雨に宿る【天正16年8月末日】
都から大坂や堺に行くには、川舟が一番良い手段である。
河川は曲がりくねりはしても、峠や山のような体力を奪う難所がないからだ。
水の流れがややこしいポイントはあれど、プロの舟頭さんに任せれば、安全に早く目的地へ行ける。
しかも流れに逆らわない下りであれば、所要時間はぐっと短縮できる優れものなのだけれど────。
舟宿の座敷から川を眺めて、大きく息を吐く。
見下ろす暗い灰がかった川面には、細かな波紋が広がっていた。
いくつも、いくつも。絶えることなく雨粒が落ちては、川の中へと消えていく。
土砂降りとまではまだいかない。
でも、かなりしっかりとした雨だ。
だめだね。川の水量が目に見えて増えて、流れも激しくなってきている。
この状態で舟を出すと、水難事故の危険が大きくなる。
水面が下がって水流が落ち着くまでは、きっと舟頭たちも出港してくれないだろう。
今日はこのまま伏見で一泊だ。
まさか伏見に着いた途端、雨が降り出すなんて予想もしていなかったよ。
朝はあんなに気持ちよく晴れていたのに! 騙された気分だよ!
窓辺から手を出して、雨に触れてみる。
粒がわりと大きい。今夜もたっぷり降りそう。
これじゃ陸路に切り替えるのも無理だな。
道がぬかるむだろうし、雨の中の旅はあんまり早く進めなさそう。
大人しく宿で待機して、舟が出るのを待ったほうが早いに違いない。
あーあ、最悪。
急ぐ旅だっていうのに運がなさすぎる。
憂鬱な気分が唇から盛大にこぼれてしまう。
「おい! 粧の姫!」
ぞんざいに呼ばれて首を巡らせる。
座敷の反対側にいる石田様が、振り向きもせず不機嫌なオーラを出していた。
「何度もため息を吐くな、鬱陶しい」
「失礼しました。では、別室でお茶でも」
「待て、馬鹿が」
腰を上げたらやっと石田様が振り向いた。
その顔にはめんどくささが全面に出されている。
「勝手に他所へ行くな」
「私がここにいたら石田様のお邪魔なんでしょ?」
「邪魔になっている自覚があったのか?」
「喧嘩売ってるんですか?」
出した声が心持ち低くなる。
もう一年近く身近で働いているけれど、変わらず物言いがイラつく人だ。
まったく、こんなだから関ヶ原で負けたんだよ。
不満たらたらな目で睨み合うことしばらく。
石田様が不服げに鼻を鳴らした。
「お前のお守りと寧々様に頼まれたのは某だ、
某の言うことは寧々様の言葉と思って聞け」
「……わかりました」
舌打ちしたい気持ちを抑えて、ふたたび腰を下ろす。
そうだった。寧々様のお言い付けがあるんだった。
主の命には従わなきゃだ。めちゃくちゃ不服だけど。
私が紀之介様のもとへ行くに当たって、寧々様が同行者を決められた。
それがこの石田様。
最も紀之介様の状況を把握していた人間が、彼だったのだ。
石田様は紀之介様とずっとコンビで働いてきた人だ。
長浜で秀吉様の小姓を務めた時代からの友人でもある。
それで公私に関わらず、石田様は定期的に紀之介様と面会している。
つまり石田様は紀之介様と会うハードルが、私よりもずっと低いのだ。
だから寧々様は、私と石田様をセットでお見舞いに派遣することとした。
私が一人で行くよりも石田様のお見舞いにこっそり同行した方が、会える確率は上がるだろうってね。
寧々様の読みは正しいと思う。
石田様が前に出てくれたら、紀之介様はたぶん油断する。
少なくとも門前払いに遭う心配は無くなるだろう。
でも、私と石田様の相性を考えてほしかったかな!
石田様は女子供に配慮しながら旅ができるような人じゃない。
その証拠に聚楽第を出てからずっと、私に雑な扱いをしてくるんだよ。
輿は遅いからって私を馬に乗せるわ、朝食抜きでかなりのスピードで馬を走らせるわ。
そんな散々な目に遭わせた上に、四六時中私を目の届く範囲に居させようとする。
トイレ以外ずっとだよ。子供の世話に慣れてない慎重派のお父さんか。
お夏や佐助が私の側にいるのに、脱走すると思ってるのだろうか。
どこまで私を信用していないんだか。すっごく腹立つなー!
「大人しく人形遊びでもしたらどうだ」
しぶしぶ川を眺める作業に戻ったら、石田様のぞんざいな言葉が飛んできた。
……振り向くのも面倒になってきた。
「私が人形で遊んで喜ぶ子供に見えますか」
窓の欄干に頬杖を突いたまま返事をする。
後ろで帳面を閉じる音が聴こえた。
「女らしい可愛げくらい身につける気はないのか?」
「その類いの可愛げは身に付けたくないですねー」
お人形のように大人しくて、家の中で遊んでるだけの女の子になるのはまっぴらごめんだよ。
だって私、根っからの深窓のお姫様じゃないからね。
性に合わない生き方はしたくない。
「まことお前は年々小憎たらしく育つな」
「そんなことないです。
紀之介様は素直に賢く育っているって、
褒めてくださいますもの」
「ふん、あいつを騙せるとは大した猫の皮だ」
「騙してませんっ」
ほんっっとに、ムカつくこと言うなぁ!
勢いよく首を巡らせて石田様を睨む。
平然とした澄まし顔に、神経が逆撫でされるような気分がした。
なんなのこの人。今朝からずっと私のイライラするポイントを、的確に刺激してくる。
意図がわからなすぎて、余計に不愉快になってくる。
「隣の座敷で休ませていただいても、
よろしいでしょうか」
一呼吸を置いて、申し出る。
キレそうな自分を抑えるには、少しこの場を離れるしかなさそうだ。
「疲れでもしたか」
「ええ、石田様のせいで」
本音を思いっきり投げつける。
「お前は堪え性のない女だな」
「そうです、姫ですから。
体力も気力も殿方ほどは無いんです」
「ならば無理して旅などせずとも良いものを」
「無理がないよう休める時に休みたいんです!」
まだやるの? 石田様、暇なの?
さっさと私を解放してよ。疲れたんだよ。
どうせ今日は、この宿で一泊するんでしょ。
早めに割り当てられた客室に戻して、明日に備えさせてよ。
紀之介様の看病に行く前に、私が体調を崩すなんてことになりたくない。
どうしてわかってくれないのかなあ! もう!
苛立ちに頬がひくつかせ、思いっきり目を怒らせる。
石田様と目が合った。
座敷の空気が張り詰めていく。
刀の鍔と鍔で迫り合うような睨み合いの中、石田様がおもむろに口を開いた。
「聚楽第に帰ったらどうだ」
「は?」
「堺へ下らずにここで引き返せと言っている」
想定外の発言に、返す言葉が出てこなくなる。
ほんの僅か奪われた呆気に、石田様がさらに踏み込んできた。
「どうせ無駄足になるのだ、
益のないことなどする価値もなかろうが」
「無駄足ってどういうことよっ!?」
頭にカッと血が昇る。
言わせておけばなんなの、この人。
価値がないとか無駄だとか、勝手に頭から決めつけて!
吹き飛びそうな自制を、欄干に爪を食い込ませて押し留める。
感情が激しく波打って、喉が痺れたようになる。
「……紀之介様を見捨てろと言うのですか」
「そうだと言ったら?」
「あなたのこと、この世の誰より軽蔑します」
声に凍てついた蔑みを込めて、石田様に浴びせてやった。
薄情者なんて程度で済ませてやらない。
紀之介様を見捨てろと本気で言っているなら、この人は正真正銘のクズだ。
あれだけ紀之介様の世話になっておいて、紀之介様が弱ったら捨てるなんて人のすることじゃない。
「石田様は良い友だって、
紀之介様はいつも言っていたのに」
困ったところも多いけれど、良いところもちゃんと備えた友達甲斐がある人だって。
できたら助けてやってくれって、私にまで頼むほど石田様のことを気にかけていた。
優しい紀之介様の気持ちを踏みにじるなら、私はこの人を許さない。
「……勝手に言っていろ」
「ッ、ほんっと、心が無い人ね!」
その一言で、私の感情は行き場を失う。
目が焼けるように熱い。震える手で、帯に挟んでいた扇子を引き抜く。
思いっきり振りかぶって、石田様めがけて投げつけた。
乾いた音を立てて、扇子が石田様の肩に当たる。
石田様は何も言わない。
膝元に落ちた扇子を、鉛のような目で追うだけ。
それが何故か、無性に悲しくなった。
「何か言いなさいよっ! 馬鹿っ!」
立ち上がって怒鳴る。
考える余裕はなかった。ただ、なんでもいいから言い返してほしかった。
ぐちゃぐちゃした感情を少しでもわかってほしくて、でも上手く言葉にできなくて。
手を上げて、声を荒げるなんて、私も他人のことを言えない。
「某は、」
ぼそりと、雨音に紛れるような声がこぼれる。
「これ以上、紀之介の心を乱したくない」
石田様が扇子を拾った。
男の人にしては細長い指が、艶めく黒漆の扇骨を開く。
「あれはお前がよほど大事らしい」
シャンパンピンクの扇面に描かれた、紫がかった白のクレマチスを指がなぞった。
「お前の目に、病んだ姿を晒すまいとしている」
「え……?」
「お前は、美しいものを好む。
同時に、病や醜いものを恐れるだろうが」
石田様の重苦しい視線が、私にぶつかる。
「紀之介の病は業病。
あれは、体が崩れていく病だ」
「崩れる……?」
「二目と見られない姿に変わり果て、二度と癒えぬ」
喉が細く鳴った。
心臓が冷たくなるような衝撃が体の自由を奪う。
足の力が抜けて、座り込んでしまう。
強ばる腕で自分の体を抱きしめて、うそ、と私は唇を震わせた。
「嘘ではない」
淡々とした否定が返ってくる。
「紀之介はお前の拒絶を恐れている。
この世の何よりも、怖がっている」
石田様が畳に手を付いた。
「頼む、どうか引き返してくれ」
秀吉様と寧々様以外にはほとんど下がらない頭が、私に向かって項垂れる。
痛々しい懇願が、鼓膜に触れた。
「あいつが絶望するところを、某は見たくないのだ」
雨が、激しくなる。
石田様の血を吐くような声音の余韻を、瞬く間に掻き消す。
まとわりつくような静けさと薄暗さが、部屋にわだかまっていく。
欄干を握る手の甲に、大粒の水滴が当たった。
冷たくて、痛い。氷で骨が穿たれるような痛みが、冴え冴えと私を貫いた。
「嫌」
絞り出した答えは、思ったよりも明瞭な音を伴った。
「私は紀之介様に会うわ」
石田様が頭を上げる。
白い面差しに、朱い色が走っていた。
立ち上がりざまに、腰の刀に彼の手が添えられる。
鯉口が切れる音が、悲鳴のようにこぼれた。
「ここで斬り捨ててやろうか」
「だったら全力で逃げて堺に駆け込んでやる」
「できると思っておるのか、小娘のくせに」
「できるできないじゃなくて、やるのよ」
座ったままの私の首に刃が触れる。
ひりつくような感覚が、切先の触れた肌から中へと潜り込んできた。
殺気の冴えに、いっそ心地良さすら感じる。
次の瞬間首を刎ねられても、苦しまなくて済むかも。
なんとなく安心したせいか、自然と微笑むことができた。
「舐めないで」
今日で一番なめらかに、私の舌は動く。
「私は惚れた男が身を損ねたからと言って、
目を背ける安い女じゃないわ」
◇◇◇◇◇◇◇
まだ雨の気配を残した空気が、朝を包んでいる。
「姫様、こなたへ」
お夏に手を取られ、私は予約してあった高瀬舟に乗り込んだ。
しっとりとただよう靄が、体に絡んでくる。
嫌だな、髪がうねりそう。舟から降りたら整え直さなきゃ。
座の間に誘導されて、腰を下ろす。
水の音が近くなる。船縁を見れば、穏やかな流れが目に入った。
川の水位もずいぶんと下がっているようだ。
これならば安全に堺まで下れることだろう。
舟が揺れた。ぎしぎしと足音が近づいてくる。
まだ尖りを帯びた気配が、私の真横に座った。
「おはようございます」
「ああ」
視線を向けずに、私と石田様は挨拶を交わす。
それ以上はどちらも口を開かず、川を眺める。
間を置かず、船頭が出港を告げる声を張り上げた。
舟は川岸から、ゆっくりと離れていく。
ギ、ギ、と舟を漕ぐ櫂の音が、一定の間隔で耳を打つ。
「……覚えておけよ」
石田様が唇を動かさず、呟いた。
「もし、紀之介の姿に僅かなりとも竦んだら」
警告のような鍔鳴りに、私は目を細めて頷いた。
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