第8話

夕陽も、ほとんど落ちきって真っ暗になった廊下を僕は一心不乱に走っていた。

彼女は待ってくれているだろうか。

僕の心を漠然とした不安が襲った。

しかし不思議ともう過去に対しての恐怖はあまり感じられなかった。


「親友の言ってることくらい信じろよ」


あの言葉がきっと忌まわしい過去を抑えてくれているのだ。

御子柴には感謝してもしきれない。


咲桜さんにもとても悪いことをしてしまった。

僕は過去に縛られて彼女の想いを聴くことを拒絶し、傷つけてしまった。

あの時、咲桜さんはいったい何を思っていたのだろう。優しい彼女のことだから、きっと嫌悪感などじゃなくて純粋に心配してくれていたのだと思うと余計に苦しくなった。

そんなことを思いながら下駄箱までつくと、桜坂のスピーカーから音が聞こえていることに気がついた。

さっき打ち合わせた通りに御子柴が流してくれていたのだ。

僕は玄関を抜けると校門を目指して再び走りだした。


桜坂を駆けていると、映画のフィルムのように咲桜さんとの思い出が頭の中で回り始めた。

楽しい顔や喜んだ顔、それにちょっと悲しい顔、様々な表情を思い返す度に、それらが辺りに散漫していく。

その思い出の結晶たちは風に乗って緩やかに舞い上がり、まだ季節外れであるはずの桜の木々たちを薄ピンクに色づけていくようだった。

全力疾走を続けて、体力はもう限界に近いはずなのに彼女との想い出に囲まれているためなのか僕の心は幸福感でいっぱいになった。


そして改めて実感した。咲桜さんと過ごした時間は現実では短いものかもしれないけれど、僕にとっては、かけがえのない永遠にも等しい時間だったのだと。


そんな思いに耽っていると校門の前に人影が見えた。

「頼む、咲桜さんであってくれ」と僕は心の中で祈り続けた。




その人影は咲桜さんだった。

彼女は校門の煉瓦に背中を合わせて立っていた。

僕に気づくと微笑みかけながらそして口ずさみ始めた。


「桜の 花びらは」


御子柴は僕が作った歌詞をスピーカーで彼女に届けてくれていたのだ。


僕はあの屋上で歌う彼女を思い返した。

1人、風に吹かれながら歌うあの姿を。

彼女は続けて歌った。


「僕に 優しく 微笑みかけて

永遠とも 呼べる

時間を 僕にくれた

だけど僕は 弱くてさ

君を目の前に 逃げ出した

許してくれるなら

もう一度だけでも会いたい


その手とこの手を重ねて

夢へと飛べたらいいな


苦しく 忘れたい あの過去がまた

激しく 僕を 締め付けるけど

心で 君を 抱き締めるから

春の風よ もう一度だけ、君を」


唇から生み出される透き通るような高音が桜並木に響き渡った。

木々たちは命を吹き込まれたようにゆらゆらと横に揺れる。

それはまるで、全てを包み込もうとする暖かい春風ようだった。

僕はその場で聞き惚れていた。

目をつむり彼女の春風を全身で感じ取ろうと深く呼吸をした。


「いい歌詞をありがとう。決心がついたみたいだね」


彼女の声が再び、僕の鼓膜を響かせた。

歌の効果なのかうるさいほどの胸の鼓動は収まり、苦い過去の記憶は浄化されたように何処かへ飛ばされていった。


僕は言った。









「あなたのことが好きです。」









僕たち二人の時間のみが俗世界とは切り離されたように制止した。









「私もだよ」









彼女はただ一言、僕に返してくれた。

僕は思わず抱き締めた。あの屋上の時よりも強く、優しく。


そして、わずかな時間が流れた。

僕は彼女の返答をしっかりと心に刻んだ。

僕は続けて言った。



「でも咲桜さんの夢の邪魔はしたくないから、それが叶ったら、また絶対に迎えにいくよ。」




咲桜さんは僕を抱き締める腕を少し強めた。



「今度はちゃんと繋いでおいてくれるの?」



彼女はイタズラっぽい笑みを浮かべている。

僕はゆっくりと確かな想いを持って首を縦に振った。

咲桜さんは満面の笑みを浮かべながら涙を流した。そして「ありがとう」と呟き、僕の赤くなったほっぺたにキスをした。




咲桜さんはその後、卒業式を終えると直ぐに東京へと旅立っていった。

こうして僕の高一の春の恋は終わりを告げた。

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