花守を帯びる【大谷紀之介・天正17年1月上旬】
「この人の見張り、まかせたわよ」
淡く彩られた寧々様の双眸が、俺たちをぐるりと見回した。
鳶色の瞳には剣呑な光が迸っている。まるで気が立った母猫のようだ。
小姓時代の記憶が、脳裏をよぎる。
自然と身を硬くした俺たちをよそに、小一郎様がおっとりと頷いた。
「はいはい、まかされました」
「よろしく頼みましたからね、小一郎殿。
重ねて申しますが、決して、私たちの居間には戻さないで」
冷えた声音の念押しとともに、緋色の打掛がひるがえった。
横たわる殿下を爪先で軽く避け、足音も荒く寧々様は去っていく。
後ろ手に掴まれた襖が、砕け散りそうな悲鳴とともに閉まった。
「いたい……」
静けさが戻ってきた室内に、情けなさを帯びた嘆きがこぼれた。
佐吉殿に助け起こされる殿下は、左の頬をはっきりと赤く腫らし、脇腹を抑えている。
寧々様の拳と足の冴えは、相変わらずらしい。
「痛みは生きてる
そう、小一郎様がうそぶく。
腫らした頬をさする殿下には、一瞥もくれない。
市松殿と虎も似たようなもので、佐吉殿は明後日の方を向いている。
俺も知らぬふりを決め込んだ。こればかりは、殿下を庇いたくない。
「おい」
めいめいに無視をする俺たちを、殿下は涙目で睨む。
「おい、小一郎! お前ら! こっち向かんか!?」
「なんだよ、うるさいなあ」
「うるさいじゃないわっ。
わしに申すことがあるだろうがっ」
低く唸る殿下に、やっと小一郎様が振り向く。
実に面倒くさそうな態度が、癇に障ったらしい。
殿下は小一郎様に向かって扇子を振りかぶった。
「なんで止めてくれんかった!?
わしが寧々に殺されかけとったのに!」
「ええー、逆恨みはやめてよお」
飛んできた扇子を受け止めて、小一郎様が顔をしかめる。
「好色爺を助けてやるほど親切じゃないんだよ、私」
真正面から殿下の文句を封じた口が、盛大なため息を吐いた。
ほんの四半刻前のことだ。
正月気分で調子に乗った殿下が、与祢姫に不届きを働いた。
ほっそりとした腰を抱き、まだ幼い肢体を撫で回したのだ。
しかもその手つきは、見慣れたくないのに見慣れたもの。
一〇になったばかりの姫にぶつけるべきではない、いかがわしさまみれだった。
寧々様の過激な折檻が殿下を襲ったのは、お手本のような因果応報だと思う。
「あんな下心を披露したら、
殴ってくださいって言ってるようなもんでしょ」
「そんなもん出しとらんわっ」
殿下は唾を飛ばして否定した。
そのくせ一同に白けた目を向けられると、ぐっと喉を鳴らして黙り込む。
態度があからさまに怪しい。
「じゃあなんで与祢姫を触ったの」
不信しか含まれていない小一郎様の問いに、叱られた子供のように殿下は唇を曲げた。
「そりゃあ、その、育ち具合を確かめただけで」
「まごうことなき色狂いの邪心だよねえ」
殿下に心酔している佐吉殿や市松殿の瞳すら、瞬く間に温度を失っていく。
距離を取ろうとする虎のために横へずれつつ、俺は殿下を睨んだ。
立場上、寧々様に倣えなかった苛立ちを込めて。
物言わぬ非難が伝わったのか、合った視線が瞬時に逸らされた。
「義姉上の苦労が思いやられるよ」
おおげさな動作で、小一郎様が腕を組んだ。気持ちは、よくわかる。
「与祢姫は
また若紫をやる気かい、摩阿姫の時みたいに」
「たわけたことを! そんなつもりはないわっ!
わしがお与祢を可愛がったらあかんのか!?」
「可愛がる? べったべたいやらしく尻を触るのが?」
「ちったあ反省しましょうや、殿下ァ」
うんざりした口振りで、市松殿も割り込んだ。
その大政所様の血筋特有の色の瞳には、あきれがたっぷりとたたえられている。
「与祢姫は一〇ですよ、
「いやでも、あれはあと二、三年で鬢削ぎだぞ」
「だとしてもあの姫さんは、
今は、まだ、女じゃねぇですから」
「そろそろ度を越した女狂いは仕舞いにしたらどーです?」
虎の苦言に、殿下は救いを求めるように佐吉殿に視線を投げかける。
だが当の佐吉殿は、上座を見つめるばかりだ。
「佐吉?」
「あれなる一期一振と、寧々様がお持ちの三日月宗近」
透き通るような双眸が、刀掛けから殿下へと移る。
「斬れ味はどちらが優れているのでしょうね」
「い、いや、いやいや!
さ、ささ、さすがの寧々も、そ、そんな馬鹿なこ、」
「……殿下が身罷られても」
ぽつり、と。感情のない響きの呟きが落ちてくる。
「もう、若君がおられますし」
途端、殿下の喉仏があからさまに大きく喘いだ。
やっと踏み込みかけた崖の縁に気づいたらしい。
「殿下」
膝一つ分近付いて、まっすぐ見据える。
「与祢姫を怖がらせる行いは、二度となさいませぬよう」
唇から形になった声は、自分でも驚くほど低かった。
寧々様に救い出された後、俺の腕の中に逃げ込んできたあの子は酷く震えていた。
今にも溢れそうに潤んだ大きな瞳、必死に縋ってきた手、俺を呼んだ細い声。
指月の方様たちに守られて去っていったあの子のすべてが、脳裏に刻み込まれている。
思い返すほどに、胸の奥がじわりと熱を伴って痛む。
「怒るねえ」
小一郎様がにやにやと俺に視線を送ってくる。
「当然でしょう、与祢姫は羽柴の大切な姫ですので」
「そうかそうか、紀之介にとってもだよねえ」
「小一郎様」
咎めても、小一郎様の頬から笑みは消えない。
意味ありげに細くなった眼差しが、露骨に愉快だと語っている。
あまりの意地の悪さに頭が痛くなりそうだ。
「俺は!」
振り切るように、口を動かす。
「あの子が穏やかに過ごせるよう、心を配っているにすぎません」
与祢姫が誰に脅かされることなく、何かに苦しめられることもなく。
あたたかな陽だまりの中で微笑んでいられるよう、手を尽くしたい。
俺が望みは、それだけ。ただ、大人として、幼な子を守りたいだけだ。
「お、言うたなー」
明るさを取り戻した声が、軽やかに思考を遮った。
見れば殿下が、腫れていない方の頬だけを器用に持ち上げていた。
さきほどの醜態は、どこへいったのか。唖然とする俺を前に、悠然と胡坐を組み替えている。
「そんなら紀之介よ、
おもろい話を聞かせてやろうな」
殿下の目配せを受けた佐吉殿が、俺たちへ手招きをした。
膝をにじらせ、殿下の側へ寄る。
皆の膝先が近くなったところで、近々の話だが、と佐吉殿の薄い唇が開いた。
「婚姻、養子、猶子……。
今後は大名が何がしかの縁を望む際、
羽柴への上申を必須と定める。
加えて、縁組を進める許可も乞わねばならぬこととする」
思考が、軋みを立てて止まった。
市松殿も、虎も。俺すらも、声を忘れる。
佐吉殿の隣で嗤う殿下から、目が離せなくなった。
羽柴の許し無き縁を結べぬようにする。
それは、諸大名の閨閥を管理する仕組み。
大名の力を殺ぐことにも、転じて用をなせる法度だ。
難癖を付けて婚姻も養継嗣も認めず家を絶やす。
上意で縁を強制し、あるいは縁を切り離す。
そうして作物のごとく管理し、都合に合うよう剪定を繰り返せば。間違いない。
乱世を駆った狼の牙は抜け、治世の飼い犬となり果てる。
「不満が出るぞ」
太い眉根を虎がひそめる。俺も同意見だ。
統制の必要は認めるが、締め付けの具合が気にかかる。
北条や東北勢が完全な臣従に至らぬ今だ。
下手を打てば、やっと足元に張った平穏という氷が砕け散りかねない。
「なに、上申は形だけだ。特段の不都合が無ければ許す」
「特段、ねえ」
「今のところ、粧の姫に関わる縁談以外は、な」
佐吉殿の声が、一段と低くなる。
「あれと婚姻を望む家は多い。
野放しでは昨年のように余計な騒動も起きよう」
「なんかあったのか?」
話が見えないと、市松殿が口を挟む。
どちらも領国に居続けだったから、例の騒動が耳に入っていないのか。
佐吉殿が、俺に細い顎先をしゃくった。
「少々、面倒が起きてね」
気は進まないが、掻い摘んで騒動のあらましを説明する。
それだけではわからないだろうから、与祢姫の現状についても少々。
言葉を選んでも途方もなくなる内容を前に、二人の表情が困惑と呆れで覆われていく。
「なんだよ、それ。本当に一〇の姫なのか?」
「姫というより、歩いて口を利く蓬莱の珠の枝だな」
ぼろりと虎がこぼした疑問に、佐吉殿が鼻を鳴らす。
あんまりだが言い得て妙な答えに、今度こそ市松殿と虎の顔が強張った。
「なんつーか、妙な育ち方したな?」
「そのくせおつむはご覧のありさまだ。
何がまずいかは同じ馬鹿の市松にもわかるであろう」
「困ったもんだなあ、おい」
無言の拳で佐吉殿の脳天を襲いながら、市松殿が遠い目をする。
言い方は引っかかるが、佐吉殿が指摘したいことはわかる。
与祢姫は華やかな才に恵まれ、綺羅星のごとき有力者たちの寵を一身に受けている。
だがその
幾重もの絹で包まれ、富を満たした城に仕舞われ、
驚くほど世を知らぬ姫君に育ったのに、衆目を集めてしまっている。
適切な庇護者がいなければ、その身に宿す価値に殺されかねない。
「ま、そういうわけで、だ」
揉め始めた佐吉殿と市松殿を横目に、殿下がおっしゃる。
「お与祢を妻に望む者を手元に集めて見極めるぞ」
「何をなさるおつもりで」
「知れたこと、八郎のごとくよ」
薄い髭をたくわえた口元が、さも愉快げに歪む。
与祢姫との縁談に名乗りを上げた者には、在京在坂を申し付けるそうだ。
合わせて殿下のお側へ出仕させ、時を掛けて殿下自らが選定を行う。
そうして最も殿下の目に適った者に、与祢姫を与える。
豪姫様を娶らせた備前宰相様のごとく、羽柴で飼い慣らすために。
「障りが多くなりませぬか」
「例えば?」
「殿下のお側に上げれば、
おのずと与祢姫にも近くなりましょう」
直に与祢姫へ求婚する程度ならば、まだいい。
強引に手を付けてしまおうと企む者が出たら、昨年の繰り返しになる。
城へ不埒な狼を招き入れ、与祢姫の身を危うくなってからでは遅いのだ。
「だからこそ、お前の出番というわけだ」
伸びてきた長い腕に、肩を抱かれる。
「上手い具合にお与祢をたらし込んだな?」
「っ」
違う、と言えればどれほどよかったか。
あの子の好意が心地好くて、好かれるにまかせてしまったのは事実だ。
その後ろめたさが、否定を喉奥に止めてしまう。
低く掠れた嗤いが、耳の奥底へと沁み込んでいく。
「紀之介、花守をやれ」
寄せられた顔の、玻璃のような大きな双眸に囚われる。
「お与祢の目を他へ向けさせるな。
集まった者どもとの距離の案配もしろ」
「俺に、矢面へ立てと」
かろうじて出た問いに、安心せい、と強めに肩を叩かれた。
「相手を決めるまでのことよ。なあ?」
「こんな条件を出されて、
本気で息子を送り出す家もそうそうないさ」
殿下に首肯しながら、小一郎様が唇のみで哂う。
そこに潜むのは、側の殿下とは似て非なる意図。
過日の湯治場で見せられたそれに、殿下も哂う。
「わからんぞぉ、小一郎。
欲に目を曇らせるたわけは掃いて捨てるほどおるではないか」
「そうだねえ、いるよねえ。
箸にも引っかからないたかが知れた輩ばかりだろうけどねえ」
よく似た目元がゆるゆるとたわむ。どちらともなく口元で歪な弧月を描く。
わざとらしい哂い声が、重なる。座敷を静かに満たしてゆく。
目の前のお二方こそが、天下人とその宰相。
あらためて思い知らされ、じわじわと心の臓が冷える。
八つの頃より仕えて知ったつもりになっていた人柄は、薄皮一枚の下まででしかなかったらしい。
「ああ、そうだ。わしとしては、だがな」
ぎょろりと動いた瞳が、おもむろに俺を捕らえた。
「ゆくゆくはお前が
問う玻璃の眸は、深く、暗く。
ひときわ濃い欲と
喉が、干上がっていく。じわり、じわりと口の中も。渇いた口内に、舌が貼り付いて動かない。
視界の端が、佐吉殿たちをとらえた。いつのまにか喧嘩を止めた彼らの、落ち着かなさげな風情に、なんとも申し訳なくなる。
これまでも散々に案じさせ、これからも煩わせてしまうだろう。
気付かないふりをして、浅い息を吸った。
「俺は、山吹です」
痺れたように強張る舌を、無理に動かす。
身一つさえ心のままならない自分が選ぶべきは、明白だ。
「結べぬ身であれども、
あの子の
二つの笑みが、返される。
それはさも満足げなのに、どこか淡い感傷を帯びていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今年は御化粧係を読んでくださりありがとうございます。
明日元旦も更新いたしますので、よろしくお願いします。
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