そして小鳥は舞い戻る【杏・天正17年2月中旬】


 長く伸びる廊下を、黙々と歩く。

 右に、左に、右に。しずしずと、意識をしながら一歩ずつ足を運んでいく。

 養父に教えられたとおり、丁寧に。与えられた身分に見合うよう、しとやかに。

 右に、左に、右に。杏は無心で、ひたすら足を動かす。

 夢物語のような現実うつつに、めまいを覚えながら歩いていく。


 擦り切れたぼろをまとう花街の混血児が、絹の衣に身を包む大名のお姫様へ大逆転した。

 しかも北政所様のお側に出仕して、噂に名高い粧内侍様と肩を並べる。


 この身に起きた現実うつつが、いまだ自分自身でも信じきれない。

 荒唐無稽にもほどがあるのに、触れる感覚はすべて本物だと主張する。

 素足に触れる廊下に敷き詰められた、青く匂い立つような畳のなめらかさ。

 あえて視界に入れなくても目に入る、金銀を散りばめた襖絵や柱の細工のまばゆさ。

 ぜいを極めた世界が、何度目かわからない実感を杏に味わわせる。



 絢爛豪華な地獄に───聚楽第に戻ってきたのだ、と。



 戻るつもりは、つゆほどもなかった。

 ここには思い入れ茶々姫があり、友人与祢がいる。

 この腕に付けた化粧の技を最も活かせる場であることも、知っている。

 だが同時に、ここが自身に合わない世界であることを、杏は十分以上に理解していた。

 華やかに彩られた天下人の城の内側は、人の面を被ったケダモノ化生けしょうの巣窟だ。

 あの夏にそれを見せつけられたから、振り返ることなく去ると決められた。

 与祢姫とのことなど、後ろ髪を引かれる思いはあった。

 でも、命の方が惜しかった。

 ゆえに、二度と戻らないつもりで逃げ出したのだ。


 そうして移った養父の屋敷での暮らしは、夢のように心穏やかだった。

 養父となった織田源五郎は、まあ、奇矯ではあるが悪い御仁ではない。

 小うるさいが飽きずに構って、過分なほどの衣食住を与えてくれる。

 変わり者の家中だからか、周りの人々は杏を珍しがりはしても厭わない。

 おかげで白妙ははが心安らかに笑うことが増え、少しずつ武家の娘であることにも慣れていけた。

 御伽噺の『めでたし、めでたし』が、そこにあった。

 まどろみのような幸福に浸されて、生まれて初めて心から満ち足りた時を過ごせた。


 養父から茶々姫懐妊を知らされるまでの、ほんのわずかな日々ではあったけれど。




『茶々が孕んだかもしれないの』



 硬いものを飲んだような養父の横顔を、覚えている。

 年の瀬の昼下がり。茶室には、養父と杏のふたりきりだった。

 教えてもらっていた茶の湯の作法が、頭から飛ぶほど驚いた。

 幸薄かった姫君が、ようやく人並みの幸福を得られるのかと嬉しくもなった。

 だが言祝ごうとして、できなかった。



『困ったことになったわ』



 苦りきった声で、養父が呟いたから。

 茶々姫の幸せがなぜ困ったことになるのか、理解できなかった。

 当然、酷いと喰ってかかった。

 叔父である養父が祝ってやらないなんて、情の無いことだ。

 身寄りの少ない茶々姫を見捨てるのかとなじって、肩を強く掴まれた。



『捨てられないから恐ろしいのよ!』



 青褪めた唇が叫んで、堰を切ったように語られた。

 杏が知らなかった、茶々姫を。

 最初は、信じられなかった。

 養父が口にしたことは、見知った姫君と結びつかなかったのだ。

 愛くるしい茶々姫の足元に、陰惨な死が積み上がっている。

 目を背けたくなるような真実を、信じたくなかった。

 別人の話か、悪い冗談だ。

 そう思いたかったのに、できなかった。



『いつか茶々が、三法師を巻き込んだら……』



 恟々きょうきょうとした養父の言葉に、絡め取られてしまった。



 織田おだ三郎さぶろう秀信ひでのぶ

 幼名を三法師という、よわい一〇の少年がいる。

 昨年織田宗家当主に返り咲いた、亡き織田信長公の嫡孫である。

 養父が人でなしになってまで守っている彼は、杏にとっても特別な存在だ。



 杏は、身のほど知らずの片恋を抱いているのだ。



 三郎との出逢いは夏の終わり、養父が内々で催した茶会でのことだった。

 身内になるからと引き合わされて挨拶を交わした席で、杏は彼に髪に触っていいかと強請られた。

 邪気のない、好意と興味で輝く眼差しだった。

 まぶしくて、いたたまれなくて。

 つい許したら、嬉しそうに手を伸ばされて。

 そうして、縮こまる杏の髪を指の先で梳いて、三郎は笑んで言ってくれた。




『きれい』だと。




 濃く出た異国の血の証しを、珍しがられ、気味悪がられたことは幾度となくある。

 石を投げられたことも、刻まれたこともある。

 白妙すらも、髪さえ黒ければもっと生きやすかろうにと、傷ましげに触れた。

 賞賛を渡されたことは、一度もなかった。

 三郎だけだった。

 だから、転がり落ちた。


 茶々姫を、悪く思いたくない。

 でもそれ以上に、三郎が悪しきことに巻き込まれるのは嫌だ。

 どうしても嫌だと思ってしまったから、頼まれるまま引き受けた。

 織田の服従の証として、北政所様の側に行くことを。


 羽柴の御奥に入り、二心なく北政所様に仕える。

 反対側から茶々姫の動きを見張り、異変があれば養父に伝える。

 もしもが起きれば築いた信用と地位で、身をていして三郎の生き残りを図る。


 養父が頼んできた役目は、非常に難しいものだった。

 まず北政所様の目に留まらなくてはならず、深く食い込める才も必要となる。

 天下人の妻の側には、あらゆる優れた女が仕えているのだ。

 ちょっとやそっとの才能では、目的の入り口を潜ることさえ叶わない。


 化粧という武器を持つ、杏以外には不可能な役割なのだ。


 醜女すら天女に粧う杏の才は、粧内侍として名高い与祢姫にも引けを取らない。

 経緯はどうあれ、これは北政所様もご存知の事実である。

 また杏は織田の家中にあっても、たゆまず才を研いでいる。

 養父の求めで、男の粧いについても技を覚えて磨きさえしている。

 与祢姫と似て非なる価値さえも、備えつつあった。

 羽柴の利になりえる人材が名乗り出れば、まず耳を貸してもらえるはずだ。

 御化粧係が人手不足との噂がある今ならば、なおのこと。

 そんな養父の目論みは、見事に当たる。

 すぐに詳しい話をと飛んできた使者との面談を重ね、養父が各所に根回しをすることひと月もせず。

 松が取れる頃には、養父に伴われ、聚楽第への登城が叶った。



『久しいわね』



 ずいぶんと見違えたじゃないの。

 そう言って微笑む北政所様は、以前と変わらず美しかった。

 だがその女振り以上に言葉を奪ったのは、彼女が杏を覚えていたことだ。

 この日の本の女のほぼいただきに座す貴女が、地を這うようにしていた小娘を記憶に留めている。

 想像もしていなかったことに、真っ白になった頭を必死で下げた。

 口上もろくに言えなくとも、叱りはなかった。

 北政所様は鷹揚に笑っていた。与祢が初めて城に上がった時そっくりと言って、苦い顔の養父に向かって良い娘じゃないの、とさえ褒めそやした。

 


『織田のためにこの子をあたくしに預けたいなんて、

 源五殿もよう考えたじゃない』



 しかもそれでありながら、目が節穴であるわけでもない。

 褒めた口で養父と杏の思惑を言い当て、巻き込み、思惑を含めて呑み干す。

 実に、あざやかな手際だった。

 前に仕えた茶々姫とはまるで違う。

 養父と具体的な話を詰めるさまは老獪ろうかい

 時折杏へ声をかけてくれる面差しは穏やか。

 しなやかな強かさは、往年の白妙を思い起こさせる。

 地に足の付いた彼女の魅力に、杏はしっかりと絡め取られた。

 この為人ひととなりだから、与祢姫が心酔するわけだ。

 そう思えば二心なく仕えていけそうな気持ちになれた。


 懸念していた茶々姫への未練も、それなりに解決した。

 渋る養父に求めて面会して、けじめが付けられたのだ。

 茶々姫は以前のようにおっとりと、愛らしくあった。

 けれども、以前とは違ってそれに気味の悪さを覚えた。

 教えられた彼女の本性が、頭にあるせいだろうか。

 交わす言葉がどこか上滑りしている心地がした。

 昨年の惨い結末を知っているだけであったのも、違和を大きくさせた。

 茶々姫は事の渦中にあったはずだ。

 なのに彼女は、蚊帳の外で起きた出来事のように語る。

 心から不幸を悼み、助けを感謝しているのに、薄皮一枚で何かが違う。

 それがふわりと宙に浮かされたような怖気になって、ひたひたと忍び寄ってくる。

 知らなかった養父の憂鬱を思い知らされたことが、決め手となった。

 すっぱりとは言い切れないが、とにかく杏は茶々姫への認識を改めた。

 可能なかぎり、この人には踏み入らぬ方がいい。

 心の底から思えたから、主替えに踏み切れた。

 

 そうして今に至るというわけだが、同輩となる与祢姫にはこれらの事実を教えていない。

 彼女が知るべきことではないと、北政所様に言い含められたからだ。

 大人たちは、なるべく与祢姫を白いまま育てるつもりらしい。

 与祢姫が羽柴の栄華のしるしだから、だそうだ。

 麗しいものに触れ、芳しいものに身を浸し、いつまでも輝きを曇らせずに在る。

 治世を彩る瑞鳥として幸福に生きることを、与祢姫は望まれている。

 だから目を覆われ、耳を塞がれて、あの子は生かされていく。

 何も知らぬまま、命が尽きるまで。


 絹の衣の肩から髪がひと房、流れ落ちる。

 緩やかに波打つ、赤褐色に触れる。

 与祢姫もまた、この髪を好ましいと言ってくれた。

 そんな彼女が優しくて惨い思惑の中で生かされている。

 何も思わないではいられないが、気にかけてやる余裕など無い。

 杏はもう、選んでしまったのだ。



 好いた男三郎のために、人でなしとなることを。




 深い思考の水面から、意識をもたげる。

 いつのまにか、与えられた私室に着いていた。

 ひとつ、ふたつと息を吐き、胸の中から言い聞かせる。



「……何が起きようとも、」



 雲に雁が彫り込まれた取手へ、磨き抜かれた指を掛けた。



「杏様!」



 開いた襖の向こうから、明るい声が弾んでくる。

 家から付けられた侍女たちが、荷解きの手を止めて迎えてくれた。

 養父が家中から見繕ってくれた彼女らは、皆まだ興奮が醒めやらぬ様子だ。

 贅と美を凝らした華の城への憧れに浸れる純真さが、少し羨ましい。



「おかえりなさいませ。

 粧姫様とはお会いになれましたか?」


「ただいま戻りました。

 お元気そうなお顔を拝見して、

 ゆっくりお話もしてこれましたよ」



 世話をしようと近づいてくる面々に、まだ慣れないおっとりとした笑みを返す。

 そうして杏は、真新しい自室の敷居をまたいだのだった。





 御伽噺はめでたしで終わって続かない。

 しかし、うつつ・・・の物事の終わりは、新たな始まりに続いていく。

 だから、杏は進むのだ。

 めでたしの続きを、めでたしへと繋げるために。



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