ふたたび、大坂城【天正17年7月末日】
どこまでも続く畳敷きの廊下を進む途中、ふと庭の
眩しいくらい鮮やかな紅色に、目を細める。
懐かしい。御化粧係になると決めた日も、こんなふうに百日紅が咲いていた。
「戻ってきたのね、大坂城に」
二年ぶりに、やっと。
そう思うと、少し気持ちが軽くなった。
お忍びの寧々様と職場復帰の面談をしてから、はや二週間。
予定通り私は、寧々様のお引越しに合わせて職場復帰した。
父様にもっと家にいてくれとごねられたが、そっちは母様に対応をお願いした。
日時指定で出勤命令が出ていたのだ。父様の駄々に付き合っている暇はなかった。
さっさと荷物をまとめて、私は懐かしい大坂城へ上がった。
弟たちに、「また遊びに来てね!」とちょっと傷付く見送りをされて……。
で、始まったひさしぶりの奥勤めだが、今のところは順調だ。
大坂城は、良い意味で聚楽第とほとんど変わらない環境なのだ。
寧々様が気を配ってくださっているおかげで、人目に煩わされることもない。
仕事に必要な設備や物資も、オフの生活環境も、私に馴染みがある形に整えられている。
身の回りの侍女や女中はそっくりそのままで、上司も同僚もほぼ一緒。
大きく変わったことは、建物と若干の人の配置くらいかな。
それに慣れてしまえば、あっという間にいつも通り。
気を抜くと、前からここで働いてたっけ? と錯覚をしそうになるほどだ。
ありがたい反面、ちょっと怖いような、そうでないような。
まあとにかく、目立って困ることなく、平穏に過ごせている。
心配だった仕事の負担も、思ったほどなかったしね。
じっくり丁寧に仕事をしても、以前の半分以下の勤務時間で済む。
空いた時間はほぼ余暇で、疲れたら早めに仕事を切り上げることも許されている。
おかげさまで、すごく楽。働いているのか、遊んでいるのか時々わからなくなるほどだ。
これでいいのか心配だが、一時的なものだろうなと思う。
明日か明後日には、旭様と徳川家の若君が大坂に着く。
頼まれている江姫様の介添え役としてのお仕事が、本番を迎えるのだ。
間違いなく、今より忙しくなる。
若君の滞在中は、毎日江姫様のメイクや衣装のお手伝いが必須だ。
顔合わせや接待の席にも同伴予定なので、私自身の身繕いも気合いを入れなければならない。
下手に隙を見せたら、旭様に弄られる。
人前で、それも知ってる人や初めて会う人の前でだ。
人の憧れの的を演じる仕事をやっている身で、ポンコツを披露するのはまずい。
絶対に! 旭様に遊ばれることだけは避けなければ……!
脳裏に浮かぶ苦い思い出に、ぐっと袖の中で手を握る。
服とメイクは、寧々様にアドバイスをもらって念入りに対策をしている。
行儀作法も、孝蔵主様に叱られない程度にはブラッシュアップした。
今回は行幸前の二の舞を踏まず、完璧なお姫様をやり遂げる。
そしてつまらなそうな旭様にドヤ顔をしてみせるのだ!
そんなふうに決意を固め、廊下を進む。 今日の予定は、江姫様と顔合わせに向けての打ち合わせだ。
日程やイベント内容についてはあらかた話が済んでいるので、今日は衣装とメイクの相談をする。
最低限のTPOさえ守れば、江姫様と私の好きにして良いという、寧々様のお許しは出ている。
めいっぱい江姫様に合わせて、好き放題させてもらうつもりで準備をしてきた。
ついでに、江姫様の気晴らしができたらな、と考えてもいる。
大坂城に来てからの江姫様は、目に見えて元気が無い。
明るくてよく笑う人だったのに、笑顔が減っていた。
打ち合わせのたび、そのお顔に浮かぶ物憂げな陰が濃くなっている気がする。
理由はわかりきっている。これが江姫様にとって、不本意な婚約だからだ。
今すぐ逃げ出したくてたまらないことだろう。
でも、その願いを叶えてあげることはできない。
この結婚は政治だ。
羽柴と徳川を二世代にわたって結びつける、友好条約なのだ。
個人の気持ちを理由にして、中止できるものではない。
平和のために、必要不可欠な結婚なのだから。
わかっていても、やっぱり痛ましいことには変わりないのだけどね。
恋愛結婚が最高とは言わないが、意に沿わない結婚は辛いものだ。
それも、見たこともない人が相手だよ。生涯を共にする相手なのに、相性が合うかどうかも事前に判断できない。
まあ、現代人から見たら、徳川家康の嫡男との結婚は勝ち確定なんだけどさ。
玉の輿で将来安泰でも、相性が悪くて夫婦仲が冷え込んだら地獄だ。
江姫様でなくても、大抵の人は悪い予想の一つや二つしてしまうわ。
本気で愛よりお金を取れる人なら別だが、当日まで鬱気味になってもしかたない。
だからせめて、励ますくらいはしたいと思ったのだ。
コスメは江姫様好みの色や質感のものをたくさん仕入れた。
似合いそうなメイクも、いくつか考えて練習もしている。
この顔合わせを、少しでもより良いものにして差し上げたい。
それが叶わなくても、今だけでも、綺麗なものに触れることで気持ちを慰めてあげたい。
そうすることで、くじけそうな江姫様の心を支えたい。
できるかどうかは、わからないけれど。
「はぁ……」
ため息まじりに角を曲がると、廊下の先に女中が一人いた。
掃除中なのだろうか。頭を手拭いで覆っている彼女は、慌てたように脇に飛び退いた。
仕事中に悪いことをしたなと思いつつ、平伏する女中の前を通り過ぎて。
私は、ぴたりと足を止めた。
「姫様?」
お夏を無視して、二、三歩戻る。
そこにはまだ女中が縮こまっていた。
気になる。彼女の前に立って、じっと見下ろす。
畳の上に揃えられた指先に、違和感を覚えた。
この子、妙に美しい指をしている。
両手ともささくれ一つ無く、爪はしっとりとした艶を帯びている。
(……水仕事を知らない指の女中、ねえ)
おもむろ膝を付いて、女中の爪先ギリギリまでにじり寄る。
少し色褪せたオレンジの小袖の肩が、びくりと跳ねた。
「ごきげんよう」
「…………」
返事はない。
女中姿の彼女は、黙って平伏し続けている。
「ごきげんよう」
「…………」
「ねえ、聞こえてますよね?」
女中に顔を近づけてみる。
連動するかのように、手拭いを被った頭がさらに畳と近くなる。
往生際の悪いことだ。手荒な真似はしたくないが、しかたない。
そっと下げられた女中の頭に手を伸ばす。
一呼吸置いて、一気に手拭いをはぎ取った。
「きゃ、わっ!?」
「ごきげんよう、三の姫様」
焦り顔があらわになった女中、もとい江姫様に微笑みかける。
そんなに怖がらないでくださいよ。私は人を取って食う怪物じゃないんだから。
膝をもう一つ進めて、問いかける。
「女中の装いで、何をしておいでで?」
江姫様は押し黙って答えない。
ただ、悔しそうにくしゃりと顔をしかめるばかりだった。
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