城奥の幽霊(2)【天正17年4月下旬】

 大きめの物音で、目が覚めた。

 あたりは真っ暗で、眠い。ねばっこい眠気が全身に貼り付いている。

 ぼんやりした頭を横へ倒すと、まだおこや様が心地よさそうに眠っていた。

 柔らかな寝息につられてまぶたが落ちそうになるが、私は頭を振ってその誘惑を跳ね除ける。

 勢いをつけて起き上がって、ブランケット代わりにしていた打掛を羽織った。

 そうしてから、隣室へと続く襖を開く。


 蝋燭の灯が、襖の間から溢れ出す。

 LEDや蛍光灯とは違う、強すぎない明るさが目に優しい。

 薄明るい室内を見回す。廊下側の入り口付近に人影が三つ、灯明の側に一つ。

 あくびを噛み殺し、眠い声で灯明の側の人を呼んだ。



「きのすけさま……」


「与祢姫、起きたのかい」



 振り返ってくれた紀之介様のお側へ、ずるずる体を引きずって行く。



「ずいぶんと眠そうだね」


「はい……すごく……」


「無理せず、もう少し休んでいてもかまわないよ?」



 たどり着いた私の髪を手櫛で梳いて、紀之介様が言ってくれる。

 心遣いが嬉しくて手のひらの感触が気持ちがいい。

 けれど、私はゆっくりと首を横に振って断った。



「起きます……また寝たら起きられそうにないし……」


 

 紀之介様のお側で朝まで二度寝コースは非常に魅力的だが、今夜は仕事がある。

 そのため杏に明日の朝の仕事すべての肩代わりという無理を頼んだのだ。二日連続は許してもらえない。



「……ところで、あれは何をなさっているのですか?」



 白湯をもらって残りの眠気を払いつつ、縁側で揉め続けている三人組に目をやる。

 近所迷惑もかえりみずぎゃんぎゃん喚く石田様と、その腕を左右から掴んでいる福島様と加藤様。

 石田様の身長が二人より一〇センチ以上低いせいか、人間に捕まるも抵抗をしている小さい宇宙人みたいな構図になっている。

 


「逃げた佐吉殿を市松殿と虎が連れ戻してきたんだよ」


「逃げてなどおらぬっ!」



 紀之介様の説明に否定が被さる。

 ぺしゃっと畳に落とされたばかりの石田様はぎろりと私たちを睨んだ。



「厠へ行こうとしていただけだ! 勘違いするな!」


「でもお前、厠と真逆のほうの廊下にいたよな」



 加藤様がぼそりと指摘する。目に見えて石田様の顔色が変わった。



「それっ、は、急ぎ勘案すべき件があることを思い出して」


「そういう類いの件はすべて昼間に済ませたじゃないか」



 次の言い訳を紀之介様が切り捨てる。

 潰れたように喉を鳴らし、石田様は目を泳がせた。

 そんな石田様の肩を叩いて、福島様がため息を吐いた。



「佐吉ぃ、心配すんなって」


「なっ、何を」


「幽霊なんていねーから、な?」


 

 それは抗議なのか、それとも悲鳴なのか。

 声にならない声を口から迸らせ、石田様は勢いよく福島様へ飛びついた。

 うるさっ。

 



 近所迷惑気味の悲鳴をBGMに、四人分の白湯の用意を終える。

 ちらりと視線を上げると、いまだに石田様は涙目で福島様と紀之介様に当たり散らしていた。

 夜なのに元気だなあ。幽霊もうんざりしそうなうるささだ。

 片手で耳を塞ぎながら、とりあえず湯呑を戦線離脱して休憩中の加藤様へ渡す。



「ご苦労様でございました」


「おう」



 湯呑を受け取って、加藤様はそれをひと息に空けた。

 突き返された湯呑を受け取って、私は部屋の隅の火鉢から土瓶を取った。



「ひとつ聞きたいんだが、いいか」


「はい、何なりと」



 名前のごとく虎のような目が、白湯のおかわりを注ぐ私を見下ろした。



「なんでこんなことになった?」



 投げかけられたのは、単刀直入でシンプルな質問だった。

 幽霊云々は置いておいて、自分がここに──中奥の一室にいて、これから深夜の城奥へ招かれるのか。

 その理由をはっきりさせたいという気持ちはよくわかる。

 仮眠前に聞いた感じ、幽霊退治へいってらっしゃい、程度の指令しか受けていない様子だったしなあ。



「それは、ですね」



 目を隣へと滑らせる。紀之介様は、まだ石田様をなだめるので忙しそうだった。

 しかたない。私から改めて説明させていただくか。



「……先日、殿下の急なお召しがございまして」



 それは、三日前のことだった。

 紀之介様に幽霊の噂を相談するため中奥にいたら、二人まとめて秀吉様に呼ばれてしまった。

 面倒ごとを押し付けられるか、セクハラに遭うか。

 基本私が秀吉様に呼ばれると、この嫌な二択になる。

 うんざりしながら御座所へ参上したら、そこにはとってもにこやかな秀吉様がいた。

 そして私と紀之介様の姿を見るなり、おっしゃったのだ。

 心から面白がるふうに、声を弾ませて。




『なあなあなあ! お前ら知っとるか?

 奥に惟任日向の怨霊が出るんだと!』




 はい。幽霊の噂、すでに秀吉様のお耳に入ってました。

 なんでも洗濯している女中を眺めに行って小耳に挟んだらしい。

 噂は千里を駆けるとよく言ったものだね。ぞっとしたわ。

 結局私は秀吉様に聞かれるまま、泥棒疑惑関連の情報以外は知るかぎりのことを話した。

 こうなれば、口答えも隠し立てもやめたほうがいい。秀吉様に嘘を吐いたら死が近づく。

 幸い泥棒の可能性を伏せたおかげか、秀吉様の機嫌が損なわれることはなかった。

 そのかわりに、なんかものすごい大興奮しちゃったけれどな……。

 出ると噂の幽霊が、ご自身の天下への足掛かりとなった敵将だからだろうか。

 もっかい明智討伐じゃあ! と秀吉様は大はしゃぎで、せっかくだから生捕りにしてこいと私に命じられた。

 見惚れるように見事な無茶振りです。ありがとうございました。

 全力で無理と申し上げましたとも。幽霊も泥棒も、一〇歳女児が一人で捕まえられるわけがない。

 紀之介様ももちろん、庇ってくださった。手弱女である与祢姫には荷が重いので、妹のおこやあたりへお命じくださいって。

 そんな常識そのものの紀之介様の言葉が、何の琴線に触ってしまったらしい。

 秀吉様の悪ノリが、加速してね。うん。



「こんなことになったわけか」


「なっちゃったんですよねえ」



 目頭を揉みながら、私は深い息を吐いた。



「殿方を奥に引き入れて幽霊退治をせよと命じられるなんて、

 思いもしませんでした……」



 しかも紀之介様だけでなく、石田様やたまたま上洛していた福島様と加藤様もメンバーに追加でという驚きのオーダーだ。

 秀吉様の正気を疑ってしまった私たちは、絶対に悪くない。



「止めなかったのかよ」


「止めましたよ? 止める以外に選ぶ手がありまして?」



 呆れたように見下ろされて、思いっきりふくれてみせる。

 言われなくても止めたよ。秒で思いとどまるよう言ったよ。

 思いつきで城奥へ男性を入れるなんて、非常識にもほどがある。

 例えそれが紀之介様たちであってもね。

 息子のごとく可愛がって忠誠心厚く育てあげた子飼いでも、彼らは健康かつ若い男性なのだ。

 夜に引き入れるのは完全にアウトである。

 見回りをする私と御倉番のおこや様の護衛という名目があったとしても、盛大なアウトである。

 バレたら全員まとめてスキャンダル一直線。世間から白い目で見られて信用を失う結果となりかねない。

 秀吉様の許可があろうと、まともな神経をしていたらお断り案件だ。



「紀之介様は拒まれましたし、

 私もお考え直しくださるよう申し上げました。

 でも……」


「でも?」


「相手が殿下でございますから」



 懐から一枚の書類を出して、加藤様に差し出す。

 それを受け取った無骨な手が、丁寧に薄い紙を広げた。

 呼吸二つ分、加藤様が固まる。



「なんだ、これ」


「朱印状です」


「見ればわかる、どうしてここにある」


「皆様方を奥へお招きするためでございます」



 表情に乏しいお顔から、さらに表情が消えた。

 そんな目で私を見ないでくださいよ! 文句があるなら秀吉様に言って!

 


 その場で朱印状しゅいんじょうを作成して押し付けるなんて、正気の沙汰じゃないってね!



 朱印状。それは朱印しゅいんされた、正真正銘の公文書である。

 幽霊退治なんてふざけた命令のために発行するものではない。

 そもそも、こんなに軽いノリで発行していいものでもない。

 この天下人、とうとうボケたか。

 本音がふわっと喉まで出かかったが、私たちは必死で押し留めた。

 朱印状の効力は絶対的なのだ。羽柴に仕える者として、秀吉様の公式命令には逆らえない。

 こうして私も紀之介様も無茶振りを断るすべを失って、今日に至るというわけです。



「……紀之介はともかく、

 なんでオレや市松や佐吉までもなんだよ」


「殿下は皆様がもっとも頼みになると申されて、是非にと」


「その心は」


「愉快だから」



 加藤様の口元がうんざりした気持ちを反映したかのように曲がる。



「ご不快でしょうが、堪えてくださいまし。

 おそらく殿下は、加藤様たちの武名を飾りたいともお考えなのでしょう」



 殿下が手塩にかけて育てた子飼い武将たちが、聚楽第にて怨霊悪鬼を成敗。

 秀吉様好みの派手で勇壮なエピソードとなって、市井が賑わいそうだ。

 上手く脚色して利用すれば、紀之介様たちの名が売れて良い感じの箔が付けられる。

 超常的なモノの討伐は、希少価値のある武名となるんだって。

 例えば、悪鬼の首魁大ボスたる大江山の酒呑童子を討ったみなもとの頼光らいこうや、三上山の龍を喰らう大百足を成敗したたわらの藤太とうた

 彼らは名将勇将の代名詞として扱われ、天正の世でも誉れ高い武士として尊崇を得ている人たちだ。

 だから彼らと類似した逸話を持つ者は、同様の評価を得ることができる。

 近年でも雷神を斬って捨てた武将がいて、彼率いる軍勢はすごく士気が高かったのだとか。

 秀吉様は悪ふざけがてら、そのへんを狙っているのではないだろうか。

 羽柴家は歴史が浅い。虚名だろうがなんだろうが、名を馳せるものはあって損がない。



「居ないものを斬ったことにしろってか」



 加藤様が不機嫌そうに言い捨てる。

 その表情はとても苦々しい。八百長なんて大嫌い、と隠さずに主張している。



「分別しろ、虎」



 また逃走を図っている石田様の袴の裾を膝で踏みながら、紀之介様が言う。

 加藤様の目がぎょろりと紀之介様を捉えた。



「紀之介、お前、功に飢えてんのか?」


「いいや、そんなことはないさ。

 ただ、たまには目を瞑ることも肝要だ」


「あ? わかりやすく言え」


「この程度の濁った水くらい飲め、ということだよ」



 そう紀之介様が言い切るが早いか、遅いか。

 私の鼻先で、音を立てて風が切られた。

 あおられた勢いで後ろに体が倒れ、反射的に目を瞑る。

 次に目を開けたら、加藤様の手が紀之介様の襟を鷲掴みにしていた。



「その小賢しい口、塞いでやろうか」


「……できるかどうか、試してみるかい」



 紀之介様が加藤様の襟を掴み返す。

 二人の纏う空気が、唐突に尖りを帯びていく。

 え、喧嘩!? ここでやるの!?

 身構えるのも間に合わず、殺気で声が出なくなる。

 だめだこれ。止めないと大惨事になるやつだ!

 頭の中で警戒アラートが鳴り響くが、体がぴくりとも動かない。

 やばいやばいやばい! これはやばいっっ!



「いい加減にせんか、馬鹿どもがっ」



 畳を殴る重い音が響く。

 紀之介様と加藤様の間に拳を振り下ろした石田様が、ぎろりと二人を睨み上げた。

 破裂寸前だった殺気が、一瞬で霧散する。


 

「喧嘩するなら静かにやれって」



 姫さんが怖がってるだろ、と福島様が加藤様と紀之介様の襟首を掴む。

 いとも簡単に両者を引き剥がして、ついでとばかりに軽く額を弾いた。

 


「いっ、てぇな!」


「おう、痛いついでに頭も冷やせや」


「……お前らも紀之介の肩を持つのかよ」


「持って悪いか、馬鹿虎めが。

 理は紀之介にあるだろうが」



 福島様に食ってかかる加藤様の後頭部を、石田様が面倒そうに叩く。



「主君の命の前に臣下の好悪は意味をなさぬ。

 殿下が我らに虚名を得ることをお望みならば、

 黙って了見せよ」


「そこまで言わんが、

 もらえるもんは黙ってもらっとけ。

 ゴミと病以外は無駄にならねーよ」



 石田様と福島様が口々に言う。

 石田様は組織人としてのスタンス、福島様は上手なプライドの捨て方って感じ?

 年長者らしいご意見だ。方向性は違うけれど、どちらの説くことにも一理ある。

 そんな大人な二つの考え方を前に、加藤様は黙り込んだ。

 不機嫌そうに腕を組んで、貧乏揺すりを始める。 



「ま、適当に見回って終いにしようぜ」



 むくれる加藤様の肩を、福島様がなだめるように叩いた。



「おれらがいっぺんうろつけばそれで済むだろ。

 殿下も二度三度とやれとは言われんさ」



 名高い賤ヶ岳七本槍の二本が巡回したと気付けば、さすがに泥棒だって危機感を覚えるよね。

 命惜しさに退散してくれたらしめたものだ。

 犯人を捕まえられなくても、窃盗事件は止むと思う。

 適当に紀之介様たちが夜回りしてくれたおかげで、と話を作れば幽霊騒動もきっと収束するだろう。

 ワンチャンで今晩中に捕縛が成功したら、一気に事件解決だ。

 腕利きの子飼い武将たちが幽霊に扮した不埒者を成敗した、という嘘偽りない華々しい成果が上がるだけである。

 だから加藤様には、少しだけ我慢していただきたい。

 どっちにしても加藤様のイライラも一晩限りで終わるはずだから。ね?



「わかったら粛々と殿下の命をこなすのだな」



 まだ不服そうな加藤様を横目に、石田様が鼻を鳴らした。



「某はここで留守を守っていよう。

 貴様らで存分に見回ってこい」


「佐吉も一緒だからな、逃げんなよ」



 振り向きざま。福島様は呼吸のように自然な動作で、一人逃げようとする不届き者を仕留めた。

 往生際が悪いな、今夜の石田様。そんなにお化けが怖いのか。



「……そろそろかな」



 紀之介様はそんな締まらないやりとりから目を逸らし、縁側の障子戸を開けた。

 今夜は新月一歩手前。夜空に月の影はなく、星の影も雲に覆われている。

 火の用心の声もすでに絶えていて、蛙の鳴く音が聴こえるばかりだ。

 石田様を除く男性陣が、それぞれ大小の刀を腰へ差し始める。

 そろそろ現場に向かう時間だ。



「ではさきほどお伝えしておりました手筈で」


「三人一組だね」


「はい、組み分けはこちらを使います」



 懐に忍ばせてきたカードを四枚出す。

 裏面に剣のモチーフが入っているそれは、当世ではカルタと呼ばれているカードである。

 カルタといえば百人一首を連想するが、これはトランプの原型みたいなカード構成だ。

 ここにあるカルタの剣も、トランプの一から四のようにそれぞれ違う本数が描かれている。



「一と二を引いた方はおこや様、

 三と四を引いた方は私。

 よろしゅうございますね?」



 ぐるりと座を見回す。

 石田様以外が頷いてくれたので、私は手にした四枚のカルタを切った。

 十分にシャッフルできたと思ったタイミングで、カルタを畳の上に並べていく。

 どうぞ、と声をかける前に三つの手がカルタをさらっていった。

 畳の上に残るは、一枚だけ。四つ目の手は、まだ伸びてこない。



「佐吉殿」



 紀之介様に呼ばれても、石田様は返事をしなかった。



「取れよ、札」



 覗き込んできた福島様から視線を逸らして、石田様はひたすら黙り込む。



「オレに行かせてお前は行かんとかしばくぞ?」



 まわり込んできた加藤様から、石田様は体ごと顔を逸らす。

 真っ暗な庭を睨みつけている横顔は、嫌いな餌を無視する猫のようだ。

 石田様は全身を使って、カルタなど存在しないと主張している。



「ちっ、しかたねえなあ」



 あまりの往生際の悪さにイラついた福島様が、舌打ちをして石田様の手を掴んだ。



「なっ、無礼者! 離せ馬鹿松!」


「虎、紀之介、手伝え」



 不意打ちに暴れる石田様をいとも簡単に抑え込み、福島様は紀之介様たちへ顎をしゃくる。

 すかさず紀之介様が固く握られた石田様の指を解いて、加藤様が最後の一枚のカルタを握らせた。



「要らぬっ、これ要らぬ!」


「要る要らないは佐吉殿が決めることではないよ」


「違う! これ某のじゃないっ!」


「お前の手が握ったからお前のだぞー」


「勝手に貴様らが握らせただけであろうがぁッ」


「こいつ殴っていいか?」



 返事を待たず、加藤様が石田様を小突いて黙らせる。

 ほどよい静けさが、室内に戻ってきた。

 見事な連携プレー。夜でなければ拍手したくなるほど華麗さだ。



「札を反してくださいませ」



 痛みに呻く石田様は見なかったこととして、私は笑顔で三人へお願いした。

 石田様を片手で取り押さえたままの紀之介様たちは、もう片方の手で器用にそれぞれの札を反す。



 畳の上に、カルタが三枚。

 淡い蝋燭の灯りの下、剣の絵柄が晒された。

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