末期の忠告(1)【大谷紀之介・天正17年5月中旬】
向かいの道の奥に小さな明かりを見つけて、植え込みの陰に身を潜める。
息を潜めて、気配を消す。明かりがどんどんと近づいてくる。
しばらくして、手燭を手にした
どちらの者も、俺に気付く様子は無い。
間抜けの組で助かったと安堵する反面、何のための見回りだと注意したくなる気持ちが湧いた。
そんなことをしている場合ではないのに、佐吉殿の生真面目さが移ったかな……。
滲んだ汗を手の甲で拭って、何とも言えない気持ちごと詰めた息を吐いた。
いくらも進まぬうちに、蔵が並ぶ区画に差し掛かった。闇に目を凝らして、並ぶ蔵を眺める。
固く閉じられた戸の前に立つと、手探りで錠前を探す。
見つけた堅牢な作りのそれを、託された鍵で開けて、もう一度辺りを見回した。誰もいない。ただ、静かな夜闇が漂うばかりだ。
……よし。手に力を込め、戸を押す。重い音をともなって開いた戸の隙間から身を滑り込ませ、すぐさま閉じる。
詰めていた息を吐き、軽く整える。これで一つ、山は越えた。
さて、次はこのあたりだったか。手を床に這わせながら、蔵の中央まで進む。
薄い手袋越しに、指先が取っ手の感触を伝えてくる。両手をかけて持ち上げれば、ガコン、と音を立てて開いた。
ここまで来れば、灯りを付けても問題ないだろう。懐から
灯った火が、眼前の地下への入口を照らし出す。
ぽっかりと開いたそれは、ただただ暗い。すえた臭いを漂わせ、まるで獣の喉奥のようだった。
気は進まないが、約束がある。ぐずぐずと立ち止まっているわけにはいかない。
手で灯りを庇いながら、ゆっくりとその中へと歩を進める。
階段を一段降りるごとに、臭いと闇が濃くなる。一歩ごとに、憂鬱に心が沈む。
そうして最後の段まで降りきると、呼吸を一つ入れて闇の奥へと呼びかけた。
「もし、香積殿」
「……はい、こちらに」
呼びかけに、格子の向こうで気配がうごめく。
紙燭を掲げて覗けば、そこには血と汚物にまみれた男が一人。
日根の御方の兄、
「刑部様……ご足労、かたじけなく存じまする……」
「いや、構わないよ。そちらへ行くので待っていてくれ」
牢の鍵を開けて内側へ入り、側へと行く。
起き上がろうとする香積殿を助けて、ついでに持ってきた水を与えてやった。
(佐吉殿から聞いてはいたが)
これはもう、余命いくばくもなかろう。
ひび割れた唇を微かに動かす男を見下ろして、そう断じる。
助け起こしてやった酷く体は萎え、呼吸は浅く荒い。
見るも無残な怪我を抜きにしても、遠からず命尽きると思える有様だ。
それも、当然か。彼が
あり得もしない実妹との密通の容疑をかけられ、庇護してくれるはずの
ろくな食事も与えられず、この劣悪な場所で連日痛めつけられているのだ。
尋問を任された佐吉殿の手加減があれど、香積殿が生きながらえているのは奇跡に近い。
「香は……如何して、おりますか……」
ようやっと水を干した香積殿が、乾いた咳まじりに問うてきた。
何よりも先に妹を気に掛けるとは、よほど大事らしい。
そういえば、彼の肉親は、日根の御方は一人きりだったな。ならば、さもあらんか……。
「今は、大和の
もよおした哀れを胸に押し留めて、問いに答えてやる。
日根の御方は、大和は郡山の城に匿われている。
思い出すのも忌まわしいあの日、市松殿と佐吉殿が独断で動いてくれたためだ。
市松殿は昏倒させた虎を家臣に預けると、そのまま自ら手綱を取って郡山へ走った。
そして小一郎様に見聞きした事を伝え、日根の御方の保護を願ったのである。
小一郎様はすぐに動いてくださった。御方の腹にいる、羽柴の血を継ぐ子を重く見られたのだ。
市松殿を連れて即座に上洛するや、小一郎様は聚楽の城に乗り込んで日根の御方を確保。殿下に止める隙も与えず、大和へとんぼ返りをした。
御方と、御方の付き添いを申し出た大政所様をともなって。
大政所様の助力は、佐吉殿が引き出したものだ。殿下の座敷を退出した後、佐吉殿はまっすぐ大政所様の元へ参上した。
事の次第を聞いて激怒する大政所様は、幽閉されていた日根の御方の救出依頼を承諾。
その日のうちに寧々様の手を借りて御方を屋敷に移し、嫁と孫の面倒を見るのだと大和へ同伴なされた。
この行動は、大政所様がご自分の価値を熟知しているがゆえ。
唯一殿下が危害を加えることができないご自身を、小一郎様と日根の御方の盾となされたのである。
はたして、その効果は絶大だった。
現在に至るまで、殿下は小一郎様たちへ手出しできていない。
口角から泡を飛ばし、激しく罵りはしてもそれだけ。大和に兵を差し向けるなどの、強硬な手段には踏み切れずにいる。
「よかった……香は、無事なのですね……」
喉を震わせ、香積殿が嘆息する。
妹の無事に心から安堵した。聞いただけでそうとわかる声に、堪らなくなる。
無為に喜ばせてしまった罪悪感が、じわりと湧く。
「刑部様……?」
呼びかけられて、目をそらす。
これ以上顔を見て、話せる気がしない。
「すまぬ、香積殿」
「え?」
「ここから先は、落ち着いて聞いてほしい」
戸惑う彼が何か言う前に、口早に前置きをする。
「五日前、御方は男児を産み落とされた。だが……」
そうして、彼にだけは伝えねばならぬことを、喉から押し出した。
「たいそうな難産だったと」
「な、」
「内府様がおっしゃっていたよ。御方の御命は、明日をも知れぬそうだ」
日根の御方は今、産褥で死に瀕している。
原因は、お産の最中、腹の中に酷い傷を負ったこと。
無事に
手当の甲斐もなく、御方は日に日に衰えて、早晩命尽きようという話だった。
「あ、ああ……そ、んな……」
聞き終えた香積殿が、青ざめた顔を手で覆う。悲痛な嗚咽が、微かに零れる。
胸の奥が、じりじりと痛む。助けてやりたくとも、何もできない自分が不甲斐ない。
目の前の男のために、何かしようとは何度もしたのだ。
彼には罪がない。あの
我を忘れた殿下の怒りを解くのは無理でも、命ぐらいは助けてやりたかった。
でも、できなかった。先んじて殿下に手を打たれ、一切から遠ざけられてしまった。
虎の監視という命を下され、まとめて屋敷に封じ込められてしまったのだ。
虎が一歩でも屋敷の外に出たら、即刻首を刎ねる。そう告げられたせいで、俺は身動きを封じられた。
俺が友を見捨てられる人間ではないことなど、殿下にはお見通しだったのだ。
そうして、何もできないまま、半月もの時が過ぎて。
尋問の成果を出さない佐吉殿が、担当から外されることとなって。
とうとう、今に至ってしまったのである。
「……頼み事があるならば、引き受けるよ」
骨の浮いた背をさすってやりながら、香積殿に語りかける。
「俺を呼んだのは、後事を託すためだろう」
預かっている御役目のこともあって、俺は彼とそれなりに近しい仲だった。
自分で言うのもなんだが、佐吉殿よりは彼と打ち解けていたと思う。
だから佐吉殿を通して彼に呼ばれたのは、末期の願いを託す相手に選ばれたためであろう。
ならば務めを果たそうと思って、俺はここまで来た。
自己満足の罪滅ぼしであるが、せめてそれくらいは引き受けたかった。
なんでもいい。時間がかかっても叶える。必ず、なんとしてでも。
そう告げると、はたして彼はゆるゆると首を横に振った。
「何も、望むことは無いのかい?」
聞き返すと、今度は痩せた頤でゆっくりと頷いた。
「刑部様のご足労を願ったのは……香のためでは、ありませんゆえ……」
切れ切れに、掠れた声音が言葉を紡ぐ。
「ならば、何のために」
「僭越ながら、ご忠告をいたしたく」
「忠告……?」
予想外の言葉に、思わず呆気に取られる。
俺を見上げ、香積殿が微かに笑った。
「刑部様」
穏やかな声が、暗い牢の中の空気を震わせる。
「刑部様は、粧姫様を――――愛しておられますね」
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