第二章 終・後 駿河にて【旭姫・天正17年1月下旬】




 吐いた息が、白くけぶる。

 雪は降らねど寒さは本物だ。

 長浜や岐阜よりは、いくぶん暖かではあるけれども。


 火鉢で手を炙りながら、旭はぼんやりと庭を眺めていた。

 雪白、薄桃、濃緋こきひ

 淡い霞のように咲き乱れる梅林は、夫からの大掛かりな贈り物の一部である。

 駿河に戻って間もない頃に、領国中から色と香に優れた花木を集めてくれたのだ。



 やっと帰ってきてくれた我が妻が、今度こそ心安らかに過ごせるように。



 旭は大切で慈しむべき妻であると主張してやまない、派手な行動だ。

 他にもあの夫ときたら、近頃ずっと旭に糸目を付けず金を使っている。

 小まめに美しい絹や芳しい化粧品を貢ぎ、昨年の暮れには旭の御殿を自分好みに作り替えた。

 その上に旭の元へ足繁く顔を出し、そこらじゅうで旭の話をするのだ。

 以前よりもはっきりとした、下にも置かない寵愛ぶりである。

 おかげで一部の家中における旭の評判は、良くないを通り越して最悪だ。

 主君を腑抜けにした悪妻と、隠さず言われる始末である。


 まあ、旭はさっぱり気に留めていないが。


 なぜなら旭は今をときめく関白の妹で、東海の雄たる大大名の正室だ。

 丁重に扱われ、誰よりも贅沢を享受して良い女である。

 そして夫の態度には、相応の理由があった。

 旭に重きを置いて心を砕くことで、大坂の目を眩ませる魂胆なのだ。

 そういう裏の意図をを読めず、ただ表のみを見て悪様に言う馬鹿の相手はする必要がないのである。

 まったく腹が立たないわけではないから、夫に耳打ちくらいはするが。



「御前様」



 戸口から、女の瓜実顔が覗く。

 夫の側室の一人、須和だ。

 旭の側に付いて補佐役を務めてくれている彼女は、いつにも増して華やいだ笑みを浮かべていた。



「殿がお戻りになられましたわ」


「……そう」



 思ったよりも早かった。

 もう少し向こうでぶらついてくるのかと思っていたのだが。

 喜色を乗せた微笑を浮かべて、旭は腰を上げた。

 控えていた女房が寄ってきて、菫色に銀刺繍を凝らした打掛を着せ掛けてくれる。

 厚めの木綿で裏張りをさせてはあるが、そこまで寒さがしのげない。

 あとで夫に言って、中に綿をふかせた打掛でも拵えてもらうか。

 ねだりごとを考えつつ、旭は温い火鉢の側から名残惜しく離れた。

 冷え込む廊下を、楽しげな須和の先導で早足で歩む。

 進むほどに、空気の賑々しさが増していく。

 すれ違う女たちは、皆一様に嬉しげだ。

 優しい城の主の帰りを、心の底から喜んでいるらしい。

 いつもながら、仲の良い奥だ。少し、醒めたふうに思う。

 誰も彼も、夫の表しか見えていない。

 穏やかで、心優しく、頼もしい殿様を演じる夫をすっかり信じている。

 肌を合わせる側室の女たちですら、そうだ。

 滑稽極まりなくて笑いたくなる一方で、能天気にすぎないかと心配になる。

 その度に、しっかりせねばな、と思ったりもする。

 共犯者である自分や賢い須和がいないと、夫の背中はガラ空きになりそうだ。



「御前様のお越しです」



 ため息を胸にしまっているうちに、夫の居室へたどり着く。

 小姓の先触れとともに、入室する。

 すでに旅装を緩めた夫、家康が寛いでいた。



「旭殿! 今帰りましたぞ!」



 にこにこと家康が手を振ってきた。

 いかにも人好きする笑みが白々しい。

 鼻で笑いたくなるのをこらえ、するすると近づいて側に腰を下ろした。



「……お帰りなさいませ。

 ご無事のお帰りをお喜び申し上げますわ」


「うん、旭殿も息災であられてようござった」



 分厚く温かな手に、手を取られる。

 そっけない挨拶の何が嬉しいのだろうか。

 冷えた手を温めるように撫でる夫に形ばかりの笑みを返してやる。



「……須和殿」


「はい」



 目配せに頷いて、須和が席を立った。

 たん、と障子戸が閉め切られる。

 わずかに室内が薄暗くなった。



「ずいぶんと人を使うことに慣れられたな」


「……馬鹿にしておられますの」


「いやいや、ワシの正室らしくなってくださったものだと思うて」



 鼻を鳴らす。食えない男だ。



「……世辞でもなんでもよろしいわ。それで、何が」


「そなた、ちと愛嬌を捨てすぎておらんか?」


「……お愛殿にでも会ってらっしゃい」



 夫の手の甲を、思いっきりつねってやる。

 愛嬌ならば誰ぞ側室に求めて欲しいものだ。

 可愛らしいお愛もいれば、たおやかな須和もいる。

 特にお愛は先頃懐妊してから、ずいぶんと心細げにしていた。

 家康が顔を見せてやれば、名前の通り愛らしく喜ぶだろう。

 そう告げて席を立とうとしたら、ますます手を握られた。



「待て待て、今は旭殿と話がしたいのだ」


「……ならばさっさと本題に入ってくださいな」



 愚図な男は嫌いよ、と言い捨てる。

 頭を掻く家康は、ずいぶん愉しそうだ。

 罵倒されて喜ぶような性癖でも芽生えたか。

 疑わしく目を眇めると、腹をゆすって笑われた。



「あいすまぬ、そういたそうとも」


「……はあ、伏見の様子はいかがでしたの」


「まさにこの世の春、といったありさまでしたぞ」



 伏見は指月城。

 昨年の冬に完成したその城は、京極竜子という女に与えられた産所だ。

 旭の長兄・関白秀吉が正室の一人たる彼女は、昨年の夏に懐妊していた。

 城の完成と同時に入城して出産に備えていたのだが、ついに当月出産したのだ。



 産まれた子は、五体満足の男児。

 しかも誕生は、正月一日──父親である秀吉と同じ日の夜明けに生まれ落ちたのである。



 常軌を逸した大騒ぎになったのは、言うまでもない。

 一代で天下を取った男の息子が、父と誕生の日を同じくした。

 そればかりか、初日の出とともに産声を上げたとくる。

 奇瑞とみなされないわけがない、恐ろしいまでの偶然の一致だった。

 羽柴が、いや、宮中から下々の民衆までが、当然天地をひっくり返さんばかりの勢いで熱狂した。

 その狂喜乱舞たるや、遠く駿河にまで即座に伝わってきたほどだ。

 


「……藤吉郎の兄さんは、はしゃいでいたのでしょうね」



 馬鹿みたいに、と呟くと、家康は喉を鳴らして頷いた。



「殿下は言うまでもなく、

 落ち着いた北政所様まで大喜びよ」


「……まあまあ」


「生母が生母だからな、

 これで次代は磐石とでもお思いなのであろう」



 子を産んだ竜子は、京極家の女だ。

 由緒正しき佐々木源氏の後裔で、武家として誉れ高き血筋である。

 子というものは、産んだ女の血で価値が変わるものだ。

 ゆえに竜子が産んだ男児は、羽柴の世継ぎとして、武家として、これ以上ないほどの価値を備えている。


 羽柴はとうとう、成り上がりと馬鹿にされない箔を得たのだ。


 秀吉と寧々の喜びは、ひとかたならぬものであるはずだ。



「甥御の誕生、忌々しくお思いか?」


「……そんなわけないでしょう」



 叔母として、甥の誕生を言祝ぐ姿勢はきちんと示した。

 あからさまにはしゃいで喜んで見せ、祝いと称して餅や酒を城の女や家臣どもへ手ずから振るまった。

 絹の産着や酒などの品々も、知らせを受けると同時に差し向けた。

 心を尽くしたような文も添えて、である。



「……殿こそ、天下が遠のいたと歯噛みしているのではなくて?」


「いやいやそんなことはないよ。

 ワシは愛しい旭殿の夫、若君の義叔父ではないか」


「……へえ」



 真面目な顔で否定する夫の手に目を落とす。



「……ずいぶんと深爪になられましたのね」


「気づかんでもいいことを」


「……わかりやすすぎるのよ、あなた」



 じろりと無感動な瞳に睨まれる。

 今にも舌打ちしそうな夫に、旭はにんまりとしてみせた。

 家康は存外気が短く、気にしいなところがある男だ。

 平素はうまく隠しているが、気に食わないことがあると後で荒れる。

 一人でこっそり爪を噛んだり、物に当たったりするのだ。

 初めて知った時は面を食らったが、これは生来からそうらしい。

 今川での人質時代から仕える鳥居や本多が、以前そう教えてくれた。

 彼らは関白の妹らしくない善良な旭が、家康の気性の激しさで心をすり減らすと哀れと考えているようだ。

 悪い方ではないからと取りなされた時は、心の中で笑い転げた。



「……子なんて、無事に育つとは限らないわ」



 深爪の手を、宥めるように叩いてやる。



「……育つにしても、賢く育つと限らない。

 そうでしょう?」


「だと、都合が良いのだがな」


「……安心なさいな」



 いらいらと目を尖らせる夫に、旭は微笑みかけてやる。



「……頭の出来がどうあれ、甘い子に育つわ」



 兄の息子は、ほとんど戦のない今の世に生まれ落ちた。

 明日の行方を憂う経験をせず、絹に包まれ、一生涯を過ごすだろう。

 ゆえに、甘くなる。

 まったく人を疑わないお人好しか、根拠のない自信に満ちた若様に育つに違いない。

 乱世に揉まれた者よりもずっと軟弱な、家康や旭にとって扱いやすい子になる。



「……頼れる、優しい義叔父上におなりくださいな。

 子供って、甘い身内に傾くものよ」


「そういうものか?」


「……ええ、そういうもの」


「大和内府も甘くなりそうだが」


「……小一郎の兄さんは、

 締める方にまわるんじゃないかしら?」



 天性の調整役である次兄の秀長は、きっと躾役の席に座るだろう。

 十中八九、秀吉は息子を溺愛して甘く接する。

 せっかく生まれた世継ぎが暗愚に育たぬように考えて、秀長は甥の躾に励むはずだ。

 だから、秀長は甘いばかりの叔父にはなり得ない。


 

「……ワタクシも、気合を入れて甘やかし倒しますから」



 ね? と首を軽く傾ける。

 家康は大きく息を吐いた。多少は苛立ちや不安がおさまったらしい。

 手のかかる夫だ。

 とても面倒臭くはあるが、こういうところも嫌いではない。

 

 手を叩いて小姓を呼び、飲み物の支度を命じる。

 普通の茶ではなく、薬草茶を持ってくるようにと。

 すぐ持ってこられた薬草を、旭は手ずから湯で煎じてやった。

 今日は、そうだ。気鬱を晴らす効能がある金盞花と薄荷にしよう。

 昨年聚楽第に滞在した際に知った手順で茶を淹れ、蜂蜜を垂らして家康に差し出す。

 もちろん、毒味をしてやってからだ。



「……落ち着いた?」



 ちびちびと茶を飲みながら、夫は黙って頷く。



「そういえば、於長おちょう於福おふくはおらぬのか」


「……あの子たちなら、鴨撃ちに出かけたわ」



 旭が養子としている、長丸と福松丸。

 家康と側室のお愛の間に生まれた兄弟は、朝から仲良く狩りに出た。

 今日帰ってくる父の夕餉の膳に、美味い鴨を献じたい。

 ずいぶんと張り切っていた義息の弟の方を思い出し、つい笑んでしまう。



「呑気なものだな、あやつらは」


「……孝行息子なのよ。

 帰ってきたら、褒めてやって」



 突き出された湯呑みを受け取って、茶を注ぎ直す。

 揺れる金色と甘い香りに、旭はふと思い出した。



「……お与祢の様子はいかがでしたか」



 義姉が鍾愛する少女はどうしているのだろうか。

 文を交わしているものの、あの娘は大した話を書いてよこさない。

 毎回送って寄越してくる薬草や化粧品のことに始終していて、知りたいことがあまり知れない。

 おかげでいつも旭は歯痒い思いをしている。

 京坂に滞在した夫ならば、直接会わないまでも何か知り得ているのではなかろうか。



「粧姫か、伏見の城で会ったな」


「……伏見にいたの、あの子」


「ああ、北政所様の指図と申していた」



 粧姫。世間ではそう呼ばれることが多い与祢は、産後の京極御前の世話をしていたそうだ。

 女房として大名衆の取次もこなしていたようで、祝いのため登城した家康とも顔を合わせたらしい。

 大きな仕事を任され、ずいぶんと張り切っていたという。



「……あの子、相変わらずのようね」



 裏表のない与祢の笑顔が、脳裏をよぎる。

 聞くかぎり、ちっとも世間に擦れていない様子だ。

 義姉は与祢をただ可愛がり、綺麗な箱に仕舞い込んで育てる気なのだろうか。

 歳を取って冴えていた目が曇ってきたのなら、ありがたいことなのだが。



「そういえば」


 湯呑みを傾けていた家康が、何かを思い出したように手を止めた。



「粧姫に縁談が持ち上がっておったな」


「……どういうこと?」



 旭は細い眉を跳ねさせた。

 与祢に縁談とは、聞き捨てならない話だ。



「殿下が堀尾と山内に縁組を命じたらしい」


「……っ、兄さんたら余計なことを」



 堀尾と山内の縁の深さは旭も知っている。

 両家が縁付くことは、あまりにも自然だ。

 与祢がまだ幼いからと気を抜かず、妨害の手の一つも打っておけばよかった。



「旭殿、ご案じめさるな」



 忌々しげに眉間を寄せる旭に、家康はにやりと唇を歪めた。



「縁組はな、無事破談と相なったよ」


「……破談? まことに?」


「まことですとも、

 堀尾に粧姫は荷が重すぎたようだ」

 


 喉の奥に笑いを含ませながら、家康が言う。

 かいつまんだ説明によると、堀尾が他家の害意と嫉視に負けたらしい。

 さもあろう。与祢の価値は小大名には過ぎている。

 自然な縁組であっても、いや、だからこそ周囲からの嫉妬は激しくなろうというものだ。

 胸を撫で下ろして、旭は自らの湯呑みに手を付けた。

 冷めた薬草茶が喉を滑り落ちていく。



「……次の縁談は」


「まだ聞かぬが、遅かれ早かれであろうな」



 脇息を指で叩きつつ、家康が宙を睨む。



「実は伏見で見かけたのだが」


「……何を?」


「大谷刑部が粧姫と睦まじくしておったわ」


「……紀之介が」


「おうとも、兄妹のようにな。

 粧姫の方は、刑部にぞっこんに惚れているようだった」


「……なんてことなの」



 呟く声に、苛立ちが乗る。


 大谷刑部少輔吉継。


 旭の従姉であり兄夫婦の腹心である東の息子だ。

 いまだ大名に上がってはいないが、才能で言えば羽柴の一門衆において一、二を争う青年である。

 彼の母の東は義姉と一緒になって、ずいぶんと与祢を可愛がっていた。

 母親の勧めで吉継が与祢の縁組の相手として名乗りを上げることは、あり得なくはない。

 また、秀吉も偏諱を与えるほど吉継を可愛がっている。

 与祢を吉継に与えようと考えても、不思議ではない、が。



「……あの男、死にかかっていたのではなかった?」



 噛んだ唇に手を添える。

 吉継は業病を患っていたはずだ。

 昨年の行幸に現した姿は、目を背けたくなるほど病み崩れていた、と見かけた井伊が言っていた。

 夏頃には病が重篤となって動くこともできなくなった、との噂も立っていた。

 そんな死に損ないが与祢の側に現れるなど、予想外にもほどがある。



「残念ながら、癒えてしまったようだな」


「……死ねばよかったのに」



 腹立たしさに舌を打つ。

 秀長の後継になり得る吉継の才は邪魔だ。

 旭たちの野心の妨げにしかならない。

 大人しく死んでくれなかったばかりか、先んじて与祢に手を付けてようとは許し難いことだ。



「……さっさと手を打たねば、ね」


「左様だな」



 顔を見合わせ、旭たちは頷き合う。

 吉継と与祢の縁談が整う前に、徳川も行動を起こさねば。

 旭が嫁いでいることで、徳川も羽柴の一門衆に含まれる。

 また好都合なことに、秀吉は旭に引け目を感じている。

 上手く付け込めば、やりようはいくらでもあるはずだ。



「とりあえず、福松を粧姫に引き合わせるか」


「……できますの?」



 与祢は羽柴の城の奥で飼われている娘だ。

 福松丸を都や大坂にやったとして、会わせるのは難しくはないか。

 疑わしげに見据えると、家康が顔を寄せてきた。



「駿河に戻る前にな、

 殿下に相談事を持ちかけられたのだ」



 広げた扇子が、旭の耳元に添えられる。



「養女にしている浅井の三の姫を長丸の正室にどうか、とな」



 銀灰の眼彩を刷いた旭のまぶたが、大きく開く。

 視線をそろりと、横にすべらせる。

 家康は、にたりと目を細くしていた。



「……それでは、」


「父上! 義母上!」



 にぃと笑みを返した旭の低い声に、朗らかに弾む声が被った。

 障子戸が開く音が、勢いよく響く。

 締め切られていた部屋が、瞬く間に明るさを取り戻す。

 さすがに驚いて、旭と家康は顔を上げた。



「お帰りなさいませ、父上!」



 戸口に小さな姿が現れ、しなやかな動作で膝を突いた。

 それは歳の頃は一〇ほどの、若々しい萌葱の狩装束をまとった少年だった。

 家康たちに向けられた笑みは明朗。邪気は一切なく、ただただ明るい。

 春に人の形を取らせれば、このようかもしれない。

 そんな印象を与える少年に、ほう、と家康は息を吐いた。



「これこれ於福、急に現れるから驚いたではないか」


「あ、っと、失礼いたしました」



 父に窘められた少年──福松丸は、はっと息を呑んで首を垂れた。

 急きすぎたことに、今更気付いて恥じ入ったようだ。

 元気の良い子犬のようなありさまが、可笑しいといったらない。



「……長丸殿と井伊殿は?」


「あー……兄上たちはまだ門の辺りかと」



 狩場で父の帰還の知らせを受け、嬉しさのあまり兄と護衛の井伊を置き去りにして、一人で城へ戻ってきたらしい。

 真っ赤になって答える福松丸に、旭はとうとう声を出して笑ってしまった。



「……ふふふ、後でちゃんと二人に詫びなさいね。

 きっと気を揉んで、怒っているわよ」


「はい……」


「……以後お気をつけあそばせ。

 それで、戦果はどうでしたか」



 水を向けると、しゅんとしていた福松丸の顔がぱっと輝きを取り戻す。



「こちらです! ご覧ください!」



 腰に括り付けた獲物を外し、少年は父と養母に掲げてみせる。

 まるまると肥えた鴨。それも二羽だ。

 上々すぎる成果に、家康も旭も顔を綻ばせた。



「僕が鉄砲で仕留めました!

 兄上は三羽も獲られておりましたっ」


「おお、ようやった! それでこそワシの息子らよ!」



 膝を叩いて喜ぶ夫に、旭も深く頷く。



「……まことにでございますね。

 長丸殿や福松殿のような息子を得られて、

 ワタクシは幸せ者だわ」


「かたじけないことです、義母上」



 手放しの賞賛に、福松丸は頬を赤らめて俯く。

 素直な子だ。褒めれば喜び、叱れば落ち込む。

 それでいて聡く、謙虚でありながら溌剌としている。

 嫡男らしい思慮深さを備えた長丸とはまた違う、けれども非の打ちどころがない若君ぶりである。



「……あなたは良い子ね」



 福松丸を側に呼んで、さらさらとした髪を撫でてやる。

 本当に、良い子。家康と旭にとって、とても良い子。

 これならばとほくそ笑み、旭は家康と視線を重ねる。



「於福よ」



 呼びかける家康の口調は穏やかで、温かい。



「はい、父上。如何なされました」


「うん、ちょうど今な、

 父と母はそなたの話をしておってなあ」


「僕の、ですか?」



 凛とした少年の瞳が、ぱちりと瞬く。

 そこに映るのは、それはそれは優しげな、両親の姿だった。





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