城奥の幽霊(1)【天正17年4月下旬】


 中奥の端の方にある渡殿。

 その側の人気のない庭先に、怪訝そうな声が落ちた。

 


惟任これとう日向ひゅうがの幽霊?」



 渡殿の下の柱にもたれた紀之介様が、きょとんと渡殿の欄干に腰掛けた私を見上げる。



「出るらしいですよ」


「奥にかい?」


「それもあちこちに」



 煙管を咥えたまま、紀之介様は腕を組む。

 うっすら白く昇る煙を、笹の葉のような線を描く目が追いかける。

 ややあって、ゆっくりと紀之介様の首が傾いた。



「出る場所をたがえているのでは?」


「ですよねえ」



 大間違いもいいところだよねー。

 


 手に余る問題に出くわした時、どうすればいいか。

 答えは簡単。即座に人を頼ること。これに限る。

 頼る人は上司か先輩がいい。彼らの裁量権は自分よりずっと多く、経験値も高い。

 自分にとっては大きな問題であっても、彼らにとっては小さな問題という可能性もある。

 恥と思って隠すより、恥を晒してさっさと解決した方が誰にとっても良い結果になる。

 と、いうわけで。私は萩乃様の相談を受けてすぐ、紀之介様へヘルプを出した。

 紀之介様は口が堅くて、私よりはるかに賢い。

 秀吉様の近しい親族で、特に可愛がられている子飼いの一人でもある。

 少々城奥の内情を相談したことがバレても、お目こぼししてもらえる。たぶん。

 


「まっとうに考えて、出るなら殿下のもとですよね?」


「もしくは細川殿の屋敷かな。少なくとも、奥に出るのは場違いだ」



 明智光秀の幽霊が存在すると仮定しても、恨みを買っているような人は城奥にいない。

 あり得るとして、秀吉様の御子である幸松様くらいかな?

 だが、幸松様がターゲットならばさっさと取り殺されているはずだ。

 ご誕生時、またはそれより以前の竜子様のお腹にいた頃にね。

 今頃出てくるのはズレているとしか言いようがない。



「一応おうかがいしますが、

 惟任日向という御仁は時と場所を選べないお方だったのですか?」


「もしそうであったら、先右府さきのうふ様はいまだご存命だったろうね」



 可笑しそうに紀之介様が言う。

 確かにね。タイミングが読めない人物だったら、本能寺で返り討ちに遭って終わっているか。

 じゃあ本物の幽霊という可能性はないな。最初からあり得ないとは思っていたけれども。



「やっぱり見間違いかしら?」



 顎先に指を添えて、私は宙を睨む。

 私が思いつく幽霊騒動の原因というと、集団ヒステリーかな。

 令和の頃に聞いた話だと、たまーにそういうことが起きるらしい。

 例えば昭和の頃に怪音やポルターガイスト現象が発生して、幽霊マンションと大騒ぎになったマンションがあったそうだ。

 当時はマンションの自治会が大掛かりなお祓いをしたり、マスコミや霊能者が押し寄せたりとすごいことになった。

 しかし後年人々が冷静になってから調べてみると、驚きの事実が判明した。

 そのマンションは、立地と構造に問題があったそうなのだ。

 水道の配管の具合でウォーターハンマー現象が発生しやすいとか、近くに通る幹線道路の振動がダイレクトに伝わりやすいとかね。

 それを知らない、気づけなかった住民の不安感が高まって、集団ヒステリーが発生したらしい。

 起きもしていないポルターガイストが起きたように感じ、自然音を幽霊の声ととらえて怖がって、それが連鎖していって大騒動へ発展していったのだとか。

 似たようなことが城奥で起きている可能性は、十分考えられる。



「女房衆の勘違いでもないと俺は思うな」


「あら、ではまことに幽霊が出ると申されるの?」



 煙管の灰を地面へ落としながら、紀之介様は「いいや」と否定した。



「幽霊や物の怪の類いなんて在るはずないさ」


「断言なさいますのね」


「ああ、断言できるとも。まことにそんな者どもが在ったら、

 ここはそいつらで足の踏み場も無いほど埋め尽くされているはずだろう?」


「あー確かに。都はどこもかしこも、

 人の怨みと血が染み込んでいますものね」


「だろう? だがそうはなっていない。

 ならば奥に出るのは幽霊ではなくて、人だ」



 息を飲む。紀之介様は淡々と煙管の手入れをしながら続けた。



「奥の者か、はたまた外の者か。

 そこまでは俺にも判別は付かないが、

 何者かが夜陰に紛れて何かをしようとしていることは間違いないだろう。

 変わったことは他に起きていないかい?」


「……今のところは、何も」


「では、幽霊が出たとされる場所で気づくことはないかな」


「出た場所ですか」



 萩乃様から聞いたかぎりだと、幽霊は三ヶ所ほどで見かけられていたはず。

 中奥にほど近い池の近くの亭。

 摩阿姫様の天守閣から中奥を繋がる回廊のあたり。

 それから、城奥と中奥を隔てる高い塀と御蔵の側……。



「すべて中奥近くの御蔵のあたりです!」



 そうだ! 三ヶ所とも中奥の近くだ!

 ついでにすべて、物置になっている蔵や塗籠にも近い場所だ。

 と、いうことは。幽霊のふりをしている奴は、蔵や物置に用があるってことだよね。

 他の人たちには内緒で、こっそりと行く必要がそいつにはある。



「十中八九、物盗りだな」


「何度も盗みに入れているということは、下手人は奥の者?」



 紀之介様は無言で頷く。その顔色は、心なしか白い。

 ぞわ、と鳥肌が立った。内部犯の連続窃盗事件なんて、想像もしなかった。

 なぜなら、過去に大坂城で城奥の侍女による窃盗事件が起きているからだ。

 私が奥仕えを始める前のこと、御蔵から名のある刀剣などが盗まれた事件があったんだって。

 犯人はすぐ捕まったけれど、秀吉様は例のごとく苛烈な処罰を下された。

 実行犯の侍女は鋸挽き、窃盗の指示を出した彼女の父親は磔。近い親類縁者も斬首で、全員が梟首とされた。

 死罪を免れた人たちも、ことごとく棒叩きなどの刑を受けて追放された。

 ゆえに城奥の者で盗みをやる勇気を持つ人はもういない、と現在の御蔵番であるおこや様が言っていた。

 ちょっとした財宝を狙うことに伴うリスクが高すぎるのだ。

 泥棒だってそのあたりの計算くらいできるはずだ。

 そう思っていたのだけれども、計算できない泥棒が侵入しちゃったか……。



「おこや様の首、かなり危ないですよね」


「悪いが、あれに早く耳打ちしてやってくれないか」


「ただちに、すぐに、いますぐにっ」



 紀之介様が連座して切腹になんてなったら、マジで洒落にならないわ!

 こうしちゃいられないと欄干から渡殿へ飛び降りて、私ははたと止まった。



「……紀之介様」



 欄干の方へくるりと振り返る。

 まだ下にいる紀之介様へ、ぎこちなく呼びかけた。



「なんだい、与祢姫」


「おこや様に、どうお伝えしましょう」


 

 私を見上げるグレーがかった黒い瞳が、心持ち死んだ。

 気持ちはわかる。わかるよ、紀之介様。

 でも、チキンへの配慮が面倒臭いなって顔をしないで。

 おこや様は萩乃様と良い勝負のビビりだ。

 顔は東様や紀之介様とよく似ているのに、肝の太さはあんまり似ていない。

 不意打ちでショッキングな話を知らせると、心停止しかねないのである。



「まず母上へ知らせた方が良いな」


「いっそのこと寧々様にもお伝えしましょうか」


「そうだね、こうなればもうそれが良い」



 目頭を揉みながら、紀之介様が唸るように言った。

 秘密裏に済ませるのは無理かあ。

 萩乃様が後で竜子様に叱られそうだけど、しかたないよね。

 最高権力者の寧々様に報告しておけば、お咎めも少なくて済むはずだ。

 そうと決まれば、早い方がいい。



「何かありましたら、紀之介様にもお知らせいたします」


「すまない、苦労をかけるね」


「いいえ、紀之介様のお役に立てるならば、

 なんだって私は嬉しいのですよ」



 好きな人のためになることなら、私はなんでもしたいんだよ。

 喜んでもらえると、それだけでとっても幸せな気持ちになれるんだもの。



「君はいつもそう言ってくれるな」



 欄干から身を乗り出す私に、紀之介様の手が伸びてくる。

 薄い布に包まれた指先が、すり、と頬をなぞる。くすぐったくて、気持ちいい。

 大好きな手のひらへ頬を擦り付けて、もっととねだってみる。

 紀之介様の目元が、柔らかく細まった。

 もう片方の手も、ゆるりと上がって。そうして。



「刑部様に、粧姫様?」



 遠慮がちな声がするのと同時に、私たちは自然な動作で身を引いた。

 ばっと振り向いた渡殿の向こうに、男性が一人。

 慌てたように膝を突く彼を認めて、紀之介様は平静を装った声をかけた。

 


香積かづみ殿か」


「ご歓談中にご無礼をいたしました」



 男性──香積様は、額が床につくほど髷を結っていない・・・・・・・・頭を下げる。



「お気になさらず、話は終わっておりましたの」


「は……」


「お顔を上げてくださいまし、

 そうなされていてはお話しできませんわ」



 進めてみても、彼はまだ困惑を漂わせている。

 困ったなあ。紀之介様と顔を見合わせて苦笑する。



「香積殿、どうか面を上げられよ」


「しかしながら」


「貴殿は日根の方様の兄君なのだぞ、

 今少し我らにも遠慮なく」



 強めに紀之介様が勧める。

 一拍置いて、おずおずと香積様はスポーツ刈りのような髪の頭を上げた。

 天正においては異質な短髪は、この方が俗世に戻ってまだ間もないという証。

 そうなのだ。この香積かづみ基常もとつね様が、今をときめく香様の寺から還俗してきた兄君なのである。



「ごきげんよう、香積様」



 できるかぎりの親しみを込めて、挨拶をした。




「ずいぶんと髪が伸びてまいられましたね。

 お役には慣れられましたか」


「は、お陰様をもちまして」


「それはようございました。

 日根の方様もお喜びになられましょう」



 そう告げると、香積様はようやく表情を緩めてくれた。

 よかった、だいぶ私にも慣れてきてくれたみたいだ。

 香様の兄とはいえ、この方は新参者だ。

 味方が少なく、心細い思いをされていると聞いていたので心配だったんだよね。

 そのため中奥で会ったら気遣ってあげてほしいと、香様から頼まれてもいるのだ。

 有力者の私から親しく接しられたら、兄の辛さが和らぐかもしれないから、とね。

 自分の事情で香積様を静かなお寺から引っ張り出してしまったことを、香様は気に病んでいらっしゃるようだ。

 二人しかいない兄妹らしく、香様は本当に大切に思っておられる。

 そんな家族を想う気持ちはよくわかるから、私もこうして積極的に協力させていただいているのである。

 


「香、いえ、日根の御方様はご息災であられましょうか」



 香積様が、そう訊ねてきた。

 滅多と会うことが叶わないせいだろう。この方も香様の様子が気になるようだ。

 仲の良さを感じられて、つい笑みをこぼしてしまう。

 


「お腹が一段と大きくおなりですが、

 大禍なく日々をお過ごしでございますよ」


「さようでございますか……」



 よかった、と細く独りごちる声には、心からの安堵が滲み出している。

 軽くまぶたを伏せる仕草が、香様とよく似ていた。

 これは、うん。香様の近況の詳細は、あまり言わない方が良さそうだ。

 香様はおおむね大禍なくお過ごしだが、実はほんのちょっぴりブルーになっていらっしゃる。

 本人が言うには、お腹が大きくなってきたせいで、身動きが取りづらくてとても億劫らしい。

 屋敷の外まで出歩く元気が無いそうで、仲良しの茶々姫様とも過ごされる機会が減っている。

 妊婦さんによくあることといえば、よくあることだ。

 けれども、顔色の悪さが酷くてなんだか気にかかる。

 気丈に振る舞っていらっしゃるけれど、精彩を欠いているというか。なんというか、ね。

 淀城への引っ越しで環境が変わることで、気分転換なされればいいのだけれど……。



「香積様、よろしければ一度御方様をお見舞いになって差し上げてくださいませ」


「わたくしが、ですか」


「御腹様の御身内ならば、

 たまに奥へ入る許しも容易に出ますのよ」



 織田様はわりと茶々姫様の様子見に来てるよ。

 ああいう人柄で、来訪中は杏もぴたっと貼り付いているから、寧々様も鼻唄まじりで許可を出している。

 香積様が香様との面会を希望しても、ある程度許容してもらえるはずだ。



「御方様も喜ばれますから、是非に。

 取り次ぎは私がいつでもいたしますわ」


「かたじけないことにございます」



 軽く頭を下げて、でも、と香積様が小さく声を発する。



「その儀は、不要にございます」


「え?」


「わたくしめの顔など見せても、

 御方様のご気分を晴らせようもありませぬゆえ」



 そうかなあ? 久しぶりにお兄ちゃんの顔を見られたら、香様も嬉しいと思うんだけれども。遠慮しすぎじゃないかな。

 まあ、香積様が必要ないと言うなら、それでいいか。

 無理に勧めるのはなんだか違う気がするしね。

 ここは素直に引いておきましょう。



「ところで急いでこられたようだが、

 何かあったかな」



 会話の途切れ目をさらうように、紀之介様が口を開く。

 はっとしたように、香積様が居住まいを正した。



「殿下より刑部様と粧姫様をお探しせよと、

 言いつかって参ったのです」


「殿下が、俺と与祢姫を?」


「はい、お話があるゆえお見つけ次第、御座所へお連れするように、と」



 このタイミングで、私と紀之介様をセットで呼び出し?

 さりげなく、紀之介様と視線を交わす。紀之介様にも理由に心当たりがないようだ。




 ……なんだか、嫌な予感がする。




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