依頼 / 前
夜の雨上がり、月夜に照らされる場所は静かにきらめくが、月夜の届かぬ場所から漂う雨の残り香は、まるで暗闇の中に潜む何者かの気配のように感じる時がある。
誠司と春日親子は、しばらく無言で歩いていた。喋りだしたのは二人の父親である修也だつた。
「なんだか・・・不思議な店長さんとお店でした。僕すごく要領が悪いので、子供達や会社にも助けられてばかりで。それなのに、一人で頑張っているように錯覚してしまうことが多かったんですけど。一気に肩の力が抜けて心に余裕ができたら、感謝する気持ちを思い出したような気がします。
ここに来るまでは、すごく取り乱していたのに。門をくぐって扉を開けた瞬間になんとも言えぬ平安が心にひろがったんです。心から安心できたのはもう何年も前だなぁ・・・って。」
心の内を恥ずかしげもなく話す修也の表情は、あまりに穏やかであった。
結婚も子供もいない誠司には修也の気苦労は計り知れないが、妻の入退院や子供たちの面倒、仕事の両立。精神的な負担が膨大であることは想像に容易い。修也の表情に千香と三樹の二人が喜んでいることを案外本人は気づいていないのだ。
誠司は小さな探偵社ではあるが職業柄、人より周りの人の表情や仕草に敏感なのであった。
「お父さん見てみて!麻里さんのお土産、ローズとハーブの入浴剤セットと林檎のジャムだったの。私お花の中でもローズが大好きだし、今日食べたジャムの中で林檎が一番おいしかったからすっごく嬉しい。
お店で出してもらったココアも、小さいころよくお母さんに作ってもらってて大好きだったなぁ。」
「僕もココア大好き。僕はチョコレートクリームだったらいいなって考えていたんだけど、そしたらお土産に入ってたんだよ。麻里さんすごいね!」
久しぶりの父親の穏やかな様子に加え、お土産が大層気に入った二人は魔法だマジックだ、とはしゃいでいた。それをみつめていた誠司と修也はお互いに「まさか…ね」と確認の苦笑いを向け合うことしかできなかった。幸いにも帰り道は修也がしっかり覚えていてくれていたので迷わずに帰れている。
「それにしても冷えますね。」
「そうですね。」
まだそう遠く離れていないのに、もうすでに店内の温もりが恋しかった。一瞬、氷のような風が誠司たちの間を縫うように駆け抜けていった。お土産を抱えるように身を縮めると、体内に残るハーブティーが誠司のお腹をじんわりと温めてくれているような気がした。
誠司と修也は最後まで、今回の依頼料(ご迷惑料)についての押し問答を繰り返したが、事務所まで頑なに断り続けた誠司が勝った。
それでも修也は納得がいかず、
「せめてお礼には必ず伺いますので。」
と、呆れた子供たちそれぞれに両手をとられ、引きずられるような形で別れた。
事務所につくと切り忘れていた暖房のせいで、いつもより空気が淀んでいるように感じた。
コートとマフラーをコート掛けに引っ掛けて、窓を開けてから、お土産の中身を確認した。
小さな紙袋には、自家製のハーブティーのパックがいくつかとメッセージが添えられていた。
”誠司さん。タイムのハーブティーは頭痛によく効くんですよ。寝る前にぜひ試してみてください。安眠効果もあるので久しぶりにぐっすり眠れると思います。”
そういえば薬も飲み忘れていたというのに長らく頭痛がひいている。それに、実は最近深く眠れず夜中に目が覚めるのも、誠司の悩みのひとつだった。このことは麻里はもちろん、病院でも話していない。
いよいよ、誠司の探偵の血が騒ぎはじめる。
麻里はもちろんだが、マーロという不思議な猫も忘れてはいけない。初めて会った時から、誠司は彼(マーロは雄猫)を一目置いているのだ。
しかし今夜は、久しぶりにぐっすり眠れる確信的な嬉しさに浸ろう。と心を踊らせる誠司であった。
ティザンヌを訪れてから一週間近くたった。
お土産にもらったハーブティーは大事に飲んでいたが、もういくつも残っていない。今日は陽ざしが暖かい静かな午後だった。最近はすっかり良質な睡眠を確保できているので、誠司の身体、特に頭は軽く心が穏やかだった。
もともと人が集まるような場所は好きではなかったし、最近の喫茶店やコーヒーショップの華やかさには敬遠していたが、あの喫茶店にはもう一度足を運びたいと思える。ハーブティーの補充の意図はあるが、なによりはあの一人と一匹が大変に気になる。
いくらなんでも本当にハーブの効能だけで、長年の頭痛から解放されているとは思えない。きっと他にも秘密があるのだろう。
誠司はいつもと同じように長い脚を机の上に組んで、背もたれに頭を乗せながら窓越しに空を眺める。
もちろん、本気で魔女だなんてこの歳になって考える方が馬鹿げているのは分かっている。しかし、腐っても探偵である。少しでも気になることがあるのなら、明確な理由で解明したい。
いつでも来てほしい、とは言われたが、そう易々と男性一人で訪れていいのだろか。何か他に自然なきっかけがあればいいのだが。
誠司は温和で落ち着きがあるといえば聞こえはいいが、小さい頃から他人を心から信用していない。幼くして母親が失踪したのが原因だろうが詳しくは考えていない。ただ、誰かと必要以上に親密にならない。必要以上に好かれ嫌われないように、周りの人を観察し細心の注意を払う。もしかして誰より腹が黒いのではないかと、ずいぶん前から自負している。頭痛の原因もそういった所からなのも。だからこそこの仕事が向いている訳でもあるのだが。
対照的に、麻里のように駆け引きを知らない真っすぐに愛情を示せるような、苦労を知らなそうな人は本能的に苦手だった。
向けられる眼差しや発言が綺麗だと、自分がより黒い存在であると痛感してしまうし、正直むしゃくしゃもする。人間らしくない。もっと欲深く、わがままなのが人間だ。この仕事では、そういう人をよく見る。その度に安心もする。
「ふぅ・・・。」
気づいたらまた自分自身について考えてしまっていた。あまり自分自身に目を向けるのは好きではない。毎回、劣等感に押しつぶされそうになるからだ。
先程よりもさらに、背もたれに体重を預けると、誠司の心中とは裏腹に、近頃絶好調な身体はすぐに心地よい睡眠に導こうとする。睡眠欲は心の健康は比例すると聞くから、これでも誠司にしては大分精神が落ち着いている方なのである。ちなみに食欲は体の健康と比例する、らしい。
・・・どれくらいそうしていただろうか。誠司はうたた寝していたようだ。
「野宮さん、こんにちは」
気がつくと机の前には千香が立っていた。
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