第2話
「あっ! 悪役令嬢で! 悪役令嬢でお願いします!」
アンナは自分の声に驚いて目を覚ました。
「痛!」
後頭部からずきずきと滲み出すような痛みを感じて、ふいっと手をあげる。
違和感があった。
「え、私って、こんなに小さな手、してたっけ?」
皺も染みもない指の短いふっくらとしたそれは、見るからに子供の手だ。
「それに……ここ、どこ……?」
ちいさな明り取りの窓から差し込む月明りで、部屋の中の調度品がかろうじて見える……。
「ん? 見える?」
おかしなことだ。
最近は老眼が始まったせいで暗い場所で何かを『見る』なんてことはできなかったはずなのに……
「ちょっと待って、なんかおかしくない?」
ふっと寝台から降りて、部屋の隅にある小さな鏡台に向かう。
最初に目に入ったのは、月明りに色を奪われてなお愛くるしい、ふっくらと丸い頬だった。
「ええっ、誰この子供!」
鏡に写し出されたのは、齢8才ほどの愛くるしい少女だった。
「待って、待って! 私、昨日は娘の家へ遊びに行って、その帰り道……車に……?」
一つ一つの出来事を思い出す度にズキンズキンと脈打つような頭痛が押し寄せてくるが、そんなことには構っていられない。
「思い出した……私は池亀節子……54歳……」
そう、見た目は赤毛にくりくりと大きな目がかわいらしい西洋顔の8歳児だが、アンナの中身は『池亀節子(54歳)』なのである。
節子は夫と離婚して、女手一つで娘を育て上げた。
その娘もすでに嫁いで、今は二人の子を持つ母親だ。
その子供たちがまたいたずら盛りで、節子は娘の負担を減らすためにこもりとして足しげく娘の家に通っていた。
昨日もいつも通り、かわいい孫たちの面倒を見るために娘の家へ行った。
孫は5歳と3歳、二人とも男の子だということもあって、時には手余しするほどやんちゃだ。
それでも女の子しか育てたことのない節子にとっては、行動的で好奇心旺盛な男の子たちの相手をするというのは、毎回が新しい発見と冒険に満ちた楽しい子育てだった。
昨日もいつも通り……本当にいつも通り、二人の孫を公園に連れて行って、たっぷり遊んだ疲労感と満足感を抱いて家路につく途中だった。
そこへ信号を無視した暴走車が突っ込んできたのだ。
「やだ……私、死んだんだ……」
生々しい死の記憶に体が震える。
「つまりこれ、異世界転生ってやつよね」
節子がその事実をすんなり受け入れられたのは、娘が独り立ちした後の趣味として『マンガサイト』にハマっていたからだ。
女性向けマンガサイトにはファンタジーの世界に転生して運命の抗いながら真実の愛を手に入れる話があふれていた。
そう、節子はそうした女性向けの転生物を特に好んで読んでいたのだ。
「へえ、死んだ後のことは死んでみなくっちゃわからないって、本当ねえ」
めちゃくちゃ諦観した感想しか出てこないのは当然、節子は孫が二人もいるような年であり、年々衰えてゆく体力を実感していたのだから、死を意識したことは何度だってある。
それが自動車事故なんて唐突な形であるとは思わなかったが、若いころには何でもなかった階段の上り下りが辛くなったり、ときどきは更年期障害でふっと体がのぼせ上がったかと思えばスッと冷たくなったり……そうした老化の兆しを体感していたのだから「ああ、自分はいずれ死を迎えるんだな」みたいなことをぼんやりと考えていたのである。
だから、前世での死に未練はなかった。
気楽なおひとりさま暮らし、おまけに娘もすでに自分の手元から巣立っているとあっては、現世に何の未練があろうか。
いや、ない(反語表現)。
自分の葬式で娘が泣く姿を想像すると胸がチクリと痛むが、それだって自分以外に頼る者の無い幼い子供じゃあないんだから……きっと娘婿なり子供たちなり、『家族』がその傷をいやしてくれるだろうと思えば罪悪感はない。
つまり今の節子は、完全に『自由な気分』だった。
「最高じゃないの、異世界転生!」
節子は顔がつくほど鏡に顔を寄せて自分の容姿を確かめる。
「あら~、かわいいわね~、いかにも子供らしい素直な顔してるじゃないの」
子育て経験者である節子にとっては、子供はすべからくかわいらしい。
親のいうことを聞かず駄々をこねて手足をばたつかせる子供には『駄々っ子のかわいらしさ』があるし、少し意地の悪い悪ガキには『悪ガキとしてのかわいらしさ』がある。
たとえば子供に転生した自分の容姿が意地悪そうな顔をしていたり、少し不細工でも『子供らしくてかわいい』と言ったことだろう。
だが節子の器であるアンナは、『子供らしくて』なんて枕詞など必要としないほどにかわいらしかった。
なんといってもチャームポイントはにこっと笑うと白い歯がこぼれる口元だ。
まったく邪気がないというか……人を魅了する実に子供らしい笑顔を持っているのだ。
「ああ、いったい、どの世界に転生したんだろう、もちろん『悪役令嬢』よね!」
それを確かめようにも、こんな夜中では誰も会話する相手すらいない。
「朝になったら、誰か来るんでしょ」
節子は天蓋の付いた大きな寝台に這い上って、布団の中に潜り込んだ。
しかし、胸が高鳴ってなかなか寝付けない。
「うふふ~、素敵な殿方と恋なんかしちゃったりして……困っちゃうわねぇ」
こんな胸の高鳴りはいつ以来だろう――。
節子だって女なんだから、夫と別れた後で再婚話や男からの告白はいくつかあった。
しかしそのすべてを退けてきたのは、娘がいたからだ。
それを理由に娘を恨んだり責めたりするつもりはないが、思春期の娘が嫌がるんじゃないだろうか、義父と娘が上手い人間関係を築けるだろうかと、常に娘を中心に人生を考えてきた。
その結果、節子は誰とも再婚せずに今に至ったわけだ。
「そうね、恋に溺れる人生っていうのも、悪くないかも」
とりあえず目を覚ましたらここがどこなのかを誰かに聞こう。
そう思いながら節子は、半ば強制的に瞼をおろした。
「これ、絶対『悪役令嬢』に決まってる、だって、テンプレだし」
そう考えれば妄想は膨らむ。
瞼は下したがなかなか寝付くことはできず、節子は何度も寝返りを打った。
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