々は内部事情について知るすべを持たなかった。姚向でさえも、完全には把握していない。婦功など王宮の様子を詳細に知る者たちは、機密保持を原則とされていたので、外部に漏れると不都合な情報はほぼ伝わらない。

 最も、姫氏のみに伝わる伝承について知った場合は追放刑に処されることになるので、迂闊に知ろうとしない方が良いのだが。

 「では、これから儀式を始める。呼ばれた者は前に出るように」

 姫栢の荘厳な声が響くと、これまで以上に場の空気が張り詰めるのを感じた。

 「まず丙邑出身の者、前へと出ろ」

 「はっ!」

 力強い叫び声が耳にこだまする。昭はそこで強い疑問を感じた。あれ、甲乙の順番じゃないのか。

 どうやら順番は決まっていない様子だった。

 「面を上げよ」

 その声が聞こえると、少年達はほぼ同時に顔を上げた。前方には、丙邑の者が一列に並んでいる。確か、姚洋がこの中にはいるはずだ。

 昭は目を凝らして姚洋の姿を探した。しかし皆横を向いているので、一番手前の兵以外の顔は分からない状態である。

 「では最初に奵俊」

 「はっ」

 奵俊と呼ばれた少年は、皆より二歩ほど前へと出る。その次、姫栢が行った行動に皆は衝撃を受けた。

 「腕を貸せ」

 言われた通りに奵俊が腕を前に差し出すと、姫栢はその腕を掴む。そして、懐から短刀を取り出したかと思うと、奵俊の手首あたりに素早く傷をつけたのだった。

 奵俊が顔を歪ませる様子が遠くからでも伺えた。彼の腕から、紅い鮮血がぽたぽたと滴り落ちている。短刀からも同様に垂れる様子が見えた。姫栢は短刀に付着した血液を床に一滴落とした。暫くすると、前にいる少年たちが驚く様子が伝わってきた。どうして彼らが驚いたのか。その理由は昭達甲邑の者が前方に出るときに明らかになった。

 昭の横に待機していた姞永の血が同様に垂らされようとしたとき、その先の床に置かれていたのは亀の甲だった。ぽとり、と血液が垂らされると、血液が接触した場所を起点として、甲羅がぴきぴきと音を立てて細かくひび割れだす。目を凝らすと、それはただのひび割れではなく、細かな模様であることが判明した。黒い線で形成されたそれをよく見ると、虎の顔であった。

 「良かろう」

 それを見て、姫栢が満足げにうなずく。

 「では次に、姚向」

 姚向の血が一滴落とされると、甲羅の表面に馬の姿が浮かび上がった。かなり精密で、本物に近い模様だったので、様子を見ていた者たちは思わず歓声を上げそうになった。

 姫栢自身もかなり驚いている様子がうかがえる。彼は何かぽつりとつぶやいたが、一瞬のことだったのでそれはほとんどの者には分からなかった。

 「では次、嬀昭」

 昭は名を呼ばれると、二歩ほど前へと出た。言われる通り左腕を前へ出すと、姫栢の筋張った細い腕が、見た目に反してかなり強い力で昭の腕を掴んだ。幾人もの血が付いた短刀が、昭の腕を素早く横切る。鮮血が肌に浮き出た赤い糸のような一条の筋から、うっすらとにじみ出る。その時、昭はまた奇妙な感覚を身に覚えた。

 夢に出現した仮面の男。その姿と目の前にいる姫栢の存在が重なっている。昭の全身から血の気が引いた。全身ががたがたと震える。

 もしや、こいつか。

 昭は直感でそう感じた。今や目の前にいる初老の男は、片手に女の首をぶら下げている。

 逃げなければ狩られる。

 そう直感した昭は、掴まれた腕を振りほどこうとしたが、力強い腕は一向に離れようとしない。その時だった。声が再び聞こえたのは。

 昭、西母を思い浮かべなさい。今あなたが見ているのは幻です。

 あの時の少女の声だった。

 昭は藁にも縋る気持ちで声に従い、必死に西母のことを考えた。だが、その時は上手く思い浮かべられなかった。この間のような、詳細な印象はどこに行ったのだろう。昭が考えていると、再び少女は言った。

 ごめんなさい。私、上手いことあなたに送る像が思い浮かべられていないの。でも、私と意思疎通をしている間は大丈夫。

 昭は少女の言葉の意味が理解できなかった。姫氏の者であることは確定しているのだが、如何せん正体が伺い知れない。そう考えると、またもや昭の心の声に答えるように少女の声が言った。

 私が何者かは、貴方には言えません。もし貴方に知られてしまった場合、この会話が出来なくなってしまうからです。そこで、あなたにお願いがあります。

 お願い?

 儀式が終わったら、王宮の近くの桃の木の林の中にある、隠し門の前で待っていてください。その際、身内を含む、他の誰にも見つかってはいけません。あなたならわかりますね。

 そう言ったきり、声は途切れてしまった。

 我に返ると、丁度昭の血が甲羅の上に垂らされようとしていたところだった。またもや時が止まっていたのだ。短刀の広範囲に付着した紅色から、鮮やかな色のしずくが生み出される。甲羅の上に落ちた染みを中心に、じわじわと模様が広がっていく。それは途中まで正常なように思われた。

 何かがおかしい。

 姞永は甲羅を見てそう感じた。その嫌な予感は、的中した。

 線は途中で不規則にうねり始め、暫くすると、線に埋め尽くされ真っ黒になる場所も出てきた。周囲はひたすらに困惑している様子だった。

 姫栢の冷酷な声が響いた。

「これは―・」

 昭は反射的に聞き返そうとしたが、すんでのところで踏みとどまった。

 声を出してはならない、という決まり。これを破ると、儀式は失敗する。無慈悲な声が再び響く。

「集中できていなかったみたいだな。何か幻覚が見えていたようだが、どんな幻覚なのだ。言ってみろ」

 昭は慌ててこたえようとする。が、その時。

 再び少女の声が聞こえた。

 本当のことを言ってはだめ。姫栢はあなたをどのような目に遭わせるのか分からないからね。それに、あの夢はあなたにとって重大な意味を持っているわ。

 どんな意味かは言えねえんだな。

 そうね。

 それから昭は少女が言う通り、理由を考えたが、嘘がつけない性格故、なかなか思いつくことができなかった。

 少女は業を煮やしたように言った。

 昭、嫌な記憶が頭を駆け巡ったといっておきなさい。そう言えば切り抜けられる。

 声は言った。

 昭は、再び声に従う。

「あの、嫌な記憶が蘇りまして―」

 そう言うと、姫栢は不思議と納得したようだった。

「これからは気を付けるといい」

 良かった。切り抜けることができた。昭は安堵する。

 それにしても、最近自身にとって、やけに都合の良いことが多い気がすると昭は感じていた。声の正体の人物の差し金であるようにも思えるのだが、本当のところは分からない。昭は雑念を頭から取り払おうと、その日の夕食のことを考えた。





                   17

 全員が最初の行程を終えると、次の行程に移る。少年達は三つの集団に分けられた。昭は一番左端の集団にいた。

 どうやら、先程血液を垂らしたときにできた模様の違いによって振り分けられているらしい。昭のいる集団は模様がはっきり浮き出なかった者たちが集まっていた。

 彼らは総じて不安げな空気を漂わせていた。無理もない。これから何が起こるかは分からないが、「劣っている」集団に組み込まれたことは確かなのだ。

 まだ当日でもないのに、そんな不安がってどうすんだよ。

 昭はそう言いたくなったが、儀式の最中なのでぐっと飲み込んだ。

 対して、姚向達のような美しい模様が現れた者たちは一番右端にいた。彼らはほかの集団に比べると数が極端に少なく、「選ばれた者」であるという風格が表出していた。堂々としたたたずまいの彼らに、姫栢は声をかける。

「これからお前たちは、この部屋に入ってもらう」

 そう告げると、彼は右手を土壁にかざした。すると、盛り上がるようにして壁に新たな鉄の扉が出現した。

 少年達は驚きを隠せなかった。扉は精巧な作りをしており、表面には龍の全身の模様が丁寧に彫り込まれている。扉は重い音を立ててゆっくりと開いた。青い光が次第に大きく漏れ出し、少年達は目を覆う。

 暫くして、青い光は収まり、彼らは目を恐る恐る開けた。四角く区切られた境界の先に、青く巨大な水晶の玉が浮かんでいる。空の青さを更に深くしたような色合いのそれを見て、彼らはあまりの美しさに息をのんだ。

 この世のものとは思えない美しさ。しかし、それは見るものを圧倒し、飲み込んでしまうような恐怖を孕んでいる。それを昭は直感的に感じた。

「これから、一列になって中に入れ」

 姫栢に促されるままに右の集団は、扉の先へと進んでいく。全員が入り終えると、姫栢は勢い良く戸を閉めた。すると、扉は瞬時に壁に溶け込むようにして消えてしまった。

 呆然とする中央の集団に、姫栢は声をかける。

「お前たちはかえって良いぞ」

 急に発せられた言葉を、少年達は受け入れられていないようだった。その場に立ち尽くしたままである。

「早く!」

 姫栢は声を荒げた。その剣幕に押された彼らは、入口を開けて急いで退出していく。

 全員がいなくなったあと、姫栢は昭達に告げる。

「お前たちには、これからここに入ってもらう」

 彼は壁に再び手をかざした。すると、再びそこに別の扉が出現する。

 それは、先程現れたものとは全く違う、粗末な木の扉だった。ずっしりとした感じは見受けられるものの、扉にはこれといった細工は施されているようには見えない。暫くすると、扉はぎぃ、と軋む音を立ててゆっくりと開いた。

 漆黒の闇がそこには広がっていた。

 胸の内に巣食う恐怖が再び暴れ出そうとしている。昭は逃げ出しそうになる身体を必死にその場にとどめようとしていた。

「さあ、一列になって入れ」

 無機質にも聞こえる声が響く。

 先頭の歩兵の少年も、中に入るのを躊躇していた様子だった。肉付きの薄い背中が微かに震えている。

「早く」

 落ち着いているが、迫力のある声が聞こえる。少年は声に押されるようにして中へと足を進めた。それに続き、昭達も中に入っていく。

 全員が中に入り終えると、扉が勢い良くばたん、と閉まる音が聞こえた。

 昭達は前後左右も分からない状態で放り出された。

 辺りには饐えた臭いが広がっているようにも感じられたが、本当のところは分からない。昭は声をかけた。

「おい、お前ら、そこにいるのか」

 すると、声が聞こえてきた。

「ああ、いるぞ」

「大丈夫だ」

 少年達は口々に言う。

 先程昭が人数を数えてみたところ、彼自身を含め七人がいた。それを確認するために、昭は点呼を取ることにした。

「じゃあ、一人ずつ名前を言ってくれるか。俺は嬀昭、甲邑の嬀昭だ」

 束の間の静寂の後、第一声が聞こえる。

「娰慧。丙邑出身の娰慧じけいだ」

「俺は乙邑の嬴冄えいぜん

 他にも、辛邑の嬴昆えいこん娰勧じかん、癸邑の姞伊きついがいた。

嬀藍ぎらん。壬邑の出身だ」

 最後の声が聞こえた時、昭ははっとした。理屈で言えばこの嬀藍という少年は、嬀智と共同生活を営んでいることになる。昭自身、嬀智が今頃どうしているのかが気になっていたので、聞き出してみることにした。

「嬀藍か。ていうことはお前、嬀智を知っているよな」

 闇の中から憮然とした声が聞こえてくる。

「ああ、俺のとこにいるけど。お前と何か関係があるのか」

「俺も、彼奴と同じ融軍なんだ」

 そう昭が言うと、周囲から感嘆めいた声が聞こえた。

「それは申し訳なかった。彼奴、散々なことしてたろ」

 嬀藍が所在なさげに言った。

「大丈夫だ、たいしたことはされてねえ。それより、彼奴は今どうしているんだ?」

 昭が聞くと、嬀藍はかなりためらっている様子だった。

「なんだ、どうかしたのか?」

「いや、とても言いにくいんだけど、彼奴はかなり、危ない状態なんだ」

 昭は逡巡したのちに聞く。

「容態はどんな感じなんだ」

 嬀藍は戸惑う様子を見せながらも、言葉を搾り出すように口にした。

「―意識不明の重体だ。この頃は、一人では何もできない状態になっている。ものを食べる時も、厠に行くときも、他の者が付きっきりだ」

 それを聞き、昭は心に強い衝撃を受けた。

「―そうか、悪かったな」

「いや、お前が謝ることではない。彼奴は、それだけのことをしてきたということだ」

 その時の嬀藍の声音は、どことなくせいせいしたという雰囲気が漂っていた。彼もひょっとしたら、嬀智との折り合いがあまり良くなかったということだろうか。

「わが一族が名家と呼ばれるときはもう、終わったのだ」

 あきらめたような口調で嬀藍が言う。

「お前自身はそれでいいのかよ」

 昭が聞くと、嬀藍は言った。

「いいんだ。彼奴がいなくなったところで、俺の日常が変わるわけではない」

「そうか。じゃあいいけど」

 これ以上深入りするのも気が引けたし、あまりこのことについては考えたくなかったので、昭は話を切り上げることにした。

「じゃあ、これからどうするかだな」

「どうするも何も、姫栢様の指示で入ったんだから、あの人を見つけなきゃだめだろ」

 嬴冄が屁理屈っぽく答えた。

「とゆうか、嬀昭、お前融で何とかできないのかよ」

 昭はむっとして言った。

「あれはな、訓練の時以外には使えねえんだ。容易く使っていい代物じゃねえ」

「とはいえ、この非常事態だぞ。暗くて何も見えねえ。光を出すことぐらいできるだろ。それともお前、もしかしたら使えねえのか」

「なんだとその言いぐさは!」

 喧嘩が始まりそうな空気であったが、何しろ互いの姿すら見えないので、どうしようもない。

 昭は舌打ちをした。深呼吸をして、高ぶった感情をどうにか鎮めようとする。

「まあまあまあ、落ち着いて。取り敢えず待機ということでいいじゃない」

 そう言いながら肩を後ろからもたれたので、昭はびっくりして冷や汗をかいた。男女どちらとも取れない、中性的な声。さきほどの点呼では聞こえなかった声だった。

「誰だお前」

 昭が聞くと、声はけたけた笑いながら答えた。

「やだなー。さっきの点呼の時、いたじゃない。辛邑の娰勧だよ」

「さっき聞いた時はそんな声じゃなかったぞ」

「俺は声を変えることが得意なの」

 そう言うと、彼は高らかな声で歌い出した。とても上手かったが、それはどう聞いても妙齢の女性の声であった。周囲からどよめく声がする。

「へえ、すげえな。祭りの時の歌みてえだ」

 嬴冄が間の抜けた声で言った。誇らしげな様子で娰勧が言う。

「俺は歌さえあればいいんだよ。いろんなものと共鳴している気分になれる」

「普段から、邑で歌ったりしてんのか?」

 昭が聞くと、娰勧はよくぞ質問してくれましたというばかりに早口で答えた。

「うん、農作業の時とか、良く歌ってる。皆、俺の歌に合わせて作業とかしてたら、仕事がはかどるって」

「それだけうまくても、男は祭りで歌えねえしなあ―」

 姞伊がぼそりとつぶやいた。それが聞こえたらしい娰勧は、束の間黙り込んだが、すぐに明るい口調で言った。

「大丈夫だよ。普段の生活の中で思う存分歌えるし。邑の皆も俺の歌のことは認めてくれているしね」

「そうか。なら良かった」

 姞伊は安堵したように言った。

 暫くすると、どこからともなく姫栢の声が聞こえてきた。

「これから、冠礼を始める。全員、横一列に並べ」

 彼らはそう言われたものの、どうすればよいのか分からない。すると、嬴冄が提案した。

「皆で手をつないで、横に並べばいい」





                  18

 嬴冄の言葉通り、彼らは手をつないだ。端から順番に点呼をとり、両端の二人が片方しか手を繋いでいないことが分かれば、横一列に並ぶことに成功したということになる。

 彼等は順に名前を告げたあと、片方しか手を繋いでいない二人を確認した。左手しか繋いでいないのは娰勧、右手しか繋いでいないのは嬀藍なので、彼らがそれぞれ右端と左端ということになる。

「よっしゃ、成功した」

 嬴冄は小声で勝ち誇ったように言った。その様子が可笑しかったからか、娰勧がぷっと吹き出す様子が伺えた。

「こら」

 昭が注意すると、辺りは静寂に包まれる。

 暫くすると、彼らの前方から、青い光が近づいてきた。一番左端の集団に違いなかった。

 ということは、あの中に姚向がいる。

 昭は固唾をのんで徐々に大きくなっていく青を見つめていた。暗闇の中でいきなり目にする光のせいで、眼球の表面がじんじんと痛む。

 やがて、自分達が立っている手前で止まったその集団を見て、昭は強烈な違和感を覚えた。

 目つきが、明らかにおかしい。

 彼らの姿かたちが変わったわけではない。全く彼等は普段通りである。しかし、その眼つきは、心を病んでいる者のように虚ろであった。姚向の方を見やると、普段の彼の様子とは思えないほどである。

 気のせいなのかもしれない。

 そう思って、昭は目をぎゅっとつぶり、再び開けてみたが、結果は同じだった。

 姫栢の声が上空あたりから再び聞こえた。

「嬀藍を始めとする七人、聞け。今お前たちの真向かいにいる者たちが持っている青い水晶、それには融を付与する力が宿っている。これがどういうことを意味するか、分かるかね?」

 昭は答えた。

「つまり、お、私共の前にいる集団は、全員融を使用できるということですか」

「そういうことだ。流石融軍の者だな。対して、お前たちの中で融を持っているのは、何人かね?」

 昭は一瞬迷ったのちに言った。

「私一人でございます」

 闇の中に突如出現した、青々としている不気味な空間は、彼らの揺れ動く感情を象徴していたように思える。

「本来の儀式であれば、ここからお前たちは戦闘を行う。この場合、両集団の間には圧倒的な戦力差が生まれる。それを、嬀藍達はどのように乗り越えていくのかが知恵で求められるということだ」

 突如、娰勧が鼻をすする音が聞こえた。

「どうしたんだ」

 姫栢の声が聞こえた。この様な状況においても、相変わらず無機質であることには変わりない。

「―いや、何でもないです」

 鼻をすする音は一瞬で止んだが、場には何とも言えない空気が漂っていた。

「今日はこの辺りで仕舞いにする。帰るが良い」

 姫栢がそう告げると、暗闇の中に、再び木の扉がすっと出現した。

 向かい側にいた姚向達の脇にも、同様に鉄の扉が出現している。しかし、彼らはじっとしたまま、動かずにいて、それが更なる不気味さを醸し出していた。

 扉に近い位置にいた嬀藍はその扉に手をかけ、横にずらそうとした。しかし、扉は相当に重く、彼一人の力では開かない。昭は手を貸すことにした。

 昭が嬀藍と共に扉に体重をかけて押すと、勢い良く開いて、二人は外になげだされた。そこはなんと、犀融宮の門の前だった。向かい側の集団の様子は見当たらない。

 彼奴ら、どこから出てるのかな。

 昭はそんなことをぼんやりと考えていた。

 犀融宮門の近くには炎が灯った松明が立ててあり、そこで少年達は初めて互いの姿を確認することが出来た。

 身体を起こした昭が目にしたのは、肉付きの薄い、骨の浮き出た背中だった。栄養が行き渡っているようには到底見えない。おまけに、肩に申し訳程度にかかっている衣の短い袖の下には、強い打撲による痣のようなものがうっすらと透けて見えた。

「お前、肩、どうしたんだよ」

 昭が聞くと、嬀藍は素っ気なく言った。

「何でもない。ちょっとしたことだ」

「そんなことないだろ。何があったか言ってみろ」

 嬀藍は明らかに不満のある表情をしていた。

「お前には関係ないことだ」

 そう告げると、彼は逃げるように走り去り、他の者より一足先に帰路についてしまった。

 遠ざかっていく背中をただ見つめ、とぼとぼ歩くだけの昭に、娰勧が声を掛けた。

「ほんっと、色んな事情があるよね」

 振り向くと、彼は童顔で、人好きのしそうな顔をしていた。その声は低くて落ち着いており、世界を達観しているかのような響きが、そこには込められていた。

「そうは言っても―やっぱりそうだよな」

「聞いたところによると、君、壬邑の奴とひと悶着あったんだって?」

 昭は一瞬迷ったのちに答えた。

「まあ、そうだけど。―喧嘩して、重傷を負わせた。あの日から、多分彼奴の邑はどんどん廃れていってる」

 娰勧は少し黙った後、言った。

「融軍のことなんて、俺たちには知ったこっちゃないけどさ、彼奴は君が怪我させた奴に虐げられて生きてきたってことは俺にも分かるよ」

「彼奴は嬀智が動けなくなったからって、解放されているわけでもない。嬀智が消えても、彼奴は別のやつに酷い扱いをされている。それを見過ごせというのか、この俺に!」

 昭は声を荒げた。感情が高ぶっている。自分自身が倒した相手によって、壬邑嬀氏が支えられていたと考えると、やるせない気持ちになった。

 背中に手のひらがそっと当てられ、体温がじんわりと伝わる。

「落ち着けよ。まあ、俺達は変に介入すべきではない、ってことだね。彼奴の問題は彼奴の一族の中で解決するしかない」

 目元に熱いものがこみ上げてきたが、昭はどうにか抑えた。

「なんかそれって、薄情だな」

「君は自分の力量を分かっていない。人間一人、ましてや壬邑嬀氏に良く思われていない君一人で、嬀藍の抱えている問題をなんとかできると考えているのならば、大間違いだ」

 昭は何も言い返すことができず、唇を噛んでただ黙っていた。娰勧の言うことは正しい。

 不意に左肩に重みを感じ、昭が後ろを振り向くと、嬴冄がにやにやしながら肩に腕を乗せていた。

「彼奴を何とかしたいって言うならば、俺たちが手を貸してやってもいいけどな、ええ?」

「―・なんだよお前、馴れ馴れしいな」

 こちらをねめつける昭を見て、嬴冄は残念そうな顔をした。

「えー、俺ら、友達じゃねーの?」

「お前みたいなやけに図々しい奴は友達とは言わねえ」

 その次に嬴冄が言い放った言葉。それは昭の心に深く突き刺さる刃のように響いた。

「嬀昭、お前、仲いい奴少ないっしょ!」

「は?」

 昭はあっけにとられて嬴冄の顔を見た。

「なんか分かるんだよなあ。まずお前、なんかおっかねえもん。目つきがただでさえガン飛ばしてるみてえだし」

「―お前、おれが気にしてることをずけずけと―」

 昭は肩を落とし、ぼそぼそとした声で言った。それに全く構うことなく嬴冄は続ける。

「それにさ、選り好みが激しいようにも見える。お前、特定の奴に対する執着が強いんだよ」

 昭は戦慄した。嬴冄の言葉が、自身の内面をそのまま言い表しているような気がしたからだ。彼はただ、黙っているしかなかった。

「人間ってのはな、悪い所を見つけると、きりがないんだ。とはいえ、悪い所を見つける方が、良い所を見つけるよりよっぽど簡単だけどな」

 沈黙したままの昭を見て、嬴冄は気遣うような素振りを見せた。

「まあ、ここまで言われたら流石にこたえるか」

 彼がそう言ってから、周囲は沈黙に包まれた。暫くして、嬴冄は重そうに口を開いた。

「俺はな、昔友を死なせてしまった事があった。そいつは融軍の兵に大けがをさせられたんだ」

 昭は反射的に聞き返した。嬀智のような事例だけでなく、他にも被害を及ぼした者もいたという事実があったことが衝撃的だったからだ。

「それはいつ頃だったんだ」

「―二年ほど前かな」




                 19

 本当は言いたくなさそうな様子で嬴冄は言う。

「そいつは、俺と同じ一族の出身だった。そいつも融軍の入隊試験を受けたんだが、結局落第して、右腕がなくなった状態で帰ってきた。体の一部を欠いている奴は、歩兵としても利用価値が低い。一生を農夫として過ごすのが関の山だ」

 嬴冄はその日から三週間程、彼の看護を精一杯行っていた。

きょう、調子はどうだ」

 嬴冄は冷たい川の水に浸した布を縁側で絞りながら言う。雫が地面に落ちる音が、小気味よく辺りに響いた。緑が芽吹きだした季節で、建物の外に広がる澄んだ空と、よく茂った木々との対比が目に鮮やかだった。

「―すまないな、まだ頭がぼんやりする―」

 そう言ってむしろの上に身体を横たえる、肘から先を失った彼の右腕には、幾重にもぼろ布が巻かれている。断面に付着した血液はとっくの前に赤さを失い、古びた暗褐色と化していた。

「俺も、あの時ああしていればよかったのかな―」

 喬はかすれた声で呟いた。

「期待、それが今となってはどんなに無意味なものかがわかる」

「そんなこと言うなよ。お前はこれまでよく頑張ったって」

 そう声をかけても、喬の表情は相変わらず沈んだままであった。実際、融軍の入隊試験では、精神面、体力面においても厳しい条件が課せられる。当然試験の最中で命を落とす者も少なくないため、命があって帰ってこれ万々歳、という一面もあった。しかし、気力、体力ともに抜群な少年を、期待の目をもって送り出した邑の人間たちは、いたたまれない気分にさせられることが多かったのもまた事実である。喬自身も、入隊試験から生還したものの、どことなく遠巻きに扱われている状態が続いていた。

「俺を怪我させた奴の名前、知りたいか」

 不意に喬は言った。春の穏やかな風が、彼らの間をすり抜けるようにして吹いている。

「誰なんだ」

 冄は出来る事なら、喬の仇を討ちたいと思っていたので、固唾をのんで喬の顔を見守っていた。少し経って、喬は重々しい口をやっとのことで開いた。

「そいつの名は―姚向という。どうか、そいつのもとへ行って、どうにかやっつけてくれ、冄」

 



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嬴冄の口から飛び出たあまりにも意外な人物の名に、昭は動揺を隠しえなかった。

「それ、本当かよ?」

 青ざめた顔をする昭に、冄は大仰に頷いた。

「ああ、本当だ」

 確か、入隊試験の際の注意事項として、他の受験者の体の一部を損ねてはならない、といった決まりが掲げられていたはずだ。

「信じられねえ―だったら、何で彼奴・・姚向は入隊できたんだ?」

 嬴冄は神妙な顔つきで言った。

「あれはきっと、隠蔽工作だ」

 嬴冄は一度、融軍の練兵場へと出向いたことがあるという。嬴冄が険しい山道を超えた先にある練兵場へとたどり着くと、一番奥にある空間では、新しく入隊したばかりの融兵達が、身体づくりの運動などの基礎練習を行っていた。当然、その年入隊した姚向もその集団の中にいる。周囲に身を隠せるような物は何一つ見当たらなかったので、嬴冄は正攻法で、走ることにした。

 あの中に、彼奴がいる。

 嬴冄は無我夢中で、一番奥に向かって走っていった。

「おい、坊主。お前、部外者だな」

 背が高く屈強な体をした男が、突如嬴冄の前に立ちはだかった。分厚い肉のような瞼の間から、細い糸のような目が覗いている。

「いや、私は融軍兵です」

「そう言うのなら、証拠を出してみろ。さもなくば、一刻も早く邑に帰れ」

 そう言って、男は目を閉じ、何やら唱え始めた。

 もしや、この男は融を使えるのか。

 嬴冄はそう思い、身構えた。彼自身、融を使えなかったが、ここまで来たらやるしかない。

 相手の男は相当戦闘に慣れているらしく、嬴冄はかなりの苦戦を強いられた。男が放つ融は相当に強いもので、彼が持つ短剣から放たれる、白い閃光と化したそれが地面にぶつかると、そこの部分が黒い焦げ跡と化していた。光を放つ男の鉄槌が、物凄い速度で襲ってきて、避けきれないと感じたその時。

「おい、どうしたんだ、姚凱」

 声変りの途中のざらついた声がした。

 彼らの傍に立っていたのは、姚向だった。

「お前は―」

 恐ろしいほどに整った顔で、彼は二人を見下ろしている。しかし、

 嬴冄が立ち上がると、姚向は既に彼より頭一つ分背が高かった。

「お前はどこの邑の出身だ」

 嬴冄は唾をごくりと飲み込んだ。このまま答えなければどの様な処遇をなされるか分からない。嬴冄は、とっさに噓をついてしまった。

「―俺は、乙邑出身の嬴喬だ」

 この様に伝えておけば、もし奴らが邑に押しかけてきても、俺が狙われることになって喬自身には被害は及ばない。そう考えた結果の行動だった。

 しかし、姚向は口元に不敵な笑みを浮かべて言った。

「お前は、嬴喬ではないな」

 嬴冄は絶句した。なぜ、姚向は自身が嬴喬ではないことを見破ることができたのか。

「いんや、俺は嬴喬だ」

 姚向は半ば嬴冄の話を遮るような形で言った。

「俺は、入隊試験の時に、お前の双子の弟に出会った。かなり良い使い手だったぞ」

「―なぜ、彼奴に怪我をさせたんだよ」

 すると、姚向は被りを振った。沈黙を浮かべたままで。

「なんだ、否定するのかよ!」

 嬴冄は半ば叫ぶような形で激昂していた。必死に姚向をにらみつけたものの、童顔の彼は姚向にまるきり威圧感を与えられなかった。それでも彼は、姚向の目をじっと見て、目をそらさずにいた。

 暫くすると、姚向はため息をつき、見かねたように理由を述べた。

「それは、俺はのし上がらなければならないと義務付けられているからだ」

 示し合わせたように、姚凱は頷いた。

「よくわからないが、関係ない奴の右腕をもいでも同じことが言えるのか。何で正々堂々と立ち向かえねえんだ」

 嬴冄が姚向に詰め寄ると、白い細面に一瞬陰りが見えた。沈黙したまま、口を開かない。

「坊主、あまり無駄口叩いてっと、お前の腕ももぐぞ」

 糸のような目を吊り上げて、姚凱は言った。

 その腕には、いつの間にか更に大きな刀が握られていた。鹿や猪を捕まえた時に、骨を断ち切るために使う、特に鋭いものだった。

「よせ、姚凱。下手に争うと、取り返しがつかなくなる」

 左手を横に伸ばし、姚向はそれを制止した。

「姚向様、いいのですか」

 姚凱はあっけにとられた様子で、姚向を見ている。

「お前は下手に出ない方がいい。これは俺と彼奴の問題だから、俺が決着をつける」

 そう言うと、姚向は嬴冄の方に向き直った。

「俺とお前で、一つ勝負をしようではないか」

 姚向は、余裕とも見える笑みを浮かべながら言った。

「勝負って、なんだ」

 嬴冄が苦い顔をして言うと、姚向はふん、と鼻で笑い、彼に携えていた小刀を渡した。よく磨き上げられた鋼色の柄の部分には、精巧な竜の紋が透かし彫りしてあり、一目見ただけで高価な品であると分かる。

「簡単だ。かすってでもいいから、俺に一回でも刃を当てたら、お前の勝ち。俺がお前に刃を当てたら、俺の勝ち。それだけの遊戯だ。因みに、俺の武器は木の槍にするし、融は一切使わないと約束しよう」

 遊戯、と言い放った姚向に、嬴冄は腸が煮えくり返るのを隠し切れなかった。嬴冄自身にとっては重要な局面でも、姚向にとっては、ただの小さないざこざに過ぎなかったのかもしれない。嬴冄は怒気をあらわにした声で言い放った。融を使わないのなら、勝算はあるかもしれない。

「上等だ。やってやるよ」

 姚向はこくりと頷くと、後ろに下がり、嬴冄から距離をとった。手にはいつの間にか、彼の身長と同じぐらいの長さの槍が握られていた。先は木製だった。

「審判は姚凱がすることにした。姚凱、くれぐれも公正な判断を頼むぞ」

「承知致しました」

 姚凱は地面に落ちていた木の棒を拾い、二人が立っている距離を直径にして、円状に線を引いた。

 しばらくたって、姚凱は大きな声で号令をかけた。

「始め!」

 その声と同時に、ひゅんと風を切る音がする。次の瞬間、腹をえぐり抜くような衝撃と痛みが、嬴冄の体に襲い掛かってきた。

「ぐっ」

 彼は体を二つに折って、その場にくずおれる。どうやら、槍の石突部分で突かれたようだ。

 完全に、相手を侮っていた。たかが不正を行って入ってきた奴だから、それほどの力はないと。よく考えてみれば、当然のことだった。彼らは、毎日ひたすら人を殺すための訓練を受けているのだから。それに奴は、体格に恵まれている。槍というのは、嬴冄は自身の愚かさを呪った。

「どうした、もう動けないのか」

 頭上から声が降ってきた。苦し紛れに上半身を起こすと、鋭い痛みが腹部に走る。呻き声を上げながら前を向くと、姚向は槍を肩に担いで、まっすぐ立っていた。当然ながら、全くの無傷である。口元にはうっすらとあざ笑うような笑みを浮かべてさえいた。

「お前―・」

「まあ、その程度ってことだ、この間の出来事は。分かったらさっさと邑に帰るがいい。お前の最愛の兄弟も待っていることだしな」

 随分癪に障る口の利き方をすると、嬴冄は感じた。本当なら、姚向の口をひとおもいに鎌で割いてやりたいと思っていたが、彼が持ち出してきた条件にそぐわなかった以上、泣き寝入りするしかなかった。ぜえぜえと息を吐く嬴冄を見て、姚向は口を開いた。

「それにしてもお前、嬀昭によく似ている」

「は?誰だそいつ」

「同じ融軍に属している俺の友だ。顔は全く似ていないけどな」

 それが何だっていうんだ。嬴冄は訳が分からなかった。しかも、先程とは打って変わって優しい顔をしていたので、嬴冄にとって姚向の様子は気味が悪いように思えた。

「それが今、何の関係がある」

「いや、不意に思い出しただけだ。それでは、二度とここへ来るなよ。じゃあな」

 そう言って、姚向と姚凱は足早に去っていった。

「お、おい、待てよ!」

 嬴冄は追いすがろうとしたが、思ったように体が動かない。彼の体は思った以上に損害を受けているようだった。衣の上部分を抜いで腹の部分を確かめると、表面には青紫色に染まった打撲痕が色濃く残っている。

 くそ。

 嬴冄は内心毒づいた。だが、彼の頭には、先程姚向が伝えた名がしっかりと残っていた。

 嬀昭か。

 姚向がわざわざその名を出すということは、その男は彼と深いかかわりがあるに違いない。そいつに聞けば、きっと姚向に再び出会う確率がぐっとたかまる。

 そう嬴冄は考えたが、如何せん会う方法が分からない。そこで彼は必死に思考を巡らせた。彼はさっきの姚向の発言を思い出す。

 姚向は嬀昭のことを同い年であると発言してはいなかっただろうか。それならば、冠礼の時には確実に会うことができる。

 そう考えた嬴冄は、冠礼の日を心待ちにしていた。





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「それで、お前に声をかけることにしたんだ」

 嬴冄は、恥ずかしそうな様子で言った。

「お前、噓を言いやがって!」

 気がつくと、昭は嬴冄を押し倒していた。訳も分からず激昂した。知らず知らずのうちにそんなことがあったのかと、実感させられたのと同時に、いろんな思いに駆られながら、昭は気が付くと嬴冄の胸ぐらを掴み、左頬を拳で一発殴っていた。

 頬を真っ赤にはらし、怯えたような目つきの嬴冄や、啞然としている周囲の様子を見て、昭は我に返った。

「わ、悪い」

 それを見て、娰勧はため息をつく。

「んったく、流石は融軍といったところかな」

 昭はしばらく経つと、重々しく声を発した。

「―姚向は、俺や他の仲間の前では、そんな奴ではなかった。むしろ、俺よりも遥かに慕われていたからな。だから、余計にだ」

「余計に?」

 娰勧が不思議そうな口ぶりで言った。

「余計に、嬴冄が言ったことが信じられずにいる。だが、それを知らずにのうのうと暮らしていたのは、おれの責任だ。近くで彼奴を見てきた人間として、気づけてやれなくて、すまねぇ」

 先程とは打って変わって苦々しげな顔で、嬴冄は嬀昭の顔を見つめる。

「―いや、お前は悪くねえ。さっきの話は姚向と俺の問題だからな。それに、お前には、はっきり言って、感謝している」

「感謝って、何を?」

 昭は目を見開く。

「俺たちに、ごく普通に接してくれたことだ」

「そんなの、当然じゃねえか。何を言ってんだ」

 それを言って、昭ははっとしたように過去の出来事を思い出した。それは、彼が屋敷に火をつけて回っていた嬀智を、喧嘩で負かした時のことである。

「ありがとうございます。俺達を助けてくださって」

 小さい背中をさらに丸めてひれ伏し、嬀智から解放された少年達はは礼を言った。

「いや、そんなのいいから」

 昭がそう告げても、彼らは体を一向に起こそうとせず、頭をひたすらに地面にこすりつけていた。

 融軍兵と歩兵の間には、目に見えない溝が存在している。名家と呼ばれる家の者たちは、無意識のうちにその溝を作り出しているのだ。いや、それは、そうでない者たちにも言えることである。恐らく、名家に対して卑屈にならざるを得ない何かを、一部の歩兵たちは刷り込まれている。

「いや、何も変わんねえだろ。現にお前、さっき俺に融を使えと、突っかかってきたじゃねえか」

「あれは、お前を試していたんだ。あのようなことを言っても、お前は俺と対等に怒っていたよな」

 嬴冄は声を震わせながら言った。

「だから、お前なら、姚向に交渉するために対等な関係で話を持ち掛けられると感じた。どうか、俺を姚向のもとへ連れて行ってくれ」

「いいけどそれは―かなり危険だぞ」

「それも覚悟の上だ、頼む」

 嬴冄は必死だった。彼の瞳からは、姚向と何としても再会したいという思いがありありと読み取れた。昭は半ば熱意に押される様子で答えた。

「分かったよ。次の予行の時の帰りに、俺についてこい」

 すると、嬴冄はほっとした様子で俯いた。

「―良かった」

「えー、嬴冄も行くの?じゃあ俺もついていく!」

 嬴冄とは対照的に、娰勧は声を弾ませながら言った。

「じゃあ、俺も」

「俺も行く」

 それに続いて、他の者たちも参加したがる。

「えー、お前らもかよ」

 嬴冄は呆れたように彼らを見やった。

「そうだ。これはお前らみてえな野次馬根性丸出しの奴らが、軽々しく来ていいものじゃねえんだ」

 真剣な昭の口振りを聞いて、娰勧はがっかりした様子で肩をすくめた。

「ちぇ、分かったよ。ま、せいぜい頑張れよな。俺らは木に変装して、こっそりついていくよ」

 その言葉を聞いて、その場にいる全員が大爆笑した。

 その日の出来事は昭が久しぶりに楽しいと感じられたものだった。彼は内心、この七人とならこれから良い関係が続きそうだと本気で考えていたのだ。融軍にいる、変に気負っていたり、己の地位の維持だけを考えていたりする者たちよりも、彼らはずっとさっぱりして付き合いやすかった。空には満天の星空が広がり、彼らの顔を照らし出す松明の炎は、軽やかに踊っていた。思えば、この日からあの奇妙な仮面の男が出て来る悪夢を見ることも無くなったのだった。

 この時は、まだ誰もが知らなかった。冠礼の日の夜、彼らが予想だにしない出来事が待ち受けていることに。

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