これが夢ならさめてほしい【杏・天正17年4月下旬】
残っていたものが、綺麗に砕け散っていく。
情が消えるとは、こういう心地なのか。
(やってくれた)
泣きじゃくる茶々姫の傍らで、杏は痛むこめかみを抑えていた。
────笛筒の中身は、日根の御方の大切な誰かからの贈り物。
惨劇の発端は、そんな茶々姫の発言だった。
茶々姫本人に、悪気はなかったはずだ。
厄介事ばかりを呼び込む茶々姫だが、これまで悪意を持って誰かを貶めたことはない。
こたびもただ純粋に、笛筒の中身が、友人の大切にしているものであったことを喜んだだけなのだろう。
問題はその無邪気な物言いの、言葉選びにあった。
誰であるかはっきりしない、大切な人。
どうとでも解釈できるその言葉が、殿下の猜疑心に火を付けたのだ。
殿下が不貞に敏感になる理由自体は、わからなくもない。
なにしろ日根の御方は、殿下の子を身籠っているのだ。城奥の女たちの中でも、とりわけ不貞があってはならない立場である。
それでも殿下に詰問された時に、御方が堂々と弁明できていればよかったのだが、上手くいかなかった。
御方が激しく動揺したことで、さらなる疑いを招いてしまった。
北政所様の取りなしは、与祢姫を引き合いに出されて台無しにされた。
御方を庇って茶々姫を非難した加藤主計頭が、若い男だったこともまずかった。
僅かな失敗と、少しの間の悪さ。
それらがいくつも重なり、殿下の怒りを膨れ上がらせた結果が、これだった。
「……ほんっと、どうすんだよ、これ」
いまだ濃く残る血の臭いに、つい悪態を吐いてしまう。
日根の御方の不貞は、殿下の中で決定的な真実になってしまった。
たとえ事実では無かったとしても、殿下の疑いは決して覆らないと杏は思う。
関白殿下は、情の人だ。
底がわからないほど深く、途方もない情を抱えている。
ゆえに、恐ろしい人だ。
殿下は愛する者を害されれば、即座に害した者へ刃を向ける。
大恩ある主君の息子であろうと、敵とみなせば情けの一つも与えない。
愛する者への愛情と同じ大きさの憎悪で、徹底的に焼き尽くす。
日根の御方とその兄は、殿下の怒りから逃れられないだろう。
御方の腹の子も、無事に生まれてこれるか怪しい。
殿下にとって彼らは、愛情と期待を裏切った者たちなのだ。
昨年と同じ結末、もしくはそれより酷い終わりを迎えても、誰も驚かないだろう。
頭が痛い。養父にどう説明したものか、考えるだけで嫌になってくる。
罪の無い日根の御方を陥れたことで、これから茶々姫は多方面から憎まれる。
特に北政所様や子飼いの重臣たちからは、嫌い抜かれるはずだ。
故意でなくとも、こたびの茶々姫は、与祢姫の心に傷を負わせてしまった。
杏でさえ許しがたく、できることなら見限りたいと思ってしまったほどである。
より与祢姫に近しい者は皆、茶々姫を嫌悪するに決まっている。
これから先、何があっても茶々姫とその子が、彼らを頼れなくなるだろう。
殿下が生きている間は良くても、その後どうなるかはあまり想像をしたくない。
(どうしよう)
何度も、頭の中で繰り返す。
茶々姫の破滅に、織田家が巻き込まれたらどうしよう。
暗い不安が、杏の胸を埋めていく。
養父が、
大切な人々が、危険に晒されたら────どうしよう。
「杏」
力無く呼ぶ声で、我に返る。
茶々姫が、泣きはらした顔でこちらを見ていた。
「いかがしました」
美しい泣き顔から目を逸らしたまま、杏はそっけなく応える。
まともに顔を見て話すと、苛立ちでどうにかなってしまいそうだった。
「杏は、紀之介さまのことを知ってる?」
何を言い出すかと思ったら、あの男のことか。
うんざりと振り向けば、茶々姫は不安げな面持ちでこちらを見ていた。
その瞳には、涙の余韻とともに熱を帯びた気配がある。
あれだけ強く拒絶されても、まだ大谷刑部に気があるらしい。
「当たり前でしょう。大谷刑部様は、殿下指折りの寵臣で一門衆の御仁ですよ。それを知らぬ者は、この城におりません」
「じゃあ、紀之介さまが与祢と親しいわけもわかる?」
投げかけられた問いに、杏は眉根を寄せた。
「だったら、どうしたって言うんです」
訊き返すと、茶々姫の顔がさっと赤らんだ。
いかにも愛らしい反応に、胸がざわめく。
あからさまに感じる嫌な予感に身構えていると、あのね、と茶々姫は呟いた。
「紀之介さま、だったの」
「は?」
「北ノ庄で出会った人。茶々を助けてくれた、あの若武者は」
茶々姫は、桜色の唇を両手で覆う。
大粒の瞳を潤ませ、蕩けるようなため息をひとつ。
そうして白い指の合間から、喜びと驚きに満たされた声音がこぼれ落ちた。
「紀之介さま、だった……」
甘やかな告白が、耳に触れる。
その瞬間、杏は悟ってしまった。
よりにもよって、例の初恋の男は大谷刑部だったのか。
どうりで、茶々姫が不埒な真似をしたわけだ。
気が狂ったのではなく、恋に目覚めてしまったからだったのだ。
こんな事実、誰にも言えたものじゃない。
人に知れたら最後、余計に人が死にかねないではないか!
「人違いじゃありません?」
悪あがきのように、否定してみる。
茶々姫は、若武者の顔を覚えていないようだ。
以前に与祢から、茶々姫の初恋の男の話を耳打ちされた時、そう聞いた。
顔もわからぬ相手を再び見つけるなんて、そうそうできるわけがない。
男と女が都合良く巡り逢えるのは、御伽噺の中だけだ。
そう杏が言うと、茶々姫は勢いよく頭を振った。
「ううん、間違いないわ。だって、お声が同じなの」
「声なんてそんな、似てる人間なんてごろごろいますよ」
「聞き違えなんかじゃないわ。あの優しいお声は、はっきり茶々の耳に残っているもの」
でも、と、茶々が淡い色の睫毛を伏せた。
愛くるしいかんばせに、悲しげな影が差す。
「紀之介さま、すごく怒ってらしたわね。それに、与祢のことばかり見てらして」
払い落とされた手を撫で、どうしたのかしら、と茶々姫は小さく首を傾げた。
「茶々のこと、忘れちゃったのかな……」
甘く切ない吐息が、ほろりと茶々姫の唇から溢れる。
その姿は初々しく、男を知る前の少女めいてさえいる。
とうてい出産間近の女とは思えない様子に、目眩がしてきた。
でも、倒れてしまうわけにはいかない。
知りたくなくても、知ってしまったのだ。
禍根の芽は、ここで摘み取ってしまわねば。
覚悟を決めて、杏はまなじりに力を入れた。
「……仮に、刑部様が件の若武者だったとしても、今更ですね」
茶々姫が、きょとんとして振り向く。
まっすぐに見返して、ですから、と杏は告げる。
「刑部様は、与祢の男です」
「紀之介さまが、与祢の、男?」
「ええ。与祢がほんの童女だった頃からの、とても親しい仲だそうです」
大谷刑部は、いつも甘い言葉を連ねた文を与祢姫へと遣わしていること。
髪飾りや着物などの贈り物も欠かさず、与祢姫を自分好みに飾っていること。
暇さえあれば中奥で逢瀬を重ね、人目もはばからず与祢姫を愛でてていること。
細やかに語って聞かせるほどに、美しい黒真珠の目が丸くなっていく。
「うそ……うそよね、うそって言って、杏」
「まことです」
茶々姫が、いや、いや、と力無く首を振る。
もうひと押しか。手応えを感じ、杏はわざとらしく微笑んだ。
「刑部様はね、与祢をたいそう
わかりますよね。
意味ありげに締めくくり、目配せをする。
若紫のくだりは少し話を盛ったが、いずれあの二人はそうなると杏は見ていた。
大谷刑部はまだ、歳の差などを気にして、必死で心を律している。
だが同時に、もう引き返せないくらい与祢姫に溺れてもいるのだ。
恋心の蓋を外すまでもなく、他の女には目移りしないだろう。
茶々姫が入り込める余地は、はなから皆無なのである。
「そんな……紀之介さま……」
「泣いて恋しがったって、無駄ですよ」
青ざめて、膝から茶々姫が崩れ落ちた。
ここまで言われても、まだわかりたくないらしい。
耳をきつく塞いで、身を守るようにうずくまっている。
「そもそも茶々姫様は、殿下の御側室でしょ」
「でも、だけれど、茶々は紀之介さまを」
「お腹に御子までいらっしゃる方に、刑部様が振り向くものですか」
大谷刑部は、馬鹿ではないのだ。
与祢姫のことがなくとも、主君が寵愛する側室に手を出す愚行は犯さない。
たとえ、天地がひっくり返えろうとも、だ。
「刑部様のことはお諦めなさい。殿下に知れたら、死にますよ」
言葉の刃は飾らない。
剥き出しにして、正面から突き立てる。
茶々姫が、声を上げて泣き出した。
「紀之介さま、紀之介さまっ、紀之介さまぁ、紀之介さまぁぁぁ……っ」
打ち伏した茶々姫は、大谷刑部を呼ぶ。
優しい応えが返ってくるわけでもないのに、何度も、何度も。
差し伸べられる手を待つかのように、何度も茶々姫は泣き叫ぶ。
「茶々……遅かったの……?」
声が枯れるまで泣いて、泣き尽くして。
ようやく茶々姫は、のろのろと身を起こした。
「茶々姫様」
「あの時、紀之介さまのお側から、離れなかったら」
「茶々姫様っ」
「離さないでって、言えていたら」
「おいっ、いいかげんに────」
口を塞ごうと伸ばした手が、振り払われる。
思わぬ抵抗に身を固くする杏を無視して、茶々姫は座敷の外を見つめていた。
「いま……紀之介様の腕の中にいたのは……」
濡れた眼差しの先にある庭には、雨が降っている。
花を散らさんばかりの、
その激しい雨音に紛れて、微かに聴こえた。
「与祢じゃなくて、茶々だったのかしら」
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