寧々様のおしのび(前)【天正17年7月中旬】

 にこにこの寧々様から、杏へと顔を戻す。



「杏ちゃん、どういうこと」



 問いかけた途端、気まずそうに青い目が泳ぐ。

 ややあって、杏はか細い声で謝ってきた。



「……ご、ごめん、寧々様のお指図でさ」


「それならそうと言ってよ、もう……」



 あっさり白状されて、大きく息を吐く。

 まんまとおびき出されて悔しいけれど、杏を責める気にはなれない。

 杏もまた、寧々様の臣下。寧々様の命令を拒める立場ではないのだ。

 私だって、旭様に対するスパイ活動の命令を拒めなかった過去があるしね……。

 


「うふふ、びっくりした?」



 こめかみを揉んでいると、寧々様が襖の向こうからにじり寄ってきた。

 すぐ近くにやってきた彼女は、いたずらっぽく笑っている。

 憎めない方だなあ、もう。苦笑しつつ頷いてから、居住まいを正して一礼をする。



「寧々様、おひさしゅうございます」


「ええ、ひさしぶり。顔色、だいぶ良くなったわね」



 そっと寧々様の手が伸びて、私の頬を撫ぜる。

 数ヶ月ぶりに触れる手の温かさと柔らかさに、ちょっと鼻の奥がつんとした。



「ご飯は食べている?」


「はい」


「ちゃんと眠れるようになった?」


「はい」



 頬に添えられた手に、手を重ねて答える。



「寧々様にご配慮をいただいたおかげでございます」



 そう言って微笑みかけると、寧々様のお顔が泣き笑いのようになった。

 たくさん、心配をかけてしまったなあ。

 寧々様の心を煩わせて申し訳ない一方で、なんだか嬉しい。

 忙しくしている母様が、わずかな合間にかまってくれた時みたいな。そんな特別感に心が浮ついて、少し顔を伏せる。

 こんなことで喜ぶなんて、臣下失格かも……。



「お与祢?」



 心配そうな声で、寧々様に呼ばれた。



「あっ、はいっ」


「急にうつむいてどうしたの? お腹でも痛い?」


「いいえっ、大丈夫ですっ!」



 しまった。心配を重ねがけしてしまった。

 慌てて後ろめたさの勢いを借りて、首を大きく横に振る。



「その、少々考えごとをしていただけでして」


「考えごと? 何を?」


「えっと、なぜ寧々様が、お忍びでいらしたのかな……と」



 誤魔化しついでに、つい気になった疑問を口にする。



「お呼びくだされば登城いたしましたのに」



 そっちの方が寧々様が外出するよりも、手間はかからなかったはずだ。

 休暇中でも主君に呼ばれれば、登城するのが仕える側の義務だしね。

 すると寧々様は、困ったような笑みを浮かべて口を開いた。



「呼びたくなかったのよ」



 え、どういうことなの?

 意味をはかりかねていると、やんわりと頭を撫でられた。



「城に呼べば、あなたに嫌な思いをさせてしまうでしょう?」


「あ……」



 思わず、声が出てしまう。

 人の心は、残酷なものだ。他者を責めることで快感を感じる、浅ましい部分がある。

 そんな心の闇にとって、今の私のような良くない疑惑がある人は格好の獲物だ。

 浅ましさを正義という大義名分でコーティングして、罪悪感を感じず存分に気持ちよくなれるからね。

 美味しい獲物である私が登城すれば、必ず心の浅ましさに動かされる人を刺激してしまう。

 そうなれば、確実に嫌な話を聞く羽目になっただろうな。わざと聞かせて反応を試そうとする人に遭遇して、しんどい思いをしたかもしれない。


 だから寧々様は、ここに来てくれたのだ。


 人の無邪気な悪意で、私を傷つけないために。

 たくさんの無理を通して、いくつもの段取りを付けて。

 私と会うためだけに、城の外に出てきてくださった……。



「お与祢ったら、そんな顔しないでちょうだいな」


「でも、ですが」


「あたくしも外の空気を吸いたかったところなのよ。貴女のことはついでだから、気にすることはないわ」



 言葉を詰まらせる私に、寧々様の目が柔らかく細まる。



「困ったわねえ……泣き顔を見に来たわけではないのだけれど……」



 そう言われても、これは泣いちゃうよ。

 主に大切にされることが、これほど嬉しいことだなんて思いもしなかった。

 いつの間にか隣に膝を突いていた杏が、袱紗を目元に当ててくれる。

 向けられた親友の表情は、ただ優しい。よかったな、と語りかけてくれる。

 それがまた嬉しくて、私はあっという間に袱紗を涙の色で染め上げたのだった。





「落ち着いた?」


「はい……」



 寧々様の問いに、白湯を飲み切って頷く。

 まだ少し鼻声気味で恥ずかしい。けれど寧々様は気にした様子もなく、うんうんとお代わりを注いでくださった。



「あの、寧々様、白湯はもう結構です」


「だめよ、あと一杯はお飲みなさい。たくさん泣いた後は、白湯をたくさん飲まなきゃ」



 喉が渇いて辛くなるでしょう、と青磁の湯呑を押し付けられる。

 水腹なんだけどな……胃が白湯でちゃぷちゃぷしている気がする……。

 代わりに飲んでくれないかな。期待を込めて、杏の方へと視線を向ける。

 目元に当てるおしぼりを作ってくれていた彼女は、面倒そうに鼻を鳴らした。



「自分で飲めよ。寧々様のお指図だぞ、従え」


「まだ何も言ってないんですけど」


「お前の考えてることは口から出なくても丸わかりなんだよ」


「杏の言うとおりねえ」



 私たちのやりとりに、寧々様がくすくすと笑う。



「飲みたくないなら飲ませてあげましょうか」


「はい?」



 言われた意味がわからなくて、寧々様を見つめ返す。

 どういうこと? 飲ませてあげるって、どうやって?

 すると寧々様は、悪戯っぽく目を細めて、自分の膝をぽんぽんと叩いた。



「お膝に乗せて抱っこして、さじで一口ずつよ」


「なっ」


「さ、おいでなさい?」



 鮮やかな山吹色の小袖の両腕が、ゆるりと広げられる。

 そこでやっと、私は寧々様の意図に気づいた。

 つまり、あれだ。あ、あ、赤ちゃんごっこ……!



「けっ、けけけっ、結構でっ! 結構ですっっ!」



 鶏みたいな叫び声を上げて、手の中の湯呑を一気に煽る。

 げふっ、ちょっと気管に入った、けど、飲めたっ。飲んだっ。

 空の湯呑を勢いよく前に置き、懐紙を口元に添えて息を整える。

 それから、今にも燃えそうなほど熱い顔に笑みを浮かべた。



「……お気遣いはありがたく存じますが、お手伝いしていただく必要はございませぬ」



 荒い私の呼吸だけが、座敷に響く。

 目を丸くした寧々様と杏が、顔を見合わせる。

 ややあって、二人は残念そうなため息を吐いた。



「残念ね、飲ませてあげたかったのに」


「残念ですねぇ、面白いもんを見れそうでしたのに」


「お、面白くないでしょう? 私みたいな大きな子供に白湯を飲ませても、みっともないだけですわ」


「そんなことないわよ。面白いというか、いとけなくて可愛い絵面になったはずよ!」



 寧々様、満面の笑みで言い放たないでください。

 可愛がってもらえるのは嬉しいけれど、期待されても絶対に赤ちゃんごっこはやりませんからね。

 杏はお前、私の弱みを握れるかもとか考えてたんでしょ。その弱みでいろいろからかって遊ぼうとか考えてたな、絶対。

 睨みつけると、二人はさっと顔をそらしてしまった。どちらも肩を震わせている。

 これはちょっと傷つくんですけどぉ……!



「寧々様も杏も酷い……私をいじめに来たのですか……」



 もてあそばれた口惜しさに、恨み言を呟く。

 寧々様は目尻を拭って首を振った。



「ごめんなさい、ふざけすぎたわ。いじめようなんて思ってないのよ」


「まことにですか?」


「まことよ、まこと。今日ここに来たのは貴女の様子見と、今後の奥勤めの相談のためよ」



 それを聞いて、私は居住まいを正した。

 奥勤めの相談とは、きっと私の御化粧係への復帰に関することだろう。

 宿下がりをして早二ヶ月、亡くなった祖母ばば様の四十九日ももう過ぎている。

 喪服という名目で休暇を継続することも可能だが、すこしばかり苦しい言い訳になる。

 死者の息子である父様が普通に通常営業をしているのに、孫の私がいつまで喪に服しているんだって話だよね。

 十分に休んだのだから、仕事への復帰を考えるよう促されてしかるべき時期がきたってわけだ。



「まず訊くけれど、勤めには戻れそうかしら?」


「はい。お待たせいたしましたが、そろそろ可能かと」



 自信を持って、寧々様に答える。

 私の体調は、とても良くなってきている。

 まだ少しうなされたりもするが十分に眠れているし、ご飯を美味しいと感じて食べることもできている。

 リハビリがてら母様を手伝って、山内家の奥向きの仕事をこなせるようにもなった。

 職場復帰という次のステップに踏み出せる条件は、ほとんど揃っている。



「ですが、その……」


「茶々姫ね」



 出された名前に体がこわばるのを感じながら、頷く。

 私の目下の懸念事項は、茶々姫様の顔をまともに見て働けるかどうかだ。

 あの人と顔を合わせたら、きっと私はあのおぞましくも悲しい日を思い出してしまう。

 正直に言って、その状況でまともに仕事をこなせる自信がない。

 茶々姫様への恐れを理性でなだめるには、時間がまだ足りない。



「貴女の不安、よくわかったわ」



 苦労しながら言葉にしてそう告げた私に、寧々様の手が伸ばされる。

 優しくて力強いその手が、私をそっと寧々様の胸に抱き寄せた。



「安心なさい。あの子とは顔を合わせないよう取り計らいましょう」


「できるのですか……?」


「もちろんよ、何のために杏がいると思っているの」



 寧々様の腕の中から、杏をうかがう。

 私の視線に、杏は微笑みを返してくれた。

 杏にすべて任せてしまって、本当にいいのだろうか。

 覚悟を決めて、何かを諦めた。そんな親友の顔に不安を覚える。

 けれども私が問いかけるより先に、杏が口を開いてしまった。



「いいんだよ、もとからその予定だったろ」



 伸びてきた手に、ぐしゃりと髪をかき回される。

 確かにそうだったけれど、納得できるようで納得できない。

 杏にばかり苦労をかけてしまうのは嫌なのに、気持ちを上手く言葉にできない。



「ということだから、お与祢」



 もんもんと悩んでいると、寧々様の手に頬を包まれた。

 上を向かされ、笑みを深くした顔に覗き込まれる。



「あたくしと一緒にゆっくり大坂の城で過ごしましょうね」

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