第3話

 翌朝、節子――いや、かつて節子だった頃の記憶を取り戻したアンナは、ふっかふかの蒲団の中で目を覚ました。


 掛け布団のサラリとした手触りはシルクだろうか。


「贅沢ねえ」


 節子が前世で愛用していた布団といえば、近所のホームセンターで売っている『五点セット3980円』のものだった。

 しかも長年使いこんだせいで敷布団の中綿はクッション性を失って、ぺたんと床に貼りつくようなせんべい布団だった。


 だからこそ、体にふんわりとまとわりつくような柔らかさでありながら羽のように軽いこの蒲団がいかに高級品であるのかを、節子は肌で感じたわけだ。


 部屋の調度品ももちろん、布団の上質さに負けぬほど豪華であり、特に部屋の隅に置かれた小さな鏡台は鏡の周りに大小とりどりの細かな花が彫り込まれていて美しい。


 これは喜ばしいことである。

 悪役令嬢とは――『悪役』と冠はついていても、令嬢であることは間違いのないこと。

 たいていは侯爵であったり公爵であったり、ともかく偉い人のお家に生まれて贅沢三昧をして暮らした結果として、手の付けられないほどわがままな娘に育ってしまったという設定が多いのだ。

 つまり、この部屋の豪華さこそが悪役令嬢であることの証だと、節子はそう考えたのだ。


「問題は、どのお話の中に生まれ変わったのか、なのよね」


 娘が独り立ちした後で有り余る時間と大人の財力を駆使して悪役令嬢モノを読み漁った節子ではあるが、『アンナという名の赤毛の女の子』という情報だけでは、それがどの作品のどの『アンナ』なのかわかるわけがない。


 その時ちょうど、ドアをコツコツと叩く音がした。


「アンナさま、起きていらっしゃいますか?」


 どうやら朝の支度をしに来たメイドらしい。

 節子は『悪役令嬢』っぽく少し意地悪そうに両手を組んで、ツンと鼻先をあげてこたえた。


「おはいりなさい!」


 大きくて飾り彫りのはいった扉を開けて入ってきたのは、エビ茶色のエプロンドレスという、いかにもお仕着せなメイド服を着た若い女だった。

 彼女はくすくすと笑いながら、節子に言った。


「今度はなんの遊びを始めたんですか、アンナさま」


「え、遊び?」


「泥棒ごっこですか、それともまた、光の女騎士ごっこですか? 本当に、すぐに物語に影響されてしまうんですね」


「私、こういう生意気なしゃべり方ってしない子なの?」


「しませんねぇ」


「じゃあ、悪い子で、すごいわがままを言って、あなたを困らせたりとか」


「そんなこと、一度もなかったじゃありませんか。アンナさまは素直だし、私のような田舎娘の無礼もお許しくださるし、とても良い子ですよ」


「えっと……ねえ、私って、誰?」


「どうしたんです、アンナさま、おかしなことをおっしゃって、どこかお加減でも悪いんですか?」


「そ、そうじゃないけど……ね、ちょっと私のフルネームを言ってみて」


「はいはい」


 遊びに付き合おうというつもりなのか、メイドはメイドは小さく笑ってから、わざとらしい作り声で答えてくれた。


「アンナ=レクスフォード公爵令嬢様」


 これを聞いた節子の方は、両目を大きく見開いてあんぐりと口を開けてしまった。

 メイドはこれを不審に思ったか、ふっと不安そうな顔をする。


「あの、アンナさま?」


「……じゃない……」


「え?」


「悪役令嬢じゃないじゃない!」


 昨日から『節子の意識』に押しやられてあいまいになっていた『アンナの記憶』が彼女の中に戻ってきた。

 今、彼女はすべてを理解した。


 これは節子が前世で愛読していた『悪役令嬢に生まれ変わったならばコマンドは逃げる一択ですわ(小説版)』の世界なのだ。

 しかも運の悪いことに、節子が生まれ変わったこのアンナという少女は、『元ヒロイン』という微妙な立場である。


『悪役令嬢に生まれ変わったならばコマンドは逃げる一択ですわ(小説版)』――略して『ウマコマ』は、乙女ゲームの悪役令嬢として生まれ変わった少女が、破滅フラグを回避するためにヒロインの恋愛フラグが立つ瞬間にぜったいに立ち会わないように、あの手この手で逃げ回るというコメディである。

 いつも逃亡に失敗して、結局はヒロインの恋愛フラグ回収に手を貸してしまうというお決まりの流れがあって、毎回ドタバタするだけの軽い話なのだが、この軽さを節子は特に好んだ。


 だが、この世界に、しかもヒロインとして生まれ変わったなら、話は別だ。

 節子は、このヒロインが大嫌いだった。


 ヒロインであるアンナにも転生者としての記憶があり、しかも『ウマコマ』の世界の元となっている『恋もん』という乙女ゲームのプレイ経験者であり、ゲームの知識を悪用して自分の思いどおりにふるまうという……つまり早い話が、悪役令嬢の敵として立ちはだかる性格の悪い女なのである。


「やだわあ、つまり、ここでは私の方が悪役ってことじゃない? ねえ」


 見目麗しく稚いアンナが、突然のおばさん口調で話かけるものだから、メイドはびくりと震えた。


「アンナさま、口調がおかしくありませんか?」


「なに言ってんのよ、いつもこんな感じじゃぁないの」


「そうでしたっけ……」


「ともかく、とてもややこしいことになっちゃったわねえ」


 本当ならば『ウマコマ』の世界にアンナとして生まれ変わるのは、16歳という若さで死んでしまった少女であるはずだ。

 ところが、今のアンナの人は『池亀節子(54歳)』である。


「小説とかマンガだと、こういうちょっとした誤差みたいなものが運命を変えちゃうのよねえ」


 それを確かめなくてはならない。

 その一番手っ取り早い方法は、おそらく節子と同じように中身は転生者である悪役令嬢――『ジェレス嬢』に会うことだ。


「ねえ、メイドさん、私、ジェレスちゃんにお会いしたいんだけど、どこに行けば会えるかしらねぇ」


 メイドの方は、どうやらこのおばさん口調も何かの『ごっこ遊び』だということで納得したらしい。


「今度は井戸端会議ごっこですか?」


「そうね、そんなところね」


「で、何でしたっけ、ジェレス嬢にお会いしたいんでしたっけ」


「そうそう」


「でしたら来週まで待てば、皇后さま主催のガーデンパーティに、アンナさまもジェレスさまも、お二方ともお呼ばれしているはずですわ」


「あら~、そうなの?」


「はい、このガーデンパーティーは第二皇子さまの婚約のお相手を探すためのものですから、皇子さまと年の近い貴族の娘はすべて呼ばれているはずですから」


「じゃあ、来週まで待ちましょうか」


「そうしてください」


 こうしてアンナこと池亀節子は、翌週――王城で催されるガーデンパーティの日を待った。

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