吸いたい男と吸わせたくない少女(3)【天正16年10月中旬】
ハッカ油、ハッカの葉。
ビターオレンジと
シナモンに生姜の粉末などのスパイス、それから綿球。
煙管は私が指定したとおり。艶やかな木地に陶製の火皿が付いた品をはじめとした、木製や陶製の物が数本用意されている。
「上出来ね」
並べられた品々に、笑みがこぼれた。
堺は良い街だ。お金さえあれば、なんでも欲しいものが手に入る。
でもまさか、頼んで半日以内にひととおりの商品が届くとは思わなかったわ。
令和の某通販サイトも真っ青な特急便だよ。会合衆のおじさんたち、張り切りすぎだ。
ありがたいけれども、ちょっと後が怖い。
「ご苦労だったわね、佐助」
お夏にもらった白湯をちびちび飲んでる佐助をねぎらう。
午前中ずっと佐助が堺中を走り回ってくれて本当に助かった。
商売の匂いを嗅ぎ取った与四郎おじさんたちに詰められて大変だったらしいが、おかげで最大限の成果に繋がったのだから。
後日どころか今晩にでも商談がてら会食する約束も持って帰されてきたけど、それは商品代の一部として考える。
あとで父様に、プラス評価で報告をしてあげよう。
「もうこれっきりにしてくださいよ」
湯呑を干して、佐助がだるそうに言った。
その目にはうんざりが覗いている。
生き馬の目を抜く豪商たちの相手は、さすがに疲れたみたいだ。
労りを込めて、私は優しく微笑みを返した。
「ごめんね、それは約束できない」
「ひっでぇ」
「だって心置きなく無理を頼める家人なんて、
佐助以外にいないんだもの」
佐助は仕事が早くて頭も良い。お夏と同じくらい、私の意図を上手いこと汲んで動いてくれる。
父様もそれを承知していて、困ったことがあったら佐助に頼みなさいって言ってくれているしね。
少々死んだ目をされても、止めてあげる気はない。
私がどこかへ嫁ぐまでは、私のために働いてくれ。
「はぁ、で、何を作られるんですか」
頭痛を堪えるように目頭を揉んで、佐助が訊ねてきた。
「薄荷で煙草っぽいもの」
「ああ、アレですか」
白湯のお代わりを用意していたお夏が口を挟んできた。
いつも私の側にいるだけあって、すぐ察せたのだろう。
首を捻る佐助に説明してくれる。
「薄荷の香油を煙管で吸うと、
頭痛封じになるんですよ」
「なんだそりゃ」
「意外ですし、
私は好きじゃないですけどね。
姫様の少し前までの好物だったんです」
うん、そう。お夏の言うとおり。
半信半疑な視線に、こくんと頷いてみせた。
遡ること一年ほど前、寧々様のお側に仕え始めてからしばらくした頃のこと。
私はストレスと頭痛に悩んでいた。
生活環境が激変したし、あの頃はまだ私への風当たりが強かったのだ。
できれば休みたかったけれど、当時はちょっと難しかった。
なんとか働きつつ、頭痛を解消できないか。
いろいろと解決策を考えた結果、思い出したのがミントだった。
試しに煙管を調達してきて、手持ちのハッカ油でミントパイプならぬミント煙管を作ってみた。
即興だったけれど、これが効果抜群。
気分の悪さや頭痛が緩和されて、ずいぶんと楽になれた。
隙間の時間でパパっと吸える手軽さもちょうどよかった。
それ以来、私は忙しくなるたびに、気分転換と頭痛止めを兼ねてメントールを吸っていた。
聚楽第行幸の時に吸いすぎで飽きて、最近は忘れるほどご無沙汰だったけどね。
「煙管を使うからね、
禁煙にも使えるんじゃないかって思ったのよ」
「効きますかね?」
「飴よりは効果があるでしょ」
禁煙用のノンニコチンスティックやリキッドも、メントールは定番だった。
キャンディーやタブレットより、ずっと馴染むはずだ。
比較的調達がしやすい物だし、口にさえ合えばこれ以上の物はないと思う。
「じゃあ、私は紀之介様にお見せしてくるから」
莨盆に品物をしまい込んで立ち上がる。
お夏が動こうとしたけれど、手で制して止めた。
「お夏もしばらく休んでいいよ」
「ですが」
「何かあったら呼ぶから、ね」
優しくそう言うと、じとりとした目で睨まれた。
言いたいことはわからないでもないが、たまには大目に見てよ。
睨み返すと、お夏はお腹の底から息を吐き出した。
「羽目を外されて、
ご迷惑をおかけになりませぬよう」
「わかってる」
そのへんはよくよく承知しています。
ありがとうね、と手を合わせてから今度こそ私は席を立った。
◇◇◇◇◇◇
廊下を奥に進んで行く途中で、縁側に座り込む紀之介様を見つけた。
「紀之介様」
声をかけても反応がない。ニコチン切れかな。
紀之介様は私に気づかず、庭を眺めてぼーっとしているばかりだ。
大丈夫だろうか。敵襲とかあったら死ぬよ?
「紀之介様!」
すぐ隣に膝を付いても気づいてくれない彼の名前を、大きな声で呼んでみる。
やっと桔梗色の小袖の肩が跳ねた。
「っ、と、与祢姫か」
「大丈夫ですか?」
一応確認すると、紀之介様は苦笑いで首を横に振った。
よかった。気分が悪いとかって言うことはなさそう。
にこにこ見つめると、目を逸らされた。
気の抜けたところを見られて、恥ずかしかったらしい。
照れ隠しのように、彼は側にあった湯呑みに口を付けた。
「空ですよ、それ」
「……俺としたことが」
指摘をすると、湯呑みを置いて紀之介様は顔を逸らしてしまった。
綺麗な形の耳の縁が真っ赤になっている。
「すまない、情けないところを見せたね」
「お気になさらず。
煙草切れって大変ですね」
「まったくだよ」
このままじゃ勤めに障るな、と紀之介様が口元を手で覆ってぼやく。
集中力切れって困るよね。デスクワークにも差し支えるし、注意が散って落ち着かなくなる。
戦に出た時に起こしたら命に関わるだろうから、まさに死活問題だ。
「でしたら、ちょうど良いですね」
「?」
「さきほど佐助に頼んだ物が届いたんです」
振り向いた紀之介様に微笑みかける。
「これで少しは、
気を散じなくなるかもしれません」
持ってきた莨盆を掲げると、明るさを増した眼差しが返ってきた。
言葉にしなくても伝わってくる。
吸っていいの? いいんだね? って。
少しトーンが明るい黒の瞳に、きらめくような期待が詰まっている。
「煙草じゃないですよ」
かわいそうだが、すぱっと切り捨てる。
急速に紀之介様の瞳が光を失っていった。
「そんなあからさまに失望しなくても」
「君が莨盆を持ってくるから」
「禁煙してくださいねって言ってるでしょ」
小さな声が、恨めしげに唸る。
難癖だ。勘違いするのはわからなくもないけど、わりと難癖だ。
好きな人の子供っぽさにあきれつつ、私は莨盆の引き出しを引いた。
「代わりにこちらをどうぞ」
床に手巾を敷いて、その上に引き出しの中の品々を並べていく。
恨めしそうな双眸が、おや、というふうに瞬いた。
物珍しいそれらに、興味をそそられたようだ。
掴みは上々かな。私の気持ちも浮き足立つ。
紀之介様がじっと見ている茶色のガラスボトルを手に取った。
そして目の高さに持っていって、軽く揺らす。
「薄荷、吸ってみませんか」
きょとんとする紀之介様に、私はにっと笑いかけたのだった。
ミント煙管の原理は簡単だ。
煙管の火皿に綿球を詰めて、ハッカ油を一滴ほど垂らす。
しばらく馴染ませてから吸い口を軽く吸えば、ガツンとくるメントールを楽しめるのだ。
シナモンや生姜などの香辛料でフレーバーをアレンジしてもいい。
大量摂取はあまり良くないけれど、エッセンシャルオイルも使える。
柑橘類のエッセンシャルオイルは、ミントと相性が良くて試しやすい。
松葉から蒸留したパインは呼吸器に効くし、ヒノキは疲労に効果がある。
どちらも鎮静作用があるので、リラックスしやすくなる。
「煙は出ないんだね」
説明を聞き終えた紀之介様が、ぽつんと呟いた。
そこが気になるポイントか。でも、残念。
「ええ、火を付けませんから」
「そうか……」
真新しい煙管に目を落とすその表情は、ちっとも変わっていない。
なのに、どこかしょんぼりとして見える。
しかたない人だなあ、もう。
「刻んだ
煙草のように吸ってもよろしいですよ」
「いいのかい!」
かわいそうになって付け足すと、紀之介様がぱっと顔を上げて食いついた。
おやつを見せられた大型犬っぽくて可愛い。
かっこいいだけじゃないって卑怯だ。
なんて思いながら、私は頷いてあげる。
「どうぞ、吸いすぎない範囲でお好きなように。
煙草よりはまだ体に良いですから」
煙草式のハッカ煙管は、和漢三才図会という江戸時代の百科事典に記載があるものだ。
意外と古典的なアロマテラピーの一つなんだよ。
刻んだハッカの葉をタバコのように吸うと喉や口内炎などに効く、らしい。
煙が出るからより煙草っぽくて、紀之介様的にはこっちの方が好みだろう。
タールが出ることだけが不安要素だが、ニコチンに魂を奪われているよりずっとマシだ。
たくさん吸わないなら、口の乾きや胃痛などの副作用も少ない。
デンタルケアの効果もあるので、悪いことばかりでもないからね。
「お試しになりますか?」
「もちろん」
即答か。そんなに吸いたいんだな。
「葉が細かくて砕けやすいから、先に綿を詰めてくださいね」
笑いを堪えて刻んだハッカの葉の紙袋と綿球、羅宇をブドウの葉の蒔絵で飾った煙管を渡す。
紀之介様はそれらをいそいそと受け取ると、慣れた手付きで陶製の火皿に仕込んで咥えた。
付け木の火が、火皿のハッカに移る。空気を孕んだ、かすかな明滅。ゆったりと吸い口から離れた唇から、白い煙が筋になって零れる。
和ハッカ特有の爽やかな芳香が、ほのかに漂った。
「どうでしょう」
「悪くないよ」
満足そうな返事に、ホッとする。
お好みに合ったようで、何より。これでやっと禁煙が円滑に進みそうだ。
ハッカ煙管は、持ちもキャンディーやタブレットよりかは優れている。
味がなくなるまで咥えっぱなしでいられるところが、禁煙に適している最大のポイントだ。
吸い口を交換しやすい木製にしておけば、噛み癖対策にもなるだろう。
紀之介様を見ていたら、口が寂しくなってきた。私もひさしぶりに吸おうかな。
使わなかった煙管から、目に止まった物を手に取る。
細い朱塗の羅宇に、蒔絵の桜の花びらが散らされていて可愛らしい品だ。
どう見ても女物だが、ありがたく使わせてもらおっと。
火皿に綿球を詰めて、ハッカ油とビターオレンジを一滴ずつ垂らす。
ちょっと待ってから吸い口を含む。苦みを含んだシトラスが、ひんやりと舌の上を滑っていった。
ん。すっきりして美味しい。
「手慣れているね」
隣の紀之介様が横目で私を見下ろして言った。
ちょっと驚いてらっしゃるらしい。
煙草の代替品に馴染みがある子供って、よく考えたら変わっているよね。
恥ずかしいような、後ろめたいような気持ちがじわっと湧いた。
吸い口から唇を離して、誤魔化すように笑ってしまう。
「私なりに色々ありまして」
「色々?」
「奥仕えって、
その一言で、ちゃんと伝わったようだ。
返事の代わりに紀之介様は、無言で私の頭を撫でてくれた。
どうやら彼にも思い当たる節があるみたいだ。
そりゃそうか。表と奥という違いはあっても、勤め人であることには変わりないもんね。
「まだ幼い君には、気詰まりが多いのだろうな」
「今はありませんから、大丈夫ですよ」
「前は、あった?」
「……少しだけ」
煙管を咥えたまま、隣の温かい腕に体を預ける。
それから、なんとなく、城奥でのことを話した。
嬉しかったこと、楽しかったこと。
怖かったこと、悲しかったこと。
全部、全部。ぜんぶ。
紀之介様は、何も言わなかった。
髪を撫でてくれて、相槌を打ってくれるだけ。
ただそれだけなのに、心の芯が
折り重なっていた何かが、そっと消えていく。
いつまでも、この時間が終わらなければいいのに。
願いを胸に閉じ込めて、まぶたを降ろす。
ハッカとは趣が異なる、澄んだ冷たさがそろりと頬を撫でた。
通り過ぎていく、二年ぶりの秋。
終わりを告げる足音は、静かで、確かなものだった。
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