たいせつなもの(2)【天正17年4月下旬】

「贈り物、だと」



 平坦な声音が、上座からこぼれ落ちた。

 茶々姫様以外の全員が、はっと声の主に視線を向ける。

 秀吉様は、笑顔だった。

 さきほどと変わらず、にこにこと笑っている。



「どういうことだ」



 人らしい温度が掻き消えた眼が、ぎょろりと動く。

 何か言おうとした寧々様でもなく、嬉しそうな茶々姫様でもなく。

 凍り付いた香様をまっすぐに見竦めて、秀吉様はまた口を動かす。



「どういうことだ、お香」


「それ、は……」



 香様の声は、続かない。

 喘ぐように口を動かしているのに、一つも音にならない。

 笛を抱きしめて、香様はかたかたと震えている。

 秀吉様のまとう空気が、ますます冷えていく。

 まずい。完全に疑っている。

 大切な人からの贈り物。

 茶々姫様が口にしたそれは、やろうと思えば何通りにも解釈できてしまう言葉だ。

 それを秀吉様は、よりにもよって一番悪い方向に捉えてしまっていたらしい。

 非常に危うい事態だ。答え方次第で香様の立場は悪くなる。

 私がフォローするのは……無理か。

 秀吉様のご機嫌は、絶賛急降下中なのだ。

 香様以外の誰かが先に意見すると、癇癪が炸裂しちゃうかも。

 現に寧々様もおこや様も、向かいの紀之介様たちすら、身構えるばかりで口を開こうとしない。

 私よりもずっと秀吉様を知る彼らでさえ、それだ。

 子供の私が、どうにかできるはずがない。

 誰もが見守るしかできない中、香様は黙り続けている。

 痺れを切らしたように、秀吉様が再び口を開いた。



「その笛は、なんだ」


「香の大事な人からの贈り物なのよ、殿下」



 重なる問いに、甘い声が答える。

 茶々姫様が、秀吉様を見上げていた。

 冷気の漂う視線を受けても、毅然と顔を上げている。

 待って待って、どういうこと。何のつもりなの、茶々姫様。



「殿下、香をいじめないで。お返事なら茶々がします」



 唖然とする私たちをよそに、茶々姫様はさっと香様を背に庇った。

 そうして、青ざめる香様を振り返る。

 安心させるように微笑みかけると、茶々姫様は秀吉様へと向き直った。

 


「その笛はね、香がいつも」


「茶々姫」



 言葉の先を、寧々様が鋭く遮った。

 


「殿下はお香に聞いておられるの、貴女は黙りなさい」


「だけど、香はお話しできないみたいですわ。助けてあげなくちゃ、かわいそうですっ」


「だとしても、貴女が勝手に口を出して良いわけにはなりません」


「でも、でも寧々さまっ」



 冷たく嗜める寧々様に、必死で茶々姫様が食い下がる。

 目の縁をうっすらと濡らし、懸命に縋る姿は痛々しい。

 友達のピンチを救おうと必死なヒロインと、冷たくそれを阻む敵役。

 今このシーンだけ切り取れば、そうとも取れる光景だ。

 けれど双方がぶつける主張は、どう考えたって寧々様の方が正しい。

 そのはずなのに、なぜだろう。

 茶々姫様が悪くないように見えてくる。

 表現しがたい違和感の中、寧々様が苛々と声を荒げた。



「ああもうっ、うるさい子ね! いい加減に──」


「寧々、黙れ」



 突然、秀吉様が口を挟んだ。

 止められた寧々様が、驚いたように秀吉様の方へ振り向いた。



「お前もうるさい」



 秀吉様が手を振る。

 寧々様をちらりとも見ず、鬱陶しげに。

 呆然とする妻をそのままに、秀吉様は茶々姫様を促す。


 

「茶々、話してみぃ」


「は、はいっ」



 慌てたように、茶々姫様が頷いた。

 胸の前で手を強く握り、細く息を吐く。

 赤い唇が、ゆっくりと動いた。



「あの笛を、香はとっても愛おしげに吹くのです」


「笛を、愛おしげに」


「ええ、だからきっと、大事な人からの贈り物じゃないかしら。後ろめたいことは何もないはずですわ」



 そうでしょう? と、茶々姫様が香様へ同意を求めた。

 俯いていた香様が、大きく身を震わせる。

 笛を抱き込み、何度も唾を飲み込んで。

 それでも、のろのろと顔を上げて寧々様を見た。



「なるほど、つまり思い入れのある品ということね」



 寧々様が、そう明るく言った。

 気を取り直せたのか、綺麗に彩ったお顔はもうほうけていない。

 北政所様の顔で、寧々様は微笑む。

 


「使い込まれているようだから、ご実家の物ではなくて?」


「北政所様……」



 ほんのわずか、古満殿に支えられた香様のお顔に色が戻った。

 示された逃げ道に、気付いたらしい。

 ほとんど反射のように、細い顎を引いた。

 

「さ、さようです」


「まあ、やはりそうだったの。心を込めて吹くほどならば、大切なお身内ゆかりの品かしら」


「はい、北政所様の仰せのとおりにございます」



 香様が秀吉様を見上げる。

 しっかりと目を逸らさず、笛を握りしめて口を開いた。



「これは、あたくしの兄から譲られたものです」


「基常からだと? まことか?」


「元は両親を亡くした折、家伝来の笛筒と鏡を兄と分けたのです。その後に、やはり笛筒もあたくしの手元にあるべきだと譲られました」



 あたくしが、殿下のお側にお仕えすることとなりましたので。

 そう言って、香様は笛に目を落とした。



「笛は、笛筒に入っていただけの物です。兄が気を利かせてくれたのだと思うと、心遣いがありがたくて」



 香様の言葉が途切れる。

 ああ、そうか。香様にとって、兄の香積かづみ様は唯一の肉親だ。

 初めての妊娠と慣れない生活の中で、香様は笛を心の支えにしていた。

 会えなくても、同じ世界に血の繋がった兄がいる。

 笛を吹くたびにそう思っていたから、特別なふうに見えたのだ。

 ものすごく腑に落ちる理由だ。

 私以外の誰もが同じ感覚なのだろう。場に、納得の空気が漂い始めた。

 上座の秀吉様を、そっとうかがってみる。

 どこか少し、気が抜けたような顔をしていた。

 元から強い猜疑心が、だいぶ和らいだみたいだ。

 恐れていた密通裏切りではなくて、ほっとしたのかもしれない。

 まあ、奥から一歩も出ていない香様に、不倫なんてできるはずないけどね。

 しかも実のお兄様とだなんて、冷静に考えたらもっとありえないよ。

 小説やドラマみたいなフィクションでもあるまいし、タチの悪い冗談だ。

 何はともあれ、これでこの話は終わりそう。

 はあ、やれやれ。解けた緊張のまま、誰もが息を吐く。

 私の隣に座る杏一人は、目頭を揉んでいるが。

 どんまい杏ちゃん。あんな人が身内だと、苦労するよね。

 緩んだ空気の中、茶々姫様が不思議そうに小首を傾げた。



「じゃあ、香の慕う方はお兄様だったの?」


「何を言っているの、茶々姫」



 寧々様が呆れたように、茶々姫様を見やる。

 本当だよ、茶々姫様。何を言っているのだ。

 ズレてるのは知っているが、どこまでズレているんだか。



「妹が兄を慕うのは、当たり前でしょう」


「そうなのですか?」


「貴女にも妹がいるわよね。初姫や江姫に愛着を持っていないの?」



 淡い色の眉が、戸惑うように下がる。

 どうしてここで、戸惑う必要があるの。

 訝しげな私たちの視線を浴びながら、茶々姫様は口元を袖で覆った。



「茶々も、初と江は好きだけど……」



 でも、と。

 白い指が、私を指し示す。




笛を吹く香は、・・・・・・与祢が髪飾り・・・・・・を撫でる時・・・・・みたいだったわ」




 音が吸い取られた。

 そんな静けさが、やってくる。

 すべての視線が、私に集まる。

 私の髪を飾る、春色のバンスクリップ。

 大好きな紀之介様から贈られた、私の一番の宝物だ。

 その飾りに触れる指先に、どんな想いが宿っているのか。

 この場にいる誰もが、きっと知っている。



「だから……心に残る大切な人からの贈り物なんだわって思ったのだけれど……」



 あどけない黒真珠の瞳が、ゆっくりと瞬く。



「違った?」



 戻っていた香様の顔色が、すっと抜けた。

 のろりと動いた消紫けしむらさきの瞳に、はっきりと恐怖が浮かぶ。



「殿下」



 お腹に響くような太い声が、唐突に上がった。

 加藤様だ。元々無骨な顔が、恐ろしいくらい険しくなっている。

 凍てつく空気をものともせず、裾を捌いて秀吉様の正面に進み出る。

 背に香様を庇うように腰を下ろした加藤様の目が、ぎょろりと動く。

 その剥き出しの牙のような双眸が、茶々姫様を捉えた。



「この毒婦の言に、お耳を傾けられませぬよう」



 言い切られた言葉は短く、けれども鋭い。



「最前から聞いておれば、虫唾の走る戯言ざれごと妄言もうげんばかり。日根の御方をそしるために粧姫まで貶めるなぞ、度を越しております」


「ま、待って!」



 慌てたように、茶々姫様が声を上げた。



「茶々、香と与祢を謗ってなんかいないわ!」


「頭にうじが沸いているのか、貴様」



 悲痛な訴えに、加藤様が苛烈な侮蔑を返す。



「殿下を惑わす言を弄しておいて、謗っていないと?」


「惑わすだなんて、誤解です、そんな恐ろしいことしたつもりはないわ」


「では、故意でなければすべて許されると思っているのだな」


「酷い……どうしてそんなことを言うの……?」



 黒真珠の瞳が、みるみる潤んでいく。

 怯える茶々姫様に、加藤様の一瞥がぶつけられる。

 柔らかなものを一切省いて、冷たく硬い蔑みで塗り固めた眼差し。

 念入りに刻むようなそれに、茶々姫様はとうとう涙を溢した。



「殿下、もうおわかりでしょう。浅井の姫をお側から遠ざけなされよ」



 秀吉様を見上げ、加藤様は諫言する。



「この女は、妲己だっき褒姒ほうじの類いだ」



 秀吉様が、脇息から身を起こした。

 ゆらりと、陽炎のように。不安を覚えるほど、ゆっくりと。



「お前様?」



 寧々様が呼んでも、秀吉様は表情一つ動かさない。

 能面のような顔のまま、その矮躯が立ち上がる。

 止める間もなく控える小姓の手から太刀を奪い、秀吉様は荒々しく上座から降りた。



「もういっぺん言ってみろ」



 加藤様の前で、秀吉様が太刀の鞘を払う。

 差し込む朝の陽光を美しく弾く切先が、加藤様の喉元に突きつけられた。



「虎、もういっぺん、言え」



 淡々とした口調であるのに陰々とした声音で、秀吉様は命じる。

 加藤様は秀吉様を見上げた。怖気など一切含まないその目が、まっすぐ主君を射る。



「そこの浅井の姫は、妲己褒姒の類いです」


「なにゆえ、茶々を愚弄する」


「愚弄ではありません、事実を申しているまでです」



 きっぱりと言い切った加藤様は、秀吉様から目を逸らさない。

 ほとんど睨むようにして、硝子じみた主君の目に視線を合わせている。

 ややあって、秀吉の目玉が動いた。

 加藤様の後ろで、青ざめている香様を映す。



「……香にたぶらかされたか」


「オレは女に誑かされませぬ」



 疑いを即座に否定し、殿下、と加藤様は声を大きくした。



「毒婦に惑溺わくできしているのは、殿下の方でしょう」



 抜き身の刃が閃く。



「お前様っ!?」



 寧々様の悲鳴をも振り切って、刃が弧を描く。

 加藤様の頬から、赤い飛沫が散った。



「虎になんてことを……気が触れたのですか!?」


「か、主計頭様っ! もう十分です、十分ですから、どうかもうこれ以上はっ!」



 寧々様と香様が、秀吉様たちに取りすがる。

 袖を引き、掴み掛かるような勢いで、止まってくれと訴えている。

 だが彼らは、二人へ目すら向けない。

 まるで聞こえていないかのように、加藤様を睨んでいる。

 加藤様も同じだ。斬られたのに微動だにしない。

 血を流したまま、秀吉様を見据えている。



「茶々に詫びろ」


「お断りします」


「その首、落とされてもか」


「無論」



 青ざめていた秀吉様の頬が、一気に赤くなる。



「よう言うたな、虎……」



 秀吉様が、怒った。

 心の底から、理性が飛ぶほどに怒り狂ってしまった。

 直感が、私の背筋に怖気を走らせた。

 やばい。あの時と同じだ。袖殿たちを処断した時と、同じだ!

(加藤様が死んじゃう!)



「与祢ッ」



 腰を浮かせかけた体が、畳へ押さえつけられた。

 両脇の杏とおこや様が、鬼の形相で私を見下ろしている。

 何を、と開きかけた口に手巾ハンカチが詰め込まれた。



「黙ってて」



 抵抗する私の腕を捻りあげ、おこや様が言う。

 でも、このままじゃ。目で訴えても無駄だった。

 回り込んできた杏の、勿忘草色の胸元が視界を覆った。



「もう無理だよ」



 私を抱きしめて、杏が囁く。

 諦めを含んだ声音が、やけに大きく耳に触れた。



「じっとしててくれ、頼むから」



 真っ暗な視界が絶望で染まるのと、ほぼ同時だった。



「いい加減にしろ、慮外者がッ」



 福島様の怒鳴り声が、空気をびりびりと震わせた。

 それらに被さって、人が殴られる痛い音、くぐもった呻き声。

 畳から伝わる大きな振動と一緒に、香様の悲鳴が鼓膜を打つ。



「虎がご無礼をいたしました、殿下」



 ひらにご容赦を、と謝る声の息は荒い。



「頭に血を昇らせて、口が過ぎたようです。おれが側にいながら止めきれず、申し訳ございません」


「頭に血、頭に血か。見境も無く昇るものよな」


斯様かような虎の性分は、殿下もご存じでありましょう?」



 冷たい秀吉様の声に、無理に穏やかさを持たせた福島様の声が続く。



「おれがよくよく言って聞かせますゆえ、なにとぞお許しを」



 僅かな間を置いて、舌打ちが聞こえた。

 はち切れそうだった殺気が、ほんの少し削がれる。



「そんなら、しっかり頭を冷やさせろよ」


「はい、必ずや」

 


 忌々しげに秀吉様が、福島様に命じる声がした。

 それに応えるとともに、福島様は加藤様を引き離したらしい。

 重いものを引きずる音がする。加藤様が抵抗している様子はない。殴られて、失神したのだろうか。

 かなり心配だが、確かめようがない。

 杏はまだ、私を抱きしめたまま動こうとしないのだ。



「杏っ、ねえ離して、離してったらっ」


「だめだ」



 ますますしっかり、頭を抱え込まれる。

 どんなことになったのか、何が起きようとしているのか。

 わからなくて、怖くて、長い腕に爪を立てて掻く。



「きゃぁっ」



 弛まない腕に抗う私の耳に、短い香様の悲鳴が届いた。

 それを蔑むように、秀吉様が吐き捨てる声がする。



「よう虎を狂わせたものよな。昨夜の一度で籠絡したのか、香」


「でん、かっ……違います……!」


「兄も同じか、そうなのであろう!」



 苦しげな訴えを無視して、秀吉様は香様を責める。

 発される言葉はどれもきつくて容赦がない。

 どれもこれも、香様の密通を真実だと、決めつけているものばかりだ。

 香様がいくら否定しても、秀吉様の中では罪が確定してしまっている。

 もう、誰にも止められない。

 杏の腕が、強くなる。それでいつのまにか、自分が震えていることに気づいた。

 涙も出ている。恐ろしさと悔しさが、溢れていく。

 知っている人を助けられない無力さが、苦しくてたまらない。



「おやめくだしゃりませ、御所様ぁっ」



 古満殿の叫びが、罵声を遮った。



「退けっ! なんのつもりや!?」


「御方様は悪いこと、なんにもなさってませんっ。胸に想いを秘すことすら、赦されぬのですか!」


「当たり前やろうが! 二心を持つなど赦せるはずなかろう!?」


「せやったら浅井の姫様ひめさんかて、おんなしでおざりますのんえ!」



 古満殿の言葉に、秀吉様の声が止んだ。

 その隙に、古満殿は続ける。



「この御方はおっしゃってました、殿下やあらへん殿方に想いを寄せてるて」


「何……」


「かつて助けてくれた若武者を忘れらへんのや、心に残ってるんやと、おっしゃっていたんです」



 茶々姫様だろう。息を呑む、細い音がした。

 私の脳裏にも、あの花見の日の記憶がよみがえる。

 そういえば、そうだ。あの日、茶々姫様は言っていた。

 誰かに恋がしたい、と。

 北ノ庄で一度会ったきりの人が、心に残っているのだとも。

 あれが本心ならば、茶々姫様だって人のことは言えない。



「やから、浅井の姫様もおんなしなんですっ」



 もしかしたら。

 古満殿の訴えに、小さな期待が見えた。

 不意に杏の腕が緩んだ。腕の隙間から、光が差し込む。

 食い入るように覗いた先で、古満殿は秀吉様に立ち向かっていた。

 香様を庇う姿が、眩しく目に映る。



「御所様」



 凛と顔を上げて、古満殿が言う。



「御方様が罰されるんやったら、浅井の姫様かて────」



 頼もしい声は、そこでぷつりと途切れる。

 赤い大輪の花が小さな体から開いた。



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