城表にて(2)【天正17年4月初旬】

 至近距離の怒声に、私たちは三人揃って耳を塞いだ。

 石田様の声は、男性にしては高めだ。近くで怒鳴られると、耳が痛くなる。



「石田様、うるさい……」


「怒鳴らせるお前が悪い」


「責任転嫁しないでくださいっ」



 言いたいことがあっても、声を張らなくていいじゃん! 聞こえるし!



「だいたい襲われかけたって言っても、

 相手は金吾様ですよ」



 加害者は八歳児だ。できることなんて、たかが知れている。

 寧々様の手で拘束中なので、表に追いかけてくる心配もない。

 万が一あったとしても、私の側には紀之介様がいる。

 一撃で返り討ちだ。ねっ、紀之介様!

 期待を混ぜつつ見上げたら、紀之介様は胡座の上に乗せてくれた。

 石田様がうんざりと見下ろしてくる。なんか文句あるんですか。

 ガンを飛ばし合う私と石田様に苦笑いしつつ、紀之介様が口を開く。



「佐吉殿が心配しすぎなのはともかく、

 急に母上が君を預かれと知らせてきて驚いたよ」


「それも金吾様に襲われたからっていうだろう?

 わらべ同士で間違いが起きるわけはないがねえ」



 私と紀之介様を微笑ましげに眺めながら、片桐様が言う。

 そこには心配そうな響きがあって、ちょっと申し訳なくなった。



「お騒がせしました……」


「いったい奥で、何が起きたんだい」

 


 片桐様に訊ねられて、少し考える。

 私もまだなんと捉えていいか、考え切れていない。慎重に言葉を選ぶ。



「襲われたと申しますより、喧嘩を売られたに近い、でしょうか……」


「どういうことだね」


「えっと、今朝のことなのですが」



 事の起こりは、朝食後のひとときのことだ。

 たまたま茶々姫様と香様へのご機嫌伺いまで時間があったから、私は散歩に出かけていた。

 場所は寧々様の御殿の敷地内の庭で、私の私室のすぐ近く。

 普段から散歩に使うそこで、遭遇してしまったのだ。


 城奥で暮らす唯一の男の子──金吾様に。


 羽柴金吾侍従様。寧々様の実の甥で、羽柴家の養子でもある男の子だ。

 歳は私より二つ下の八つ。城奥にて養育されていて、たまに寧々様の御殿に来ることもある。

 だから今朝も寧々様に会いにきたのかと思って、警戒せず挨拶をした。

 そしたら挨拶がわりに突然手を掴まれてさ。

 『側室にしてやる』と言われたんだよ……!

 まったくもって意味がわからなかった。

 どうしてこの私が、興味も無い八歳児の側室にならなきゃならないのか。

 悩むまでもなくお断りをしたら、今度は金吾様の癇癪かんしゃくが爆発したのだ。

 罵倒されるわ、髪を引っ張られるわ、もうえらい目に遭った。

 さいわい、すぐにお夏が止めてくれて怪我はせず済んだ。


 でも、騒ぎを聞きつけた寧々様が大激怒。


 眦を縦にする勢いで跳ね上げて、足音荒く現場に駆けつけた寧々様を思い出す。

 その場で金吾様に平手を喰らわせ、尋常ではない怒声をとどろかせていた。

 オイタをした秀吉様をお仕置きする時よりも、怒っていらしたんじゃないだろうか。

 しかし捕まった金吾様は、寧々様が叱っても嗜めてもむくれるばかりで、私に謝罪をしなかった。

 あまつさえ、情けをかけてやろうというのに喜ばない私が悪いと主張した。

 それでついに、寧々様の堪忍袋の緒が切れた。

 寧々様は孝蔵主様が止めるのも聞かず、城奥から金吾様をつまみ出すと宣言したのだ。


 キレ散らかす寧々様は、私へ一時帰省をお命じになった。

 僅かな間でも、私を金吾様と同じ城奥に置いておきたくなかったらしい。

 仕事の引き継ぎもそこそこに荷物をまとめさせられ、目まぐるしく城奥から退避させられた。

 山内家からの迎えが来るまで、城表の紀之介様の元で待機するようにとの指示付きでね。



「なるほど、それで襲われたというより喧嘩を売られた、か」



 私の話を聞き終えた片桐様が、腕を組む。



「近頃とみに素行がよからぬとは聞いていたが、

 そりゃあ寧々様もお怒りになるわけだ」


「金吾様にも困ったものですね」



 紀之介様が深い息とともに相槌を打ち、私の髪を指で梳いた。

 引っ張られた部分に触れる手に頭を預ける。まだ残っていた不快感が消えていくようで、心がとても安らぐ。

 満足げな私を眺めながら、片桐様が口髭を下げた。



「深酒がすぎるばかりか、

 女人にょにんに手を出すようになられてはなあ」



 困ったことだ、と片桐様が額に手を当てる。

 金吾様は八歳にして、もう一人前の酒クズだ。特に今年に入ってからは毎晩飲んでいる。

 飲むと気持ちが大きくなる性質のようで、結構な大声で騒いでは乱痴気騒ぎをやらかしている。

 寧々様もたびたびお怒りになっていたが言うことをなかなか聞かなくて、手を焼いていたところに今朝の騒動である。

 酒の次は女とは、クズのエリート街道まっしぐらだ。将来が思いやられる。

 


「以前は斯様かような御子ではなかったのだが」



 不愉快げに石田様がぼやく。



「熱心だった勉学も、このところおろそかになっておられる。

 政事への興味も失せて、遊んでばかりだとか。

 殿下と若君を支える一門衆としての自覚をお持ちではないのか」


「自覚があったら酒浸さけびたりになってないと思いますよ」


「何故自覚できぬのだ? 馬鹿の市松やお前ですら、

 最低限の矜持は持ち合わせているのに?」



 石田様ぁ……。本気で不思議そうな顔をされて頭が痛くなる。

 いくらなんでも、私や福島様と比べるのは無しだよ。

 福島様はきちんと人生経験を積んだ大人で、私は時代は違えど一度アラサーまで生きた記憶持ちである。

 ごく普通の子供の金吾様に同じレベルを求めるのは酷だ。



「矜持を持とうにも、持ちにくいのではないですか」


「はあ?」


「お正月に若君がお生まれになりましたから……」



 去年まで金吾様は、羽柴のお世継ぎ様だった。

 行幸の折に官位官職を与えられ、同時に元服も済ませて、世間的に披露さえされた。

 当然家中にあって金吾様は世継として下にも置かない扱いを受けていて、諸大名衆や諸公家衆からも敬意を払われる立場だった。

 だが竜子様が幸松様を産んだことにより、たった一夜で金吾様は世継の座から降ろされてしまった。

 お子様の金吾様が、現実を受け入れ切れず荒れるのはしかたない部分もある。

 だからって飲酒に走ったあげく、私に暴力を振るっていいことにはならないが。



「君の髪を引っ張ったのは許せないが、

 金吾様も哀れなことだな」


「ですよねえ、許しませんけれども」



 紀之介様と私のため息が揃う。情状酌量の余地はあっても本当に迷惑だ。



「城奥から出たくないなあ……」


「何か心配事でもあるのかい?」


「ええ、お役目のことで少し」



 私が広い胸にもたれてため息を重ねると、紀之介様はおや、というふうに眉を片方上げた。



「君がいなくても、御化粧係はもう一人いるんだろう?

 たしか、源五侍従様のご養女だったか」


「杏は奥に仕えて、まだ二月ふたつきにもなりません。

 急に私無しですべてを差配できるかどうか」



 緊急事態だとはいえ、杏のことが心配でならない。

 できるかぎり、業務慣れした私の侍女に仕事を振るよう言い含めた。寧々様も、茶々姫様たちのお世話業務を減らしていいと許してくれた。

 それでも、きっと十全な仕事は難しいだろう。泣きそうな杏の顔を思い出すと胸が痛む。

 せめて、最低限の日常業務が無事に回ればいいんだけれども……。



「お前はあの小娘の母親か。経験を積ませる良い機会ではないか」



 額を押さえる私を、向かいの石田様がじとっと睨む。



「それもそうなんですけどねえ」


「あれはお前が懸念するほどの無能なのか」


「杏の腕は確かです!

 きちんと寧々様のお役に立っていますっ!」


「では何の懸念があるというのだ」



 茶々姫様のことだよ! 口が裂けても言えないがな!

 先日知りたくないのに知ってしまった、茶々姫様の恋への憧れと初恋。

 あの話は、あの日あの場にいた全員一致で秘密とすると決めた。

 下手に口にすると、やぶから蛇以上に危ないものが飛び出しかねない。

 秀吉様が茶々姫様へ向ける庇護欲はとても深い。

 それは昨年の事件が、生々しく証明している。

 茶々姫様への嫌がらせと取られかねない言動は、不用意に口にしないのが吉だ。

 説明するまでもなく、茶々姫様を除くみんなはよくわかっている。

  

 問題は、茶々姫様だ。ちゃんとね、秀吉様には話さないようしっかり諭しておいたよ。

 自爆は自己責任だけど、その余波を喰らうのはごめんだからね。

 でも、怖いんだよなあ。秘密にすると約束してくれたものの、茶々姫様は「女同士の秘密ね!」とはしゃいでいたのだ。

 私が不在の間に自爆しちゃったらどうしよう。秘密を知る者とバレて、責任追及とかされたらと思うとすごく恐ろしい。

 うう、不安だ。ひさしぶりの実家帰りなのに、まったく喜べない。



「……詳しくは申せませんが、色々あるのです」


「言えぬようなことをしているのか」



 だから、石田様ぁ。訝しげな目をしないでほしい。

 茶々姫様の初恋なんて知ったら、石田様であっても後悔すると思うよ?



「とにかく、色々は色々です。

 もう聞かないでください、お願いしますから」



 そっぽを向いて耳を塞ぎ、話を切り上げた。

 石田様はまだ追及したそうにこちらを見ている。

 寧々様の不都合が起きないか心配なのだろうが、マジでしつこい。



「まあまあ、佐吉殿」



 石田様の肩を片桐様が叩く。



「奥で見聞きしたことを表の者に話すのは御法度だ。

 あまり聞かれると粧姫が困ってしまうよ」


「だが助作殿、某は」


「粧姫を案じる気持ちはわかるがね、

 さすがに奉行の我らでも奥のことに手を貸してはやれないぞ?」


「はぁ!? 某はこいつのことを案じてなどおらんが!?」



 にこにこの片桐様に、石田様がぎゃんぎゃん噛みつき出す。

 その猛烈な勢いにも片桐様は笑みを崩さないで、まあまあ、と石田様を宥め続けている。

 なんか、すごいな片桐様。おおらかなお父さんかな。



「大丈夫だよ」



 二人のやりとりをよそに、紀之介様が私にだけ聞こえる声で囁いてくれる。

 腕の中からそっと見上げる。あやすように頬を撫でられた。



「心配事は、得てして案じるほどのことにはならないさ」


「まことにですか?」


「まことにだよ」



 だと、いいのだけれど。

 少しだけ力がこもった紀之介様の腕の中で、私は目を閉じた。



*************

次回からしばらくは、毎週土曜日20時更新となります。

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