御化粧係、二人目【天正17年2月中旬】

 

 唖然としている間に、室内へ杏が招き寄せられる。

 恐る恐る、といったふうに白い足先が近づいてくる。

 その足取りは、新しい部屋に放り込まれた子猫みたいな慎重さだ。

 顔色もほんのり青い。完全にビビっている。



「もう知った顔ではあるけれど、

 あらためて紹介しておくわね」



 ようやく辿り着いた杏を座らせて、寧々様が微笑んだ。

 その口調は、あからさまにうきうきしている。

 ……とんでもないサプライズの予感が、びしばしとする。



「こちらは織田の源五殿の御養女・・・、杏殿よ」



 ようじょ。織田様の。養女。

 杏を見る。私と同じく引きつった表情が、やけくそな微笑に変わった。



「織田源五郎長益の養女むすめ、杏と申します。

 粧姫様、おひさしゅうございます」


「は、えっと、一瞥以来いちべついらいですわ、ね……?」


「その節は……その、大変、お世話になりました……」



 とりあえず、微笑みあってみる。

 残念ながらどちらの笑みも、錆びついたかのようだ。

 まったくもって姫らしくないそれに、仲良く白目を剥きそうになる。

 だめだ。頭が追いつかない。

 ぎこちないとはいえ、品の良い杏って何。違和感だらけだよ。

 そっくりさん? そっくりさんだよね? そう言ってくれ。



「うふふ、本物の杏よ」



 のほほんとした、しかし容赦のない断言が入る。

 振り向くと、匂い立つような梅花を描いた扇面が寧々様の口元を隠していた。



「この子からあたくしに仕えたいと申し出があったところなの。

 素性と腕前は知ってのとおりでしょ。

 ちょうどいいわよねえ」



 いやいやいやいや!!!!!

 よくないよ!!! 無理ですって、寧々様!?!?

 杏が織田様の養女になった経緯も、城奥に再度勤めたがっている理由もわからないのだ。

 良いか悪いかの判断なんて、私にはできない。

 孝蔵主様にヘルプを求めてみるが、ため息混じりに遠い目をされた。

 あかん……これはすでに寧々様にへし折られた後だ……。



「二人とも、下がっていいわよ」


「ね、寧々様! お待ちくださいっ!?」


「遠慮しなくて良いのよ、積もる話もあるでしょ?」



 あるにはある。山ほどな!

 でもそれよりも、先に寧々様から聞きたいことがあるんですが。

 杏の背後にいる織田様の意図とか。織田様の意図とか。

 もしかしたら潜む、茶々姫の影とかッッッ。

 必死に寧々様の目を見て、言葉にしない意思表示アイコンタクトで訴えかける。

 頼むから、寧々様。こんなこと軽く決めないで、寧々様。



「お与祢」



 寧々様が、私を呼ぶ。

 軽やかに。でも、はっきりとした声音で。



「じっくり話し合ってきなさいな」



 何を、と言われなくてもわかってしまう。

 すでに、すべて、決定事項なのだ。

 ずんと重くなった頭を、へなへなと下げる。

 もうそれ以外、なすすべがなかった。







 ◇◇◇◇◇◇◇







 続きの間に控える侍女たちを見回す。

 お夏以外、大なり小なり動揺を隠せていない。

 気持ちはわかる。でもそんな目で見ないでほしい。

 私だって言いたいことだらけなのだ。



「何が聞こえてもけっして入らないでね、けっしてよ」



 訴えかける眼差しを無視して強く命じ、返事を聞かずに襖を閉じる。

 ここは私に与えられた局、その一番奥の寝室。

 前もって命じておけば、腹心のお夏すら入れないようにできる。

 密談をしたい時には、めちゃくちゃもってこいなのだ。



「さて」



 居心地悪そうに座る杏の方へ振り返る。

 びくっと跳ねた肩がちょっと哀れだが、見なかったことにさせてもらう。



「どういうことか、話してもらうわよ」


「うん、あー、はい、承知いたしまし」


「礼儀抜きでいきましょ」



 言い直す声をさえぎる。



「あなたが上品にしてると変な気分になるわ」



 身なりのことといい、言葉遣いといい、今の杏にはちょっと慣れない。

 前のようにしてもらわないと、話しにくいったらない。



「……喧嘩売ってんのか?」


「売ってない、売ってない。

 話しやすいようにってこと」


「じゃあそう言えよ、相変わらずムカつくなお前」


「お互い様でーす」



 軽く、睨み合う。

 そうして、どちらともなく吹き出した。



「っふ、ひさしぶり。息災そうね」


「はは、どーも。そっちはますます派手になったな」


「あなたもね、ずいぶんと垢抜けたじゃない」


「ばーか、垢抜けてるのは元からだよ」



 返ってくる言葉には、遠慮がなくて小気味良い。

 形は違っても、杏は杏のままだ。

 変わっていないことを実感できて、肩の力が抜ける。

 やっぱり私たちは、このくらいがちょうどいい。


 リラックスしたところで、いそいそと膝を寄せた。

 あらためて近くで、杏を眺めてみる。

 先に勧めておいた敷物の上に座るその姿は、ずいぶんと変わっていた。


 ハーフならではの整った顔には、彫りの深さを活かしたナチュラルメイク。

 長い手足の身を包むのは、アップルグリーンとライトベージュの段替わりの小袖。

 柔らかな色彩の絹は髪色と喧嘩せず、黒髪では叶わない鮮やかさを醸し出している。

 その髪の赤も、少し変わってる?

 手入れが良いのか、色味が深みを増して見える。

 赤褐色オーバーン寄りで、艶とウェーブとあいまってすごく綺麗だ。

 襟や袖から覗くコーカソイドの特徴が出た肌の白さにも、目に見えて磨きがかかっている。

 変わらないのは、しゃんと伸びている背筋くらいかな。



「まじまじ見るなよ……」


「いや、かなり変わったなって思って」



 大名の姫君とまではいかなくとも、大事にされている豪商の娘くらいの品がある。

 黙っていれば、かつての町娘らしさがほとんど感じられない。

 本当に何があったんだ、杏ちゃんよ。



「それで、織田様の養女ってどういうこと」



 落ち着かなさげな杏に、単刀直入な質問を放り投げる。

 一番聞きたかったことなのに、寧々様が話してくれなかった。

 こうなったら本人の口から聞くしかない。



「……話さなきゃ、だめ?」


「だめに決まってるでしょ」



 私と同格の御化粧係になるんだぞ。基本的な情報くらい共有してくれ。

 知らないままにしておいたら、何か起きた時にフォローの一つもできないじゃん。



「隠すべきことでもあるの?

 それならそれなりの配慮をするけど?」


「いや、そういうのは無いんだけど」


「じゃあ話しなさいよ」



 杏らしくない弱腰に、つい目が据わってしまう。

 それでも杏は、あーとか、うーとか、歯切れ悪く唸り続ける。

 チャキチャキの杏がここまで言いづらそうになるって、一体どんなことが起きたんだ。

 余計に知りたい気持ちが湧いてくるんですが!



「あんま、人に言うなよ?」


「言わない言わない、ほら話して」


「約束だからな! 守れよな!」



 わかってるってぇ。

 寧々様や竜子様あたりに聞かれないかぎり、誰にも話さないよー。

 まだ疑わしげな杏の膝を、べしべし膝を叩いて催促する。

 ほらほらさっさと話しちゃえ。



「去年、太夫のとこに戻ったらさ」


「うんうん」


「太夫が、源五様の御手懸けになってた」



 室内の空気が、一瞬止まった。

 ありえない重さを伴って、ズシンとくる衝撃が私を襲う。

 杏の顔を見る。スモークブルーの瞳に、ハイライトが無かった。



「手懸けって、つまりそれは」


「側妾だよ、しかも正式な」


「嘘でしょ!?」


「マジだよ! わけわかんねーけど!!」



 とうとう杏は、涙目で叫ぶように言った。


 例の騒動の際、白妙太夫さんは与四郎おじさんに保護されて療養していた。

 先の内府様側から報復されないようにと、私がお願いしておいたのだ。

 このことは騒動の後始末に当たっていた織田様にも伝えてあった。

 杏への褒美の実務担当っていうのかな。

 生活補償を任せたと、秀吉様から織田様に指示が行っていたのだ。

 それで織田様は、杏が帰る前に先んじて白妙さんに面会しに行って、だ。




 見 初 め ち ゃ っ た ら し い 。




 白妙さんは、引退したとはいえ由緒正しい遊郭で名を馳せた最上ランクの遊女である。

 容姿が人並み以上に優れているだけでなく、教養も人柄もとびっきり秀でたひとかどの文化人だ。

 つまり、美しいもの大好きな織田様の好みのド真ん中ストレート。

 さらに白妙さんが織田様に「病が良くなったのでもうお情けは要らない、自立したいから仕事を斡旋してください」と頼んだことで、ストライクが決まってしまった。

 なんてイイ女なの! 落とすわ!! ってロックオンし、自分の家の女房になるようにと、白妙さんに勧めたそうだ。


 大見世の太夫として培った教養を見込んで、自分の姫たちの家庭教師を務めてほしい。

 疑われていた労咳ではなかったとはいえ、アナタの体調はいまだ本調子でない。

 働きたいなら安静にしつつ務まるものになさいな、とね。


 あえて元遊女を選ばなくても、という白妙さんの突っ込みはスルーだったそうだ。

 引くほど熱心に説得して白妙さんが折れると、織田様は彼女を速攻でお持ち帰り。

 流れるように、御正室や姫君に白妙さんを引き合わせた。

 そして密に交流をさせて、白妙さんの人柄や境遇を妻子に知ってもらうことしばらく。

 良い感じに御正室が同情的になったところで、生活の面倒を見るために側室にしてもいいかしら、お伺いを立てて許可をもぎ取ったらしい。


 この間、一ヶ月足らずだったという。


 はえーよ。ついでに怖いよ。

 同時進行で白妙さんを口説き落とすことにも成功するって、手際が良すぎるよ。

 しかも、例の騒動の薄暗い織田家内の後始末もやりながらでしょ?

 さすが信長の弟。才能の派手な無駄遣いとしか思えないが、すごい。



「なんか、えらいことになってたんだね……」



 それしか出てこなかった感想に、顔を手でおおった杏が頷く。



「白妙さんをお側に上げたからあなたも養女に、か」


「懐広いよな、源五様。あんなだけど」



 長い指の隙間からこぼれた声が、織田様を褒めつつ貶す。

 あんな義父様のこんな義娘である自覚が、杏にはないらしい。


 それにしても、織田様が杏を養女にした、か。

 あやしいな。善意だけのことではなさそうだ。

 あの人は、杏のことをジェネリック与祢わたしと思っている節があった。

 取り込んでおけば後々役に立つかも、という打算で迎えた可能性が高い。

 今後養女だからと、おかしな利用のされ方をしなければいいのだけれど。



「まあ、よかったね。

 これからも白妙さんと一緒に暮らせるじゃないの」


「……うん」



 杏ちゃん、微妙に暗い声で生返事してどうした。

 宝くじ一等並みの幸運を引き当てているのに、何か嫌なことでもあったのか。



「織田家の暮らし、つらいの?」


「……」


「もしかして、いじめられてたりとか……」



 家中での風当たりがきついのだろうか。

 白妙さんは苦界に身を沈めた女性で、杏は今の時代ではとても異質なハーフだ。

 たとえ織田様や御正室が受け入れていても、家臣たちは別ってこともある。

 不安になって聞いてみると、杏は首を横に振った。



「奥方様も姫様方も家人も、みんなうちらにすごく優しいよ」


「ならどうしたの」


「……親の色恋を側で見てるのが、いたたまれなくて……」



 そっかー! そっちかぁぁぁ!! なるほどねええ!!!

 確かに親のいちゃいちゃは、目のやり場に困る。

 うちの父様と母様は子供の目をはばからないでやるが、織田様と白妙さんも同類なのか。

 新婚と呼んで差し支えない時期だから、織田様たちが熱いのは当然といえば当然だ。

 理解はできるが、杏にしてみたらたまったものではない。

 そこへ慣れないお姫様暮らしが重なれば、ちょっとメンタルが削れるのもしかたがないよ。



「だからって脱出先にここを選ぶって」


「源五様を納得させられる逃げ先がここしかなかったんだよ」


「ああー……」



 杏を奥仕えに出すと、織田様に大きなメリットになる。

 なぜなら寧々様の膝元へ杏を送れば、織田様の紐付きの侍女も一緒に城奥へ入れられるのだ。

 これが叶うと織田様は、他の大名よりも迅速に城内の情報を手にできるようになる。政治的な根回しの効率も、格段に上がる。

 茶々姫様の後見の仕事だってはかどるだろうし、きっと大喜びで申し出に乗ったに違いない。



「だいたいわかったわ」



 激変した杏の境遇にため息が出る思いだけど、よくわかった。

 大名の養女という身分。私に匹敵する美容に関する知識と技術。

 二つを兼ね備えてしまった杏は、なるほど新たな御化粧係におあつらえ向きの人材だ。

 私個人としても気心知れた杏が相棒になるなら、心強いことこの上ない。

 上手く手を組んでやっていける自信がある。でも。



「御化粧係になる前に、聞かせてちょうだい」



 友達を疑いたくはないが、これは念のため。

 息を吸って、短く吐く。

 青い眸を、私はひたりと見据えた。



「寧々様と浅井の一の姫様。

 ──これからあなたは、どちらの御方に心を置く?」



 杏の目がみるみるうちに真円を描く。

 そこに収まっている感情は驚きか、それとも焦りか。

 どちらともつかないが、どちらであるかは知る必要がある。


 私は、寧々様の御化粧係。ひいては羽柴の御化粧係だ。


 二心のある者に、最先端の美容を触らせないと決めている。

 私がつかさどる美容は、寧々様の武器。羽柴の富貴の象徴。

 寧々様と羽柴ため以外にこれを利用するなど、決してあってはならない。

 禁忌に触れようとする人間は、これ一切を排除する。

 それも、御化粧係たる私の務めだ。



「答えなさい、杏」



 寧々様か、茶々姫様か。

 ほっそりとした白い喉が、ひくりと上下する。



「……わたくしの、忠心は」



 赤い舌が、白い歯の間で動く。

 雑な口調が、にわかに改まる。

 青い目が閉じて、開く。



「これより、北政所様へ」



 大きくはなくとも、きっぱりとした声が言い切る。

 まっすぐな眼差しは、ひとかけらのくもりもない。

 せき止めていた緊張が、どっと体から抜けた。



「よかったぁ……」


「急に驚かせるなよ……」



 出てくる声音は、どちらも締まりを失っている。もうぐだぐだ。

 緊張が切れたついでに、立膝から楽な胡座あぐらに変える。

 裾が気になる座り方だが、プライベートだからOKってことで。



「それにしても、意外よね」



 手持無沙汰に髪をいじりつつ、話の続きをする。



「あなたは一の姫様の御化粧係に戻りたいのかと思った」


「戻りたいように見えたか?」


「昨年ずいぶんと尽くしておいて、

 戻りたくないって言うわけ?」



 あの粗削りでもまっすぐな忠誠は、とても印象に残っている。

 私の目に映る杏は、真剣に茶々姫様を思いやって仕えていた。

 城を出る時も再三気にかけて名残惜しそうにしていたから、自然とまた機会があったら仕えたがるだろうなって思ったのだ。

 説得しなくてもあっさり寧々様への忠心を誓うなんて、想像もしていなかった。



「そうだなあ」



 杏の瞳に、睫毛の影がかかる。

 視線の先の足にはつるりと白い。あかぎれもひび割れもない、お姫様の足だ。

 彼女はじっと自分の足を見つめて、細く息を吐く。

 ついで、私へ向けられた顔は、大人びた笑みを浮かべていた。



「娘ってのは、親父様の言い付けに従うもんさ」



 夕陽色の唇ゆるくたわめて、彼女はそう言ったのだった。







 天正十七年。この年から寧々様の御化粧係は二人になった。

 長くはなくても濃い、私と杏のお付き合いの始まりだった。

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