レースと幽霊【天正17年4月上旬〜下旬】
指に掛けた白菫色と露草色の糸へ、小舟に似た形のシャトルをくぐらせていく。
編み目を次々に重ねて、ほど良いところでリングにする。
これを五回ほど繰り返せば、五つの花びらのお花の完成だ。
「はい、できあがり」
糸の処理をして切り離したお花を、手のひらに乗せてあげる。
小さな藤色のお花を覗き込んで、香様の女童さん──
「粧姫
「そう? 簡単なものなのよ?」
「そやとしても、
そないすいすいお作りあそばされるのはすごうおざります」
大粒の瞳をきらめかせて、古満殿が声を弾ませる。
褒めちぎってもらうのは嬉しいが、レース編みは本当に難しくないよ?
慣れてしまうと、手元を見なくても編み続けられるもん。
「慣れよ、慣れ。古満殿もやってごらんなさいませ」
「わたしにも作れやしますやろか?」
「できますって。
杏にもできたし、ねえ?」
「わたくしにもってなんですの、
わたくしにもって」
レースを編む手を止めずに杏が睨んできた。
口調はお姫様なくせにドスの利いた声音に、古満殿の肩がびくりと跳ねる。
おお怖。杏ちゃん、お姫様の猫の皮が脱げかけてるぞ。
「古満殿、与祢姫の言うことはともかく難しくないですよ」
にやつく私に舌打ちをしてから、杏は古満殿に微笑みかけた。
「慣れれば、存外に楽しくやれますわ」
そうそう、よっぽどの不器用さんじゃなきゃできるよ。
糸と小さなシャトルさえあれば作れるから、暇つぶしにちょうど良い。
上流階級女子に流行ろうってものだ。
「飾り編みは覚えておいて損がありませぬ。
自分の持ち物の飾りにも使えますしね」
「ちょっとした差し上げ物にもなるの。
いざという時にも役立ちますわ」
昔アイシャドウ開発の対価として与四郎おじさんに提案した、このタティングレース。
前世の大学生時代にハマって覚えていたそれは現在、売れるし流行るし言うことなしだとおじさんが高笑いする商品と化している。
タティングレースは簡単なわりに華やかで、糸とデザインにこだわれば装飾として汎用性が高い。
帯の装飾やヘアアクセサリー、包装用品や刀の下緒の装飾などに向くともてはやされている。
南蛮人や中国人の商人も興味を持ったらしく、輸出品にもなり始めているとか、いないとか。
こうした需要によって、レースを編める人はかなり重宝されているらしい。
レース編みのスキルがあれば、女一人でもどうにか食べていけるようだ。
万が一の御家没落した際の予防線として、覚えておいて損はない。
ま、私は没落なんてしないと思うが。
「これが糸車で、こっちが糸ね」
古満殿に笑いかけて、手に新しいシャトルと糸玉を持たせる。
「まずは糸巻きから始めましょう。側で教えますから、目を編むのもね」
「よ、よろしゅうおざりますの?」
「もちろん! せっかく日根の方様が、遊んでいいとお許しくだされたのですもの」
おどおどしている古満殿の手を取る。
「近頃はわずらわしいことばかりで古満殿もお疲れでしょう?
たまにはのんびりすることも大切ですわ」
だから一緒に遊ぼうよ。
城奥にあって、こんなに堂々とサボれる機会は滅多にない。
仕事から離れてリフレッシュする時間は大事だ。
古満殿がぎこちなく頷く。
よしよし、めいっぱいサボりを満喫しような。
「それにしても、珍しいですね」
レースを編みながら、思い出したかのように杏がこぼす。
「日根の方様があなたまで御前を下がらせるなんて、あまりないことではなくて?」
青い瞳がちらりと動く。
その先にある茶々姫様の居間に続く襖は、お行儀よく閉められている。
本日の香様と茶々姫様は、茶々姫様の屋敷につどっている。
日課のストレッチと妊娠線ケアのマッサージはすでに終わっていて、今は休憩タイムだ。
二人はゆっくり休みたいからと人払いをして、居間にこもってのんびりなさっている。
「そんなこともあらしゃりませぬよ」
「あらまあ、意外ですこと」
「ええ、思いも寄りませんやろ? でも今日のように浅井の姫
「それは……乳母殿方がよくお許しになりますね」
「歌橋
でも、とおかしげに古満殿が笑う。
「おふたりがお目々を潤ませてお願いあそばされますと、どちらの方も折れてしまわはりますのん」
「甘いですねえ」
「ええ、しかしおふたりがともにお過ごしにならしゃれるのは、
もうちいとのことでおざりますから」
少し寂しげに、古満殿が呟いた。
金吾様とトラブって山内家へ宿下りしてから、はや七日。
昨日やっと城奥へ戻ったら、茶々姫様たちが賜る産所が完成していた。
一から新築した竜子様の時とは違って、すでに建っている城をリフォームしたから工期がうんと短くて済んだようだ。
引っ越しも来月の五月頭と決まったので、二人が一緒に過ごせる時間は1ヶ月にも満たない。
「なるほど、お二人とも名残を惜しんでおいでなのですね」
香様が入る
二人が過ごす時間を増やしたがるのも理解ができる。
「わたくしどももよ」
杏が口を挟んでくる。
どことなく元気の無い口調のそれに、私も寂しさを覚えた。
茶々姫様たちより半月ほど先になるけれども、私と杏もしばらくお別れとなる。
私は淀城の香様へ、杏は茨木城の茶々姫様に付き従う予定なのだ。
側にいるのが当たり前になっていた存在がいなくなると考えると、やっぱり不安が募る。
「困りごとがあったらいつでも知らせてね」
そう言うと、杏は神妙な顔で大きく首を縦に振った。
「もちろん、離れても頼りきるわよ」
「最初から言ってのけるってどうなの」
「それだけ頼みにしているの、おおいに喜びなさい」
「ちょっとあなたったら、何様ー?」
「杏様よ」
軽口を叩き合って、声を転がして笑い合う。
うっすらと心に膜を張っていた憂鬱が、飛んでいくようだ。
私たちのやりとりに、古満殿も緩めた口元を袖で覆っている。肩の力がほどよく抜けて良い感じだ。
この子とも、少しは気の置けない仲になれてきたかも。
ゆくゆくはおこや様や萩乃様とみたいに、仲良く助け合える友達になれたらいいなあ。
「古満」
閉じていた襖が、音もなく開く。
「御方様?」
呼ばれた古満殿が、きょとんと目を丸くする。
つられて振り向いた私と杏も、思わず息を飲む。
「屋敷へ戻りましょう」
戸口の香様が、古満殿に告げる。
硬い声、硬い表情。いつにないご様子に、私たちのなごやかさが霧散する。
「え、もうでおざりますか?」
「……戻りたいのです、お願い」
絞り出すように香様が言葉を重ねる。
古満殿がためらいがちに私を見やった。
香様を見る。顔色がどことなく優れない。体がしんどいのかな。
「私もお供いたしますわ」
「え?」
「日根の方様におかれては、なにやらご気分が優れぬご様子。
お屋敷で心のやわらぐ香か茶でも進ぜましょう」
妊娠中の変調は珍しいものではないが心配だ。
しばらく付き添って見守って差し上げたい。
もし悪くなりそうなら、曲直瀬先生たちの往診を頼む必要があるしね。
茶々姫様は杏に任せれば大丈夫でしょ。
どうですか、と振ってみる。
香様は視線をわずかにさまよわせた。
「ありがとう……でも、結構です」
迷うこと、しばらく。
ややあって香様は、寄せた眉を下げて断りを入れてきた。
「まこと、よろしいので?
ずいぶんと御気色が優れぬようですが」
「たいしたことはないですから……。
古満、参りましょう」
「は、はいっ」
会話を打ち切って、香様が控えの間を突っ切って外に出る。
慌てて古満殿も立ち上がり、呆然とした私たちへの一礼もそこそこに、主人の後を追いかけていった。
古満殿が香様を呼ぶ声が、遠くなっていく。
静けさを取り戻した部屋で、私と杏は顔を見合わせる。
どうしたのだろう。とても香様らしくない振る舞いだ。
「茶々姫様のご様子、見るか」
「そうね」
どちらともなく、腰を上げる。
半開きの襖をくぐって入室する。茶々姫様は陽の当たる縁の側にいた。
「一の姫様」
「あら、与祢?」
声をかけると、薄い色の髪を揺らして茶々姫様が首を回らせてきた。
眠いのだろうか。小さな欠伸をして、大粒の瞳をとろんとさせている。
「今しがた日根の方様がお帰りになられましたが……」
何があったのか訊ねると、茶々姫様は物憂げな表情になる。
「おしゃべりしていたらね、
気分が優れなくなっちゃったみたいなの」
「やはりご不調でしたか」
「ええ、急に。どうしたのかしら、香」
心の底から香様を案じているらしい。
茶々姫様は目元に睫毛の陰をけぶらせ、ほう、と小さく息を吐く。
「あら、そちらは……?」
杏が声を上げる。
その目が止まっているのは、茶々姫様が胸に添えた手だ。
良く見ると、きらきらしい蒔絵の筒が握られている。
視線に気づいた茶々姫様が、小さく微笑んだ。
「笛筒よ、香にあげようと思ったけど」
しょんぼりと俯いて、茶々姫様は言葉を濁し、笛筒を見つめる。
金蒔絵の流水紋に螺鈿の桜がほろほろと舞い散っている、とても趣味の良い品だ。
どたばたでプレゼントを出し損ねたのね。
すごく気にしているのが、手に取るようにわかる。
「私どもがお渡しして参りましょうか」
「いいわ、自分で香に渡したいから」
「よろしいので?」
「つぎに遊ぶ時に、あらためて渡すから。
気を遣わせてごめんね」
茶々姫様はそう言って、淡く微笑みを浮かべる。
それなら、まあ、いっか。香様もしんどい時にプレゼントを受け取ったら、嬉しさが減るかもしれないしね。
ふあ、と茶々姫様が欠伸をした。
「ん……ちょっと眠いな……」
「お昼寝なさいますか」
「うん……」
はいはい、おねむね。健やかそうで何よりだよ。
杏に茶々姫様を任せて、私は席を立つ。
蕗殿たちに頼んで、お昼寝用の掛けるものを用意してもらってこなきゃね。
◇◇◇◇◇◇
「惟任日向の幽霊ぃ?」
「お静かにっ」
シッと口元に指を当てて、萩乃様があたりを見回す。
「謀反人の名をそんなに大きな声でおっしゃってはなりませぬわ」
「失礼しました、ですが驚いてしまって」
突然大真面目に、明智光秀の幽霊が出るなんて言い出されたのだ。
びっくりして聞き返しもするよ。
ここは城奥の片隅の庭園。
見頃だからと萩乃様に誘われて、私は卯の花の垣根を観に来ている。
竜子様と幸松様のお世話で忙しい彼女と遊ぶのは、ずいぶんと久しぶりだ。
喜んで誘いに乗ったのは良いものの、ねえ。
まさか陽光が降り注ぐ真昼に、怪談ネタを振られるとは思いもしなかったわ。
「驚かせて申し訳ございませぬ、
ですが出るのですよ」
「塀や廊下に、ですっけ」
「はい、夜更けに白い影が過ぎるのですっ。
ふわりと、宙を舞うように!」
「嘘っぽい」
「まことなのです! まことに出るのですっ!
私も昨夜見てしまいましたのぉぉぉっ!!」
涙目で言い募り、萩乃様はぎゅうぎゅう抱きついてくる。
落ち着け、私を締め落とそうとしないで。
「にわかには信じがたい話ですねえ」
「うぅぅー! 出るんです、信じてくださいぃぃぃ!!」
いや、無理ですって。
幽霊なんてもの、私は一度もお目にかかったことがないんだよ。
今の人生でも、前の人生でもだ。
築浅の聚楽第に出るというのも、信じがたい。
きんきら派手で豪華な光の塊みたいな聚楽第に幽霊。似合わなすぎだ。
処刑場か戦場の跡地なら雰囲気もそれっぽさもあるけどね。
「萩乃様の他に、誰が見たって言うんです?」
「わたくしと共にいた侍女、
厨の女中頭に中奥の女中たち、
加賀の方様の女房もですし、
縫所と御倉番の侍女も幾人か」
結構いるな、おい。
そんなに目撃者がいるのならば、実態のある生き物か何かじゃないだろうか。
例えば白っぽい猫とか。城奥で飼われている子が、夜の散歩をしているのではなかろうか。
「あれは猫ではありませんわ!
だって光りましたもの!」
「へえ、光った?」
「ごくごく淡くでございますが、
うっすらと、水色の光を帯びていたのです……っ」
思い出して怖くなったのか、萩乃様の抱きしめが強くなる。
痛いってば、そろそろ放して。
まあ、だいたいわかった。水色に光るから明智光秀の幽霊ね。
明智光秀の家紋は水色桔梗。同じ色の光を帯びたから、光秀が連想されちゃってるってわけだ。納得だ。
「殿下か竜子様への報告は」
「ま、まだ、誰もまだしておりませぬ」
「何してるんですか、しましょうよ」
「ですが、下手に殿下のお耳へ入れたら」
涙腺を決壊させた萩乃様に見つめられ、痛むこめかみをそっと押さえる。
みんな、秀吉様のご機嫌を損ねるのを恐れたか。
確かに虫の居所次第では、おかしな噂を立てたというお咎めを喰らうかもしれない。
茶々姫様たちが懐妊中の今だ。城奥を騒がせるな! って秀吉様がキレる可能性は十分にある。
竜子様経由で耳に入れても、そのリスクはある。
竜子様が秀吉様の不興を買うことも、萩乃様は恐れているのだろう。
「与祢姫……頼れるのは与祢姫だけなのです……っ」
「いや、頼られましても」
報告する以外の解決方法が見当たらないよ?
「ですが、与祢姫は殿下に可愛がられておいでですから」
「……はあ」
可愛がられている自覚はあるが、セクハラ込みだよ。
たぶん、城奥の誰よりも私は低リスクで報告はできると思うけれど、ね。
「とりあえず、ちょっと考えるから話を持ち帰らせてください」
ため息混じりに、しかたなく返事をする。
放置して報告前に噂が秀吉様のお耳に入ったら大惨事だ。
私がどうにかするしかないね、これ。気は進まないが。
「ありがとうございますっ! 助かりますっっ!!」
「はいはい、これ以上噂が広まらないようにだけご注意くださいねー」
感激して泣く萩乃様の頭を撫でながら、もう一つため息を吐く。
どうしたもんかなあ……。
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