風紋の果てに
奇咲みや子
序章 蚩尤
少年は必死に逃げていた。彼は最初、何から逃げているのか分からなかった。ただ周囲の人々が何かにとりつかれたように走っているのを見て走り出しただけだ。何故か彼らは全員青い髪で、身体に衣服の形に整形した毛皮を纏っていた。辺りは灰色の霧が薄くかかっており、はっきり周囲が見える状況ではなかった。周囲の速度に合わせて走っていると、突然辺りは漆黒の闇と化した。少年は足を止め、前後左右も分からなくなりただ呆然としていた。暫くすると、前方遠くから物凄い速さで何か茶色い物体が近づいてくるのが見えた。彼は本能的に恐怖を感じ、物体から逃げるように逆方向へと走り去った。
来る。
来る。
奴が追いかけてくる。
捕まったら死ぬ。
少年は必死に走り、逃げた。顔は脂汗でいっぱいだ。ふと後ろを振り返ると、物体と自分との距離は縮まっており、更に足が速くなる。力の限り足を動かしていると、暗闇をかき分けるようにして、目の前に突然茶色い物体が現れた。彼は思わず悲鳴を上げる。
目の前に現れたのは、血を滴らせた女の生首を掲げた仮面の男だった。
少年は悲鳴をあげる。暫くすると、男は女の生首を更に高く掲げる。それからもう少し経つと、高い位置にある女の顔の表面が、次第にひび割れていった。ひび割れの隙間からは、新しい皮膚が見えている。そのうちひび割れは大きくなり、女の顔の表面がずるりと音を立てて、地面に剥け落ちた。
その下から出てきたのは、少年自身の顔だった。
*
少女は待っていた。自分を外に連れ出してくれる誰かが訪れるのを。彼女は強大な力に恵まれていたが、閉鎖的で単調な生活は彼女を疲弊させていた。それに、少女は内気で引っ込み思案。母とは正反対だった。姉達はみな、母の大胆かつ勇猛な性分を受け継いでいたが、少女だけがそれを受け継いでいなかった。
少女の父は外の世界を夢見て、その結果、死んでいった。少女は父を救うには、余りにも無力だったのだ。しかし、彼女は何としても、父の願いを叶えたかった。外の世界を探検して、理想郷を見つける。しかし、今の閉じられた空間では、それは殆ど不可能に近かった。
ある日、彼女はとあるものを持って、祠の近くにある、開かずの間と向かった。人の心を映す、心映珠。彼女に唯一与えられた玩具のようなもの。鍵を開けたその先にある、専用の台座の上にそれを置くと、その紅く光り輝く珠は彼女の知りたいことを何でも教えてくれた。彼女は珠に聞いた。自身を外に連れ出してくれる可能性のある人間は誰か、と。
珠は色を透明に変え、暫くして一人の少年の姿を映し出した。少年の姿を見て、彼女はかなり意外に感じた。彼は彼女から見ると、余りそういうことに加担しているようには見えなかったからだ。しかし、少年の存在を知った時から、彼女の心は喜びに満ち溢れていた。
その日から、彼女はどうやったら少年を自身のもとに連れてこられるか、ということを考え始めた。母や姉にこのことが発覚しては、計画は全て無に帰す。心映珠を使った命がけの交渉が、始まったのだった。
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