第二章 終・前 蕾の花を愛しめども、【大谷紀之介・天正16年11月下旬】




『松葉の香を枕辺に置いて眠りました。

 紀之介様に、会いたいです』




 白い紙に、鮮やかな墨の色。

 軽やかな筆運びの文字の連なりは、あの子のくるくると変わる表情のようだ。

 柔らかい心持ちになって、つい笑んでしまう。

 寂しがる追伸を指先でそっと撫で、丁寧に読み終えた文を畳む。

 それから持ってきた文箱に仕舞って、俺は宿坊を後にした。



 十津川東泉寺とうせんじに滞在し始めてから、ひと月が経とうとしている。

 患っている病の治療は順調だ。

 隠すことを止めた頬はつるりとしているし、廊下を踏む足の裏は痛まない。

 ここ数年で一番と言っていいほど、体が楽だ。

 先日まで付き添ってくれていた医師の遠藤道貫殿──与祢姫の大叔父でもある──は、経過良好と言ってくれた。

 処方に従って湯治を続ければ、年明けには役に戻れるとのことだ。

 喜ばしいことだが、いまだに上手く実感が沸いていない。

 想像もしていなかったほどの、急激な回復だったから。


 境内に設られた湯屋に向かいながら手袋を脱ぎ、右の手をかざしてみる。

 手の指を曲げて、伸ばす。

 皮はどこも引きれていない。

 関節のあたりが切れて、血を出すこともない。

 かさついてはいるが、手のひらも甲も健やかな色をしている。

 この手が、三月と少し前までは腐り落ちそうなほど膿み爛れていた。


 夢のようだ。


 元の形を取り戻した手を眺めるたび、そう思う。

 病の原因が判明し、曲直瀬道三殿たちから正しい治療を受けて三月みつきで回復した。

 しつこく俺を苛んだ苦痛や、終わりを覚悟して備えていた日々は、何だったのか。

 気が抜けるというか、拍子抜けというか。

 喜ぶべきことであるのに、妙な気分になってしまう。


 そんな奇跡をもたらしてくれたのは、小さな与祢姫だ。

 命の恩人、いじらしい姫。

 俺にとって、幾重にも意味のある姫。

 あの子が会いに来てくれたから。

 側にいてくれたから。



 ───ここに、今がある。



 じわりと、胸の奥が温かくなった。

 指の間から、残照を眺める。

 少女の面影を思い浮かべると、気持ちが明るくなっていく。

 また知らず、笑みがこぼれて落ちていく。



「嬉しそうだねえ」



 のんびりとした声に、引き戻される。

 顔を向けた小道の先に、手をひらめかせる小一郎様と藤堂殿がいた。



「これは、小一郎様」


「やあやあ、良い夕暮れだね」

 


 会釈をすると、小一郎様がにこにこ近づいてくる。

 襟巻きに分厚い綿入れ、足元には厚手の布足袋。

 ずいぶん着膨れなさっておいでだ。

 驚いていると、小一郎様の後ろに控える藤堂殿と目が合った。

 ああ、藤堂殿に着込まされたのか。

 殿下ほどではないが、小一郎様も痩躯だ。

 山奥の寒さは体に良くないと気遣って、しっかり用意なさったのだろう。

 目端が効いて、主君を心から思っていらっしゃる藤堂殿は実に良い方だ。

 敬意を込めて、目礼を交わした。



「紀之介、湯に浸かるなら一緒に行こう。

 これ、用意させてあるから」



 指の長い手が、盃を傾ける仕草をした。

 ……良いのだろうか。

 帰洛前に遠藤殿が、小一郎様へ酒を控えるよう進言していた覚えがあるのだが。

 禁じるまではいかないが、このまま律しないでいると肝の臓が病むと言っていた。



「一〇日ほど酒を断たれていたので、

 たまにはよろしかろうと」



 何か問う前に、ぼそりと藤堂殿が口を開いた。

 小一郎様は満面の笑みだ。

 ああ、なるほど。事情がだいたい察せられた。

 藤堂殿の苦労がしのばれる。



「貴殿も見張りに数えさせてもらうが、よろしいか」


「お任せを、心して務めさせていただきます」



 胸に手を当てて頷く。

 誰かの手綱を引くことはそれなりに得手だ。

 佐吉殿や酒を飲んだ市松殿に比べたら、たいていの人は容易い。

 小一郎様の酒杯を調整することくらいならば、いくらでもお手伝いできる。



「そんなに私って信用がないのかな」


「酒に関してはありませぬ」


「藤堂殿が申されるとおりです。

 市松殿ほどでないにしても、飲みすぎです」


「即答かあ」



 まぶたを半分下げて、小一郎様は唇を尖らせた。





◇◇◇◇◇◇




 岩で作られた浴槽の側で、掛け湯をする。

 手桶の湯を、首のあたりへ。熱さが肌をジンと痺れさせながら、流れ落ちていく。

 夜に近い空気が冷えを運んでくる前に、もう一度湯をかぶってから湯舟に体を沈めた。

 肩から下が湯に潜る。僅かに圧迫されるような感触とともに、肺から深い息が溢れた。

 温かく体中の血が巡っていく。悪くない感覚だ。



「良い湯だなあ」



 差し向かいに浸かる小一郎様が、湯で顔を洗いながらおっしゃる。

 心地良さそうなその笑みは、すこぶる血色が良い。

 大和郡山で久方ぶりにお会いした時は疲れの色が濃かったのに、ずいぶんと元気になられたようだ。

 予定よりも湯治の日程を伸ばして正解だったな。

 藤堂殿と二人で説得した甲斐があったというものだ。

 そっと安堵しながら、柔らかい湯を楽しみ、用意された酒を三人で酌み交わす。

 長浜にいた頃のような、穏やかなひとときがまた味わえるとは。

 ありがたいものだと感じいっていると、そういえば、と小一郎様が呟いた。



「兄上が文で教えてくれたんだが」



 空にした盃の縁をなぞりながら、殿下と似通った唇が動く。



「与祢姫に縁談があったんだけどねえ、破談になったんだって」



 えんだん。湯に浸かっているのに、ひやりとしたものが肌を伝った。



「気になるかい?」


「……いえ、俺の口出しすることではないので」



 父親のような感情を抱いてはいても、俺は与祢姫の父ではない。

 思うところがあったとしても、彼女の婚姻にとやかく言う権利は決してないのだ。



「あははは! したそうな顔しちゃって!」


「おやめください、小一郎様」



 戯れが過ぎると睨めば、湯の縁に葺かれた石にすがって笑われた。

 よくわからないが、ツボに嵌ったらしい。小一郎様は人目もはばからずげらげらと笑い、顔を真っ赤にしている。

 これさえなければな……。何とも言えない感情が、湯気のようなもやを胸にかけた。



「あー、おもしろ。まあいいや、とりあえず聞きなよ」


「ご遠慮いたします」


「まあまあ、聞いて損なことでもなし」



 せっかくだからね、と小一郎様は勝手に話を始めてしまった。


 夏の終わり頃から、与祢姫には縁談が持ち上がっていたそうだ。

 相手方は、近江国佐和山四万石の堀尾家。

 山内家と同じく、近江中納言様の付家老を任じられた大名家である。

 当主の帯刀先生たちはきのせんじょう吉晴殿、馴染みのある呼び方をするなら茂助殿は、与祢姫の父である伊右衛門殿の友人だ。

 山内家と堀尾家は、元々尾張の岩倉織田家重臣であった家柄。

 羽柴の麾下へ入ってからも、両家は家族ぐるみの親しい付き合いを続けていた。


 ゆえに、堀尾家の十一になる嫡男と与祢姫との縁談に繋がったそうだ。

 家柄の釣り合いが取れていて、関係も良好。

 殿下が水を向けるまでもなく、伊右衛門殿と茂助殿はそのつもりをしていたそうだ。

 すぐに水面下の準備が始まり、年が明けに婚約を結ぶ段取りまで一気に進んだ。

 

 

「でもね、ここにきて破談となった。理由は何だと思う?」



 にやりとしながら、小一郎様に問われる。

 たまに意地が悪くなるお方だと思いつつも、考えを巡らせてみる。

 さきほどの話しぶりからするに、両家には半ば殿下のお指図があったのだろう。

 生半可なことで反故にするわけにはいかないが、両家の関係と条件を考えれば反故にする理由はない。

 それでも、あえてどちらかの家が破談を願うとするならば。

 


「縁談に絡む人死にでも出ましたか」


「ふふふ、当たらずとも遠からじ」


「と、申しますと」


「茂助の倅が出先で襲われたんだよ。

 同伴していた妹姫も、かどわかされかけた」



 一〇月の終わりのこと。

 堀尾家の兄妹は寺社詣の帰りに、野盗のような風体の集団に襲われた。

 供侍たちが応戦して兄妹は無事だったが、負傷者を出しつつ命からがら逃げ帰ったそうだ。

 当たり前だが、堀尾家は騒然。

 驚きながらも斬り捨てた賊や残された品を改めてみれば、どうにもただの野盗とは思えない。

 不審を感じた茂助殿がさらに調べを進め、その結果わかった。



「仕組んだのは国衆の何某だった、ってことがね」


「怨恨ではありませんね」


「茂助に恨みを抱くような人間はそうそういないよ」



 小一郎様は肩をすくめる。



「欲を掻いた連中があぶり出されただけさ」



 何某という家は、与祢姫との縁を望んだ数多の家の一つだった。

 山内家からほとんど無視されて、焦れていたらしい。

 そんな折に彼らはどこからか漏れてきた堀尾家と山内家との縁談と、与祢姫が所在不明という噂を知った。

 二つの情報を合わせ、堀尾家にいるのではないか、と考えたらしい。

 幼馴染でもある許嫁となる少年と会い、婚家の親族との顔合わせをしているのだろう、と。

 そして、こうも思った。

 警固の厳しい城の奥にいないのであれば、与祢姫を奪って我が物とできるのではないか……。

 


「刑部殿」



 平坦な声音に呼ばれる。

 藤堂殿が、自身の唇をとんと指で突いた。



「血が出ている」


「無作法をしました」

 


 にわかに鉄臭くなった口元を、手のひらで拭う。

 べったりと付いた赤に、腹の奥底深くがざわついた。


 奪って物にする? いとけないあの子を?


 ただ捕らえるだけで、済ますつもりはなかったのだろう。

 娶るという形で、与祢姫を得ようと考えていた連中なのだ。

 婚姻を呑まねば、寧々様のお側にも戻れない、生きてすらいれないようにする心算だった可能性がある。

 馬に焼印を刻むように、硬く蕾んだ少女の体に傷をつけて。



「不埒者どもは」 


「とっくに兄上が処断なさったよ」



 小一郎様が、即座に答えてくれた。

 殿下のお指図で茂助殿が何某一党をまとめて捕らえ、首を刎ねて三条河原で晒したそうだ。

 ずいぶんと舐めた真似をされたのだから、筋は通っている。

 だが、残念だ。何が、とは言わないが。

 振り上げ損ねた拳を、膝の上で握りしめる。

 


「で、ひととおり終わってからね、

 茂助が伊右衛門に破談を申し込んだんだと」



 一連の事件を調べる過程で、似たり寄ったりのことを企む者が複数見つかった。

 四万石の小大名が娶れる姫ならば、自分たちが獲っても良いはずだ。

 彼らはそんな、恐ろしく浅はかな欲に囚われていた。

 同程度やそれ以下の者たちでこれだ。

 堀尾家以上の家格の求婚者からは、どのように思われているか。

 もし、格上のいずれかが、軽挙に出たとしたらどうなるか。

 ここに至って、茂助殿は判断を下した。


 与祢姫との婚姻は、荷が重すぎる。

 お互いのためにも、縁が無かったことにしたい。


 苦渋の申し出を、伊右衛門殿は食い下がらずに受け入れた。

 事情が事情だ。与祢姫の身を思えば、いくら良縁とはいえど無理を通せない。

 指図した殿下も、しかたがないと破談を承知なされた。



「運の無いないことだ」



 思ったことが、そのまま口を付く。

 堀尾家に嫁げていれば、与祢姫は幸福な将来を約束されたはずだ。

 茂助殿は仏の茂助と呼ばれる人格者。

 その子息も、元服前とはいえ悪い噂を聞かない。

 俺の目の届くところからいなくなったとしても、あの子は大切にしてもらえた。

 置いていかれることは寂しいが、心配はせずにいられただろう。



「心にもないことを言うねえ」



 盃で唇を湿らせつつ、小一郎様が喉を鳴らした。

 からかいを大いに含んだそれに、感情がうっすらと反発する。



「本心ですが?」


「またまたあ、ずいぶんと入れ込んでいるくせに」


「で、あろうとも、弁えているつもりです」



 与祢姫は愛らしい。

 それは偽らざる本心だが、男親めいた親愛の情だ。

 男女の情に基づくものではない。

 あの子の髪を梳いてやりたくはなっても、肌に触れたくなったことは一切無い。

 いつくしんで、大切にしてやりたいだけだ。



「でもさあ、与祢姫はお前に惚れてるだろ」


「ええ、どうやら俺が初恋の男のようですね」


「だったら、こう、ないの?」


「ありませんよ、あの子は幼いのですから」



 与祢姫もまた、俺へ好意を向けてくれていることは承知している。

 あの子は子供らしい仕草で、時に大人の女めいた行動で、俺に想いを伝えようとしている。

 必死に背伸びをする姿は愛くるしく、腕に閉じ込めて甘えさせてやりたくなる。

 だが同時に、勘違いをしてはならないとも思っている。

 幼い少女の想いは、正しく男女の情であるとは限らないのだ。

 身近な大人の男への憧れを、恋と取り違えているのかもしれない。

 もしくは、恋に恋をしている可能性もあるか。

 微笑ましくあるが、良い大人が真に受けてしまってはいけない類いだ。

 知らぬふりで付け込むような真似は、最もしてはならないことである。



「与右衛門、今の聞いたかい」


「は、これは驚きました」


「紀之介ってむごい男だよねえ」


「自覚も無しでしたら罪深いことですなあ」



 小一郎様と藤堂殿が顔を寄せ、声をひそめた。

 こちらに向いた二対の眼差しが、心無しか冷めている。

 意図は汲み取れないが、ものすごく馬鹿にされているような気がした。



「申されたいことがあるなら、申していただけませんか」


「いやあ……ねえ?」


「ええ、大したことなど」


「はっきりしていただけますか!」



 あからさまで白々しいお二人の素振りが、妙に腹立たしい。

 心持ち声を荒げると、今度は鼻で笑われた。

 それがまた、イラッとくる。

 唇を引き結んだ俺をよそに、小一郎様は盃を空にした。

 


「お前が前の妻を亡くして、どのくらいだったかな」



 心の臓が、嫌な跳ね方をする。

 急に話を変えた小一郎様は、俺を見ていない。

 ゆったりと藤堂殿の酌を受けている。



「……三年に、なります」


「継室を迎えて良い頃合いだねえ」



 愉快ではないそれに、目をすがめる。

 小一郎様は、にやりと笑って酒を干した。

 空の器が俺に突き付けられる。

 黒い釉が、月明かりを鈍く弾く。



「与祢姫を娶る気はないかい」



 丸い盃の縁の向こう側から覗く目は、笑っていない。



「御酒が過ぎておられますよ」


「酔っちゃいないさ」



 かわそうとして、切り捨てられる。

 いまだ線の引き絞まった頬を片側、小一郎様はわざとらしく動かした。



「与祢姫は他所へくれてやるには危うすぎる姫だ」


「……そうかもしれませんが」


「“かもしれない”はいらない、そうなんだよ」



 宮中、公家衆、諸大名に名だたる商人、名医に名工。

 与祢姫が世間に与える影響には、無視できないものがある。

 現に、俺も堺で見せつけられた。

 無垢な言葉や思いで、人が、物が、容易く動いてしまうところを。

 わからされてしまったのだ。

 あの子は羽柴の天下てんがのため、他家へ渡せないひななのだと。



「羽柴に括り付けるなら、うちの一門へ嫁がせるのが一番だろ?」


「……」


「ならさあ、好機じゃないか。

 与祢姫は羽柴の一門たるお前にふさわしい、

 傷ひとつない価値ある姫君だ」


「俺は一門とはいえ端くれです。大名でもありませんよ」

 


 奉行衆に名を連ねてはいても、俺の知行はまだ万石に届かない。

 羽柴の一門に名を連ねてはいても、殿下の従甥いとこおいだ。

 万が一与祢姫を妻に望むとしても、あまりに身が軽すぎて周囲が納得すまい。



「そこに関しては、じきに解決するのではないか」



 考え込んでいた藤堂殿が、ぼそりと呟いた。

 人より頭一つ二つは背の高い俺よりもさらに高みから、くっきりとした二皮の目が見下ろしてくる。



「貴殿は才がある、殿下と殿の寵も血縁もある。

 ただ、年若いだけだ」


「与右衛門の言うとおりだね」



 藤堂殿の言葉に、小一郎様が同意を繋いだ。

 背にした岩にもたれ、目に楽しげな色を踊らせている。



「病が癒えたんだ、兄上ももう躊躇わんさ。

 一、二年のうちに城持ちに上がるよ、お前」


「何万石の大名に上がっても、歳が離れすぎています」


「あの子、幾つ?」


「俺より十五も下の九つです」


「と、いうことは年が明ければ一〇か」



 顎に手を当てて、小一郎様が宙を睨む。

 何をお考えであるかは、言われずとも知れた。

 ため息を飲み込んで、先手を打つ。



「綻びさえしていない蕾を手折る趣味は、

 持ち合わせておりませんよ」


「ええー、二、三年待てばびんを削ぐ年頃じゃないかー」


「だからと申して、年増男の後添えでは哀れでしょう」



 与祢姫は引く手あまただ。

 複雑で難しい事情があったとしても、あえて年嵩の俺を選ぶ必要はない。

 似合いの年頃の相手も、もっと良い縁もあるはずだ。



「馬鹿なこと言うねえ、紀之介。

 お前の最初の婚姻は事故みたいなもんだったろ?」


「寡夫である事実は変わりありません」


「あんな女に操立てをするって奇特だなあ。

 私も兄上も、東すら無かったことにしたいくらいなのに」


「俺がそれをすれば、息子たちの立つ瀬がなくなりますから」



 殿下たちや母が、亡き妻を快く思っていないことは知っている。

 夫だった俺にも、彼女に思うところがないわけではない。

 それでも、亡き妻の遺した義息が大谷家の世継ぎだ。

 家督を中継ぎしているだけの俺が、我を通すべきではない。



「まったくお前ときたら、生きにくい子だねえ」



 肺の底から息を押し出す小一郎様は、露骨に不満げだ。

 冗談にしろ、本気にしろ、たちが悪いな。

 助けを求めようと藤堂殿を見れば、可笑しげな視線を寄越された。

 ……こんなに意地の悪い御仁だっただろうか。

 小一郎様に影響でもされたか?



「まあ、そういうことにしておこうか」



 よっこいせ、と声に出し、小一郎様が立ち上がった。



「気が変わったら言いなよ、媒酌人はやってあげるから」


「お心遣い痛み入ります」



 あいにく変わる気などありはしないが。

 平静を装って軽く頭を下げると、派手に笑われた。

 やはりからかいだったか。

 そうだろうとは思ったが、小一郎様にも困ったものだ。

 俺で遊んで暇を紛らわせるのはやめてほしい。

 わざとらしく咳払いをして返す。

 小一郎様は腹を抱えて笑いながら、ざぶざぶと俺の脇をすり抜けていった。

 


「ああ、一つ良いことを教えてあげようか」



 湯から上がりしな、小一郎様がふと口を開く。

 まだ何かあるのか。首を巡らせるのも面倒だ。




「私とお藤はね、歳が十五ほど離れているんだよ」




 思わず振り仰いだ俺に、小一郎様は片目をつむってみせる。

 そうしてくつくつと喉を鳴らす藤堂殿を従えて、悠然と控えの間へと去っていった。


 戸の閉まる音を最後に、あたりの静けさが増す。

 妙に力が抜けて、滑るように体が湯の中へと沈んでいく。

 水面に出した鼻先で漂う薄い硫黄の臭気が、ほとんど気にならない。

 いや、気にできないといった方が近いかもしれない。

 小一郎様の独り言は、思いきり俺の頭を殴りつけていったのだから。



「……血迷うなよ、紀之介」



 湯を顔にかけて、自分自身に言い聞かせる。

 他人は他人で、俺は俺だ。

 小一郎様に許されたことが、俺に許されるとはかぎらない。

 与祢姫とて同じだ。

 あの子もまた、大和御前様のごとくではない。

 俺が勝手に決めつけてはいけないのだ。

 情に惑い、理性を欠いて相手を置き去りにすると、どんな悲劇をもたらすか。

 身をもって知っている俺だからこそ、誤ってはいけない。

 あどけない蕾を枯らす過ちは、決して犯してはならない。

 だから。




 この火照りは、湯が熱いせいだ。



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