まもりたいもの【大谷紀之介・天正17年4月下旬】

 柔らかな色をした目が、見開かれている。



「わた、わたしの、せいじゃ……」



 ふらつくように後退りながらも、与祢姫の目は俺から逸らされない。

 恐れと、怯えと、拒絶と。

 惨い色で塗りつぶされた瞳が、鏡のように俺を映している。

 足取りはおぼつかなく、まろい頬には血の気が無い。

 少しずつ、はっきりと。与祢姫の吐く息が、小刻みになっていく。


(落ち着かせてやらなければ)


 そう思って手を伸ばしかけ、はたと気づく。

 跳ね除けられた余韻が疼いて、指先が動かない。

 足も、根が生えたように強張っている。

 ほんの数歩さえ縮められず、ただ見つめ返すしかできない。

 こんな時にどうして、何が起こっているのか。

 焦る間に、与祢姫の目が俺から外れた。

 瞳が頼りなく泳いで、凍る。

 小さなかんばせが、ぐしゃりと歪んだ。



「うぁ、ぁ」



 愛らしい唇から、魂切たまぎる悲鳴が迸る。

 淡い萌黄の打掛の裾が、ひるがえった。



「与祢っ」



 ようやく出た声が届くより早く、小さな踵が返される。

 まろびながら、叫びながら。与祢姫が、座敷を飛び出した。

 追わねばと思うのに、両の足が重い。伸ばした指先すら、駆け去る背に触れられない。

 後ろ姿が、足音が、遠ざかっていく。



「そんな」


 馬鹿な、とこぼれた声は、酷く小さかった。

 与祢姫に、逃げられた。

 起きたばかりの現実が、重くのしかかってくる。

 いつだって手を伸ばせば、与祢姫はこの腕に飛び込んできてくれた。

 何があっても、与祢姫は俺を受け入れてくれた。


(なのに……拒まれた……)


 あの子を捕まえられなかった、役立たずの手を見下ろす。

 いくら考えても、拒絶の理由がわからない。

 悲しみとも、悔しさともつかない感情が、身の内側を掻きむしる。

 だが、その痛みが、こわばっていた体を動かした。

 一歩、二歩と、重い足を引きずって、座敷の外へ向かう。

 与祢姫を、追わなければ。

 強い思いが、痛みの中から突き上げてくる。

 拒まれることは恐ろしい。けれども、与祢姫の側にいたい。

 この手で涙を拭って、守ってやりたい。

 あの子は、与祢姫は。



(俺の────)

  

「待ってっ」



 あと少しで廊下、というところで袖を引かれた。

 予期せぬ引き留めに、舌打ちをこらえて振り返る。



「少し……いいかしら……?」



 緊張した面持ちの、浅井の姫がそこにいた。

 いつの間に近づいてきたのだろう。淡い色彩の女は、小さく肩を震わせている。

 不安なのか、恐れなのか。判然とはしないが、指先までも細かに震わせて、それでも俺の袖を掴んで離そうとしない。



「何用ですか」



 早く与祢姫を追わねばならぬのに。

 焦燥を抑えこみ、浅井の姫を見下ろす。

 濡れてきらきらとした瞳が、俺を見上げてくる。

 美しいと、思ってしまった。

 この惨劇を引き起こした女の涙なのに、なぜだろう。

 まろやかな頬を滑る雫は、どこまでも清らかで美しい。

 未知の感慨に、つい、ほうけてしまう。



「あの……あのね……」



 薄い桃色の唇が、蕾のように綻んだ。



「茶々の側に、いてほしいの」



 投げかけられた言葉の意図が、わからなかった。

 とっさに何も返せず、ただただ見つめ合うような形になってしまう。

 浅井の姫は、細く息を飲み、濡れた頬を淡く染めながら俺を見つめている。

 憐憫が、じわりと絡みつく。

 雨に濡れた桜花おうかを眺める時のようで、落ち着かない。



「少し……少しだけでいいの、お願いよ、茶々をぎゅってして……」



 袖を離した繊手せんしゅに、そっと手を取られる。

 指を指に絡め、弱々しく握って。そうして美しい女は、切なげに俺を見上げた。





「きのすけさま」




 

 名を呼ぶ声音は、どこまでも甘やかだった。

 ふんわりとやわらかく耳に触れて、降り初めの淡雪のように溶けてゆく。

 いまだ耳にこびりつく、あのおんなの声のように。



 ────ぞわり、と。



 怖気が、肌を伝った。

 総身の毛穴が粟立って、じくじくと疼く。

 不快極まりない感触が、俺の腕を動かした。



「あっ」



 小さな悲鳴と、乾いた音が響く。

 絡んでいた白い手が、大ぶりの花びらのように宙を舞う。



「軽々しく触れないでいただきたい」



 嫌悪を込めて、言い放つ。

 女は振り解かれた手を抱きしめ、唖然と俺を見つめた。

 きょとんとした顔は、美しくもなんともない。

 ただただ、いとわしいばかりだ。



「ご自身のお立場をわきまえられよ。貴女の振舞いは、不愉快だ」



 自分にしてはずいぶんと冷淡な口調で告げる。

 黒目がちな女の目が、ますます丸くなった。

 何が悪いか、とんとわかっていないらしい。

 世のことを知らぬ深窓の姫らしい、と言えば、そうかもしれない。

 きっと、この女に庇護欲をそそられる男は、この世にごまんといるだろう。

 だが俺には、嫌悪以外の何も感じられなかった。

 女の肩越しに、赤毛の少女を見やる。

 与祢姫の朋輩であるこの娘は確か、源五侍従様の養女でもあったはずだ。

 ならば、ふしだらな身内を抑えるくらいはしてほしい。

 そういう意を込めて睨むと、我に返った少女は慌てたように女へ取り付いた。



「失礼いたす」



 それを見届けて、踵を返す。

 これ以上女と同じ場にいたくないし、一刻も早く与祢姫を追いかけたいのだ。

 苛立ちで畳を強く踏みつけて、焦りで歩調を早くする。

 追い縋ってくる耳障りな声を無視して、今度こそ俺は座敷を出た。




 ◇◇◇◇◇◇




 嗚咽が、微かに聴こえていた。

 それを頼りに庭へ下り、植え込みの梔子くちなしを掻き分ける。

 枝が揺れて、咲き染めの花が甘く匂い立つ。

 深い青葉と白い花のその下に、俺はようやく探し求めていた子を見つけた。



「与祢姫」



 意を決して、呼びかける。

 びくりと細い肩が跳ねた。



「うそ……どうして……」



 振り向いた与祢姫が、声を震わせる。

 驚きと怯えがないまぜになった眼差しが、胸の痛む場所へ突き刺さる。

 拳を握りしめてそれに耐え、俺は彼女の側に膝を突いた。



「奥に戻っていないなら、きっとここだと思ったんだよ」



 奥と中奥を繋ぐ御錠口おじょうぐちの番の者は、与祢姫の姿を見ていなかった。

 表には出られぬはずだから、与祢姫は中奥から出ていないことになる。

 ならば、幼い足で行ける場所など知れたもの。

 まっすぐにいつもの庭へ来て、正解だった。



「見つけられてよかった」



 肺腑はいのふに溜まっていた息を、深く吐く。

 庭にいなかったらどうしようと、内心怖かったのだ。

 城中とはいえ、幼い姫の一人歩きには不安がつきまとう。

 人目に付かぬよう隠れていてくれて、本当によかった。



「こちらにおいで、奥まで送ろう」



 あたりの空気は湿りを帯びていて、空もどんよりと薄暗い。

 雨の気配が、すぐそこまで近づいている。

 早く中に戻らねば、お互い濡れ鼠になってしまうだろう。



「っ、だめっ」



 与祢姫が叫んで、俺の手をはねのけた。

 拒絶に竦みかけた体を、今度は強く叱咤して動かす。

 って逃れようとする与祢姫を捕まえて、手繰り寄せた。

 ほっそりとした少女の体が身悶える。必死の抵抗を無視していると、逃れられぬとわかったらしい。

 与祢姫は、とうとうわっと泣き出した。



「離して! 触らないで、お願いだからっ!」


「嫌だ」


「私も嫌なのっ」


「どうして?」



 俺の問いかけに、抵抗が止む。

 腕の中で、与祢姫が呟いた。



「……誰かに、見られたら」


「誰にも見られないよ」



 俺たちの姿も、匂いも、すべて梔子に隠されている。

 絶対に、誰にも見つからない。



「絶対なんて、無いわ」



 言いきる与祢姫の瞳は、涙で溺れていた。

 すぐにわかった。悲劇の引き鉄を引いたのは自分だと、この子は思い込んでいる。

 あの女のせいで、不要な罪悪感に囚われてしまっているのだ。



「大丈夫だ」



 怒りを誤魔化すように、乱れた髪を撫でてやる。

 


「殿下がお咎めにならないことだ。誰にも咎められないさ」


「でも、殿下の気が変わってしまったら?」


「それは」



 あり得ない、と言いかけて、咄嗟に飲み込む。

 殿下が与祢姫に俺への恋を許す理由は、俺が一番よく知っている。

 もっとも羽柴に益のある男が見つかるまで、間違いを起こさせないためだ。

 だが俺は、この子にそれを教えたくはない。

 打算に満ちた大人の思惑など、明かしたところで怖がらせるだけだ。

 気づかせずにおくのが、一番良い。



「私、は」


  

 否定も肯定もできないでいる俺を、与祢姫は見上げた。

 愛らしい泣き顔が、くしゃりと歪む。



「また……勘違いをされたら……」



 しゃくりあげながら、与祢姫は泣く。



「私のせいで……また、誰かが……紀之介様が、酷い目に遭ったら……っ」



 ほっそりとした腕は、いつものように俺に縋ってくれない。

 まるで自らを罰するように、自身をきつく戒めている。



「怖い」



 か細い声が、雨粒とともに落ちてくる。 


 

「……与祢姫」



 泣きじゃくるさまが酷く哀れで、それを上回るほどにかなしい。

 たまらなくなって、さらに幼い体を掻き抱く。

 抱きしめ返されることはないが、抗われることもなかった。

 葉を打つ雨音が、少しずつ大きくなっていく。



「君は、悪くない」



 うっすらと赤い耳の縁へ唇を寄せて、言い聞かせる。

 悪いのは、俺を含むあの場にいた大人だ。

 この子に見せるべきでないものを見せて、聞かせるべきでないものを聞かせた。

 誰も彼もがこの子を気にかけず、自らを優先したあげくに泣かせているのだ。



「守ってあげられなくて、すまなかった」



 罪は、与祢姫に無い。

 不甲斐ない俺たち大人にこそある。

 それだけはわかってほしくて、心の底から詫びる。

 肩のあたりが、じわりと温かく濡れていく。

 ぬれぼそる髪を梳いてやりながら、きつく目を閉じる。



「本当に、すまなかった」




 雨が、ひときわ強くなる。

 濡れた梔子の香が、たち込めていた。




**********


10/2に書籍版3巻、10/14にコミカライズ版1巻が発売されます!

詳細は近況ノートをどうぞ!

この2つの売り上げ次第で続刊が決まるので、手に取っていただけると幸いです…!

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