帰った私を待ち受けていたもの【天正17年2月中旬】
寧々様の庭の梅が、見頃を迎えた。
入り乱れて咲き綻ぶ紅白の花、ほのかに漂う芳香の甘酸っぱさ。
鮮やかに世界を彩る姿は、目映くて美しい。
同時に、帰ってきたという実感が、じわじわと体を満たしていく。
竜子様のご出産から一ヶ月と半分。やっと、聚楽第へ戻ってこれた。
長かったー! 忙しかったー!!
寧々様のお側にいる時よりも、ずっと働いた気がする。
御化粧係や竜子様の産後ケアなどの業務の他に、来客対応や侍女や女中たちの指揮など、山のような業務がエンドレスで降り注いでいたのだ。
かんっっっぜんに常駐している高位の女房が、基本的に萩乃様と私のほぼ二人だったせいだよ。
相談して、分担して、時に各所へヘルプを出しての繰り返し。実質たった二人ですべてを切り回すデスマーチでした。
萩乃様の鬼気迫るヘルプコールで、京極家から竜子様の母君と乳母殿が応援に来てくれなければ、今頃どうなっていたことか。
無事に聚楽第へ帰還できたことに、心底ほっとしている……あれはもう二度とやりたくない……。
「与祢姫」
ぼやーっと梅を眺めている私の背中に、張りの良い声がかかる。
振り返ると、黒の小袖に灰がかった黄色の打掛を重ねた孝蔵主様が立っていた。
「孝蔵主様!」
久しぶりの人の姿に嬉しくなって、お行儀が悪くならない程度の早足でお側へいく。
教え込まれた通りに礼を取る。孝蔵主様は、いつもより優しげに微笑んでくれた。
「お帰りなさいまし。
長いお役目、ご苦労様でした」
「はいっ、ただいま戻りました」
笹の葉のように涼しい目元が、ますます細まる。
白くてふっくらした手が、ハープアップを崩さないようやんわりと髪を梳いてくれる。
手のひらの温かさがくすぐったい。私はこの、声にしない「よくがんばりました」が好きだ。
「寧々様がお呼びですよ」
優しく言って、孝蔵主様が私の手を取る。
連れ立って寧々様の居間へと向かう。大坂城に通っていた頃のように。
帰ってきた。帰ってこれた。実感が、また一つ胸の中でふくらんだ。
◇◇◇◇◇◇◇
連れてこられた居間の上座。
「お与祢、お帰りなさい」
火鉢を側に寄せた寧々様は、微笑んでいらした。
それはもう穏やかに、美しく。三日月を描く口元は、いっそ凄みすら湛えている。
「えっと、ただいま帰りました」
一瞬戸惑うが、なんとか再起動して用意された席に着いた。
とりあえず、帰還の挨拶が先だ。
形式に則っての口上を述べて、それから許されて顔を上げる。
正面から顔を合わせた寧々様の美貌は相変わらずだった。
髪は一筋の乱れもなくローシニヨンに結われ、マリーゴールドイエローのアイカラーを主役にしたメイクは、一足早い春を感じさせている。
聚楽第を任せた御化粧係の侍女たちは、きちんと業務を果たせているようだ。
部下の仕事の出来に満足なのだけど、なんだろう。
どうにも、言葉にならない違和感がある。
「どうかしたかしら」
「あの、その格好はいかがなさいました?」
打掛は羽織らない小袖姿は、何があったのだろう。
シャンパンイエローと浅紫の小袖を重ね着してはいらっしゃる。でも、寒くないのかな。まだ二月も半ばで、火鉢があっても少し冷える。
「これ? さきほど体を動かしてね、暑くなってしまったのよ」
体を動かした? 長めのお散歩に出かけたとか?
それにしては裾や襟の乱れが大きいような気がする。
おっとりと扇子で口元を隠して笑うさまも、わざとらしいような。
おかしい。何かが、絶対おかしい。
それとなく座敷を見回してみる。一見普段どおりの室内の変化を読み取ろうと、必死で無い注意力をかき集める。
ふと、上座の刀掛けに目がいった。
あそこに掛けられている刀は、寧々様が秀吉様から拝領した三日月宗近という太刀だ。
三日月を連想される刃紋が流麗な守り刀の、これまた雅やかな鞘。
桐葉や菊の意匠を散らした金蒔絵に、血が付いていた。
べったりとではない。ちょっとだけだ。拭い忘れみたいな感じが、物騒さを醸し出している。
隣の孝蔵主様を見上げる。男顔寄りの凛とした横顔の表情は変わらない。
が、あきらかに瞳が死んでいた。
「うふふ、うちのハゲネズミがねえ、またやらかしたのよ」
「で、殿下が、でございますか」
「そうなのよぉ、聞いてちょうだいな」
言いながら、するすると寧々様が上座から降りてくる。笑顔が、麗しくて怖い。
硬直する私の目の前に、ドン、と寧々様が胡座をかく。
オフ以外では絶対にしない、荒めの座り方にそこはかとない苛立ちが漂う。
私がお側にお仕えしてからでも、五本指に入りそうなくらいのお怒り具合だ。
寧々様のご機嫌をここまで損なうことなんて、秀吉様は何をやらかしたんだ。
鳶色の双眸と、目が合った。息が詰まる。首をじわじわ絞められるかのような緊張感が迫ってくる。
寧々様のお顔から、微笑みが消えた。
「また、あの人の子ができました」
薔薇色の唇が、淡々と動く。
「孕んだのは茶々姫」
「浅井、の」
薄く暗さを宿した瓜実顔が、こくりと頷く。
五寸釘を撃ち込まれたかのような衝撃が、頭の天辺から襲ってきた。
茶々姫様、懐妊。
あのお姫様が、秀吉様の子供を身籠った。
妊娠四ヶ月目らしいそのお腹にいるのはおそらく、男の子だ。
本来ならば秀吉様の長男となり、幼くして命を落とす鶴松と呼ばれる子。
竜子様が若君──
胸の内側で心臓が乱れ狂う。私の知る歴史に近寄ったことが恐ろしい。
変わり果てていく私の顔色に、寧々様は目を伏せる。
「そして、もう一人」
「まだいるんですか!?」
更なる衝撃に、おもいっきり声が裏返った。
至近距離で叫んだ私に、寧々様のお顔が渋くなる。
気持ちはわかる、と語りかけてくるような面持ちだ。
忍び寄る恐怖が吹っ飛んだよ! 史実からコースアウトする要素は大歓迎だけどね!!
というか、茶々姫様にプラスワンって、秀吉様ものすごくがんばったな!?
時期的に竜子様と仲良くできない間に作っちゃったことには、物申したい気がしなくはないが!!!
「どどど、どちらのお方様でっ?」
織田の五の姫様か? 姫路の方様か?
蒲生のとら姫様か、前田の摩阿姫様って可能性もあるな!?
誰にしても、茶々姫様の上位にくる人ならばありがたい。
みんな後ろ盾はしっかりした大大名や名族だし、弁えた振る舞いができる方々だ。
男の子を産んでも、竜子様と幸松様に真っ向から後継者争いを仕掛けないと思う。
そう考えたら、一転して気持ちがふわっと軽くなった。
同時期に茶々姫様より上の御側室が妊娠したら、秀吉様だって粗略には扱えない。
確実に茶々姫様とその子は相応の扱いで収まる。
茶々姫様がおかしな弾け方をしても、あまり騒動にはならないはず! 織田様もいるしね!!
期待でいっぱいの眼差しを送る。寧々様と見つめ合う。
「残念だけれど、その誰でもないわ」
心の底から残念そうな否定。先に目を逸らしたのは、寧々様だった。
「もう一人は、香という娘よ」
「香様、ですか?」
知らない名前だ。中位か下位の御側室の方だろうか。
少なくとも、私が接したことはおろか、対面したことのある人にそんな名の人はいない。
私が聚楽第を開けている間に新しく入った御側室、ではないよね。
妊娠したにしても、こんなに早くわかるはずがない。
能面のように口を引き結んだ寧々様から、孝蔵主様に視線を移す。
淡いベージュピンクを刷いた唇の端が、不愉快そうに引くついている。
まっすぐ前を向いたまま、孝蔵主様は木枯らしのような声を絞り出した。
「大坂城の中奥で御湯殿番を勤めていた侍女です」
「ゆどっ、湯殿っ!?」
お風呂場担当の侍女? ってことは、まさか。ちょっと待って、まさかっ!?
「湯浴みの介添えの最中に、
殿下の御手が付いたそうで……っ!」
やっぱりか!!! 最低だ!! 秀吉様、最低すぎる!!!
お風呂場で事に及ぶって、そういう風俗のお店じゃないんだからさぁ!?
おそらく仕事中で、同僚だっている中で、でしょ。
しかも相手は城の主、この国の天下人。求められたら絶対に拒めない。
事に及ばれたショックもさることながら、同僚の間でひそひそされてしんどいことになること確実だ。
孝蔵主様によると、まさに香様という人はそんな状況に置かれていた。
色仕掛けで殿下を篭絡した淫婦と陰口を叩かれ、すごく肩身を狭くしていたようだ。
更に酷いことに、香様は妙に秀吉様に気に入られてしまっていたらしい。
昨年の晩夏のころから大坂城滞在のたびに湯殿でお楽しまれ、なのに個室も与えられず身分は御湯殿番に据え置き。
正室の寧々様や竜子様に隠されていた、ガチの日陰者状態だった。
たまたま先月大坂城に行った東様が気付かなければ、あるいは彼女が懐妊していなければ。
香様は、そのままだった可能性が高いそうだ。
……あかん。アウトだ。完璧なアウトだ。
そりゃ寧々様も刀を振り回して暴れるわ。
秀吉様は竜子様の件で、何一つ学習しなかったんだろうか。
あきれた気持ちでお腹がいっぱいだ。
「殿下は何故、そんな心無い仕打ちを……」
つい、本音が飛び出す。
ワンナイトラブじゃないけれど、軽いお遊びのおつもりだったのだろうか。
それにしたって、アフターケア無しはかわいそうすぎる。
「香の身分が低いからとか言っていたけどね、絶対に違うわ」
「違うんですか?」
「本当は竜子殿を刺激したくなかったのと、
私にバレて殴られたくなかったからよ」
わからなくもないが、姑息かつクズな思考だ。
妻の妊娠中に女遊びをする夫の存在は、令和でも天正でも耳にする。
だがここまでストレートに女遊びをして、浮気男ムーブを取る人もそういまい。
「最低ですね」
「まことによ。そのくせあの娘の血筋を知った途端、
目の色変えて側室に迎えるって騒ぎ出してね」
「血筋、と申しますと」
「摂家の一つ、九条家の御落胤の血を引いているようだわ」
遊びで公家の中の公家の血筋を引き当ててくるってやばいな!?
というか、そんな高貴な血筋を引く娘が御湯殿番をしていたって冗談でしょ。
御湯殿番は侍女といえど、下級使用人の女中すれすれのポジションだ。
ほとんどが町衆か富農の娘が採用される。公家ゆかりの娘なんてほぼいない。
信じられない気持ちで見上げると、寧々様はこめかみに人差し指を当てて唸った。
「和泉国の日根に鶴原という村があるのよ。
香はそこの生まれで、生家は元は守護細川家に仕えていて土着した地侍。
そして、母方の祖母が近隣の日根野村の富農の出なのだけど」
「……かつて同地に下向されていた、九条家の大殿様の御落胤だったです」
孝蔵主様の調べによると、香様の祖母は九条家の御落胤で確定だそうだ。
香様が持っていた形見の手鏡に九条家の紋があり、さらに過去の九条家当主の名が刻んであった。
慌てて九条家に改めてもらったところ、これがドンピシャ。
八十年ほど前に勅勘をこうむり、ほとぼりが冷めるまで日根野村に下向していた当時の大殿様の名に相違なかった。
殺人事件を起こして謹慎中に御落胤を作るって、とんでもないお公家さんもいたもんだ。
今の近衛の大殿様にちょっと似てると思うのは失礼かしら……。
「あ、あの、ということは、ですけど」
一瞬飛びかけた意識を引き戻し、修羅のような寧々様たちに質問する。
「香様には九条家が後見に付くのですか?」
「一応、そこそこ気はあるようよ」
「養女は無理でも、猶女ならばとお考えのご様子ですわ」
よかった、乗り気なんだ。
成り上がりの羽柴でも、天下人は天下人。
縁ができるなら儲けものと思ってもらえたんだ。
それなら香様は堂々とこの城奥で暮らしていけるね。
どこの馬の骨レベルの地侍の娘ではなく、摂家ゆかりの姫として側室になれるのだ。
同時期に懐妊している茶々姫様が何か不満を訴えても、十分に対抗できる。
当然九条家の力添えもあるだろうし、安全と体面はちゃんと確保できそう。
少なくとも、茶々姫様の陰で息を潜めなくてはならないような境遇に陥ることは避けられる。
「お与祢、もうわかってしまったとは思うのだけれど」
「一の姫様と香様のお世話ですね」
唇を引き結んだまま、寧々様が頷いた。
側室たちのお世話は、寧々様の正室としての大切なお仕事だ。
たとえ茶々姫様と香様のことが心に添わないとしても、例外にはできない。
だって彼女たちは、秀吉様の子を宿してしまっているのだ。
寧々様には、
「貴女には、苦労ばかりかけるわ」
返された寧々様の声音には、疲れの色が濃い。
落ちた肩がいつもより小さく、寒そうに見えた。
大坂城で見た光景が、頭の片隅を掠める。
ああ、嫌だ。寧々様のこんなお顔は、嫌だ。
「冷えてまいりましたね」
ぐるぐる回る感情を紛らわせるように、立ち上がりざまに勢いよく自分の打掛を落とす。
淡い紅梅色のそれを拾い上げて、さっと寧々様の肩に掛けた。
こんなこと、きっと不敬だ。打掛のサイズだってまったく合っていない。
でも、これ以上寧々様に寒さを感じてほしくなかった。
「おまかせください、万事滞りなく勤めます」
膝の上の手に、手を触れる。
ひんやりとした手に、温かさを分けるためにしっかりと握った。
きょとんと大きくなっていた双眸が、ふわりと和んだ。
「いつも、ありがとう」
「もったいないお言葉です」
微笑みに、微笑みで返す。
少しだけでも、今だけでも寧々様が元気になってくだされば嬉しい。
この笑顔さえあれば、私も難しくて気の進まない仕事をがんばれる。
気が重い茶々姫様の相手は……うん、気合で乗り切ろう……。
「何か必要なことはある?」
「はい?」
「とりあえず、お与祢のご機嫌を直すためにはカステラかしらね」
くすくすと笑って言われて、さっと血の気が引いた。
やば、面倒だなって気持ちが顔に出ちゃってたか!?
静かに焦りつつおすましに切り替えたら、つんと鼻の先を突かれた。
視界の端の孝蔵主様が、堪えきれないというふうに袖で口元を覆う。
寒さが一気に吹っ飛ぶ。恥ずかしい、またやらかしたぁぁぁっ!
「カステラはいいです……」
「そう? 遠慮しなくてもいいのよ?」
「か、カステラよりも、
御化粧係の者を増やしてしていただけたらなと!」
話をそらそう! そうしよう!!
にまにまする寧々様たちに、心持ち強めなアクセントで別なお願いをぶつけた。
あら、と寧々様が目を丸くする。いけそう? いける感じかな?
「御化粧係を増やしたいの?」
「左様です、できれば私と同格かそれに準じる女房を」
お世話する人が二人なら、御化粧係が私だけというのはちょっと大変だ。
茶々姫様と香様は懐妊した時期が近い。出産もほとんど同時期になるだろう。
二人をほぼ同時に私一人でお世話はしきれない。私は人間で、分裂なんてできないのだ。
過労死回避のためには、是非とももう一人、私と同格の御化粧係が必要だ。
「お与祢ほどとは言わないけれど一人の御化粧係として立ち回れて、
かつ舐められない程度の身分の女房、ね」
「そうです!」
独り言ちる寧々様に、私はぶんぶんと首を縦に振った。
もし私に御化粧係の同僚がいれば、分担制で業務を回せる。
茶々姫様たちのお世話も、竜子様や他の御側室方への対応もやりやすくなる。
激務が軽減されたら余暇ができて、私もお姫様らしいお姫様をやれるかもしれない。
だから! 私は! 同僚が欲しい!!
ご都合主義のかたまりみたいな人がいるとは思えないがほしいのだ!!!
「急に言ってすぐ見つかる人材ではないことは百も承知です。
ですので、素養のありそ」
「ちょうどいい子がいるわ」
さらりと寧々様から出てきた言葉に、固まる。
「いる?」
「いるわよ」
「え、え?」
「御化粧係が務まる才を持っていて、
女房になれる身分の娘よね」
寧々様の鳶色が、きらめく。
それはもう楽しげに、きらきらとした宝石のように。
魅力的なその輝きに目を奪われた私に、悪戯っぽい笑みが送られる。
「今ちょうど、ここにいるわ」
目配せを受けた孝蔵主様が手を叩いた。
控えの間に続く襖が、するすると滑るように開く。
艶やかな大輪の牡丹の合間から、控えていた人物の姿が現れた。
すらりとした上半身が器用に折りたたまれ、まばゆいほど白い指先が青い畳に添えられる。
そして、彼女のアップルグリーンとライトベージュの段替わりの小袖の肩から零れ落ちる、その髪は。
────目にも鮮やかな、波打つ赤毛。
「
真っ先に浮かんだ名前が、ぼろりと唇から零れる。
ややあって、微かに震える声が赤毛の下から這い出してきた。
「……おう、ひさしぶり」
本物の杏だぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?!?!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
あけましておめでとうございます。
2022年初更新です。
今年は本作の書籍化もあるので、特別な年になりそうです。
どうぞよろしくお願いします。
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