喫茶店 ティザンヌ / 前
「・・・まーろ?」
弟が誠司の隣でオウムのように繰り返した。マーロと呼ばれたのは、紛れもなく彼女に抱かれている猫のことのようだった。
しかしあの猫は、この姉弟のペットのはずである、姉が
「うちの猫を助け下さい」
と言ったことを誠司はしっかり覚えていた。
昔なつかしい日本なら、飼い猫が気ままな散歩中に他所で餌をもらっていたり、その時に別の名称で呼ばれていたりすることも良くあった。そういう事だろうか。
誠司は元より、肝心な姉弟も身動きひとつなく、いささか混乱しているようにみえた。ただ一人、三人の前に立つ陽光のような女性だけは突然の来客に驚いた様子もなく、落ち着いた声で
「皆さんお腹すいてませんか?ちょうどホットビスケットが焼きあがる時間なので召し上がっていってください。マーロの事でここまでいらしてくれたんですよね。お話も聞きたいし。身体が温まる飲み物も淹れますから。」
と、門から続く道なりの先にある小さな建物に向かって歩き始めた。まだ少し放心状態の二人をつつくように促して誠司も後に続く。
建物は、赤い三角屋根と白い壁そして木の窓枠と木製の扉があって、まるで絵本の中に出てくるような外装だった。扉の近くには、椅子が一つ置かれていてその上にちょこんと「ティザンヌ(OPEN)」と小さな看板が立てかけられていた。
椅子の足元には、丁寧に模様が施されたレザーの革靴を花瓶に見立ててドライフラワーを飾り、ドアの真ん中にもドライフラワーを小さな花束にして逆さまにぶら下げている。看板があるということは何かのお店なのだろう。
「わぁ・・・可愛いお店。庭園も可愛かった!お花は少なかったけど、もしかしてお花屋さんかな?」
「花のことはあんまり知らないけどここはすごく綺麗って僕も思う。絵本から飛び出たお店とお花の遊園地みたい。」
”マーロ”と呼ばれた猫のことで呆然としていた姉弟も、足を進めるごとに感動している。誠司も今までにない心の感覚に慣れない違和感をいだきつつ、その違和感が悪いものでは無いと確信する心地よさを感じていた。
店内は暖かい空気が水分をまとう、まどろむ暖気に包まれていた。その暖気に肌が触れてはじめて、自分たちの鼻や指先がずいぶんと冷たくなっていることに気づく。真冬の悪天候の中での猫捜索は、三人の人間の感覚を鈍らせるほど容易なものでは無かったようだ。
剥きだしになった木の梁や柱にはこぼれるように、松の実やドライフルーツなどを中心にあしらったリースがたくさん飾られていて、テーブルが幾つかとカウンター席が用意してあった。
陽光の女性は入口付近で振り返り
「いらっしゃいませ。喫茶店「ティザンヌ」です。私は店長の
と挨拶をして三人をカウンターへ案内した。
「すみません店長。看板猫ということはマーロは店長の飼い猫ということですか?」
誠司は突然現れて突然飛び出して、そうして気がづけば、見知らぬ店のカウンターで見ず知らずの姉弟と一緒に座ることとなる、ことの発端の猫について一度整理しなければならなかった。先ほどの弟の様子からして、マーロという巨大猫がここの飼い猫だったことは知らなそうだった。一体どういうことなのか。
麻里は
「はい、いま説明するので少し待って下さいね。」
とゆっくりマーロを窓際に下すと、エプロンを着て丁寧に手を洗うと、備え付けのオーブンから焼き立てのホットビスケットを取り出しながら説明をはじめた。
どうぞ、と再度、右手でカウンター席を案内されたので三人は静かに座る。カウンターにはカップが初めから三つ用意されていたが、店内に入ってから彼女がカップを触っている様子は確認していなかった、偶然だろうが。
「マーロは子猫の頃に私が引き取らせて頂いてからずっと一緒です。ただ、好奇心が旺盛でよく店から抜け出しては二、三日帰ってこないことがよくあるんです。最初は心配していたんですけど、いつもしれっと戻ってくるし、なんせこの大きな体なので店の中に閉じ込めておくのもどうかなって自由にさせています。ともあれ、外の世界で家猫が容易に生きていけるとも思っていません。きっと知らないところでいろんな人に助けられたり、ご迷惑をおかけしていないだろうかと気になってはいたんです。だから、今日マーロと皆さんをお見かけしてすぐにわかりました。マーロのことでここまでいらして下さったんですよね。」
普通、飼い猫が二、三日戻らなければもっと心配するところではないのか?栗色の髪をした可憐で穏やかな雰囲気からは伺えない気概さも持ち合わせているのだろうか。と、普段ならもう少し頭が働くはずの誠司も、カウンターに座り始めてからは特にあの不思議な感覚が強まり、
「あぁ…なるほど。」
と、素直に返事をするだけだった。麻里が動くたびに、それが何かの儀式のようにさえみえる。
誠司の言葉を借りるなら、ホットビスケットは小さなバスケットの中に、三人の前にはそれぞれカップとホットビスケット用のお皿が並べられる儀式が終了した。
「大したものではないのですが、こちらはお礼です。一番上のお兄さんにはレモンバームのハーブティーを、お姉さんと弟くんにはハーブティーよりこっちのほうがいいかなと思ってココアを用意しました。」
「店長さん。こちらの一番上のお兄さんは私達の兄ではなくて、探偵の方なんです。猫すけの新しい飼い主を探してくださいって私たちが依頼をしたんです。猫すけ・・・じゃなくてマーロにちゃんとしたお家があるって知らなくて。あのままだと、知らない人に譲ることになっていたから、あれ、えっと…。」
自分で話し始めながらどんどん顔面を蒼白させた姉は
「勝手なことしてごめんなさい!!」
勢いよく立ち上がって謝った。そういえば事務所でも弟のことで謝っていたし、大人相手にずいぶんしっかりした中学生である。
”それにしても猫すけって。あの猛獣のような雰囲気の猫がずいぶん安直な名前を付けられたもんだなぁ。”
と見た目と名前のアンバランスさが妙に面白くなって窓際のマーロに視線をやると、本人は我関せずの顔でのんきに横たわっていた。
「ぼ、僕が悪いんです。勝手にすけさんを野良猫だって勘違いして家で飼いたい、ってお父さんとお姉ちゃんにわがままを言ったのは僕なんです。本当はマンションだから動物を飼うのはダメなのに。そのせいで色々と、危ない目にもあわせちゃってごめんなさい。」
なんと姉に劣らず弟も、ずいぶんしっかりした小学生だ。三人の中でいちばんぽんこつなのは自分かもしれない、という疑念には触れないでおこう、頭がぼんやりしているし。と誠司はそそくさと、ハーブティーに口をつける。
そういえば、ハーブティーを飲むのは初めてだった。特に興味もなく口にも合わないだろう、と無意識に避けていたのだが、麻里の淹れてくれたそれは、苦味や渋みがなく香り豊かで飲みやすい。
喉から体内へレモンバームの独特な香りと爽快感が巡ると、なにかが浄化されるような感覚だ。それにしても
”すけさん・・・って。”
猫すけ、の時よりも面白半分で再びマーロに視線を送ると、今度はしっかりと緑色の両目が誠司の視線を待ち構えていた。…どき。
姉弟の名前は、姉が
もちろん悲しみは訪れたが、姉弟は子供ながらに察していたそうで、いざその瞬間が来ても悲しみに深く溺れることなく、家族みんなで前向きにあろうと努めることができたそうだ。
父親は不器用ながらに子供達の事と仕事を両立しようとはしているが、なかなか手が回らないので中学に上がる前から家のことや弟のことは、姉の千香が手伝っていたという。
弟の三樹も、あまり二人に心配や迷惑をかけないようにふるまっていたそうだが、ある雨の日に突然、野良猫を抱えて帰ってきた。
母親の死後から、近所でよく見かけるようになった野良猫で放課後にはおやつやミルクを隠れてあげていたらしい。最初はちょっとした寂しい気持ちや時間の埋め合わせ程度に感じていたが、季節が変わりだんだん気温が下がってくると、寒くて凍えていないかと気になって仕方なくなった。
その日も今日みたいに、朝から雨が降っていて昼間で凍えるように寒かったそうだ。そうして、三樹はとうとうペット禁止のマンションと分かって野良猫を連れ帰ってしまったのだ。
もちろん父親も千香も驚いたが、母親を亡くした幼い三樹の頼みとあってなんとかしようと試みた。父親はマンションの管理会社に何度も交渉を重ねてくれて、なんとかご近所トラブルにならないようにしっかり管理すること。苦情が来たらすぐに猫を手放すこと。という特別条件の元で許可までこぎつけた。
千香も友達から中古の猫用品を一式譲ってもらった。動物病院で検査してもらうと、野良猫は病気も環境の変化によるストレスもみられず、そのたくましい風格に猫すけと名付けられ、はれて春日家の一員となったそうだ。
そのあとは平穏な日々を過ごしていたが、ある時どういうわけか猫すけが隣の奥さんにつかまってしまった。
どうやら三人が留守にしている昼間、どういうわけか猫すけが、日常的に窓から抜け出しては何食わぬ顔で戻ってきているのを監視カメラがとらえていた、と後で管理会社から説明があった。
(この話をしたとき、なんとなく店長の麻里が”こら!”とするどい視線をマーロに送っていたような気がした。)
そうして、マンションの中の外と中を悠々自適に行き来する猫すけを、ある日隣の奥さんがたまたま発見し捕獲したらしい。
最初はマンション内に猫が迷い込んでいるから、今後このようなことがないように徹底対応して欲しいと管理会社が連絡を受けたのだが、よくよく確認してみると実は特例の隣の猫だったというわけである。
奥さんは事実を知ってより憤怒した。なんでも隣の家には三樹と同じ年の男の子がいるのだが、その子が重度の猫アレルギーで
「うちの子に何かあったらどうしてくれるんだ!」
と、管理会社は何時間も詰められたようだった。
「春日さんのお子さんの心情もやんわりとお伝えはしたのですが、まったく聞く耳を持ってもらえず、すぐにでも保健所に連れていくと仰る所を、なんとか二、三日待ってもらうように説得するのが精いっぱいで、こちら側といたしましてもこれ以上に手を打つくことはできないんです。突然のことではありますが、猫の譲り先を探してもらえないでしょうか?」
といった内容が留守電に残されていて、それを聞いた三樹が猫すけを抱えて飛び出し、誠司の探偵事務所に乗り込んだのが、さっきまでのことだった。
「三樹くんと千香ちゃんとお父さん。そして、探偵さん。皆さんマーロの事ですっごくご迷惑おかけしてごめんなさい。昼間抜け出していたのは、きっとここに帰ってきていたからだと思うんです。朝ごはんを二人に食べさせてもらって、お昼はしっかりここで食べて、三樹くんがお家に帰ったらおやつをもらってたんだわきっと。
保健所に連れられてもおかしくなかったはずなのに、一生懸命にここまで探しにきてくれて本当にありがとうございます。
さぁ、二人とも!今日は全部お店のおごりなのでたくさん召し上がっていって下さいね。」
その後は、麻里がマーロの体があまりにも大きくて首輪は窮屈になってしまいうのでは、とためらっていたことも説明してくれり、誠司が名前を聞かれたり、マーロは家猫の中で一番大きな猫種のメインクーンでお店に飾られてる花のほとんどが庭園でとれる花のドライフラワーであることを教えてもらった。
千香は部活動に参加せず、その代わりに休日の課外活動に勤しんでいるとか、三樹は寝てるときの猫すけは何をしても起きなくてすごく面白かったことなど、たわいもない話で初対面かつ
歳も離れていることを忘れるほどの盛り上りようだった。
「麻里さん、この林檎のジャムとっても美味しい。私りんご大好きなんです」
「わぁ嬉しい。ジャムは全部手作りなんですよ。千香ちゃんりんご好きだったらいいなぁ、と思って並べてみたので嬉しいです。よかったらお土産に持って帰って下さいね。」
ホットビスケットの横にはマーガリンやはちみつとは別に、硝子の瓶に色を付けたように林檎、苺、オレンジのジャムが詰められて並んでいる。
お店や麻里の雰囲気に、普段あまり甘える機会がない姉の千香は、すっかり懐いた様子だ。三樹は一生懸命ホットビスケットとココアを頬張っている。
「それにしても、隣の奥さんいくら自分家の子供が猫アレルギーだからってすぐに保健所に連れていけだなんてひどくないですか・・・・もちろんルールでいったら悪いのは私たちだけど。」
千香が遠慮がちに愚痴をこぼす。
「仕方ないよお姉ちゃん。だってお母さんってそういうものでしょ?」
事務所に飛び込んできてから今までの短い付き合いだが、そういいながら笑う三樹の笑顔が誠司には何故かいちばん泣いているように見えた。
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