城奥の幽霊(5)【天正17年4月下旬】

 香様の上から身を退いて、慎重に助け起こす。

 一応お腹を潰さない努力はしたけれど、大丈夫だろうか。



「日根の方様、お腹は無事ですか?」



 訊いてみても、返事はない。

 警戒されているというよりは、怯えられているっぽい?

 しかたなく、失礼します、と断りを入れてお腹へ手を伸ばす。

 ふっくらと大きく膨らんだお腹に指先が触れると香様は身を固くした。

 が、拒否はなさらない。震えながらも私のなすがままになっていらっしゃる。

 もう片方の手も添えて、両手で丁寧にお腹を触診させていただく。

 触れてみた感じ、へこんでいるとかの異常はなさそうだ。



「痛みや張りなどはございませんか」


「……あり、ません」



 今度は細く、けれどもはっきりとした返事が返ってきた。

 ほっと肩の力が抜けていく。



「良うございました……」



 どうやら恐ろしい事態は回避できたみたいだ。

 大きな息をお腹の底から吐き出す。

 正当防衛でも、私のタックルが原因で流産なんてことになったら大変だった。



「あ、の、粧姫様」


「はい、何かございますか」


古満こま、古満を、放してあげてください」



 香様が私の袖を掴んで、紀之介様の方へと視線を向かわせる。

 幽霊、もとい、古満殿は紀之介様に組み敷かれたままだった。

 布切れを突っ込まれて口を封じられているが、必死の形相で紀之介様の下から這い出そうともがいている。

 まずい、すっかり忘れかけてた。

 すぐに古満殿と紀之介様のもとへ移動し、苦しそうに見上げてくる古満殿の前で身をかがめる。



「抵抗しない、逃げないと約していただけますね」


「う、……っ、っ」


「紀之介様」



 紀之介様は少し考えて、加藤様の方を見た。

 たったそれだけで意図が通じたらしい。加藤様は足元に落ちていた飾り紐を拾い上げた。



「手だけは戒めるぞ、いいな」


「っ……、っ」



 こくこくと古満殿が首を揺らすと、すぐさまその細い手首に紐が掛かる。

 後ろ手に縛られたのを見届けてから、紀之介様は古満殿の胴から膝を退けた。



「古満っ」


「けほっ、おんか、た、さん」



 床に手を付き、這うようにして香様が古満殿の側へ駆けつける。

 青い顔で起き上がれない古満殿に触れ、香様はくしゃりと表情を崩した。


 

「ごめんなさい、ごめんなさい、古満……っ、痛む? 怪我はっ?」


「こほっ、ありませぬ……御方様は……」


「あたくし、あたし、は、何ともない、けれど……ごめんなさい……っ、あたしの、せいで」



 咳き込む背中をさする香様の声が、とうとう湿りを帯びる。

 滑り落ちるようにして、香様は古満殿の前に手を突いた。

 止める間もなく、大きなお腹を抱え込むように頭を下げてしまった。



「ごめんなさい……巻き込んで、ごめんなさいっ……」


「お、御方様!? なりませんっ、お顔をお上げあそばしゃりませっ!」


「でも、でも、あなたが酷い目に……っ、う、うぅ、ごめ、ごめんなさい……」


「御方様っ」



 古満殿の制止にも、香様の涙は止まらない。

 いっぱいいっぱいで、引っ込まなくなってしまったのだろう。

 しゃくりを上げて、子供のように泣いている。

 助けを求めるような古満殿の視線を受けて、香様の側に付く。

 自分の打掛を寝間小袖の肩にかけてさすると、泣き濡れた香様が息を詰めた。



「日根の方様、こちらへ」


「で、でも、古満が」


「はい、わかっておりますよ」



 声を上擦らせる香様をなだめつつ、古満殿、と呼ぶ。



「起き上がれそうですか?」


「……すみませぬ、お手を貸してくだしゃりませぬか」


「もちろん」



 肩を抱えるようにして古満殿を助け起こす。

 痛そうに顔をしかめているものの、大きな怪我はなさそうだ。

 香様と協力して古満殿を立たせて、一緒に毛氈の場所まで戻る。

 柔らかな布に腰を下ろした香様は、気遣うように古満殿に寄り添った。

 二人の表情が、ほんの少し和らぐ。

 お互いの温もりを分け合って、気持ちが落ち着いたようだ。

 これなら会話できる、かな。



「手燭に火を入れてもよろしいですか」


「は、はい」



 香様に確認してから、離れた場所に落ちていたランプを拾う。

 つるんとしたランプシェードに指が触れた。

 割れないように取手を持ち上げて戻り、加藤様に紙燭からランプの中の蝋燭へ火をもらった。

 ふわりと薄青い光が室内に溢れていく。

 水色にも思えるほど淡い色合いで、明るさは蛍のように強くない。

 布を被せるなりすると、もっと光量が減りそうだ。

 さっきの、幽霊の光のように。



「これは……手燭かい?」



 興味深げに私の手のランプを見つめ、紀之介様が訊ねてきた。

 本当に好きだなあ、珍しい物。そういうところが可愛いと思いつつ、答えて差し上げる。



「ええ、ご推察の通り。透かし彫りを青いギヤマンの釉で埋める、蛍手ほたるでという技法を凝らした磁器の手燭ですよ」


「と、いうと、もしや宗易殿が殿下に献上した噂の?」


「うふふ、さようです」



 そうそう、それそれ。

 これがその、与四郎おじさんが秀吉様と寧々様に献上した物だよ。

 この磁器──ボーンチャイナのランプがね。


 ボーンチャイナというのは、ヨーロッパ生まれの磁器だ。

 透明感を備えたガラス質の乳白色が魅力的な、十八世紀の英国で開発されたものである。

 特徴的な原材料はというと、牛などの骨を燃やして作るリン酸カルシウム。

 当時流行した磁器に向く陶土が足りなくて代用品を探しまくった結果、骨灰を利用することにたどり着いたらしい。


 そんな先の時代に誕生するはずのボーンチャイナであるが、この世界では昨年与四郎おじさんが製造に成功している。

 ことの発端はというと、コスメ用の顔料だった。

 顔料製造に携わってる職人さんの一人に、ちょっと科学者気質の人がいてね。

 昨年の初めに何をとち狂ったのか、鹿の骨を燃やして作った骨灰を白色顔料の候補として与四郎おじさんに提出したのだ。

 さすがのおじさんもドン引きしたが、もったいないからと私に活用方法を相談してきた。

 その時に頭に浮かんだのが、前世の英国旅行。

 老舗磁器メーカーのビジターセンターで、ボーンチャイナの作り方などを聞いた思い出だった。

 粒の細かい粘土に骨灰を混ぜて焼く、程度の記憶しか残っていなかったが、物は試しである。

 とりあえず陶器の材料にどうかと提案してみたら、できちゃったのだ。


 中国からの輸入磁器の向こうを張れる、きらめくようなボーンチャイナが。


 速攻で実用化に走ったよ、あの豪商。

 茶器を手始めとして、お皿や花器、水差しなどなど。

 思いつくかぎりの磁器製品をボーンチャイナで作って、着々と売り始めている。

 ちなみにランプシェードは私がアイデア出しをした品だ。

 令和の頃に持っていた磁器のランプ、お洒落で可愛かったんだよね。

 デザインも考えて作ってもらったら、上流階級の女性を中心に流行り出した。


 聞くところによると、順調に売れているらしい。

 国内向けはもちろん、海外向けも。

 もともと白磁は、ヨーロッパや韓国で人気の商品だ。売れないわけがなかった。

 合成ウルトラマリンの時と同じく、あこぎにやる予定だと先日もらった手紙にあった。

 どうやら秀吉様を通して、朝廷御用達の品にしようという腹づもりらしい。

 与四郎おじさんの高笑いが、堺方面から聴こえてくる気がする……。



「こちらは殿下より下賜されたものでしたね、日根の方様」



 香様がおずおずと頷く。



「……あまり、明るく、ないので」


「夜に出歩くのにちょうどいい具合だったってわけか」


「っ」



 ぶっきらぼうな加藤様の言葉に、香様の肩が跳ねる。

 怯えるような反応が気に食わなかったのか、加藤様が香様を睨む。



「なんで黙り込むんだ」


「ご、ごめんなさ、」


「……なぜオレに謝る?」


「っ、ごめん、なさい」



 秀吉様の寵姫相手にも遠慮無しだなあ、加藤様。

 言いたいことはわかるが、香様が萎縮しちゃったよ。

 目に見えてびくびくとして、枯れかけの花のように俯いてしまっている。



「加藤様、そこまでになさってくださいませ」



 しかたなく私は香様の前に体を滑り込ませた。

 このままじゃ、話も何もできなくなりそうだ。



「日根の方様が怖がっておられますから、ね?」


「……怖がられている?」


「女人にしてみれば怖いんだよ、お前の顔」



 怪訝そうな加藤様の肩を紀之介様が叩いた。



「は? うちの奥も寧々様もオレを怖がらないが」


「身内の女人になぞらえて考えるな」


「粧姫も怖がらないぞ」


「あのな、それは顔見知りだからだ」



 紀之介様は根気良く、ああ言えばこう言い出した加藤様を諭す。

 ついでにさりげなく、加藤様を自分の後ろに隠した。

 そうして不安げに成り行きを見守る香様と古満殿へ、紀之介様は穏やかに笑いかけた。



「連れの者が無礼をいたしました」


「え、あ、無礼、なんて」


「詰問のようになってしまいましたが、御方様に害意あってのことではありません。どうかご案じ召されませぬよう」



 香様の視線がのろのろと私に移る。

 唇をゆるめて顎を引いてみせると、わかりやすく彼女は肩の力を抜いた。



「あのっ、粧内侍さん



 成り行きを見守っていた古満殿が、思い切ったように口を開いた。

 ようやく取り押さえられた時の痛みが落ち着いてきたらしい。

 公家的な瓜実顔は、多少マシな顔色になっている。



「ひとつお訊ねしても、よろしゅうおざりましょうか」


「はい、なんでしょう」


「今になってでおざりますが……」



 警戒を含ませた一重の目が、さりげなく紀之介様たちを一瞥する。

 そして、強張りを含んだ声音が紡がれた。



「なにゆえここに、殿御をお引き入れであらしゃりますのや」



 古満殿が、ひたりと私を見据える。

 思いのほか強気な態度に、私は古満殿を見返した。

 力のこもった眼差しは逸らされない。

 声にせず、誤魔化しは許さないと言っている。

 ……紀之介様たちを交渉の材料にするわけね。

 客観的に見ると私は今、夜の城奥へ秀吉様以外の男性を連れ込んで、人気のないところにいる。

 知らない人に見られたら、即アウトだ。

 男を連れ込んでいたことを見逃す代わりに、自分たちの不審な行動を見逃せと取引をする気かな。

 普段のおとなしげな印象に反した、一人前のしたたかさに驚きだ。

 だからといって、私も素直に取引に応じはしないけど。



「殿下の御指図ですわ。やましいことなど何一つありませぬ」


御所ごっさんの……どのような御指図か、お聞きしても?」


「夜間の警備に憂いがあるので、奥の夜回りをせよとの仰せです。殿下は直々にこちらの大谷刑部様と加藤主計頭かずえのかみ様、そして私へお命じになられました」


「それはまことであらしゃりますか?」


「もちろん、お疑いですか」


証跡あかしがおざりませぬゆえ」



 きっぱりと古満殿が食い下がってくる。

 私の言っていることがはったりなのか、本当なのか。

 判断が付かないから、話を引き伸ばして時間を稼いで考えているみたいだ。

 めっちゃ頭良いな……古満殿……。



「でしたらこちらを」



 内心ちょっと舌を巻きながらも、私は笑顔で朱印状を広げて求めに応じた。

 ランプを側に寄せて、朱印が見えやすいようにする。

 古満殿の表情が凍てついた。



「まだ不審はございますか?」

 

「っ、書状はまことの物であらしゃるようやけど、内侍様が伴われている方々は」


「古満っ」



 さらに食い下がろうとする古満殿を、泣き出しそうな声がさえぎった。



「お、御方様?」


「もういいの、いいのよ、やめて」


「そやけど、このままやとっ」


「それでもやめて、お願いだから……」



 香様は古満殿の袖を掴んで、首を横に振る。

 そこはかとなく殺気立ち始めた私の背後を気になさりながらだ。

 見なくても目に浮かぶ光景を頭から追い払いつつ、私も古満殿の肩を叩いた。



「これ以上は堂々巡りですわ、ね?」 


「……はい」



 一呼吸ほど開けて、古満殿は引き下がってくれた。

 唇を少し噛んで黙り込む彼女の様子に、こっそり胸を撫でおろす。

 香様の心持ちも私と同じようだ。口元に添えた手の下で、わかりやすく息を吐いていらっしゃる。



「日根の方様」



 それを見守りながら、私は香様へ声を掛けた。

 香様が私へと振り向く。青いランプの光を弾く瞳が不安げだ。

 これ以上怖がらせないように、ゆっくりと話しかける。



「私どもの事情は、さきほどお話ししたとおりです」


「……はい」


「ですから、次は御方様の事情をお教えくださいますね?」



 口を結んだまま、香様は顎を小さく引く。

 先に口を開きそうな古満殿を制して、私をまっすぐ見つめ返してくれた。



「ではお訊ねします。なにゆえ、夜の城中を忍び歩きなされていたのですか?」



 目を逸らさずに質問を口にする。

 たおやかな印象を持つ香様の目元に、豊かな睫毛の影がかかった。

 頭の中を整理していらっしゃるようだ。

 しばらくの間そうしてから、香様の唇が動いた。



「失せ物……失せ物を、探していたのです」


「それはどのような物でしょうか」


「笛筒、です」


「と、申しますと」


「あたしの家が受け継いでいた、慈眼院様ご愛用の品です」



 しん、と室内が静まりかえる。

 唖然として目を見張ると、香様が気まずげに俯いた。

 そっと、うかがうように振り返ってみる。

 後ろの二人組も、私と似たような状態だ。目を見開かないまでも、表情を固くして微動だにしていない。



「つかぬことでございますが、日根の方様」



 頬のあたりに緊張を走らせた紀之介様が、ゆっくりと香様に呼びかけた。



「慈眼院様とは、もしや御方様の御曽祖父君であらせられる?」


「……はい、九条政基公でございます」



 消えそうなその返事に、思わず天を仰ぎたくなる。

 慈眼院、九条政基公ご愛用の笛筒。

 つまり、家宝だ。正真正銘の香様のおうちの家宝だ。

 祖母君から受け継がれたという手鏡と合わせて、香様に九条家の縁があると証明する品だよ。

 とんでもない失くし物に気が遠くなりかける。

 香様が隠れて探すのも当たり前の代物だわ。

 失くしたこと自体がやばい失態だもの。

 理由次第では、身内にも黙って探し出す以外の選択肢が消えうせる。

 香様を快く思っていない人たちに、格好の隙を見せることになってしまうからね。

 バレたら最後、足を掬われて窮地に追いやられる危険がある。



「そんな大事なもん……どうして失くしたんだよ……」



 動揺を感じさせる口調で、加藤様が呟く。

 本当それな。どうして失くしちゃったんだ。

 家宝なら細心の注意を払って保管されていたはずだ。

 失くすなんて、そもそもありえない事態である。

 一体何が起きたのだろうか。



「っ、それ、は」



 かすかに震える手を握りしめて、香様は強く目をつむる。

 そうして、細く細く声を絞り出した。



「ちゃ、茶々姫様と、笛合わせをした折に」


「……まさか」



 待って、嫌な予感がするんですが。

 今度こそ私や紀之介様の顔が引きつる。

 不安と恐ろしさに乱れた香様の吐息が、涙の気配を含み始める。



「互いのものを、取り違えて、しまったのです……っ」



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