野宮 誠司 / 前
その日、冷たい雨が朝から降っていたせいで
雨は弱まるどころか昼過ぎから雨脚を強め、片頭痛を長引かせる。そうなると次第に軽い目眩も加わってくるのが、誠司にとって最多最悪な組み合わせだ。片頭痛には学生時代から悩まされてきたのに、一向に正しい対処や向き合い方が見つかっていない。そのためこの日もこうして、机の上に脚を組み、お尻が落ちるのではないとかと思うくらい背もたれに頭を預けて、背後の窓から全憎悪をこめて
”低気圧め・・・。”
と空を睨むのが精いっぱいだ。
もちろん悪態の効果はみじんもなく、それどころか、まるで誠司を挑発するように少し大きめな雨粒に変わった気がする。
誠司が降参の代わりに盛大なため息をこぼすと、とうとうお尻が椅子から半分ずり落ちてしまった。二十代も後半、むしろ今年でアラサーの仲間入りだというのに、なんという体たらく。情けない敗者のポーズだ。頼みの綱といえば近所の医者から処方されている頭痛薬だけなのだが、最近はなんだかその薬の効きもあまりよくない。
”すぐにでも強い薬にしてもらうよう相談しないといけない。と思ってはいたんだけどな・・・。”
と、後悔しながら目を閉じた。とりあえず今は、ひと眠りするに限る、というよりそれしか知らない。長い脚を組みなおして少しでも心地の良い体勢を探り、ずり落ちたお尻も椅子に戻した。
”こんな雨じゃ依頼が来るどころじゃないだろうし、僕も使い物にならないしな・・・。”
誠司は大学時代の友人から半分押し付けられるような形で、この雑居ビルの小さな一室を買い取った。高校時代からこつこつと貯めた七年分の貯金は、頭金で消えたが、どこかの会社に勤めるよりは、貧乏探偵の方が性にあっていた。
目下の改善点としては、小さな室内と古い暖房の組み合わせは、こまめな換気を徹底しないと、すぐに空気が澱むような気持ち悪さを感じる所だ。偏頭痛持ちの誠司には、些細な体調不良も油断大敵なのである。
ちなみに、誠司のほかには体調を気遣ってくれそうな受付も、換気のために窓を開けてくれる助手もいないし、事務所は兼自宅(仮)でもある。
誠司はいい加減この不快な頭痛から逃れるためにも、さっさと眠り落ちてしまおうと思ったが、この日はそれが許されなさそうだった。
誠司の長年の大敵は、片頭痛と嫌悪感だけでは飽き足らず、一癖ありそうな訳ありなお客様まで用意してくれたようだ。例えば、
「すみません!助けてください!」
と、ふてぶてしい目をした巨大猫を抱えたずぶ濡れの小学生男児とか。
人の緊迫した声、しかもそれが大きければ大きいほど受け取る側は本能的にストレスを感じる。無意識のうちにどうにかしなくては、と状況把握やら得体の知れない恐怖心に一瞬で対応しなくてはならないからだと思う。ましてや朝から偏頭痛に悩まされいる探偵には特にだ。
しかし、意外にも誠司の頭の中は冷静だった。映画や小説の中で誰かや何かが登場すると、その場の雰囲気が静止するような描写を見かけるけど、いざ自分の身に起こると演出ではなかったのか。と妙に納得してみたり、
”もしかしてこれってやっかいな事に巻き込まれる展開なんじゃ?”
とか。飛び起きた上半身と強張った表情の裏でそんなことを考えていた。
「
目の前の少年より少しだけ大人びた女性の声と、階段を駆け上る足音が廊下に響いた。目の前の少年の肩がびくっと震えて、猫を抱く腕に力が入ったのが分かった。抱かれている猫からしたらたまったものではなさそうだが、嫌がる様子も逃げ出そうとする気配もない。
一瞬、猫が誠司に心底不機嫌そうな目で
「おい、なんとかしろ」
と訴えてきた。ような気がした。誠司がごくりと唾を飲んだのと事務所前のうす暗い廊下の中から黒いセーラー服を着た少女が現れたのは同時だった。
少年と猫の無事をざっと確認して安心のため息をついた少女はすぐに誠司に向き直り
「と、突然すみません。みつ、じゃなくて弟が・・・」
と頭を下げた。そして
「探偵さん、うちの猫を助けてください!」
と続けた。猫、とはおそらく三樹と呼ばれた少年の腕の中の猫のことだろうが、それにしてはあまりにもでかい。太っているわけではなさそうだが、下手したら足が床につきそうなくらいサイズが大きいのだ。そのうえ表情は相変わらずふてぶてしく、助けてほしそうには見えない。いや
「さっさとこの状況をどうにかしろ、こいつの腕の中はきつくて仕方がない。」
と言っているのだとすると、助けは求めているのかもしれないが、やたらと貫禄があった。誠司は猫の視線に一瞬ひやっとしたが、姉弟らしい二人の熱い視線も拒めない。親の心子知らずとはこのことか?違うか?どうでもいいか。とまで考えて、
「とりあえず話を聞きたいから中に・・・」
入ってもらおうとした瞬間、姉に続き慌てて頭を下げた三樹の緩めた腕の隙間から猫が抜けだした。やはりでかい。下手したら中型犬くらはありそうだ。
久しぶりの地面に着地した猫は、お尻を突き上げて盛大に伸びている。茶色の長毛でこの豪快っぷり、突き出した大きな前足はライオンを彷彿させる。どこか野性的な印象なのに緑色の目からは知性を感じた。ような気がした。
やっと解放されたとでもいうように後ろ足で首を掻いたり毛繕いしている様子を三人はしばらく見守っていたが、猫は満足すると、目の色も変えずに突然、誠司の背後の窓から外へ飛び出したのだ。
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