羽柴で最も頼れる男【天正16年10月中旬】


 大和国は、先の世における奈良県だ。

 そう、大仏様と遠慮と野生が皆無の鹿たちのいる国だよ。

 令和では寺院が多い静かなイメージのあるが、天正の世においてはわりと活気がある地域だ。

 だって、京の都と大坂のすぐ側なんだよ?

 力のある大寺院の本拠地というお土地柄も合わさって、わりと経済的に豊かなのだ。


 これに加え、国主が国主でもある。

 現在大和国を治めている大名は、羽柴秀長様。

 世間では大和大納言──いや、最近内大臣に昇られたから、大和内府様と呼ばれているお方だ。


 この秀長様、なんと秀吉様の実の弟なのである。


 秀吉様にいたんだよ、弟。

 初めて知った時はすごく驚いた。

 そんな秀長様はさすが秀吉様の弟だけはあって、とても優秀な方だ。

 秀吉様が万全に能力を発揮できるようサポートすることがお得意で、単独の大大名としての力量も十分以上。

 トップレベルの財政家でもあり、羽柴になくてはならない人である。


 つまりは、秀長様が名実ともに羽柴家の表のナンバーツーってことね。

 もちろん裏のナンバーツーは我らが寧々様。

 寧々様が後ろから秀吉様を支え、前からは秀長様が支えるスタイルで羽柴家は動いている。

 完璧な、死角がない布陣だよ。

 家中の私たちも、寧々様と秀長様さえいたら何も怖くないと考えがちだ。

 そのくらい頼りになる秀長様なんだけれど。





 今、私の目の前で、笑いすぎてむせていらっしゃいます。





 なんやこれ。





 石田様に拉致られ、大和は郡山へ弾丸ツアーしました。

 昼過ぎに紀之介様のお屋敷を出発して、馬を走らせること一刻半約3時間くらい?

 通常ならば三刻約6時間くらいのところを、半分も縮むってすごいね。

 秀長様の居城である大和郡山城へ、日没までに到着できたよ。

 高速で辿り着いた代償として、馬から下ろされた瞬間に私の意識が落ちたけどね!

 心労と疲労がマックスでした!!


 そのせいもあって、わりと騒ぎになったらしい。

 突然奉行衆の石田様が、アポ無しで、しかもぐったりした幼女を抱えて来たのだ。

 すわ緊急事態かと身構えたら、個人的なお願い聞いて聞いて、でしょ?

 石田様はこってり絞られたらしい。ざまぁ。


 でも私は、石田様へのおせっきょ、違う、秀長様との面会に同席できなかった。

 目が覚めたら翌朝で、大和郡山城の奥座敷だったのだ。

 眠っている間に、秀長様が保護してくれたらしい。

 事情はわからないが、たぶん石田様の被害者だろうと哀れんでくださったようだ。

 そういうわけで、起きたら奥の主人である御正室様にさんざん心配され。

 奥の女房さんたちにも、おかわいそうと親身に世話を焼かれて。

 なんとか復活して秀長様と面会させていただいた頃には、もうお昼だった。

 情けなさすぎる。ちょっと泣いた。


 まあそういった感じで、御座所にお伺いして、改めて事情をお話ししたんだけど──




「んぐ、げほ! ぶ、ふふっ、ゲホッ!」


「殿、殿、しっかりしてください」


「すま、すまな、ぶふっ、いね!

 よっ、えもん、んん、はははは!!」


「はいはい」



 脇息を倒す勢いで笑い転げる秀長様と、秀長様を引き起こす重臣の藤堂佐渡守様。

 わけがわからない状況を前に、私と石田様はつい顔を見合わせてしまった。



「今の話、笑えるところってありました?」


「某はなかったと思う……」



 だよねえ。おかしな話は一つもしていないもんね。


 紀之介様がご病気で、自分の希望と寧々様のお言いつけとで、私が看病していること。

 完治まであと一歩というところなので、治療のために湯治をしようと計画していること。

 ついては大和にある湯治場を利用したいので、便宜を図っていただけないか。

 

 こんな内容を真面目に、包み隠さず、過不足なくお話した。

 トーンも真剣そのもので、おふざけなんて一ミリも含ませなかった。

 笑い転げるどころか、くすっと笑う要素すらなかったよね?

 私も、石田様も、困惑しかない。

 


「あの、大事ございませぬか?」



 耐えきれなくなって、上座へ声を掛けた。

 秀長様はせっかく引き起こしてもらったのに、また崩れ落ちている。

 笑いの波に襲われて広い肩を震わせる様子が、瀕死のコオロギのようだ。



「ああ、すまな……ん゛っ、

 ふ、あはははは! んんん!」


「申し訳ない、

 今しばらくお待ちいただけるか」

 


 また何かがツボったらしい秀長様の背中をさすりながら、藤堂様がすまなそうな目をする。

 びっくりするほど大柄なのに、小さくなって主をフォローしようとしている藤堂様の姿がなんとも言えない。

 ……不安になってきたんですが。

 本当にこの方を頼って大丈夫なの?

 石田様を見上げる。目を逸らされた。

 言い出しっぺぇぇぇっ!!!



「はー……笑った笑った」



 さんざん笑い転げること、もうしばらく。

 やっと笑いがおさまって、もそもそと秀長様が起き上がった。



「やあ、悪いね。

 恥ずかしいところを見せてしまったな」



 目尻の涙を親指で拭いながら座り直しつつ、軽く眉を下げて謝ってくださる。

 笑いすぎで血色が良くなったお顔は、あんまりすまなそうに見えない。



「なんだこのおっさんって思ったろ?」



 思考を読まれた!?

 ぎくりと息を詰めると、秀長様の目元が悪戯っぽく細まる。



「い、いえ! そのようなことは決して!」


「いいんだよお、自分でもわかっているから。

 私ね、笑い上戸なんだ。

 箸が転がっても笑えちゃうんだよなあ。

 ねえ、与右衛門」



 秀長様に振られて、藤堂様はなんとも言えない表情になった。

 一瞬覗いた疲労の色が、いつかの動物園で見た黄昏れるマレーグマとダブった気がした。



「いつものことであるから、

 粧姫殿も気になさらぬよう」


「はあ……」


「そういうことだから、気楽にねえ」



 いや、それ秀長様が言うんですか。

 ご苦労様ですの気持ちを込めて、藤堂様に目礼しておく。

 秀長様がここまで自由なお人柄だとは、想像もしてなかったよ。

 秀吉様に正面から諫言したり、手綱を引いたりしている場面しか見たことなかったせいもあってさ。

 大坂城や聚楽第でお会いした秀長様には、力強い杉の大木というか、穏やかな重みある人という印象が強かった。

 ザ・ナンバーツー、頼れるみんなの秀長様ってオーラが出てたのになあ。

 オンとオフの使い分けが上手いなんてもんじゃない。別人級だ。



「しかし、何が可笑しかったのですか」



 なんとも言えなくなった空気を読まず、スパッと石田様が切り込んだ。

 あら、たまには石田様のKYも役に立つんだ。

 私の間違った尊敬の眼差しを無視し、石田様は鼻の頭に皺を寄せて続けた。



「紀之介の一大事なのです。

 お笑いにならないでください」


「ああ、すまないね。

 でもあの紀之介が……んんっ」


「小一郎様!」


「くく、悪い。

 やあ、あの子にも可愛げがあったのかとね」


「紀之介はおのこです!

 可愛いなどという言葉は合いません!」


「佐吉も相変わらず愉快だなあ」



 石田様にぷりぷりされても、ぶり返した秀長様の笑い声は止まらない。

 また脇息にしがみつき、けらけらと軽やかに笑い出した。



「っ、はははは!

 こんな小さな与祢姫に甘えて、

 朝から晩まで世話されてるって?

 澄ましたお利口さんの紀之介が?

 いやあ、ふふ、それは一度見てみたいものだねえ」


「この娘が厚かましく紀之介に甘えて、

 まとわりついているだけですが」


「でも甘える与祢姫を、

 紀之介も受け入れているんだろう?」


「……それは、まあ」


「だめだ、面白過ぎる!

 腹の皮がねじ切れそうだ!」


「だから! 何故お笑いになるのですかっ!」



 錦張りの脇息を力いっぱい叩く秀長様に、石田様が頬を膨らませる勢いで文句を言う。

 それでまた、秀長様のゲラモードが加速した。

 今の流れ、笑うところだったのかな?

 どこに秀長様の爆笑スイッチがあるのか、わからなくなってきた……。

 


「まあまあ、佐吉。

 かっかするんじゃないよ」


「してませんっ」


「してるじゃないかー、怖いなあ」



 まったくもーといったふうに唇を尖らせ、秀長様は白湯を啜った。

 石田様を弄べるってすごいな。



「紀之介の話は置いておいて、と。

 湯治の便宜を図ってほしいんだったね?」



 空になった湯呑みを藤堂様に渡しながら、やっと秀長様は本題に入ってくれた。

 私と石田様が同時に首を縦に振ると、可笑しげに喉を鳴らして目を細める。



「湯治ならば、

 兄上に頼んだ方が早いんじゃないかい?」


「あの、殿下御用達の有馬の湯は、

 紀之介様のお体に良くなくて」


「へえ、どういうこと?」



 秀吉様に似た、大きめの目が瞬いた。

 ずいぶん不思議そうだけれど、それはそうか。

 この時代では、あまり有名じゃない病気だもんね。

 かいつまんで、金属アレルギーのことをご説明する。



「なるほど、金物がねえ。

 妙な病もあったものだな」


「はい……珍しいご病気ですので、

 常の人には薬となるものが、

 毒になることもあるのです」


「それで有馬はだめ、かあ」



 どうやら納得してくれたらしい。

 頬杖をついて、なるほどねえ、と秀長様はひとりごちられる。



「医者は、草津の湯がもっとも良いと」


「しかしあそこは上野沼田の側。

 紀之介を行かせるには障りがあるね」


「ですので、草津と似た湯で湯治をさせたく」



 石田様の言葉に、秀長様はちょっと考えるそぶりになった。

 心当たりがないのかな。ちらりと、控えている藤堂様に視線を送る。

 湯呑みに白湯を注いでいた藤堂様が手を止めた。



「治部殿、東泉寺とうせんじのことだろうか」


「左様です!」



 あ、藤堂様はご存知だったんだ。

 打てば響くような返事に、石田様は秒で頷いた。

 尻尾を振り回す柴犬か。苦笑されてるぞ。



「え、大和うちに草津もどきなんてあったんだ」


「は、硫黄の臭気がある湯が十津川にございます」



 秀長様に向き直って、藤堂様が言った。



「効くの?」


「効くのではないかと。

 本願寺が贔屓にしているようですね。

 一昨年には顕如上人が赴かれていた、

 と記憶しております」


「ほー」



 へー。私も秀長様につられて、目を丸くする。

 藤堂様によると、温泉としての歴史もそんなに古くないらしい。

 東泉寺というお寺の境内に湧いて、一〇〇年ちょっと? くらいなんだとか。

 目立った利用者がちらほらし始めたのは、ほんの三十年かそこらだそうだ。

 知る人ぞ知るって感じの、セレブ御用達な温泉なんだね。



「与右衛門は物知りだねえ、

 ほんと頼りになるなあ」


「もったいなきお言葉です」


「謙遜しないでおくれよ、

 お前は私の自慢の家臣なんだから」



 いじらしいねえ、と言う秀長様はにこにこだ。

 褒めちぎられた藤堂様はというと、照れ臭そうに一礼なさった。

 折り畳まれた大きな体躯の後ろで、見えない尻尾が振り回されている。

 どうやら羽柴に仕える人は、わんこタイプが多いらしい。



「じゃ、そこへ紀之介を行かせようか」


「はいっ! お願いしますっ!」



 くつくつと笑いつつ、秀長様が話を戻した。

 脳裏に浮かんでいた羽柴ドッグランを振り払って、私は食いつくようにお返事をする。



「紀之介様は、本復まであともう一歩なのです。

 湯治をすれば、その一歩を縮められるのだと」



 そう、道三先生と丿貫おじさんが言っていた。

 できることがあって、それが叶う範囲にあるのだ。

 紀之介様には、健康を取り戻してほしい。

 何の憂いも悲しみもなく、暮らせるようになってほしい。

 明るく微笑んで、私の隣にいてほしい。

 だから。



「どうか内府様のお力を、お貸しくださいませ」



 指をついてこうべを垂れる。

 深く、深く。祈りを込めるように。

 紀之介様を助けてください、と。

 ややあって、上座で溢れされた呟きが、微かに耳に触れた。



「頭を上げなさい、与祢姫」



 軽いため息に紛れたその内容を、理解する前に促される。

 そろりと、慎重に顔を上げる。

 穏やかな秀長様の眼差しと、目が合った。



「まかされてあげようね」



 その一言に、ぱっと私の隣の石田様が目を輝かせる。

 私も同じ顔をしているんだろう。安心感が、柔らかく体を襲った。

 幼い子供を見るように、秀長様はえくぼを深くした。



「段取りを頼めるかい、与右衛門。

 私も骨休めに行きたいから」


「御意」



 軽く目を伏せて承知した藤堂様に、秀長様は満足そうに一つ頷く。

 そうして、そわそわしている石田様に目を向けた。



「佐吉、紀之介を連れておいで」


「はい、ただちに!」



 さっと礼をすると、石田様は立ち上がった。

 ぴぴっと袴の裾を直して、踵を入り口の方へ返しかける。



「ちょ、石田様?」


「ではな、某は紀之介を迎えに行ってくる」


「はぁ!?」



 呼び止めても、無駄だった。

 じゃ、というふうに片手を上げて、石田様はくるりと背中を向けてしまう。

 そのまま振り返らず、退室してしまった。


 ほとんど走るような、大きな足音だけを残して。


 は? 私、置き去り? 嘘でしょ??

 きょとんと、してしまうしかない。

 信じられなくて、石田様が消えた戸をガン見してしまう。

 え、どうすんの。これ、え?



「与祢姫、与祢姫」



 何度も呼ばれて、なんとか意識を取り戻す。

 振り向いたら、秀長様と藤堂様が苦笑を浮かべていた。



「あの、私は。内府様、あの、私は?」


「落ち着きなって」


「おち、落ち着けませんっ」



 軽くパニクって、声が上擦ってしまう。

 


「どどど、どうすれば!?

 私、都へどう帰れば!?」


「案じないでいいよお、

 もうちょっとうちにいなさい」


「でも、ですがっ。

 寧々様が早く帰ってきなさいって」


「義姉上には知らせておくから、ね」

 

「へ?」



 固まる私に笑いかけながら、秀長様は続ける。



「紀之介の側にいたことを、

 隠さねばならないんだろう?」


「あ……」



 そういえば、そうだった。

 茶々姫様やゴシップに沸く人々を、誤魔化さなきゃならなかったんだ。



「この際だから、うちにいたことにしようよ」


「大和に、ですか?」


「君は義姉上の使いで、この大和郡山の城に来た。

 それで、ふた月滞在した……ということでどうだい?」



 ちらりと秀長様は、藤堂様をうかがう。

 少し思案してから、では、藤堂様が口を開いた。



「粧姫殿が、菊姫様のお気に召したことにいたしましょう。

 さすれば無理がないかと」


「いいね、冴えているなあ」



 ぽんと秀長様が手を打つ。

 ええと、菊姫様は秀長様の一の姫様、だよね。

 まだ三つ、だっけ。さきほど少しお会いした、可愛らしいお姫様だ。

 私が菊姫様に気に入られて、遊び相手として引き留められた、ということにするのか。

 確かにそれならば、誰も文句は言えない。

 引き留めた菊姫様、ひいては秀長様にケチを付けることになるのだから。

 息の合っている主従のお二人を、そっと見比べる。

 うんうん、と秀長様が無言で肯定してくれた。



「そういうことで、

 しばらくお菊と遊んでやってくれるかい」


「しょ、承知いたしました!」



 つんのめるように指をついて、礼を取る。



「……ご迷惑を、おかけします」


「いいんだよお、笑わせてもらったし」



 ひらひらと手を振って、秀長様は微笑む。

 よかった。秀長様、本当に良い方だ。

 変な噂も秀長様のお力さえあれば、なんとかなるだろう。

 きっと悪いことにはならないって、確信ができる。

 紀之介様の湯治もかなえていただけるし、感謝してもしきれないよ。



「ああ、そうだ」



 安心してへたりこんでいると、秀長様が思い出したかのような声を上げた。



「これ、貸しだから」


「……かし?」



 言われた意味をはかりかねて、秀長様を見つめ返す。

 秀吉様に少し似た満面の笑みが、きらきらとしていた。

 ばっと藤堂様を見る。

 顔ごと、視線を逸らされた。

 待って待って。こっち向いて、藤堂様。

 説明してくださいよ。

 何を請求されるんですか、私。

 秀長様は私をどうしようって魂胆でらっしゃるんですか。

 待って。黙って下がろうとしないで。

 ねえったらぁ! 助けてよぉぉっ!!




「いつでもいいから、返済よろしくねえ」




 のほほんとした宣告に、私は畳に突っ伏す。

 羽柴兄弟、やっぱり怖いよう……。




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