寧々様のおしのび(後)【天正17年7月中旬】

「大坂にいらっしゃるのですか?」


「ええ、当面はあちらで過ごすつもりよ」



 まさかの言葉に、驚いて目を見開いてしまう。

 当面は大坂で過ごすつもり、ということは、一時滞在ではなくて本格的に引っ越すおつもりなのか。

 私がお側に仕えてからの寧々様は、一度も都の聚楽第を空けたことがなかった。

 いや、空けられなかった、と言った方が正確かな。

 去年に執り行われた帝の行幸や、竜子様の妊娠出産があったからね。

 寧々様は都にいて仕事をせざるをえず、大坂城には一度も戻ることがなかったのだ。

 でもここにきて急に、大坂にお戻りになるなんて予想外だわ。



「あの、一つよろしいでしょうか」


「何かしら」


「都のお城はどうなさるので?」



 都を空けっぱなしにして、大丈夫なのかな。

 最近は淀と都を行ったり来たりの秀吉様を野放しにするのは、とんでもないリスクだと思うのだけれど。

 心配になって訊ねる私に、寧々様は問題ないと言い切った。



「竜子殿にお任せするのよ。うちはほら、奥の面倒を見るべき城が二つもあるでしょう?」



 軽く頷く。私もそのことはよくわかっている。

 羽柴は特殊な家だ。ほぼ天下人である武家であり、関白として宮中に君臨する公家でもある。

 ゆえに二つの側面に合わせた居城、分けて持っている。

 それが大坂の大坂城と都の聚楽第であり、秀吉様は仕事に合わせてこの二つの城を定期的に行き来しているのだ。

 自宅が二つあるみたいなもの、といえばわかりやすいかな。

 どちらの城にも、城主の執務や生活に必要な機能が完備されている。

 つまり城奥もまた、二つ存在するわけで。聚楽第よりは少なめだが、大坂城の城奥にもしっかり秀吉様の側室や妾が住んでいるのである。



「ここ二年ほど、大坂の城を空けがちだったでしょ。去年は行幸や竜子殿のことが立て続けにあったし」


「今年も今年で、年初からお忙しゅうございましたものね」


「そう。だから、あちらに住む子に手伝ってもらったり、ひがし孝蔵主こうぞうすを差し向けたりで手は尽くしてきたわ」



 けれども、と寧々様はため息まじりに眉を下げる。



「やっぱり、限界があったのよね」



 寧々様がそっと目を伏せる。

 ……香様のことか。苦みを含んだ憂い顔で、すぐに察しがついた。

 香様の不幸は、寧々様のいない大坂城で秀吉様のお手が付いたことが発端だ。

 火遊びを隠したい秀吉様に忖度した人たちの手で懐妊がわかるまで放置されて、その放置期間があらぬ疑惑の根拠になってしまった。

 もしあの頃に寧々様が大坂城の城奥にいらしたら、香様への初期対応も違っただろう。

 お手付きの妾として侍女や女中が付けられ、無実を証明してくれる人を持てたはずだ。

 懐妊という運命は変えられなかったとしても、産所に移る日まで一貫して大坂城で過ごせたに違いない。

 茶々姫様に近づくことなく、無事に若君をお産みになって、そして……。

 そんな未来を叶えられなかったことを、寧々様は悔やんでいらっしゃるのだ。



「だから、竜子殿と相談して決めたのよ」


「寧々様は大坂、竜子様は都。手分けをして二つの奥をお世話する、とですね」


「うちの人がまたやらかす前にね」



 皮肉っぽく言って、寧々様は頷いた。

 寧々様らしいすごく理に適った判断だ、と思った。

 それならきっと、香様の轍を踏む女性は二度と出ない。

 竜子様は寧々様に対して一歩下がる姿勢を見せているとはいえ、正真正銘の秀吉様の正室だ。

 嫡男である幸松様の生母であり、出産後に官位も寧々様に次ぐ従三位へと上がった。

 誰にはばかることなく、正室として寧々様と同等の権限を行使できるお立場である。

 また竜子様は、茶々姫様と違って正室の責務をよく心得ている人だ。表の政治についても、しっかりと追っていらっしゃる。

 なにより、必要と判断すれば秀吉様へのお仕置きや諫言を怯まず実行できる人でもある。

 出産後の体調がだいぶ落ち着いた今からならば、安心して聚楽第の城奥の主を任せられるだろう。

 そう踏んだから、寧々様は大坂城へお移りになる決心をしたのだろう。



「私を大坂に、ということは御化粧係は大坂へお移しになるおつもりですか?」


「いいえ。お与祢とお与祢の配下は大坂に移すけど、杏とその配下は都に据え置きよ」



 ああ、やっぱり。薄々そんな気はしていたけれども、正室一人に付き御化粧係一人という配置にするのか。

 すでに御化粧係は、寧々様たち城奥の女性の生活に欠かせないパーツになっている。

 大坂城と聚楽第の城奥を同レベルで機能させようと思えば、御化粧係もそれぞれに置く必要が出てくる。

 理解はできたが、つい渋い顔になってしまう。

 御化粧係の現状を考えると、二手に分かれて仕事を回すのはちょっと厳しい。

 指揮官は私たち二人がいるけれども、配下として働く侍女や女中の人員はあまり多くないのだ。

 聚楽第だけならホワイトな労働環境を保てるけれど、半数を大坂城へ回すと途端にブラック化するだろう。

 自分のためにも、部下のためにも、それだけは避けたい。

 


「足りない人手はすぐ足すから、がんばってちょうだいな」



 そんな上手い話があるのかなあ。



「すでに御化粧係用の侍女の募集をかけているのよ。ねえ?」



 げんなりした顔で、杏が首を縦に振った。

 マジか、杏ちゃん。茶々姫様のお世話しながら人事のお仕事もしてたの。

 過労で倒れなくてよかったけど、おいたわしすぎる。

 


「最低限、まずそうな人間は弾いといた。後はお前に任せていいな?」


「う、うん。すぐお夏と打ち合わせするわ」



 この会話は控えの間にいるお夏に聞こえているかもしれないが、私の口から改めて伝えようと心に刻む。

 あ、候補者の履歴書の写しがあるならもらわないとな。

 あれは候補者の身辺調査に必要なものだから、無いとお夏や佐助が渋い顔になる。

 身辺調査は杏がすでにやってくれているとはいえ、ダブルチェックをするに越したことはない。

 産業スパイや窃盗犯予備軍を、城の中に招き入れたくないからね……。



「お与祢、難しい顔をしちゃだめよ」



 そう言って、寧々様は私の眉間に指を当てた。

 無意識に寄せていた皺を、やんわりと解すように撫ぜられる。



「本格的な仕事は人手が揃ってからでいいわ。初めから全力で働いたら疲れるでしょ?」


「それはそうですが、よろしいのですか?」


「いいのよ、また貴女が倒れてしまったら元も子もないもの。軽めの仕事から始めましょう」



 異存はないかと問われて、即座に頷く。

 慣らし勤務を織り込んでもらえるなら、無理なく仕事に復帰できると思う。

 天正ではありえない手厚い対応に、異存なんかない。ありがたみしかない。

 寧々様の背後に、後光が見えた気がする……。



「では決まりね。あたくしは十日後に大坂へ移るから、それに合わせて出仕してくれればいいわ」


「承知いたしました。父母に伝えて支度いたします」



 十日後の出仕なら、だいぶゆっくりとできそうだ。

 今私が住んでいる場所は大坂屋敷。大坂城との距離は近く、当日朝に出発すれば寧々様の先回りをすることも可能だ。

 たぶんごねる父様を言いくるめる時間込みでも、余裕を持って出勤準備ができるだろう。

 せっかくだから、堺の与四郎おじさんにも遣いを出しておこうかな。

 オリーブオイルや椿油を使った石鹸の試作を始めたと聞くし、何か良いものを持ってきてくれるかもしれない。



「そういえば、寧々様」



 そんなことを含めて、寧々様や杏と軽く打ち合わせをしていてふと思い出す。



「大坂での最初のお仕事はどのようなものですか? 軽いものと仰せでしたが……」


「ああ、それね」



 白湯を飲み干した寧々様が、軽く唇をたわめる。



「簡単に申すと、ごう姫の介添えを頼みたいの」


「え、浅井の三の姫様が大坂にいらっしゃるのですか?」



 久しぶりに聞く名前に、ちょっと驚く。

 茶々姫様の末妹である江姫様は、従姉いとこの竜子様の膝元で暮らしていたはずだ。

 本来は実姉の茶々姫様が保護者として妹を手元に置くべきなのだが、妊娠してから何かと身の回りが落ち着かなかったからね。

 哀れんだ竜子様が江姫様を引き取って、子育てと同時並行でお世話なさっていたのだが……。



「あの子の新しい縁談のことは存じていて?」


「はい。お相手は確か、徳川様のご子息でしたか」


「そうそう、嫡男に当たる三郎君ね。こたび大坂にいらっしゃるから、江姫と一度引き合わせることになったのよ」



 江姫様は元々、秀吉様の甥である丹波たんば少将しょうしょう――羽柴はしば秀勝ひでかつ様と婚約していた。

 が、昨年末に秀吉様の指示により、輿入れ寸前で破談。

 年明け早々に、新しい縁が組み直されてしまったのだ。

 新しいお相手は、旭様の夫である徳川様のご子息。

 三男でありながら嫡男という、江姫様より六歳も年下の少年である。

 その彼が、今月末に上坂じょうはんする予定なのだそうだ。



「……急なお越しですが、もしや江姫様との対面の他にも御用がおありで?」


「察しが良いわね、人質よ」



 あらやだ、予想が大当たり。私の勘も捨てたもんじゃないな。

 理由としては、徳川様が担当している東の北条との外交問題あたりか。

 臣従にあたっての条件交渉でごたついていると、紀之介様にお聞きした覚えがある。

 例の真田家との領土問題が、解決しかけているのにこじれるという、わけのわからない状態になっているらしい。

 なので徳川様としては、念のために、というおつもりなのだろう。

 一応旭様が同伴しているということだから、実のところはあまり深刻なことにはなっていないと思う。

 嫡男の御目見おめみえついでに誠意を示しておくか、程度の感覚なのかもしれない。

 だとしても、徳川様が秀吉様に気を使いまくっていることには変わりないか。

 いつもながら、おいたわしい……。



「だからせめて江姫との対面が三郎君の慰めになれば、と思うのだけれど……」



 寧々様の美しい眉が、ぎゅっと寄せられる。



「江姫の方にも、色々と差し支えがあるのよね」


「破談になってから半年しか経ってませんしねえ」



 深いため息につられて、つい私も渋い顔になってしまう。

 前の婚約の破談から、まだ半年しか経っていない。

 ぶっちゃけると、江姫様は丹波少将様に未練たらたらだ。

 自分に非があったわけでもないのに、仲良くやってきた四つ年上の婚約者と無理やり引き裂かれたのだ。

 激しい恋をしていなくても、離れたくないと思ってしまうのはしかたない。

 しかも用意された次の相手は、六つも年下の十一歳だしね。

 江姫様は、釣り合わない、婚約者として見られないと叫んでいるそうだ。

 江姫様は、今年で数え十七歳。高校一年生の女の子が、小学五年生の男の子を夫に押し付けられたようなものだ。

  政治的な理屈や必要性はわかっていても、生理的に無理だわ。

 私だって、もし二つ下の熊ちゃんを夫にと言われたら、即答で無理だと断言する。

 現代だったら小学一年生だよ、熊ちゃん。大きなランドセルを背負って、よちよち歩いている坊やだよ。

 無いはずの犯罪臭を嗅ぎ取って、後ろめたさにさいなまれるのはキツイ。

 徳川様のご子息としても、初めて会う六歳も年上のお姉様が嫁です、と言われても戸惑うだろう。

 年齢が離れている上に性別まで違ったら、会話を弾ませるだけでも相当努力が求められると思う。

 仲良くしなきゃと思い詰めて、盛大に事故る可能性も高い。




 ――誰かが間に立って、仲を取り持ちでもしないかぎりは。




 そこで、私はハッと息を飲んだ。



「つまり私の務めは、縁結びの神様になること……?」


「頼りねえ神だな、おい」


「お黙り、杏ちゃん」



 自覚はあるから、言わないでほしい。

 自分の恋すらままならない神に縁結びを任されても、正直困るのですが。

 というか、どこからどう見てもプレッシャーが横綱級の大仕事だよ、これ。

 軽い仕事だなんて、寧々様の嘘つき……でもないか。

 肉体労働や拘束時間的な意味で考えれば、負担はかなり軽いもんね。

 正真正銘の軽いお仕事だったわ。あははは。

 


「ごめんなさいね。でも、お与祢にしか頼めないの」



 心底すまなそうに、寧々様がおっしゃる。



「最初はね、おごうに頼もうかと考えてもみたのよ。けれど、その、あの子にはこういうことには……」


「ああ、はい。不向きでらっしゃいますね、姉姫様は」



 豪姫様は、いつでもどこでも自分が主役の人だ。

 脇役に徹しなければならないキューピッド役は、難易度が高い。

 明るくて優しくて、素敵な女の子ではあるのだけどねえ。



「わかりました。誠心誠意、江姫様をお支えいたしましょう」



 やれる人間が私しかいないなら、やるしかないか。

 大きく息を吐いて、寧々様に一礼する。



「ありがとう! 助かるわ!」


「でも、あまり期待はしないでくださいね?」



 ころりと表情を明るくした寧々様に手を握られながら、申し上げておく。

 私だって、恋活の仲介や合コンのセッティングは得意と言えない。

 できることはせいぜい江姫様の愚痴を聞いたり、慰めたりする程度だ。

 上手く江姫様と徳川様のご子息の距離を縮められなくても、許してほしい。

 


「ええ、もちろん! できるかぎりで十分よ。わたくしもできることは何でもするから、安心なさい」



 元気よくそうおっしゃって、寧々様がどんと豊かな胸を叩く。 

 いつもながらとても頼もしい主君の姿を見ても、今回ばかりはちょっと不安が消えない。

 旭様が絡むお仕事だからだろうか……。

 そんなことを考えていると、どこか遠くで烏が鳴いた。

 不安がる私を鼻で笑うような、ちょっと癇に障る鳴き方だった。

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