年初めのひとときに【天正17年1月上旬】




 右腕を上に伸ばして、肘を左手で掴む。

 横へ軽く倒すように引っ張ると、ぐきぐきと体が軋んだ。

 あー、やっぱり肩凝りしてる。

 バッキバキとまではいかないのが救いだが、重だるさはばっちりある。

 子供でも凝るものは凝るんだね……。

 肩甲骨回しをしながら、ため息を吐く。

 これはきっと、忙しくてロクなストレッチをできていなかったせいだ。

 あっちこっち城中は歩き回っていたので、運動量は足りていると思っていたんだけどなあ。

 寒さで加速した筋肉の血流の悪化を、食い止めるには足りなかったか。 

 水分を摂って体を温めて、夜のストレッチだけでもサボらずやらなくちゃ。



「粧姫様」


「おりますよ」



 静かな声を聞くと同時、腕ねじりを即座に中断した。

 さっと私が座り直すのを見計ったように、するりと障子戸が開く。

 戸の外には、跪いて首を垂れる侍女が一人いた。

 褐色かちいろの小袖を着ている。竜子様の侍女だ。

 軽い疲れを微笑みで覆って、声をかける。



「いかがしました」


御袋様おふくろさまのお呼びにございます、お出ましを」


 

 御袋様、ってことは、竜子様のお呼びか。

 ならしかたない。心の中でよっこらしょと掛け声をして、私は重い腰を上げた。

 部屋の隅っこに控えていたお夏たちが寄ってくる。

 小袖の裾をきっちり直され、衣桁に掛けていた打掛を羽織らされる。

 竜子様から賜った、オフホワイトの地に金朱や山吹、一斤染ペールピンクの大輪の牡丹が咲き乱れる大胆な逸品だ。

 そんな子供にしては思いきった打掛の下の小袖は、白に近い白緑オパールグリーン

 こちらは打掛と対比すると実にシンプルだ。

 けれど同色の絹糸で刺繍された蝶が群れ飛んでいて、清楚な大人っぽさを漂わせている。

 淡いミモザイエローの帯を結ぶと、ぐっと春めく。

 さすがは寧々様セレクトのコーデ。身につけると、自然に華やかな気持ちになれる。


 まだちょっと、重ねた布地の重さには慣れないんだけどね。


 今年から着用を始めたばかりだからだろうか。

 打掛一枚の重さの分、体が少し重いような気がする。

 引きずる裾も脚にまとわりつきやすく、変に歩きにくいったらない。

 絶対に打掛も肩凝りの原因の一つだと思う。

 綺麗なのは綺麗だし、大人にまた一歩近づけた証のようで嫌じゃないよ。

 今日のようにコーデの幅が増えることも、とっても嬉しい。

 嬉しいんだが、うん。


 お洒落って、いつの時代も忍耐を伴うものなのね。



「まいりましょう」



 衣装の調整を終え、侍女たちを伴って部屋を後にする。

 打掛を捌く音が、小気味よく鳴った。

 





 聚楽第を離れ、伏見に滞在をしてそろそろ一週間ちょい。

 ここ──伏見指月城の華やぎと賑わいは、日に日に増している。



 なぜかって?

 先週の元旦に竜子様がご出産になられたからだよ!



 竜子様が産気づかれたのは年の瀬も年の瀬。

 産所として用意された指月城へお引っ越しになって、一週間と経たない大晦日の日没直後だった。

 臨月ではあったけど、予定の時期よりちょい早い。

 竜子様自身もお腹の張りが微妙だし、出てくるのは年が明けてからかもっておっしゃっていた。

 曲直瀬先生たちも同意見だったので、そうなんだーってほとんどの人が油断しまくっていた。

 そんな中で伏見から聚楽第に飛んできた、陣痛のお知らせである。


 まあ、大混乱になったよね。


 みんなで心と物の準備をしていたとはいえ、三ヶ日中の出産ははないと踏んでいたからね。

 石田様たち奉行衆も、私たち城奥の女房も、真っ青になった。

 新年の段取りが、その瞬間に崩壊したのだ。

 緻密にスケジューリングされていた元旦行事が、全部予定通りと行かなくなった。

 子供が産まれるんですよ、秀吉様の子供が。

 秀吉様の新年参賀の参内も、新年の挨拶にくる大名衆や公家衆の応接も、悠長にやってる場合じゃない。

 予定変更の連絡やスケジュールの再調整、出産に臨むための医者や高僧の召集。

 やるべきことの津波に飲まれて、夜明けまで何をしていたか記憶にない。


 気が付いたら、指月城にいた。

 曲直瀬先生や孝蔵主様たちと産室の次の間で控えて、ぼんやり安産祈願のお経を唱えていた、と思う。

 徹夜と疲労で、頭はもうくらくらだった。

 眠かった。ひたすら眠くて、しぱしぱする目を瞬かせていた時だった。


 障子の外が黄金に染まり、産声が上がったのは。


 ほんの数分、元気な産声ばかりが響いていたことをよく覚えている。

 それから、そう。

 襖が開いて、出産に立ち会っていた秀吉様が、産室からふらふら出てきてね。






 人間の喉から出る音ではない絶叫とともに、朝日を浴びて走り出て行ったのだ。





 何が起きたか、一瞬理解できなかった。

 三秒ほど遅れて孝蔵主様が秀吉様を追う一方、私や曲直瀬先生たちは慌てて産室を覗いた。

 産室には泣いて笑って喜ぶ寧々様たちがいた。

 彼女らに囲まれて、おくるみを抱える竜子様もいた。

 そして、竜子様が入り口から首を伸ばす私に気づいて笑ったのだ。

 産まれたばかりの赤ちゃんを持ち上げて、未だかつてないほどのドヤ顔で。

 疲れを滲ませつつも明るく、高らかに宣言した。





『産んだぞ、おのこだ!』



 


 私も次の瞬間、駆け出した。

 若君御誕生と連呼しながら、城中を全力疾走したのだった。


 上から下までひっくり返るような大騒ぎでしたとも。

 なんたって、待ちに待った羽柴家嫡男の誕生だ。

 しかも父親である秀吉様と同じ一月一日生まれ。

 さらにさらに、生まれた時間は初日の出と同時とくる。

 タイミングが、恐ろしいほど神がかっていた。

 令和の頃よりずっと迷信深い天正の世において、騒ぎにならない方がおかしい条件がそろっていた。

 羽柴家中だけでなく、京坂全体に激震が走ったわ。

 生まれた直後から若君は完全に神の子扱いだよ。

 日輪の申し子とか、神仏の化身とか、とんでもない肩書きが自然発生している。

 即日城を拝んで崇める民衆が大量発生し、日に日に増えて減る気配がない。

 城下にお住まいの地元民だけではなく、近隣一帯から大勢の人が伏見へ押し寄せているらしい。

 この来訪者の大群に商機を見出してか、商人たちも大量に集まってきた。

 屋台や露店が城下のあっちこっちにできていて、宿屋はどこもかしこも満員御礼。

 今の城下は大賑わいでは済ませられない、大カーニバル状態だそうだ。


 伏見に集まっているのは、民衆ばかりじゃない。

 宮中からはもちろん、大名衆や公家衆、豪商等の有力町衆も、御祝いの来客が指月城に殺到している。

 連日城の門前で大渋滞発生し、城内に入ったら入ったで大混雑してしまっているほどだ。

 屋内に入りきれなかった人が、庭の仮設待機所で焚き火に当たっている風景も珍しくないってどういうこと。

 将棋倒しが発生して怪我人が出たり、何故か喧嘩が勃発したりと連日連夜とにかく騒がしい。

 秀吉様と寧々様が可能なかぎり表で騒ぎを食い止めてくれているよ?

 それでもなお、城奥深くの竜子様たちのもとまでざわざわした空気が届いちゃうから困ったものだ。

 出産直後の母親と新生児がいるお城なのに、誰も彼も遠慮がないって勘弁してよ。

 静かにしてほしい、切実に。

 ここは夢と魔法のアミューズメントパークじゃないんだぞー!?


 ああ、考えるとまた頭痛がしてきた。

 指月の城で任されている私の仕事は、竜子様の産後ケアばかりじゃない。

 萩乃様や孝蔵主様たちと手分けしての来客対応もある。

 秀吉様と寧々様へVIPクラスの来客取次とか、お二人に面会できないクラスの来客から御祝いを受け取るとかね。

 従五位下掌侍という身分と、寧々様のお気に入りというポジションのフル活用だ。

 とりあえず私が応対に出てくると、大抵の客は騒がない。

 初対面の人ならば単純に私と知己を得られたと思って喜び、絶対にクレームや難癖を付けてこないのだ。

 まあ、詮索や売り込みをしてこられて、とっっっても面倒だが。

 縁談相手として自分の弟や息子をアピるばかりか、妹や娘をぜひ私の友人か侍女に! って変なプレゼンすんな。

 友達や侍女の押し売りとか困惑しかないですわよ、マジで。


 また、来客が顔見知りであれば、和やかに世間話で場を繋げる。

 例えば、織田侍従様や徳川様とかだね。

 織田侍従様は今年も美しかったが、なんか疲れていた。

 新年早々、茶々姫様の駄々こねに付き合ったらしい。

 竜子様の御祝いに行きたい、赤ちゃん抱っこしたい、と大騒ぎだったんだって。今年も全開だな、茶々姫様。

 それから昨年初冬の茶々姫様の件を謝られ、新年のお祝いと称してお詫びの品をもらった。

 今日着ている小袖がそれである。

 大変良いご趣味だが、お詫びの品代が嵩んでそうですね。いつもながら哀れだ。

 今年こそは茶々姫様が落ち着いてくれるといいね……。

 

 そうそう今日の午前いらした徳川様とは、旭様トークで話し込んだなあ。

 去年にお歳暮がてら贈ったハーブチキンの作製キットを、旭様がとても喜んでいたらしい。

 追加を買ってくるようにおねだりもとい厳命されたそうで、業者への仲介を依頼された。

 順調に徳川様は旭様の尻に敷かれてらっしゃった。

 でもめっちゃ幸せそうだったから、調教も順調みたいだ。がんばれ。

 

 年明け以降はずっと、こんな感じ。

 愛想笑いを浮かべて来客を捌き、同時並行で疲労困憊の竜子様のお肌や体をケアに励む日々である。

 行幸の時並みに忙しくて、正月休み? 何それ美味しいの? 状態よ。

 お正月気分なんて、今ひとつ味わっていないから。

 晴れ着を着せられている以外は、食事が若干豪華仕様なくらい?

 早起きして、働いて、早めに寝る。

 通常勤務とまったく同じルーチンを、ずっと繰り返している。

 山内家に帰省してごろごろ寝正月なんて、夢のまた夢だ。


 ……聚楽第に帰りたい。私に楽しいお正月をくれ。

 



 うんざり気分を胸に隠しているうちに、奥座敷の前まで案内された。

 あ、これ、秀吉様や寧々様も同席してるな。

 この奥座敷は、竜子様のプライベート専用応接室だ。

 城奥の中にあるため、通される人はVIPの中でもかなり限られている。

 秀吉様や寧々様たち羽柴家の方々と、竜子様の実家である京極家の方々くらいかな。

 でも竜子様はまだ本調子ではないから、あまりお客さんを呼んだりされなかったよね?

 元旦に秀長様と大政所様、竜子様のお兄様がいらした時以外は、秀吉様と寧々様のリビング状態だったはず。


 ……なのだけれど。閉じた襖の向こうから、笑い声が漏れている。

 明らかに秀長様の声だ。何かにツボって、ゲラモードに入ってる時の。

 秀吉様らしき話し声も爆笑の合間に混じっているので、兄弟の会話がやけに弾んでいるっぽい。



「大和内府様がいらしているのですね?」



 戸口で控える竜子様の女房さんが、微笑みながら頷いた。

 秀長様、戻ってくるの早くない?

 三ヶ日終了後に、いったん大和に帰ってなかったっけ。

 今度はお藤様と姫君たちを連れてくるとおっしゃってたけど、想像したより早い再訪だ。

 本当に嫁と娘を迎えに行って即戻ってきたって感じか。

 


「皆様お待ちですので、どうぞ」



 そう促してくる女房さんには、気負ったふうがない。

 座敷の中は、思いっきり気楽な集まりなのだろう。

 そりゃそうか。若君と従姉妹姫たちの面会なんだものね。

 羽柴の家風を考えたら、堅っ苦しいことにはなっていないと思う。

 私が呼ばれたのもたぶん大層な理由ではなく、菊姫様が私に会いたがった程度のことだろう。

 それじゃ、私も表にいる時よりは気楽にさせてもらおっかな。

 竜子様たちもプライベートなら、大目に見てくださるもの。

 ちょっと職業意識に欠けたことを考えながら、襖の前に腰を下ろした。

 


粧内侍しょうのないし様が参られました」



 女房さんが心持ち声を張って知らせる。

 向こう側の談笑が、ふつりと止んだ。



「お開け」



 ややあって、竜子様の声がする。

 畳に指先を付いて頭を深く垂れるとともに、襖が開く音が微かにこぼれた。

 予想通り、人の気配が複数ある。

 けど、少し多い? 秀長様一家以外にも、誰かいるの?

 確かめたいが許されていないので、顔を上げられない。

 ねえ、誰がいるの。めっちゃ気になる。



「よく参ったわね、お与祢」



 次にかかったのは、寧々様の声。

 明るい響きを含んでいて、とても幸せそうだ。

 竜子様が若君を産んでから、ずっと寧々様はこう。

 嬉しくってたまらない気持ちを隠していないご様子に、私も嬉しくなってくる。

 大きな貢献をできた自信はないが、寧々様の幸せのためになれた。

 そんな、自惚めいた気分にすらなってしまうほどだ。

 気持ちを込めて、頭を更に深く下げる。

 


「かしこまらなくてよいわ。ねえ、竜子殿?」


「もちろんでございますとも。

 お与祢よ、今日はそなたに良きものをやろうと思ってな」


「は……?」


「竜子殿のお世話も、女房としての勤めも、

 本当によく果たしてくれているわ。

 だから、あたくしと竜子殿からご褒美をあげる」



 ご褒美。ご褒美、ボーナス? ボーナス!?

 竜子様のお言葉に、畳に落とした目を見開く。

 年明け早々激務に励んだ私へのボーナスですかあああ!?

 やっほおおおおお! ボーナスだああああ!!

 元旦に秀吉様が若君誕生の御祝儀と称して、お金をばら撒いてたけど!!!

 私も金の大判を何枚かもらったけど!!!!

 追加ボーナスですかやったああああああ!!!!!!

 


「ありがたき幸せにございます、っ」



 臨時収入に荒ぶりまくる心を抑え、必死でお上品なお返事をする。やべ、ちょっと笑いかけた。

 ふ、ふふふ……ボーナスやったあ……。

 何買おうかな。春物の打掛や小袖? 帯もいいな。更紗とか、小洒落た輸入品のやつ。

 あ、新しいアクセサリーの開発費に回しちゃうか。

 ねじ式のイヤリングあたりなら実現可能かなーって考えてたんだよね。

 与四郎おじさんに手紙を書いて、相談しちゃおっかな!?



「いかがした、肩が震えているぞ?」


「いえ、何も」



 怪訝そうな竜子様にお澄まし声を返す。

 面をあげよと言われる前でよかった。

 今めちゃくちゃニヤニヤのだらしない顔になってるもの。

 


「うふふ、では面をお上げなさい」


「はい」



 寧々様に従って、頭をもたげる。

 表情筋をがんばって自然な笑みの位置に整え、ゆったりと持ち上げた視界に座敷が広がる。

 正面には秀吉様と、秀吉様を挟んで左右に控える寧々様と竜子様。

 竜子様の隣には乳母に抱かれた若君もいる。

 左手には予想通り、秀長様たちのお姿があった。

 そうして何気なく、右手に視線を移して。




「与祢姫」




 会いたかった人の柔らかな眼差しが、私の姿を移す。

 聞きたかった声に暖かさを滲ませて、私の名を呼ぶ。





 透き通るような秘色アクアグリーンの直垂姿の紀之介様が、いた。

 






「寧々様……?」



 上座の寧々様と竜子様へ、勢いよく振り向く。

 信じられない気持ちいっぱいの私に、寧々様と竜子様は目を細めていた。

 嘘、まさか。ご褒美って、まさか。

 アプリコットベージュで彩られた寧々様の唇が、じわりと悪戯っぽい三日月を描く。




「ご褒美は紀之介でいいわね?」





 もちろんですともおおおおお!!!!!!




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