再会【大谷紀之介・天正16年9月1日】
記憶よりも伸びた黒髪が、しなやかに揺れる。
「紀之介様、ですか……?」
あでやかに彩られた唇からまろびでる、あどけなさの抜けきらない声。
黒目がちな少女の双眸が、みるみるうちに丸みを帯びていく。
体中の血が、凍りつく心地がした。
考えるより先に、身をひるがえしていた。
痛む膝を叱咤して、今の俺に叶うかぎり速く動かす。
見られた。
あの子に、与祢姫に見られた。
この姿を、見られた。
心の臓を鷲掴みにされたと錯覚するような感情が、瞬く間に思考を支配していく。
隠し切れていたはずだ。
佐吉殿には口止めをした。母と
与祢姫の遣いには姿を見せないようにしてきた。
決して文の内容から気取らせぬよう、注意を払ってきた。
なのに。
なのに、なのに!
どうしてあの子が、俺の屋敷にいる!?
俺を呼ぶ声が追いかけてくる。
与祢姫の声だ。
恐ろしくて振り返ることなどできなかった。
どんな顔をして与祢姫が、俺を呼んでいるのか。
恐ろしくて想像できない。したくもない。
みっともなく走って、幼い与祢姫から逃げる。
ただひたすら逃げるなんて初めての経験だ。
戦さ場でも、交渉の場でも。計略以外で相手に背を見せたことはないのに。
たった一人の少女から逃げる日が来るだなんて、予想もしていなかった。
「ぅ、っ!」
自室に飛び込んだ拍子に、前のめりに体が傾いた。
咄嗟に手を突くが、手のひらと手首が体の重みに盛大な悲鳴を上げる。
あまりの痛みに力が抜け、不恰好に倒れ伏してしまった。
苦痛を噛み殺して足元を確かめる。
畳の上に汚らしい足跡が残っていた。足の裏に滲んだ血膿で滑ったらしい。
情けなさに噛む唇が裂けて、鉄臭い味が口に広がる。
「紀之介様っ」
息を乱した声が飛んでくる。
弾かれたように上げた視線の先に、与祢姫がいた。
走って追ってきたのだろう。
小袖の裾を乱し、戸口の襖に縋って肩で息をしている。
「近寄るな!」
幼いかんばせに浮かぶ表情を確かめるより先に、怒鳴っていた。
畳の縁を越えかけた傷一つない爪先が、ぴたりと止まる。
細く息を飲む音に安堵して、部屋の奥へ這って逃げる。
とにかく与祢姫と距離を取らなければ。
軋む体を叱咤して、壁に背を付ける。
こういう時に限って、側にあるのは
間の悪さに舌を打って、爛れた顔を袖で隠した。
「き、きの」
「出ていきなさい」
怯えを含んだ呼びかけを遮る。
「早く行きなさい。
ここは君がいていい場所ではない」
「どうしてっ? 私、紀之介様に会いたくて、それでやっと」
「俺は君に会いたくなかったんだ!」
振り払うように、あらんかぎりの力で声を張る。
「呼んでもないのになぜ来た!?
俺は腐り果てた姿を君に見せたくなかったのに!
どうして君はっ、どうして……!」
大きく開いた口の端がまた切れた。
血の苦さが、喉に落ちていく。
言ってしまった。凍りつく少女の気配に、泣きたくなる。
小さな子供に感情をぶつけるなんて、俺は心根まで腐れてしまったらしい。
でも、もう。後悔しても遅いか。
「出て行ってくれ」
荒げた声音をなんとか落ち着かせて、黙り込んだ与祢姫に告げる。
「もう二度と俺の元へは来てはいけないよ」
いいね、と押した念に返事はない。
代わりに、衣擦れが耳に触れた。
聞き分けてくれたか。肩の力が僅かに抜ける。
「嫌に決まっているでしょうが!」
甲高い怒声が空気を震わせた。
想定外のそれに、思わず袖から顔を出す。
それと同時だった。
練色の塊──与祢姫の体が、俺にぶつかってきたのは。
「ぐっ」
勢いで重みを増した体当たりを胸元で受け止める。
息が一瞬詰まった。わりときつい痛みに気を取られる。
耳元近くで派手な音が弾ける。
驚いて、咳き込みながら目を開く。
視界いっぱいに、与祢姫の顔が映った。
「与祢、」
「紀之介様」
なめらかな頬に笑みはない。
愛らしい目元を吊り上げて囁く声は、少女らしくない低さだ。
満面の怒りを俺だけに向けて、けれども嬉しそうに俺の名を口にする。
「離れろ! 早くっ!」
「離れない!」
「言うことをっ、聞けっ! 病がうつるぞ!?」
「嫌! うつらないわ!!」
何をしているのだ、この子は!
与祢姫を引き剥がそうと手を伸ばしかけて、躊躇う。
血や膿にまみれた手で、彼女に触れてはいけない気がした。
触れずに離れようと必死でもがくが許されない。
頭の横にあった与祢姫の腕が絡みついてくる。
「大丈夫」
膨らみの兆しさえまだない小袖の胸元に、腐りかけた頭が抱き込まれる。
「大丈夫ですから」
瑞々しい、花のような香りが濃く漂う。
片手で手折れそうな与祢姫の首筋から香っているのだ。
そう気づけるほど近くから、柔らかな声が落ちてくる。
「怖く、ないのかい」
「何が?」
「見てわかるだろう」
「ああ、お顔とか?
これすごく痛痒そうですよね、薬要ります?」
「与祢姫、そうではなくてね」
「手もなんだか前より荒れ方が酷くなってますねえ」
所在なく浮かせていた手に、白い手が触れてくる。
しっとりとした手のひらが、膿を含んだ腫れ物と瘡蓋だらけの甲を撫でる。
嫌悪など一切ない。労わりだけが込められた仕草に、ぎょっとしてしまう。
こんなふうに誰かに触れられたことなど、いつ以来だろうか。
「紀之介様、固くなってません?」
「驚いているんだよ、君に」
「どうして?」
「俺の病について聞いていないのか」
「えーっと、業病でしたっけ。
でも絶対それ誤診でしょ」
ふん、と腹立たしげに与祢姫が鼻を鳴らす。
「来る前に曲直瀬道三様に色々教えていただきましたけど、
業病の特徴は全然出てないじゃないですか」
「は? 待ってくれ、曲直瀬殿に教えを乞うたって?」
「はい、紀之介様のご病気を少しでも知っておこうって思って」
返ってくる返事は、実にけろりとしている。
爛れた指に与祢姫の指が絡んできた。
指遊びをするように、握ったり擽ったりを繰り返す。
「手とか足とかの傷、痛いでしょ」
「あ、ああ」
「本物の業病だと、あまり痛くも痒くもないらしいですよ」
「そう、なのかい?」
「曲直瀬様の受け売りですけどね。痺れたようになるそうです。
肌の爛れ方も聞いたのと違う感じがします、
紀之介様のは……漆被れっぽくないですか?」
言われてみれば、そうかもしれない。
すとんと腑に落ちるものがあって、気が抜ける。
軽やかな与祢姫の笑い声が降ってきて、抱えられた頭が撫ぜられた。
「ねえ、お顔を見せてくれませんか」
「気持ちの良いものではないから、止めたほうがいいよ」
「えー?」
「君の目にこんな汚らしいものを触れさせたくないんだ」
「何を変なこと言ってるんですか……」
あからさまな呆れが込められた声が呟く。
自分でも臆病極まりないと思うが、やはり恐ろしい。
崩れたこの顔を、与祢姫に晒す自信がない。
綺麗なものばかりを映す少女の瞳に映していいものなのか、不安でしかたないなのだ。
今更だとは思う。与祢姫は爛れた肌に平然と触れてくれた。
きっと怯えなどしない。幻滅などされないはずだとわかっている。
なのに、怖気づいてしまう。なんて情けないのだろう……。
「しかたないなあ」
そよりと柔らかなため息が、俺の前髪を揺らす。
与祢姫の体が身じろぎをした。
麻の小袖が、さやかな音を零す。
花の香りが、更に近くなる。
「っ!?」
あたたかなものが、額を掠めた。
勢いよく顔を上げる。
満足げな与祢姫の微笑みが鼻先にあった。
「引っかかりましたね」
薄桃の唇から額へ移された熱が、顔全体に広がっていく。
額に手を当てると、ますます楽しそうに与祢姫が笑う。
「……大人をからかうんじゃない」
「だって紀之介様が意地を張るから」
「業病ではないとしてもうつったらどうするんだ」
病人の膿は病の元になるらしいと、どこかで聞いた覚えがある。
俺は額も爛れているはずだ。口付けるなんて正気の沙汰じゃない。
軽く睨むと、小首を傾げていた与祢姫はくるりと後ろを振り返った。
「湯浅殿ー、紀之介様の病気って御家中の方にうつったことあります?」
「ありませぬなあ」
のんびりとした返答に、またしても俺の血は凍った。
軋みを上げそうなほどぎこちなく、与祢姫の腕から顔を出す。
戸口に、いつの間にかにやにやとした五助と、五助に捕まって口を塞がれてもがく佐吉殿がいた。
「おま、五助、いつからそこに!?」
「粧様が旦那様に抱き付いたあたりからです」
ほとんど最初からではないか!
一部始終を見られた羞恥にますます顔が熱くなる。
耐えきれず急いで与祢姫から離れようとするが、彼女がそれを許してくれるはずもなく。
ぎゅうぎゅうと細い腕の中に閉じ込められる。
俺の慌てぶりを面白がっているらしい。どさくさにまぎれて、子猫のような頬ずりまでしてくる。
「良い顔ですね、旦那様」
「からかっているのかい?」
「いえいえ。久方ぶりに旦那様の明るいお顔を拝見して、
五助は感激しておるのですよ」
大げさに言う五助はにやけたままだ。
後で覚えておけと、柄にもなく恨みがましい目を向ける。
「せっかく粧様のお側にいるのですから微笑まれては?」
「お前ね」
「怖いお顔をなさらないでくださいよ」
くつくつと喉を震わせながら、五助は俺と与祢姫に目を細める。
……雇う人間を間違えたかな。
思わぬ面を見せてきた側近に、目頭をつい揉んでしまう。
「紀之介様、誰にもうつってないんですって」
俺と五助のやり取りを見守っていた与祢姫が口を開く。
「……らしいね」
「私にもうつるなんて心配もしなくていいですね」
「そう、いうことになるね」
「うふふ、よかったですねえ」
嬉しげに彼女は頬を擦り寄せてくる。
妙に人懐っこいところは相変わらずか。
鬱屈としていた心が、ほんのりと晴れる心地がした。
与祢姫に応えてやりたくなって、そろりと手を彼女の背に添える。
「ぷはっ! 紀之介から離れろ、粧の姫!」
五助の手から逃れた佐吉殿が、大きな声を出した。
反射的に、ほっそりとした背に触れかけていた手を止める。
俺自身もわからないが、後ろめたさのようなものが刺激された、のだと思う。
荒っぽく畳を踏み鳴らす足音ともに、佐吉殿が俺たちの元へ近づいてきた。
無遠慮そのものの手が、与祢姫の帯をぞんざいに掴む。
「痛い痛い痛い! 内臓が出るー!」
「離れんか! 紀之介にべたべたするな!
暑そうだろうが!!」
「紀之介様ぁ! 助けて、石田様がいじめるの!!」
俺から引き剥がそうとする佐吉殿に、与祢姫は必死に俺にしがみつくことで抵抗する。
鬼だの乱暴者だのという与祢姫の叫びに、佐吉殿の細面が本物の鬼のように険しくなっていく。
「慎みを持て! 寧々様に言いつけるぞ!?」
「別に構いませんけど?
寧々様は子供であることを活かせって言ってたわ!」
「嘘吐くな!
寧々様はそんなふしだらなこと言わない!!」
「落ち着きなさい、ふたりともっ」
ぎゃあぎゃあと激しさを増す佐吉殿と与祢姫の言い争いに、たまらず割り込む。
さすがにちょっと耳が痛い。この至近距離で騒ぐのは勘弁してほしい。
思わぬ俺の参戦に二人が怯んだように黙る。
「静かにしてくれ、でないと出て行ってもらうぞ」
語気を心持ち強くすると、どちらも口を閉じてこくこくと頷いた。
聞き分けの良さに少しばかり可笑しくなる。容姿は似ていないのに、兄妹のようだ。
笑いを噛み殺して、俺は膝に乗り上げていた与祢姫を降ろす。
「無事か、紀之介。体は痛めておらんか」
「このくらい大事ないよ」
「だがこの娘は重いだろうが。
某も旅の途中で一度抱えたが腕がもげるかと」
「本当に大事ないから、
今しばらく待ってくれないかな」
洪水のように言い募る佐吉殿を押しとどめる。
佐吉殿をしゃべらせると、長い。
気遣ってくれるのはありがたいが、適度に止めないと一方的に聞かされる。
せっかく与祢姫が逢いに来てくれた折なのだから、勘弁してほしい。
五助に佐吉殿を任せて、与祢姫を側に座らせてみる。
やはり彼女は、大きくなっていた。
思い出の中の姿よりも、すらりとした若竹のような印象が強くなっている。
たった二年足らずで、俺の予想をはるかに超える成長をしたようだ。
「紀之介様?」
おずおずと見上げてくるかんばせには、化粧が施されている。
ほんのりとまなじりを蘇芳のような色で縁取り、薄いまぶたがきらきらとしてあえやかだ。
練色の小袖も化粧と相まって、大人びた風情を与祢姫に与えている。
幼子の精一杯の背伸びと言ってしまえば、それまで。
けれどもその精一杯がいじらしくて、胸がじわりとぬくもる。
父親の心持ちというのは、こういうものなのだろうな。
「与祢姫」
今度は気後せず、そのまろやかな頬に手を添える。
水に映った月のように、少女の黒々とした瞳が揺らぐ。
「とても、美しくなったね」
真珠のような雫が一粒、俺の傷だらけの指を濡らした。
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