セカンド・オピニオン(2)【天正16年9月15日】
「そろそろ始めてもええかいなあ」
道三先生がのんびりと口を開いた。
はっと気付いたら座敷中の視線が集中していた。
揉め事の成り行きを道三先生たちは見守っていたらしい。
どことなく全員、笑い出したそうな気配がある。
というか、数人明後日を向いていたり、顔を伏せたりして静かに笑っている。
道三先生と目が合った。
「秋やのに春やねえ、姫さん」
しわ深い口元が、にたぁと三日月を描く。
……私で遊ぶ気満々だな、このおじいちゃん。
「おもろいもん見せてもろたわあ。
狂言の能書きでも書けそうやな?」
「うふふふふふふふ、そうでしょうか?」
誤魔化せないかなと思って愛想笑いしてみる。
道三先生のにんまりが深く深くなっていく。
だめだ、まったく効いてない。
「いやほんとおもろいわあ、
飽きへん姫さんやわあ」
「ありがとうございます、
今見たことは忘れてくださいね?」
「無理やなあ」
すぱっと道三先生は私のお願いを切り捨てた。
「拙僧は見聞きしたもんをな、
四十年も五十年も覚えとくおつむしとるねんわ」
「そうなんですか、
でも些事は忘れていただいて結構ですよ」
「んふふ、いややね。
姫さんがお嫁に行くまで覚えとくから安心しぃ」
安心できるか! それと幾つまで生きるつもりだ!?
こんなくだらない出来事は医術に必要ないでしょ。
今すぐに忘れてくれ。頼むから、本当に。
ウインクなんてして可愛い子ぶっても、全然可愛くないから。小憎たらしさがますばかりだから。
私が顔をひきつらせると、とうとう声を上げて笑い出した。
「伯父上、伯父上。そこらへんで」
お腹を抱えそうになってきた道三先生の羽織を、斜め後ろに座る玄朔先生が引っ張る。
「さすがに失礼ですやろ、
与祢姫さんだけやのうて他の方もおりますんやし。
それに
「なんや玄朔、真面目腐りおって。つまらんなお前」
「腐りもしますわ!
これは関白殿下にお
「ちょ、ちょっと待って!」
聞き捨てならない玄朔先生の発言に、慌てて口を挟む。
「どういうことですか、それ!?」
「そのまんまの意味ですわ。
殿下は我々が都出る前にお呼びになられましてな、
万事よしなにと」
「殿下は刑部さんに目ぇ掛けてはるんやねえ〜」
「え、ええ……」
マジか、秀吉様がマジで診察代を出したのか。
さらりとした曲直瀬親子の発言に顔が引きつる。
私に届いた手紙には、何一つそんなこと書いてなかったんだが。
石田様と紀之介様も私と同じくな様子だし、たぶん何も知らされていないっぽい。
秀吉様が黙って財布を開いたって、尋常じゃないことになってきたなあ。
「そういうことですゆえ、
掛かりの方はお気になさらず」
施薬院先生が、ドン引きの私たちに穏やかな笑みを向ける。
「本当によろしいので?」
「関白様のことがなくとも、
粧姫様のお力になれたらと思っておりましたから」
施薬院先生が茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。
遠戚の佐助を山内家で重用してもらえて、とてもありがたく思ってくれていたそうだ。
だから今回はちょうどいいお礼になるかな、と先生は考えてくれたらしい。
父様が売った恩を私が回収した形か。縁って巡るねえ。
「施薬院様、ありがとうございます」
「いえいえ、此度について礼を言うのはこちらでございます」
「?」
引っかかる言い方に施薬院先生を見つめてしまう。
にこにこと細まるメガネの似合いそうな双眸が、キラリと光った。
「我ら一同、かように興味をそそ、失礼、
治し甲斐のある患者様を紹介していただけて、
非常に胸がたかな、いえ、腕が鳴っております」
おいおいおいおい!
紀之介様の病気に大興奮だよ、このお医者さん!
よく見たら視線が紀之介様の手に釘付けじゃん。
悲惨な状態の肌を網膜に焼き付けんばかりだ。
気付いた紀之介様が袖に手を隠したら、あからさまに残念そうな顔になる。
やばい、この人ガチだ。ガチな皮膚疾患マニアだ。
完全に趣味で診察に来て、紀之介様を調べて遊ぶ気だ。
丿貫おじさんの袖を引いて助けを求めるが、柔和な表情で首を横に振られた。
止めてよ! 怖いよ! 紀之介様がバラされたらどうすんの!
「案じずともええよぉ、
わしらはこれでも
道三先生が自分の腕をポンポンと叩いて見せる。
その場の弟子たちも真似をして、次々各々の腕を叩く。
誰も彼もにこやかなのに、空気が怖い。
空気を読まない石田様さえ言葉を失う、狂気じみた好奇心が室内を満たす。
もうこれ、逃げた方が良くない?
私と、紀之介様と、石田様。三人分の視線が交わる。
静かに三人揃って、座ったまま後ずさりしてみる。
だが離れた分、道三先生たちが距離を詰めてきた。
「それでは、お脈拝見や」
壁際に追い詰めた私たちに、無慈悲な宣言が放たれた。
◇◇◇◇◇◇
入室を許可されて、座敷に戻る。
「紀之介様!?」
入ってすぐ紀之介様の元へ駆け寄る。
石田様に着物を直されていた紀之介様が、無言で微笑んだ。
あまりに淡すぎるそれに唖然とする私を見もせず、石田様がぽつりと呟く。
「……医者は、怖いな」
え、どういうこと。何をされたの!?
診察されたわけじゃない石田様の目から光が無くなるって、一体どんな診察をされたんだ。
診察の一環で紀之介様が着物を脱ぐだろうからって、気を遣って席を外すんじゃなかったよ!
煌めく額を付き合わせて話し合う坊主頭集団を睨む。
気付いた道三先生が、ふさふさの眉下にある片目を瞑った。
おじいちゃん、茶目っ気を見せている場合じゃないぞ。
何したの! 私の紀之介様に!!
「ほな結論から申し上げましょかぁ」
話し合いを終えた道三先生たちが居住まいを正した。
室内の雰囲気に、ピリッとしたものが加わる。
紀之介様の横顔に緊張が走った。
やっぱり診断結果の告知は、誰だって怖いものだよね。
固く握られた手に私はそっと手を添えた。
ちらりと見下ろしてくる紀之介様に頷く。大丈夫ですよと気持ちを込めて、しっかりと。
添えていた手が、紀之介様の手のひらに包まれる。
丿貫おじさんの目が鋭利な三角なっていくけど知らんぷり。
今だけだよ。今だけは、許してほしい。
私と紀之介様を楽しそうに見つめて、道三先生は口を開いた。
「刑部さんの病やけど、業病やないわ」
道三先生の言葉が鼓膜に触れた途端、体が痺れた。
熱いような、痛いような。血が体を巡る感触を近くしたような、ざわざわとした感触が全身を包む。
私の手を握る紀之介様の手の力が、いっそう強くなる。
「まず症状が違うわな。
手先足先の痛覚は鈍ってへん、
触れたもんの温度も感ぜられてる。
腫れもんの状態もちゃうわ」
紀之介様の頬に、歳のわりには張りが良い手が触れる。
「あの病の腫れもんはな、
こんな
文字通り顔も体も崩れてくのや。
刑部さんの場合はえらい肌が爛れとるが、
それだけなんや」
「それだけ? 本当に?」
潜めた声で私が訊ねると、せや、と明るい返事が返ってきた。
「肉も骨もまとも、どっこもおかしない。
膝や手首の節が痛むそうやが、これは使い痛みやろ。
こんだけ足と手の裏が爛れて膿んどるさかいな、
常ならんとこへ力を入れてつことるせいやと思う。
ほんまにな、それだけなんよ。
やから、業病とちゃうと判断した」
「……まことですか、それは」
低く、微かに震える紀之介様の問いが、道三先生へ掛けられる。
「つまり俺は、俺の体は、見苦しく腐り果てず、
惨めな死に様を晒さずに、まだ生きられる……?」
心臓の音が聞こえそうなほど、静まりかえる中。
年輪のような皺が刻まれた首が、ゆったりと縦に振られた。
「拙僧の見立てどすえ」
紀之介様の体が、ぐらりと前へ
「紀之介っ」
「紀之介様!」
咄嗟に石田様と私が両脇から支えようとして、勢いに負けて巻き込まれた。
体の大きくない私はひっくり返るし、石田様も大きく姿勢を崩してしまう。
慌てて私たち起き上がる前に、握られた手が腕ごと抱きしめられる。
痛いくらいに、力いっぱい、強く。
横倒しになった視界に、紀之介様が映る。
「しな、ない」
畳の緑の上に、透明な水滴がしたたる。
「死なないのか、まだ、
死なずにいられるのか、俺は、俺はまだ」
凛とした線を描く鼻筋を涙がいくつも伝っていく。
笑うことに失敗して、みっともなく喉を震わせて。
肺から突き上げてくる気持ちで溺れたように、涙が紀之介様の声を咽ばせた。
「死なないでいいんだ……っ」
後に続くのは、唸るような嗚咽ばかり。
私たちまで釣られて泣くには、十分すぎる涙だった。
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