ともにめぐった秋のおわり【天正16年10月末日】
太陰暦を使う天正の世は、令和よりも季節が早く巡る。
今年は閏月があったせいか、十一月に入る前なのにすっかり冬になってしまった。
空の青は薄く、空気の冷たさは日に日に冴えていく。
朝は特に、室内にいてもひんやりとするほどだ。
「姫様、お出ましください」
お夏に呼ばれて、あてがわれた座敷を出る。
廊下に出ると、足先が一瞬で凍えた。
まるで氷の上に踏み出したみたいだ。
手の指先に当てる息も、唇から出た途端真っ白になる。
寒すぎ。足が凍る。床は板張りじゃなくて、畳だからまだマシだけど。
足袋はNGっていう天正マナー、合理的じゃなさすぎるよ。
プライベートかつ室内でしか履けないから、冬場はマジでキツイ。
どうにか変えられないかなあ、足袋を履かしてほしいわ。踵の乾燥対策させてよ。
そんな内心の不満を顔に出さないようにしつつ、そそくさと歩き出す。
ささっと秀長様たちにお暇乞いをして、輿に乗せてもらおう。
輿の中は私のプライベート空間。足袋を履いてもOKだ。
綿のあったかいのを二枚重ねで履いちゃおうっと。
心持ち早めに足を動かして、気を紛らわせるように外を眺める。
空を覆うのは、淡い銀に染まった雲。
遠くの山の上には、さらに重みのある銀灰の雲がわだかまっている。
それは、雪待ち月間近にふさわしい空模様だった。
大和郡山城へ私が入ってからはや一〇日。
帰京の目処が経って、本日お暇をすることとなった。
やっとね、都で起きていた私の不在騒動の決着が付いたんだよ!
遡ること五日前、都で寧々様がお茶会を催された。
場所は聚楽第で、招待客は在京の大名夫人や殿下の側室数名。
紅葉狩りの仕切り直しであるそのお茶会の最中に、寧々様は一人の招待客に声を掛けた。
『大和のお藤殿は、御息災かしら』と。
声を掛けられた招待客は、藤堂様の御正室であるお
秀長様の御正室、お
今回の茶会には、三ヶ月前に二の姫様を出産なされたお藤様の代理として参加されていた。
お藤様の近況を寧々様に聞かれても、不思議ではないお立場だったのである。
だからお芳様もにっこり笑って、寧々様に包み隠さずお答えになった。
『大和御前様におかれてはお床上げも済み、
お健やかにお過ごしでございます。
これも北政所様が粧姫様をお遣わしくだされたおかげ。
主に代わりまして、御礼申し上げます』
そしてそのまま、寧々様とお芳様はわきあいあいとご歓談になった。
私が大和郡山でお藤様に産後エステをしたこと。
菊姫様に気に入られ、楽しそうに遊び相手を務めていること。
お芳様も私の面倒を見るのが楽しいこと。
二人が意図して仕込んだ和やかな会話内容を、周りが聞いていないはずがなかった。
翌日には一気に、私が大和郡山城にいる、という情報が拡散されたそうだ。
同時に一の姫である菊姫様に気に入られて、遊び相手を務めているようだ、とね。
秀吉様の弟である秀長様に正面切って何かを言える人は、大大名であってもほぼない。
しかも、奥向きの、個人的な近親者間の心配りのやりとりに関することだ。
誰も文句を言えない状況ができあがった。
あ、でも。茶々姫様はちょっとごねたみたい。
「与祢を独り占めにしてる大和の御前様と姫様はずるいわ!」って。
幼稚園児かなって主張でびっくりだよ。茶々姫様、しっかりしろ。あんた何歳だ。
ちょっと頭が痛くなるわがままだが、これに対しては織田侍従様が仕事をしてくれた。
「アンタ三つの姫君に張り合うの? お馬鹿ね! お馬鹿姫ね!!」と盛大に叱ってくれたのだとか。
おかげで茶々姫様はものすごい大泣きをしたが、一応は大人しくなったらしい。
他にもこまごまいろいろあったが、事の次第はそんな感じ。
堺で私が紀之介様の看病をしていたことは、誰にも悟られていない。
私が何食わぬ顔で聚楽第へ帰れば、すべて秀長様が描いたストーリーどおりになるのだ。
もう、ありがたすぎる。
秀長様も藤堂様も、仕事がめちゃくちゃ早い上に完璧すぎだよ。
この状態なら私が口を滑らせないかぎり、真実が漏れることはないに違いない。
一連の間はほぼ城の奥に閉じ込められたけれど、お藤様やお芳様もずいぶんと可愛がってくださった。
メイクやボディケアさせていただいたらすごく喜んでくれて、いろいろお話しできて楽しかった。
菊姫様も、ずいぶん懐いてくれた。妹姫様が生まれて、ちょっと寂しかったらしい。
遊んでって袖を引いてくるお姿が、ひたすら愛らしかった。
大和郡山城はほんと過ごしやすかったよ。
秀長様の奥方様って、お藤様お一人だもん。
女の争いなんて起こりようもないので、めちゃくちゃ穏やかだった。
……聚楽第へ帰りたくない気持ちが、ちょっと湧いたくらいにね。
寧々様に秘密だ。死んでも言えない。
まあ、そのくらい良くしていただいたのだ。
もう大和へ足を向けて寝られないわ。
ちゃんと秀長様たちに借りをお返ししなければ。
……何を要求されるかわからないけど。
私にできることは、可能なかぎりなんでもさせていただきたい。
なにより、紀之介様の湯治にお力添えもしていただくんだもの!
無利子でも利子を上乗せして、きっちりお礼をさせていただかなくっちゃ。
手始めのお礼は何をしようかなあ……。
考えごとをしている間に、秀長様の御座所へと辿り着く。
戸口で控えている人に声を掛けると、控えの間に通された。
まだ朝なのに、秀長様は来客対応中だそうだ。
どこかの大名か、名代でも来たのだろうか。
各大名への饗応の大半が秀長様の担当といえど多すぎだ。
私が大和郡山城にいる間も、ひっきりなしに訪問客が来ている。
奥座敷でお藤様たちと寛いでいても、呼ばれて行ってしまうこともあった。
藤堂様によると、夜の接待とか会食とかもひっきりなしらしい。
過労死、という不吉な言葉が過ぎるレベルの多忙さである。
仕事量を減らされた方がいいと思うんだけど……難しいのかな……。
秀長様はなんだかんだ言って、もうアラフィフ。
健康に気遣わないと、ころっと逝きやすいお年頃だ。
そろそろ近江中納言様あたりと仕事をシェアしたらいいのに。
お藤様や菊姫様たちを置いて亡くなったら、悲惨なんてものじゃないよ。
微かな心配を覚えていたら、静かに隣の間に続く松葉の描かれた襖が左右へ滑った。
開いたその隙間から、若い男性が現れる。
すらりと背の高いその立ち姿が纏うのは、濃藍の小袖に淡い香色の肩衣と袴。
糊の効いた肩衣に游ぶ紋は────黒い、対いの蝶。
「きのすけ、さま」
愛おしい名を、零す。
引き締まった彼の口元が、柔らかな曲線を描いた。
「与祢姫」
私の名前。
温かい声に縁取られて、鼓膜に触れる。
冷えた体が、一気に火照った。
落ち着いていたはずの感情が急に動き出す。
叫ぶのをすんでのところで堪え、慌てて小袖の襟を確認した。
乱れてない、よね。よし。下ろし立ての小袖を着ていてよかった。
淡いブルーに朱の紅葉を散した意匠は、白い帯との組み合わせもおかしくはない、と思いたい。
それから、深呼吸だ。吸って、吐いて。気持ちを落ち着けて。
だめだ! 鼓動がちっとも落ち着かない!
「紀之介様っ」
立ち上がる。
裾を気にするのももどかしく、ほんの数歩を急いて詰めた。
体を投げ出すように、手を伸ばす。
手袋に包まれた大きな手が、私を引き寄せる。
松葉と薄荷の、静かな香り。
紀之介様の匂いが、ここにある。
「いつ、お着きになったのですか」
「城下に入ったのは、昨夜。
今しがた小一郎様にご挨拶申し上げてきたんだ」
「……知らせてくださればよかったのに」
「すまない、ずいぶん夜更けだったものだから」
深夜でも、私は気にしなかったのに。
寝ていたとしても起きて、お出迎えしたかった。
恨めしく見上げると、あやすように指で髪を梳かれた。
「君が立つ前に、間に合ってよかった」
心の底からそう思っているような、声音と目の色。
いっそ憎たらしいほどの優しさに、たまらなくなる。
話の綻びを作らないため、ずっと私たちは連絡が取れなかった。
やり取りを控えるよう、秀長様に命じられていたのだ。
その上で不自然な動きにならないよう、秀長様から紀之介様を湯治に誘うという形が取られた。
でも秀長様も藤堂様も、いつごろ紀之介様が来るかはおっしゃってくださらなかったんだよね。
だから紀之介様に会えないまま、大和を旅立つことになると諦めていたんだよ。
ちゃんと間に合うなら、教えておいてほしかったな!
「お体の調子は、いかがですか」
文句を言おうと思った口が、開いた途端に気遣いを声にする。
「ずいぶんと良いよ」
「ご飯、召し上がれていますか」
「もちろん、口の中の爛れが治ったからね」
「煙草は、吸っていないですよね」
「……吸っていない」
口籠もる紀之介様を睨む。
探るように、ほんのり揺らぐ瞳を覗く。
「薄荷で我慢しているよ、ちゃんと」
「まことに?」
「まことだとも」
ほら、と懐から出した煙管を見せられる。
私が差し上げた、黒の蒔絵の煙管だ。
使い込まれた痕跡が、うっすらと漂ってい始めていた。
ちゃんと使っていらっしゃる。
私がいなくても、禁煙をできていたらしい。
ほっと肩の力を抜く。
「信用してもらえたかな」
うかがうような紀之介様の眼差しが、子供みたいだ。
頷きながら、つい笑ってしまう。
「笑わなくてもいいだろう……」
「ごめんなさい、嬉しくて」
「嬉しい?」
紀之介様が不思議そうに首を傾げる。
私は背伸びをして、その頬に手を添えた。
「あなたが、とてもお健やかになられたから」
指先で触れた肌は滑らかだった。
爛れの名残りも、ずいぶん薄らいでいる。
瞬きを二つ分、見つめあう。紀之介様の形の良い眉が、穏やかに開いた。
「君が、いてくれたからだ」
眩げな双眸に、二ヶ月前まで巣食っていた陰りはない。
あるのはただ、澄んだ色。初めてお会いした頃と同じ、生気に満ちた輝きだ。
紀之介様は、生きている。
私と同じ世界で、同じ時間の中で、これからも生きていてくれる。
どんなことよりも喜ばしい確信が、胸に満ちていく。
「姫様」
さりげなく、お夏が戸の外から私を呼ぶ。
「内府様がお呼びでございます」
告げられた終わりに、私たちは抵抗しなかった。
どちらからともなく、体を離す。
重ねていた温もりは、淡く溶けて消えていく。
「行っておいで」
大好きな手のひらが私の髪を撫で、離れていく。
ふと覚えた名残惜しさが、私に彼の袖を掴ませた。
「与祢姫?」
やってしまった。
驚いた顔の紀之介様を前に、動けなくなる。
そんな私に何を思ってくれたのだろう。
紀之介様は膝をつき、目を合わせてくれた。
「紀之介様……」
「うん、どうしたんだい」
袖を掴む私の手を解き、握ってくれる。
薄い手袋越しの体温と、気遣いのこもる力加減。
眼差しの柔らかさが、胸を落ち着かなくさせる。
「あ、の」
喉がひりひりと乾いていく。
伝えたい気持ちはたくさんあるのに、出てこない。
心臓が、今にも破れそうで。ああ、もう!
握られたのと反対の手を伸ばす。
近い場所にあった紀之介様のお顔が、さらに近くなる。
大きく開かれた黒い瞳に映る私が、目を閉じた。
「……よく、養生なさってくださいね」
端正な線で描かれた鼻梁の先から、そっと唇を離す。
「お帰りを、お待ちしております」
持ちうるかぎりの優雅さを込めて、一礼を。
同時に私は、身をひるがえして控えの間を出た。
限界だった。紀之介様がどんな反応をしたかなんて、確かめられない。
気持ちに突き動かされるままになった自分への羞恥が、ぶわっと沸き起こる。
振り返ることなく、後ろ手で襖を閉じた。
「姫様、如何なされましたの」
外で控えていたお夏がぎょっと目を見張る。
そんなに私、真っ赤なのかな。恥ずかしい。
「なんでもない」
「ですが、お顔が」
「本当に、なんでもないから」
ぎこちなくならないよう、表情筋を叱って笑ってみせる。
誤魔化せるとも思わないけれど、そうする以外思いつかない。
「行きましょう、
内府様をお待たせしてはいけないわ」
冷たい廊下を歩き出す。それでも、吐息は熱っぽさを保ったままだ。
舞い上がりすぎだ、私。
しっかりしなきゃと、思うのに。
鮮やかさを増した想いがあふれていくのを、止められない。
共に過ごした秋を見送って、また離ればなれの冬を迎える。
雪の香りが漂うような季節に、紀之介様は十津川へと赴かれた。
湯治は師走の半ばにまで及ぶ長いものとなったけれど、私は待つことができた。
紀之介様は帰ってくるって、信じられた。
だから、焦がれ想って、待ちわびて。
ようやく迎えた、明くる年の
待望の若君誕生に沸く伏見指月城で───私たちの再会は、叶うこととなる。
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