野宮誠司 / 後
「あーーー!」
姉弟はそろって悲鳴を上げる。誠司は大声こそ堪えたが内心のどよめきは凄まじかった。
”な、なにーーー!?”
ここは、古く小さいとはいえビルの二階、たとえ猫であろうともこの高さからの落下は無傷では済まないのではないか。打ちどころによっては最悪の事態だってあり得る。
”なにが嬉しくて、机からいちばん近いお気に入りの窓を、猫の自殺現場にしないといけないんだ・・・!”
姉弟にはそこにいるように伝えて、急いで窓へ駆け寄った。あの二人に猫の死体を見せるわけにはいかない。
しかし、窓から下をのぞく誠司の目に映ったのは横たわる猫の姿でも怪我をしている猫の姿でもなく、大きな尻尾をふわふわ揺らしながら、のしのしと歩く後ろ姿だった。
「…よかった生きてる!」
いつのまに弟の三樹が誠司の腕の隙間から猫の安否を確認して、安堵の声を漏らしていた。姉も二人の後ろから一目猫の姿を確認しようと首を長くしているが見えていない。弟の言葉に、
「ほんとに?怪我もしてない?」
と落ち着きのない様子だ。
「お兄さん来て!早く!」
弟に腕をつかまれて事務所を飛び出した。猫を追いかけるつもりなのだろう。誠司は二人に連れられる形となって走りながら考えていた。
”そういえば窓はどうして開いていたのだろう。鍵の閉め忘れだろうか。いや、間違いなく窓は閉まっていた、はずだ・・・。”
姉弟はきっと最初から窓が開いていたと思っているだろうし、猫に確認しようがない。悶々と考えていると、緑色をした猫の両目を思い出した。記憶の中の猫は、かの有名な縞模様をした紫猫のように三日月形の笑みを浮かべた。再び誠司はごくりと唾をのみこみ、気がつくと閑静な住宅街の中まで猫を追いかけていた。
そこは、事務所から一つ目の角を右手に曲がった近所で車はおろか、人通りも少ない。そのせいか先程から弟が当たり構わず飛び出して、付き添いの大人として誠司は油断ができなかった。事故にでもあったら大変(迷惑)だ。
しかし、そう思いつつ正直誠司は、めずらしく高揚していた。雨がいつの間にかやんで編頭痛が落ちついている、そしてなんとなく特別なことに巻き込まれている予感がしていたのだ。
さんざん追いかけっこをした三人は、ブロック塀の中に隠されたような、洋風建築の門の前に立っていた。それはあまりにも小さく目立たず、弟の三樹が猫がこの門の隙間から中に入っていったのを見ていなかったら、三人とも気づかなかったかもしれない。特別な予感が一際高まる、それほどに不思議な雰囲気を醸し出す門だった。中の様子はよく見えないが、小さな庭が広がっているようだ。
「中へ入ってみよう。」
と誠司が言う頃には弟は門に手をかけていた。小学生の男児は無敵なのか?門が狭いので、姉は持っていた二人分の傘を近くのガードレールに立てかけてから中に入った。最後に、誠司も体を小さくして何とか潜る。
窮屈な入口を抜けて中に出ると、草や花の青々とした匂いが開放感をより強めた。なんだかとても独特な香りが漂っている。雨に濡れているせいだろうか、普段意識したこともない草木の匂いに意識を向けさせられた。さらに、その香りを深く吸い込んで体中に行き渡ると、まるで心身を天日干しされたような爽快な感覚になる。先ほどまでよどんだ暖房の事務所にいた身体とは思えないほど軽く感じる。足が浮いていないか思わず確認してしまった程だった。
そしてその不思議な感覚は誠司だけではなく、姉弟もそれぞれがそれぞれの感覚に浸っていた。
「にゃー」
三人が不思議な感覚を満足に堪能して落ち着いた頃、猫が
" もういいか?"
と言わんばかりに鳴いた。
一体三人はどれだけ立ち尽くしていたのだろう、気がづくと目の前にはあの巨大猫を両手で抱える一人の女性が立っている。
「こんにちは、皆さんマーロのお友達?」
優しい声と笑顔は雨雲からさす陽光そのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます