末期の忠告(2)【大谷紀之介・天正17年5月中旬】
「刑部様は、粧姫様を、愛しておられますね」
一瞬。発された言葉の意味が、理解できなかった。
(愛している? 俺が、与祢姫を?)
あの幼い少女に対して、俺が浅ましい情欲を抱いている。
この男は、何をもってそう断じたのか。
「……笑えない
怒りを理性で抑えつけ、声を喉から絞り出す。
「戯れのつもりではありませぬ」
「ならば正気を失ったのかな」
「いいえ、俺は正気です」
目が合う。言い切った男の眼差しは、ただただ静かだった。
得体の知れないその静けさに、肌が粟立つ心地がした。
「貴方様は、粧姫様を一人の女人として愛しておられる。そうお見受けいたしました」
「違う!」
飛び出した否定が、喉をひりつかせる。
愛している? 俺が、与祢姫を?
あの幼い少女に対して、俺が浅ましい情欲を抱いているだと?
よりにもよって、――――この、俺が。
「俺はあの子を愛してなどいない! 断じてだ!」
「いいえ、違いません。姫を
「だったらなんだと? 妹か娘のように想って可愛がれば、愛になるだなんて言うのかい?」
慈しみと愛をはき違えているのだとすれば、この男は頭がイカれている。
愛は欲だ。人を惑わせ、狂わせる。
俺はそれを、身をもって知っている。
誰かを愛するという行いは、理性の無い
ゆえに俺の中にあるあの子への情は、愛であってはならない。
この柔らかくて優しいものを、愛に貶めていいわけがない!
「妹か娘、ですか」
男の哂う声が、俺の思考を断ち切った。
「俺も、そうでした。香を、妹として慈しんだ。その果てに――――」
暗く、耳障りなそれをひとしきり零して、男は目を細めた。
「愛したのですよ」
血の気が、音を立てて引く。
腕の中の男が、笑っている。
刑部様、と酷く優しい声に呼ばれた。
「刑部様。貴方の抱える慈しみは、いずれ愛に転じるのです」
「な、に?」
「昔話を一つ、進ぜましょう」
とつとつと、男は語り始める。
男と
それでも二親を亡くした時、男は十四。
妹より十歳年上であり、一人前に働くことができたので、半農半士として生きていく分には問題なかった。
男は妹と田畑を耕し、時折近隣の戦に出て銭を稼ぐ。
妹は男を支えながら、家のことを取り仕切る。
さほどの大過もなく、日々はつつましく、穏やかに過ぎていったという。
――――妹が、兄に恋をしてしまうまでは。
妹の恋情は、親が無いことへの不安と寂しさの表れ。
手近にいる頼れる大人が兄である男であったゆえに、恋慕してしまったのだ、と。
寂しい身の上を想えば、強く拒むこともかわいそうである。
妹を哀れんだ男は、しばしのことと妹の好きにさせて甘やかした。
それが、大きな間違いだと気づかずに。
男の妹は、だんだんと育っていく。幼子から少女に、少女から乙女へ。日を追うごとに、美しく育っていく。
いつしか男の目には、妹が妹として映らなくなっていた。
目の前にいるのは妹ではなく、狂おしいほどに愛しい女。触れれば、この手に落ちてくる花。
そうと気づいた時、男は心底恐ろしくなった。
男と妹は兄妹だ。男女の仲になることは、人の道に反する。
頭ではそうとわかっているのに、心は相反した動きをする。
――――この
このままでは取り返しのつかない関係になってしまう。
男は悩み抜いた末に、出家を決意をした。
嫌がる妹を半ば無理やり奉公へと出し、自らは寺に入って俗世との縁を断った。
「これですべてが丸く収まる。そう、安堵しておったのですが」
「……日根の御方に、殿下の手が付いた」
「ええ、あれは……弱りました……」
男がやっと想いに蓋ができかけた矢先、大坂の城に仕えていた妹に殿下のお手が付いた。
懐妊中の指月様の代わりに召された女たちの中でも、彼女の待遇は良くなかったと聞く。
実質は妾であるのに、表向きの身分は御湯殿番の侍女のまま。
中途半端な立場であるために、朋輩の妬み嫉みを買うばかり。
城の中に頼れる者がいない彼女は、城の外へ救いを求めてしまった。
寺にいる男に、文を送ったのだ。死んでしまいたい、と。
男がたまらなくなって、寺から出てくるには十分な言葉だった。
男はすぐに寺の用事に合わせて大坂へ行き、上役の女房の使いを請け負って城から抜け出した妹と会った。
ほんのひととき、隠れて会って妹の話を直に聞いたことで、男は深い後悔にさいなまれた。
自分が楽になるため逃げたから、妹が生き地獄を味わっている。そう思えば、捨て置けるはずがなかった。
男は、腹を括る決心をした。
妹を病と称して宿下りさせ、自分の伝手でどこか山奥の寺へ逃げてしまおう。
誰も二人を知らないところで、ひっそりと二人で暮らせばいい。
その結果、どんな関係になろうとも構わない。
「香を心穏やかにしてやるためならば、道理など幾らでも踏み外そうと決めました。必ず助け出すと、あの子に約束したのです」
遠くなった男の目の端に、涙が浮かぶ。
「でも、叶わなかった……」
日根の御方が、懐妊してしまったから。
そこから先は、俺も知っている。すべてが瞬く間だった。
俺の母が日根の御方に目を止めたことを皮切りに、彼女の懐妊と素性が露見。
彼女は摂家の姫として殿下の側室に召され、丁重に城の奥へ閉じ込められた。
男もまた探し出され、側室の兄としての勤めを果たせ、と俗世へ引き戻されてしまった。
彼らの抱いた淡い夢は、そうして儚くなったのだ。
「だから、笛を贈ったのかい」
男が小さく頷く。
「あんなもの、渡さねばようございました。香を想うなら、渡すべきではなかった」
途切れた先にある言葉は、なんとなくわかった。
日根の御方を窮地に追いやった自らの行いを、男は心底悔いているのだ。
結ばれぬなら、せめて相手の心に消えない
そんな未練も込めて、男は日根の御方へ笛を贈ったのであろう。
込められた未練に気付いたから、日根の御方は恋慕を捨てず胸に秘した。
浅井の姫に見抜かれ、利用されるなどと、予想もせずに。
「刑部様」
掠れた嗚咽をこぼした後、男が俺をひたりと見据えた。
「どうか、我らの轍を踏まないでください。あなたがたが我らのようになれば、どなたにとっても悲惨な結末となりましょう」
「……俺が踏むはずのない轍だよ」
この男と日根の御方の間にあった情と、俺と与祢姫のそれは別物だ。
俺たちは、互いを大切に思いこそすれど、生々しい欲を向け合ってはいないのだから。
万が一、何かを間違えたとしても、彼ら兄妹と同じ末路を辿るはずがない。
「まだおっしゃるのですか」
口を噤む俺を見上げる男の目に、もどかしげな色がちらつく。
「愛されていないとおっしゃるなら、それでもよろしゅうございます」
ですが、と男は語気を強くして続ける。
「今後も粧姫様の側にいたいならば、早々に姫を手折ってください。刑部様にはそれが叶いますゆえ」
「なっ、許されたとてそんなこと!」
「できませんか?」
「当たり前だろう!?」
ようやく
仮に本気で情を通わせた仲であったとしても、少女が育ち切るまで帯を解かないのが男の分別というものだ。
いくら側に置きたかったとしても、それだけはすべきではないと思う。
「俺はあの子の肌に触れる気はない」
「この先も、ですか」
「もちろんだとも。大切に思いこそすれど、愛など抱いていないのだからね」
大切な存在だからこそ、愛欲などというつまらぬもので、あの子を汚したくはない。
「では、しかたありませんね」
俺の答えに、男は細く呟いた。
「ならば二度と姫と
「な」
「そちらの方が理にかないましょう? 成長なされた姫を相手に、過ちを犯す恐れも無くなりますゆえ」
耳から入った言葉に、血が凍る。
痛みを伴って、心の臓が大きく打つ。
(与祢姫と、縁を切る)
やるなら、簡単だ。
求められても会わず、文のやり取りを断てばいい。
城の奥深くに仕舞われている与祢姫は、それで俺を追う手段を失う。
後は、それっきりにすれば終わり。赤の他人に戻ることが叶う。
(あの子のためになるならば……)
一つの手、かもしれない。
そう思うと同時、胸のあたりに冷たい痛みが走った。
嫌だと叫ぶように、心の臓が脈打つ。
「……っ」
唇を噛んで、胸を掻きむしりたい衝動を噛み殺す。
あの子と縁を切った後、俺はどうなる?
脳裏を掠めた疑問が、思考の中で渦を巻く。
与祢姫と出会う前の状態に戻る、ということは以前の生活に戻るのだろうか。
殿下に与えられた御役目に励み、大谷の家を盛り立てて。いつか養子である甥に引き継がせる日まで、ただひたすら働き続ける。
そんな、それだけの。
さだめられたものに、淡々と従う色褪せた生活に────
(無理だ)
心の内に、そう断じる声が上がった。
(戻れば、死んでしまう)
あの子が側にいなければ、俺は生きて死んだようなものになる。
与祢姫と袂を分かてば、当然もう何も感じ取れなくなるだろう。
それはすなわち、死ぬのとなんら変わりない。
(だから、戻りたくないんだ……)
気付いてしまって、愕然とした。
あの子を自分のものにしたいわけではない。
あの子とは、ただただやわらかな親愛を紡いでいくだけでいい。
あの子が健やかに育っていく姿を、側で見守ることができればいい。
それだけで、十分だと思っているはずなのに。
あの子がいなければ、どうしようもなくなる俺が。
確かに、
「まさか……」
音を立てて、全身の血の気が引いていく。
耐えきれなくなって、とうとう俺は口元を手で覆った。
迫り上がる悲鳴じみた叫びを、否定にすり替えようとして失敗する。
そんな
とんでもない過ちを犯してしまった気がして、
「迷われるお気持ちも、ようわかります」
いたわりを宿した声音で、我に返る。
男が震える手を伸ばし、なだめるように俺の肩を叩いた。
「しかし、それで良いのです。存分にお迷いください」
「……迷っていいのかい」
「かの姫はまだお小さい。その分、しばらくは猶予がありましょう」
それに、と言葉を区切って、男はゆっくりと息を吐く。
「どちらを選ばれるにしても、悔いが残っては苦しいでしょうから」
静けさが牢に戻ってくる。
ゆらゆらと揺れる灯明の薄明りが、男の顔を照らしている。
病的にやつれ、死の臭いがまとわりつく表情の、その奥。
切ないほどに深い後悔が見えた気がした。
「……忠告、痛み入る」
長い沈黙の後、やっと出てきた言葉はそれだった。
色々と認めたくないし、否定だってしたい。
しかし、この男の指摘と心遣いを無下にすることはできない。
言われてやっと、自覚した。
俺の中で危うい何かが、着実に育ちつつある事実を。
それが与祢姫に害をなす恐れがあるならば、対処せねばなるまい。
あの子を傷つけたくはない。守ってやらねばならない。
その選択のすえに、俺がどれほど傷つこうとも。
俺が、なんとかすべき問題だ。
「叶うかぎり、限界まで迷うとしよう。それから、決める」
「そうなさってください。ですが、どうか」
「わかっているよ」
しっかりと頷いて、応える。
「俺はあの子を不幸にしない」
満足げに、男が目を細めた。
「他に、俺に何かできることはあるかな」
「それでは、介錯をお願いできますか」
治部様にお借りしたのですが、と男が懐から短刀を取り出す。
男は黒鞘のそれを俺に渡し、口元を緩めた。
「もう、手に力が入らぬのです」
素朴で穏やかな、どうにも武家らしくない笑み。
それは少し前まで、彼が
重くのしかかっていた憂鬱がわずかに晴れた心地がして、俺もまた笑っていた。
「困ったことだね」
「ええ、まことに。つくづく武家には向かぬ性分のようです」
どちらともなく、声を漏らして忍び笑う。
場違いなほどの和やかさの後、俺は男を壁にもたれかけさせた。
「では、そろそろ介錯仕ろう」
「よろしくお頼み申します」
言ったきり、男は眼を閉じて合掌した。
その痩せた首へと、鞘を払った白刃を添える。
「御免」
そうして、声をかけるのと同時。
俺は刃を滑らせたのだった。
◇◇◇◇◇◇
手放した手桶が、がらん、と井戸端に転がる。
それをぼんやりと目で追いつつ、俺は手近な庭石に腰を掛けた。
屋敷に帰って、一番に水を浴びた。
血を洗い流したかったのもあるが、とにかく頭を冷やしたかったのだ。
許容できる以上のものを、これでもかと身の内に詰め込まれたせいだ。
「……愛、か」
頬を伝うしずくを払い、あの男の遺した言葉を思い返す。
愛とは、欲。
人を惑わせ、狂わせるもの。
浅ましさと愚かさにまみれた執着だ。
俺が抱く与祢姫への想いは、そんな薄汚れたものではない。
(でも、ならば、この想いには何と名を付ければいい?)
胸の内に問いかける。
何度も、何度も。繰り返し、問い続ける。
空が白むまで、何度でも。
だが結局、納得できる答えを見つけることは叶わなかった。
********************
きのすけ は こんらん している !
大変お待たせいたしました。
香様兄、大谷さんの導火線に着火して退場です。
あの世で兄妹仲良く暮らせるといいな。
ちなみにですが、当時の愛は現代とはニュアンスが違いました。
ざっくり言うと、『愛欲』という言葉に近いイメージ。(博愛とか仁愛とかもあるけどね…)
ちょっと生々しい肉欲を伴った感じなので、大谷さんのこの反応というわけです。
倫理観と本心の間で揺れまくる羽目になった彼の明日はどっちだ。
後半に爆弾大量散布しましたが鬱な香様編は、これにていったん終了。
次回からはひさしぶりに与祢視点に戻って、徳川さんちの四男坊編スタートの予定です。
更新頻度上げたい、がんばる。よろしくお願いします。
そして!ですね!
10月に3巻が発売された書籍版『北政所様の御化粧係』が、次にくるライトノベル大賞2023にノミネートされました!!
3作品まで選んで投票できますので、3つのうちに御化粧係を加えていただけるととても嬉しいです。
〆切は12月6日まで。
投票がお済みでない方は、どうかよろしくお願いします( *'ω'*)و グッ
執筆の励みになりますので、感想やブクマ、評価をいただけると嬉しいです。
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