城奥の幽霊(4)【天正17年4月下旬】
青い光が揺れている。
私たちが身を潜める植え込みより、ずっと離れた場所を、ゆら、ゆら、と。
イメージしていたよりも弱々しい光だ。
もうちょっとはっきり発光しているものだと思っていたから拍子抜けだ。
色合いは青み、というか水色っぽい。
水色桔梗と言われたら、そんな気もしてくる雰囲気がある。
それが蛍よりも規則正しく、ゆっくりとした速度で飛んでいく。
いや、飛んでいくっていうよりも、歩いているに近いかも?
「こっちに出たか」
注意しなければ聞き取れないほどの声で、加藤様が呟いた。
「ああ、御錠口に向かっているのかな」
「奥から出るつもりかねえ」
「与祢姫はどう思う?」
紀之介様に聞かれて、城奥のマップを思い浮かべる。
「目的は御錠口ではなくて、
あの暫定・幽霊が行こうとしている方向は、確かに御錠口がある。
けれどもその手前には、御化粧係が働く化粧殿、服飾を扱う縫殿が並んでいる。
化粧殿の方には、コスメに使う金粉や銀粉、合成ウルトラマリンといった高価な素材が備蓄されている。
懐に隠しやすい螺鈿や蒔絵、ガラス製のコスメ容器も常備されている。
縫殿の方は、金銀をふんだんに使った糸、宝石や螺鈿を豪華にあしらった髪飾りなどがある。
かさばるけれど、上物の絹地や繊細なレースも山ほど仕舞われている。
金銭的な目線で見て、文句無しの宝の山と言っていい。
「盗りやすい物が多くあるというわけか」
「その先にある
「何が仕舞ってあるんだい?」
「宴席で使う食器や楽器です」
いずれの物置に収納されている物も、天下人に相応しい最上級の品だ。
小さな盃一つですら、庶民の1ヶ月分の米代や薪代になりえると聞く。
側に女中部屋があるので注意は必要だが、こちらも盗みに入る価値はある。
「……捕まえないんですか?」
可能なかぎり声を潜め、紀之介様の袖を軽く引っ張る。
納得したように頷いてくれたものの、紀之介様は幽霊を目で追い続けるばかりなのだ。
加藤様も同じように、植え込みの陰から出ようとしない。
このままだと逃げられちゃうけど、いいの?
「ここは君の挙げた場所から少々離れているようだからね」
「?」
「盗人を捕まえるには不向きだということだよ」
よくわからない。首を傾げると、紀之介様に代わって加藤様が口を開いた。
「化粧殿や縫殿だったか、まだもうちょっと先にあるんだろ」
「え? ええ、そうです」
「じゃああの光ってる奴は、今宵まだ盗みに入っていないかもしれないよな」
「あっ」
そこまで言われて、ようやく理屈が頭の中で結びついた。
つまりこの場で捕まえられたとしても、盗品が無ければ言い逃れされかねないということか。
城奥の住人が犯人ならなおのこと、それが可能になる。
夜に眠れなくてこっそりとそぞろ歩きする人は、いないこともないのだ。
理解したと頷くと、加藤様が少し満足そうに目を細めてくれた。
「そういうわけだ、確かに盗みを働いたところを押さえる」
幽霊の観察を続けていた紀之介様が、私と加藤様を呼んだ。
「十分距離が取れた、そろそろ追おうか」
「おう、足音立てるなよ」
「は、はい」
屈みぎみの姿勢で、茂みの中を歩き出す。
うう、体がきつい。地味に腰にくる。
開始早々めげそうになりながら、必死で大人二人の背中を追う。
紀之介様たち、歩く速度が早くない?
私より背が高い分、ずっと無理な姿勢をしているはずだよね。
植込みの葉っぱや枝みたいな障害物もあるのに、なんであんなに音も無く移動できるの。
武士として生きるには、こんな忍者じみたスキルも必須なのだろうか。
戦国武士って不思議だ……。
光が揺れながら進んでいく。ふらふらと、私たちの斜め前のずっと先を。
おそらく、幽霊は回廊を歩いている、のだと思う。
ついでに言うと、あまり気配に敏感ではない様子だ。
徐々に私たちが回廊へ近づき、更には上に上がっても、振り返る素振りすら見せない。
泥棒に慣れすぎて、油断しているのかな。
私たちとしては好都合だけれど、大それたことをしているわりに詰めが甘い幽霊だ。
月の無い夜に飲み込まれそうなほど淡い光を、息も足音も潜めてひたすら付ける。
ちょっとばかり息が上がってきた頃合いで、幽霊の光が化粧殿と縫殿にさしかかった。
立ち止まることなく、すぅ、と合間の廊下を滑っていく。
が、完全に通り過ぎてしまう寸前で急に止まった。
とっさに、すぐ側にあった化粧殿の襖を引く。
紀之介様と加藤様の袖を引いて、襖の内側へ誘導した。
『……気づかれました?』
唇だけ動かして、大人二人を見上げる。
『わからない』
簡潔に返してくれた紀之介様の表情は険しい。
三人とも息を殺して、廊下の幽霊の気配をうかがう。
幽霊は立ち止まっている。
光が微かに揺れるのは、辺りを見回しているからだろうか。
真っ暗な廊下に、ふらり、ふらりと光が妖しく漂う。
二〇秒は、なかったと思う。
周囲を探っていた幽霊がふたたび動いた。
廊下を数歩だけ戻り、縫殿側へと吸い込まれていく。
今夜の目的地は、縫殿だったようだ。
ややあって、紀之介様と加藤様が襖の外へ出た。
私も黙って後に続く。そう遠くない距離を進み、幽霊が入ったであろう襖の前に辿り着く。
紀之介様がゆっくりと刀を抜く。
下がるよう手で指示をされた私が化粧殿側の襖に背中を付けると、加藤様が襖の取手へ手を掛けた。
細く、細く。慎重に襖が開かれる。
その隙間へ、紀之介様は刀を思いきり突き入れた。
悲鳴も物音も、上がらない。
探るように左右へ刀身を揺らしてから、紀之介様が加藤様へ顎をしゃくる。
人一人分、襖の隙間が大きくなる。
誰もいない、真っ暗な部屋が広がっていた。
『ここは』
『お針子の仕事部屋です。正面奥の襖の先は、布地などを仕舞う
声の無い加藤様の問いに、声も無く返す。
『奥だ』
『承知』
少ない言葉を交わして、紀之介様たちが部屋に踏み入る。
私も一緒に入り、入り口を閉めて背中で襖を塞ぐ。
大人二人が塗籠の前に立つ。
先ほどと同じく、加藤様が襖を細く開いて、そこへ紀之介様が刀を差し入れた。
一つ、二つ。襖の縁に刀が当たる硬い音が耳に届く。
パンッ、と音が弾けた。
開け放たれた襖の奥へ、紀之介様たちが足から踏み込む。
小さな悲鳴、ぶつかる音、重い物が落ちる音。
お腹がヒュッとする耳障りな音が折り重なって、すぐに止む。
すぐに私も行きたいけれど、まだだめだ。
入り口の側で縮こまって、じっと待つ。
目を開き、まっすぐ前を見つめたまま、息を殺して呼ばれるのを待つ。
紀之介様と加藤様、それと捕まったであろう幽霊。
隠されなくなった三人分の気配が濃くなる。
「粧姫、来い」
加藤様が私を呼ぶ。
返事をせず、早足で部屋を突っ切って塗籠へ向かう。
戸口に加藤様がいて、数歩先に紀之介様が膝を突いていた。
その膝下では、誰かがうごめいている。
漏れている苦しげな呻めきは、とてもか細い。
やはりというか、女性のものだ。
「奥の者でございますね」
「ああ、面を改めてくれ」
もちろんですとも。
頷くとほとんど同時に、火打ち石を打つ音がした。
一呼吸ほどおいて、真っ暗な世界がほの明るくなる。
紙燭を手にした加藤様に促されて、一緒に紀之介様の元へ近づく。
じわりと闇が払われ、濃藍の小袖の背が浮かび上がる。
紀之介様の肩越しに、幽霊へと紙燭が寄せられた。
乱れてのたうつ黒髪が、薄い灯りを鈍く弾く。
黒い流れの隙間からは、白い横顔が覗いている。
それを確かめようと、首を伸ばしかけて。
「っ、だめっ!」
「きゃ、ッ」
私は体を投げ出した。
横合いから迫る気配へ、勢いをつけて。
全力で、けれども全体重は乗せずに。
体がぶつかって、細い悲鳴が上がる。
鋭い太刀が、なびいた私の髪を軽く攫う。
刃風に煽られるようにして加速を付け、私は一気に相手を押し倒した。
「与祢姫ッ」
「大事無いですっ、お二人とも刀を収めてっ」
焦りを含んだ呼びかけを制止する。
破裂しかけた紀之介様と加藤様の殺気が削げる。
ま、間に合った……。
詰まっていた息を肺から押し出す。
柔らかな床、いや、感触からして毛氈か絨毯かな、に手を突いて体を軽く起こす。
自分の下の体が、身じろぎをしている。
重すぎるのか、乗っている私を押しのけられないようだ。
必死で振り回される手を掴む。
「ひっ」
「お静かに」
つとめて落ち着いた声を掛ける。
手を強く握ると、弱々しい抵抗が止んだ。
耳に届く呼吸は短く、浅い。
痛みや苦しさを堪えている様子はない。
体の力がゆるやかに抜けていく。
「お怪我は、無いようですね……日根の方様」
紙燭の灯りが、私たちへと差し掛けられる。
照らし出された香様は、震えていた。
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