たいせつなもの(1)【天正17年4月下旬】

 中奥にある、例の豪華な秀吉様の御座所。


 朝食を終えて間もない時間にも関わらず、それなりに多い人間が集っている。

 上座には秀吉様と寧々様のお二人、その正面の下座に香様と古満殿。

 下座の左手に紀之介様たち四人がいて、右手に私とおこや様、それから杏が控えて見守る。

 その中を、香様の元へと御小姓が進み出た。

 恭しく掲げられた少年の手には、細長い箱がひとつ。

 蒔絵と螺鈿で飾られた蓋が、朝の光をきらきらと弾いて美しい。

 いっそ派手すぎるほど豪奢なそれを、御小姓は丁寧に香様の前へ置く。

 


「お香、中をあらためてみぃ」



 御小姓が下がるのを見計らって、上座の秀吉様が声を掛ける。

 わずかに上擦った返事を詰まらせかけながら、香様が箱に手を伸ばした。

 細い手がもどかしげな手付きで開けて、中の鶯色の笛袋を取り出す。

 留められていた朱い紐が解かれ、笛筒が現れた。

 蜻蛉と撫子が描かれた、とても趣味の良い金蒔絵の品だ。



「政基公の笛筒に相違ないか?」



 香様が顔を上げた。

 今にも泣き出しそうな、けれども、心底安心した表情だ。

 震えている口元を手で覆い、香様は深く頷いた。



「はい……っ」



 細いながらもはっきりした返事に、肩から緊張が抜ける。

 よかったぁぁぁ……!




 香様と古満殿を捕まえた後、私たちはすぐに寧々様の御殿へ駆け込んだ。

 もちろん香様たちも連れて、である。

 屋敷に帰しても逃げられないだろうが、話がややこしくなる可能性があったからだ。

 無断の夜間外出のこと、その原因が茶々姫様であること。山ほど厄介なネタばかりだし、送っていくにしても私はともかく紀之介様たちが一緒である理由の説明が面倒だ。

 なので、どうせ騒がれるなら寧々様を通して話を持っていった方がマシだ、という結論になったのだ。

 もし九条家からの女房たちが騒ごうとしても、寧々様なら多少のことはねじ伏せられる。

 そう説明したら、二人は特に反対しなかった。むしろ、ぜひ北政所様のお力添えをとお願いされてしまったよ。

 まだ香様は、人を使う高貴な女性としての経験が浅い。女房たちの手綱を捌ききれる自信がないらしい。

 私の提案は渡りに船というわけで、進んで二人は付いてきてくれた。


 と、なれば、善は急げってやつだ。

 すぐに縫殿を出て、途中でおこや様たちと合流し、寧々様の御殿へ向かった。

 こっそり裏口から入ると、予定と違って寧々様が直々に出迎えてくれた。

 見回りをした私たちのために、お夜食を用意してくれていたんだって。

 嬉しくて泣くかと思った。寧々様そういうとこ、ほんと大好き。

 さすがに香様と古満殿の姿には驚いていたものの、厳しい態度は取らなかった。

 私たちの様子から、ただの窃盗などでは無いと察してくださったのだろう。

 にこやかに香様へ挨拶をして、お夜食のおにぎりと温かいお味噌汁を勧めていた。

 このあたりでまた香様が泣いたり、古満殿が土下座を始めようとしたりして大変だったけど、まあなんとか落ち着かせて。

 限界を迎えた香様たちが寝落ちした後、見回り結果の報告会となった。

 それでお夜食をいただきつつ、私や紀之介様、加藤様がかいつまんで事情を説明したらね。


 寧々様は、笑顔で扇子をへし折った。


 反応が非常に怖かったが、怒るのは当然だよね。

 ライバルの蹴落としを狙った、と謗られかねないやらかしなのだ。

 茶々姫様が笛筒を紛失したことで、香様はメンタルを揺さぶられ、パニックを起こしてしまった。

 私たちに見つからなければ、心身の負担が重なって早産になったり、深夜の笛筒探しが悪い形でバレて評判を落としたりしていた可能性も高い。

 もしそれで香様の御子が残念なことになれば、状況次第で茶々姫様の有利に事が運ぶだろう。

 子のあるなしは、城奥の地位に影響する要素だ。

 香様が出産に失敗した状況で、茶々姫様が無事に男児を産めば立場は逆転する。

 後見人に力がないから滅多なことはないと思うが、少なくとも側室筆頭にはなれるだろう。

 秀吉様の御子の母として、側室に据え置きでも下にも置かない扱いになるはずだ。

 秀吉様の寵愛を利用すれば、正室の席だって狙えるに違いない。

 穿った見方をしなくても、ライバルの蹴落としを狙ったと茶々姫様が疑われても当然の状況だ。

 しかもこの話は、城奥の秩序が乱れる、という内部のことばかりに止まらない。

 被害者が香様であるがゆえに、表に影響が出る危険性も十分あるのだ。

 だって香様は、実態がどうであれ九条家の養女。

 香様が茶々姫様の下克上で死産でもしたら、九条家が怒り狂うのは目に見えている。

 五摂家の中では比較的力が無くとも、朝廷内での九条家の影響力は馬鹿にできないものがある。

 朝廷との関係のこじれに発展してしまったら、もう悪夢としか言いようがない。

 故意でなくとも茶々姫様にはお灸を据えねば、と寧々様が結論付けたのは当然の成り行きだった。


 すぐに寧々様は寝ていた杏を呼び、事情を伝えて朝になったら源吾様に連絡しろと命じた。

 今後の茶々姫様のことについて相談する、と言っていたがそれでとどまるかどうか。

 重い処分の可能性も匂わされ、杏は血の気を全部失っていた。

 茶々姫様の身ではなく、実家の心配をしたんだろうな。

 なんだかんだで、杏は養父の源五様と仲が良い。

 何度も畳におでこを擦り付けて寧々様に謝り、夜明けを待たずに源五様の元へ知らせを走らせた。

 

 で、そうこうしているうちに、朝が来て。

 明るくなるとともに、事態の収拾に向けて一気に事が進められた。

 私は寧々様と一緒に寝て、いつもより早い朝食を済ませてから、ともに香様たちを屋敷へ送った。

 少しドキドキしながら行ってみると、意外と何もなかった。

 香様付きの女房たちは、拍子抜けするくらい落ち着いていたのだ。

 昨夜の時点で、孝蔵主様が事情を知らせていたおかげかもしれない。

 一番気性が激しい筆頭女房の歌橋殿でさえ、香様を気遣う余裕を見せていた。

 感情的になることなく、丁寧にお礼を述べて後事を託してくれた。

 たぶん、そうした方が有利と判断のだろう。

 寧々様が同情的だから、任せてしまえば悪いようには転ばない、と。

 茶々姫様が失脚してほしいな、という期待も笑顔の下に見えた気がした。

 

 御化粧係の仕事については、予定通り杏におまかせ。私は香様の方の対応があったからね。

 ついでに茶々姫様を御殿に連行してくるよう、寧々様から命じられてもいた。

 蕗殿が卒倒して大変だったが、なんとか茶々姫様を連れ出してきた。

 まあ、うん。茶々姫様はあまり事態を理解していなくて、みんなで頭を抱えたが。

 この犯人、あまりにも無責任じゃないですかねえ……わかってたけどさあ……。

 当然、寧々様の渾身の雷が落ちた。

 きつく、しっかり、細やかに。こんこんと寧々様に叱られて、茶々姫様はやっぱり泣いた。

 謝ってお詫びもしたが、香様を追い詰めてしまった自分にショックを受けたようだ。

 おめめが溶けるほど泣くくらいなら、さっさと寧々様に報告して解決を頼めばよかったのに……。

 

 秀吉様の方は、紀之介様たちが軽く仮眠を取ってから、朝早く表に戻って連行してきた。

 もし秀吉様が事情聴取から逃げようとしたら、縛ってでも連れてこい。

 そう寧々様が頼んでいたのだが、本当に秀吉様は縛られて連れて来られた。

 寧々様に叱られそうなやらかしの心当たりが、秀吉様にはいっっっぱいあったらしい。

 怒られたくないと秀吉様が激しく抵抗したので、石田様がやむなく縛ったそうだ。

 死んだ目の紀之介様からこっそり教えてもらって、もれなく私の目も死んだ。

 あの天下人、こっちに来たら来たで面倒を起こしたし?

 叱られて泣いている茶々姫様を庇い、寧々様に食ってかかったのだ。

 まあいつものごとく、鳩尾への一撃ですぐさま制圧されていたが。

 

 そうして散々にお灸を据えられた後、秀吉様はいったん表に送り返された。

 すぐ笛筒を探してこい、自分の目で倉や物置を確認しろ。

 髷を掴んで寧々様に命じられ、泣きながら飛んで帰ってすぐ見つけてきた。

 茶々姫様が吹いた笛だからと、手許で保管していたらしい。

 犬のように笛筒を差し出して、必死で寧々様に許しを乞うていた。

 この天下人、やっぱりいろいろ気持ち悪い。

 そう思うのは、私だけだろうか。


 すったもんだしたけれど、なんとか笛筒は見つかった。

 それで香様の元へ知らせが走り、返却しましょうとなって。

 御座所に関係者一同が、全員集合となったわけである。


 


「見つかってよかったね、香!」



 上座の一段下がってすぐ側で、甘やかな声が弾む。

 茶々姫様が大きなお腹をさすりながら、ふわふわ微笑んでいた。

 つい先ほどまで、寧々様のお説教を受けてぴーぴー泣いていたのが嘘のようだ。



「これで心安らかに産所に行けるね、茶々も安堵したわ」



 まことによかった、と嬉しそうに茶々姫様は言う。

 私から見て正面に並ぶ紀之介様たちが、ほんの一瞬だけ表情を強ばらせた。

 一番顔に出やすいタイプの福島様に至っては、わかりやすく茶々姫様を横目で見たほどだ。

 気持ちはわかる。すごくわかる。

 茶々姫様のどことなく他人事な発言は、私もマジでどうかと思う。

 でもこの人の発言は素だ。悪意ゼロなのだ。

 現に福島様の視線に気付いても、愛らしく小首を傾げている。

 頭が痛くなってきたぁ……。



「茶々姫」



 微妙な空気を追い出すように、寧々様が咳払いをした。

 上座から吊り上がった鳶色の目が、冷ややかに茶々姫様を見下ろす。



「他人事のように言うのではありません」


「寧々さま?」


「お香の笛筒が入れ替わったのは、元はと言えば貴女のせいでしょうが」


「あっ、そう、そうでしたわ。茶々のもとで取り違えられちゃったから、ですわね……」



 寧々様の指摘に、さっと茶々姫様が青ざめた。

 厳しい眼差しに項垂れて、ごめんなさい、と呟く。

 そのか細い謝罪に、寧々様は額に手を当てて大きくため息を吐いた。



「あたくしに謝ってどうするの。ちゃんとお香に謝りなさい」


「は、はいっ」



 強めに促されて、茶々姫様は大慌てで香様の方へ向き直った。

 大粒の黒真珠のような瞳を淡く濡らして、大きなお腹に苦労しながら頭を下げる。



「香、ごめんなさい。茶々のせいでたくさん困らせちゃって」


「茶々様……」


「茶々の侍女が間違えて・・・・しまったばっかりに……まことにごめんなさい……」



 謝罪する可憐な声が、頼りなく震える。

 淡い色の髪が流れて、うつむく茶々姫様の頬へと掛かった。

 雨に打たれた花を思わせるそのさまに、場の誰もの目が吸い寄せられる。



「えらいっ!」



 ひときわ明るい賞賛が、わずかに訪れた沈黙を破った。

 上座の秀吉様だ。満面の笑みで、膝を叩いている。



「よう謝れたな、茶々! まっことえらいっ!」


「殿下……?」


「さすがはお市様の姫や、茶々がええ子でわしは嬉しいっ」



 何度も頷き、秀吉様は目を細めた。

 娘の成長を喜ぶ父親のような温かさを眼差しに込め、茶々姫様を見つめる。

 ますますうつむく茶々姫様の頬が、照れたように淡く染まった。



「どうかお褒めにならないでくださいませ、殿下」


「んん? 何故にだ?」


「茶々、だめな子なのです。香をたくさん困らせちゃったもの……いけない子なの……」


「いやいや、何がだめなものか!」



 大げさな身振り付きで、秀吉様は茶々姫様の言葉を否定する。



「自らの非を認めるなどなかなかできることではないんやぞ。素直は美徳、茶々はえらいっ!」


「殿下……」



 私たち、何を見せられてるんだろう。

 茶番を前に香様は所在なさげだし、無表情の寧々様は苛立たしげ。

 慣れていない杏や古満殿はあからさまに頬をひきつらせているし、同性の紀之介様たちの目は勢いよく冷めていく。

 私自身も似たり寄ったりだ。鏡で確認したわけではないが、ものすごく面倒くさそうな顔をしている気がする。

 秀吉様と茶々姫様は、そんな周りの変化に気づく気配もない。

 幸せそうに二人の世界でたわむれている。

 座敷の空気が、ますますしらけていく。



「お香、わしに免じて茶々を許したってくれよ?」


「は、はいっ」



 急に振られた香様が、声を裏返す。



「もとより茶々様に咎があるなど思うておりませぬ。こうして無事に笛も返ってまいりましたから、茶々様もどうか思いつめないでくださればと……」


「うん、お香も懐が広いのぉ! さすがわしのおなご、ぃでぇえっ!?」


「お前様、いい加減になさいまし」



 はしゃぐ秀吉様の頬が、とうとう横合いから捻られる。

 打った痕を的確に、思いっきりにだ。

 力いっぱい摘みながら、寧々様が秀吉様を睨む。



「あだ、ぃだだだっ、ふぇふぇっ!?」


「そうやって茶々殿を甘やかすから、こんな始末になったんでしょうが」


「らってぇ!」


「だってじゃない! 口答えするならもっとお仕置きですからね?」


「ふひぃぃぃぃぃぃっっっ!!」



 あ、平常運転に戻った。寧々様が入ると一瞬だな。

 派手な悲鳴を上げる秀吉様にはあきれつつ、同時にほっと胸を撫で下ろす。

 寧々様にお仕置きされつつも、秀吉様のご機嫌は上々のようだ。

 これなら、香様へのお咎めは特に無いだろう。

 考えうるかぎりで、最も良い着地点に落ち着けたんじゃないだろうか。

(あ……)

 向かいの紀之介様と目が合った。

 形の良い唇が、よかったね、と動く。

 ほんとにね。笑顔で大きく頷いてみせると、紀之介様も笑ってくれた。

 ああ、よかった。今夜は枕を高くして眠れそう。



「そういえば、香」



 くすくすと笑っていた茶々姫様が、ふと香様に呼びかけた。

 笛筒を抱きしめる香様が、おずおずと茶々姫様の方へ顔を向ける。

 


「はい、何でしょうか」


「笛筒の中は確かめなくていいの?」


「え? 中身?」


「別の笛にすり替わっていたら大変じゃない」



 おおう。茶々姫様には珍しく、的確な指摘だ。

 中身が別の物と入れ替わっていたら、また探さなきゃならないもんね。

 香様も、そこに思い至ったらしい。



「あたくしとしたことが、失念しておりましたわ」



 恥ずかしさをごまかすように笑って、香様が笛筒を開ける。

 出てきたのは、篠笛だった。

 特に装飾があるわけでもなく、ごくごく普通の品に見える。

 香様くらいの身分の方が持つには、少々シンプル、ってくらいかな。

 使い込まれた風情があるので、昔からの持ち物なのかもしれない。



「笛もあたくしの物ですわ」



 手に取って確かめて、落ち着いた調子で香様が言う。

 茶々姫様は安心したように、ほっと息を吐いて微笑んだ。

 


「よかった、あの笛なのね」


「はい。気にかけてくださってありがとうございます、茶々様」


「ううん、いいのよ。無くなってしまっていたら、大変だったでしょう? だって────」

 


 茶々姫様の柔らかな唇が動く。



「その笛は、香の一番大切な人・・・・・・からの贈り物じゃない」



 甘い響きを宿す声は、ぽたりと白い紙に落ちた墨のように。

 座敷のすべての人の耳へ、鮮明に届いた。

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