紀之介様の隠しごと【天正16年8月下旬】
体が、動いた。
「姫様、お待ちを!」
お夏とおこや様を置き去りに、廊下を走り出す。
お行儀が頭から吹っ飛ぶ。孝蔵主様に見つかって、叱られたって構わない。
そんなこと、気にしている場合じゃないもの。
足を動かす。速く、早く。自分の限界いっぱいの速さで、足が痛くなっても走る。
紀之介様が、東様の息子なの?
紀之介様が、不治の病に罹っているの?
息が切れる。心臓がうるさい。でも、止まれない。
東様に聞かなくちゃ。東様が、紀之介様の母様なのですかって。
確かめるのが怖いけど、確かめなくちゃいけない。
大好きな人が、病気かもしれないのだ。
きちんと確かめない方が、後でずっと怖いことになるかもしれない。
だから、だから。
「東様っ!」
侍女を押しのけて、東様の寝室の襖を開く。
小綺麗に整えられたお部屋には、かすかに青臭さが漂っている。
薬草の臭い。病気に直結するそれが、嗅覚から不安をあおり立ててくる。
「お与祢ちゃん?」
近頃はのべられっぱなし褥の側に寝間小袖姿の東様と、東様の肩を抱いて寄り添う寧々様が座っていた。
突然すぎる私の登場に、二人とも唖然としている。
唇を噛んで、一歩。部屋の中へ踏み込む。
ずんずんと、肩で息をしながらお二人の元へ行く。
私を振り仰ぐ東様のお顔を、まじまじと見つめる。
似ている。メイクしていない東様の目元、紀之介様そっくりだ。
やだ、泣きそう。なんで私、気づかなかったんだろ。
わななきそうな口元を両手で覆う。目の奥が、熱い。
「東様が、紀之介様のお母様なの……?」
寧々様と東様が、顔を見合わせる。
どうして私が紀之介様を知っているのか、ご存知ないもんね。
だって紀之介様との文通は、城奥の誰にも話していなかったことだし。
きちんと説明しなきゃいけないが、それは後回しだ。
「教えてください」
目に力を込めて、涙を押さえつける。
わずかに震える息を吐いて、私は東様に訊ねた。
「紀之介様が、東様の御子息なのですか」
東様の双眸が、見る間に大きくなっていく。
少し色を失った唇が音もなく喘ぐ。
私の発言が、東様の言葉を奪ってしまったらしい。
視線が、重なる。互いに、信じられないものを見たようになってしまう。
先に目を逸らしたのは、東様だった。
萎れるように項垂れた彼女を、寧々様が支える。
そうして、苦いものを吐き出すように口を開いた。
「……貴女の知る紀之介が、
大谷紀之介であるならば」
息が、不恰好に止まる。
寧々様の、複雑な陰りを宿した鳶色の目が、ひたりと私に据えられる。
足の力が抜けた。ぺしゃりとみっともなく座り込んでしまう。
今度こそ、涙が溢れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「紀之介とお与祢が文を、ねえ」
頬に手を当てて、上座の寧々様が呟く。
困惑とも、驚愕ともつかない感情を乗せた独り言である。
脇息に体を預けて座る東様も、その側に控えるおこや様も似たり寄ったりなご様子だ。
ちょっと、どころではなくいたたまれない。
下座で小さく肩をすぼめて俯き、空の文箱を見下ろした。
寧々様に命じられて、洗いざらいの事情を吐かされました。
まあ、当たり前だよね。なんで箱入り姫の私が、身内じゃない紀之介様と親しいんだって詰められるのはさ。
なれ初めから文通のことまで、もらった手紙の実物をお見せしつつ話しましたとも。
私たちの潔いお付き合い状況は、証明しとかないといけないからな……。
間違いが起きるはずもない年齢差だけど、立場的な意味でね?
紀之介様に城奥の幼い女房に手を付けた、なんて醜聞の濡れ衣を着せるわけにはいかない。
私が親バレで恥ずかしい思いをするくらい、軽いもんだ。
今すぐそこの池に飛び込みたいくらいだけどねー!
「兄さん……わたしに送りつける文より、
お与祢ちゃんに送る文の方が長くて優しいってなんなのよ……」
おこや様が、あきれたように手紙を一枚を摘む。
あれは去年の一〇月頃にもらったものだ。
その前の年に行った紅葉狩り楽しかったよねー、また行こうねー的な内容が書いてある。
本物の妹に送る手紙よりも長かったのか。
ちょっとした近況報告や相談事、興味のあることなどの話しか書いてないはずなのだけどなあ。
家族には適当なタイプなのかな、紀之介様。
「あっ、母上見てよ、これ!
兄さんがお与祢ちゃん相手に和歌を贈ってる!」
和歌が書きつけられた短冊を、おこや様が手紙の山から引っ張り出して東様に渡した。
短冊を受け取った東様の手元を、興味津々な寧々様が覗き込む。
「あら、あの子、こんなもの詠めたの」
「でもあまりにも色気がないわ、
姫君に贈る和歌だっていうのに紀之介ったら」
「ごめんなさいね、お与祢ちゃん。
うちの息子、女の子の扱いがなってなくて」
寧々様たち、あれこれ好き勝手言うなー。
思いの外の酷評で、紀之介様がかわいそうになる。
普通に上手いと思うんだが。少なくとも、私よりずっと。
それにその短冊はね、私と紀之介様が一緒に拾った紅葉を漉き込ませた和紙で作った品なんだよ。
私が作らせて差し上げたものを、思い出の一部だよーって使ってくれたんだ。
送られた季節と、紅葉狩りを懐かしむ和歌の内容にも合っていて、かなり洒落ていると思う。
でもそんなフォローをすると、変な藪蛇になりそうだ。
紀之介様には悪いけど、黙っとこう……。
あれ、さっきまでのシリアス、どこ行ったのかな?
「お与祢」
「っ、はい!」
さんざん紀之介様の和歌をdis、いや、品評してから、寧々様が顔を上げる。
「一応聞くけど、これは恋文ではないのよね?」
「もちろんです! 紀之介様にそういった意図は、
決して無いかと!」
ぶんぶんと、千切れんばかりに顔を横に振る。
せっかく城奥に勤めるんだから雅事の練習もしようねって、去年の秋から和歌を交換してるだけだ。
私はともかく、紀之介様に他意はない。
小学生が担任教師の交換日記、それも宿題みたいなものだ。
個人的に残念だが、雅な恋の遊びではない。
手紙についても同様だと考えてもらいたい。
「そうなの、でも少し驚いたわ」
「申し訳ございません……内緒にしていて……」
「構わないわよ、そこは」
あっさりした否定に、きょとんとしてしまう。
よかったの? 身内以外の男性と文通していても。
「紀之介はうちの人の身内で、
うちの人に似ず分別のある子ですもの」
「は、はあ」
「驚いたのはあの子が東やおこやに黙って、
他家の姫と親しくしていたってことよ」
ねえ、と寧々様は東様に目配せをした。
眉を微妙に下げたまま、東様が頷く。
「まさか紀之介が病を隠しながらお与祢ちゃんと文を交わしていたなんて、夢にも思いませんでした」
「妹のわたしよりお与祢ちゃんの方が兄さんの近況に詳しいって、いっそ笑えますわ」
おこや様がやれやれと、頭を軽く振る。
その顔には、心配して損したと、大きくわかりやすく書いてある。
なんか、申し訳ない気分になってきた。
のほほんと私が文通を楽しんでいるのと同時進行で、大谷家内が修羅場っていたとは。
知らぬこととはいえ、空気の読めないことをしてしまった罪悪感的なものが湧いてきた。
「あの、本当にすみません」
募るいたたまれなさで、もう一度頭を下げる。
「紀之介様がご病気なんて、ちっとも気づかなくて」
「いいのよ、気にしないで。
紀之介は隠し事が上手いの」
苦笑ぎみに、東様がおっしゃる。
そうなの? おこや様の方を見ると、肯定するように肩を竦められた。
「本気で何かを隠そうとしたら、
周到にやって死んでも口を割らない人よ」
今回は失敗したようだけど、と呟きながらおこや様は手紙を片手で弄ぶ。
意外だ。紀之介様って誠実な人のイメージが強くて、人を騙すこととは無縁な方だと思っていた。
思い返せば紀之介様は家族の話なんて、一つもしてくれたことがなかったな。
私が城奥に入るとわかった時点で、東様とおこや様のことを話してくれてもよかったはずなのに。
これは意図的に隠した、ってことになるのかな。
どうして紀之介様は、そんなことをしたんだろう。
私の口から、東様たちに近況が知れるのを避けたかったってこと?
考えても、理由がわからなすぎる。
まだまだ紀之介様について、知らないことが多かったんだな……。
「その……紀之介様のお具合は……」
話題の切れ目が怖くて、無理矢理繋いでみる。
一番知りたいことを、まだ聞いていなかった。
今日届いた手紙には、病気のびの字の気配もなかった。
どんな状況で紀之介様が筆を取っていたのか、心配でならない。
おそるおそるうかがった寧々様たちの顔色が、ぐっと悪くなる。
どきりと心臓が、嫌な跳ね方をした。
「良い、とは言えないわ」
東様が、掠れ声で答えてくれる。
東様が紀之介様の病状に気づいたのは、四月の行幸の折。
紀之介様は頭巾を被って顔を隠し、手も手袋で覆った肌を見せないスタイルで参加していた。
許可は取っていたが明らかに目立つ風体で、表の方で少し騒がれていたようだ。
当然頭巾を脱げ、いや脱げないみたいな、揉め事めいたものも起きた。
石田様や片桐様が間に入ったけど、突っかかってきた相手がずいぶんと頑固で、話を聞かなかった。
結局紀之介様が折れて、少し頭巾の布をずらして見せ、事を納める羽目になったという。
その頭巾の下の肌が酷く爛れていた、らしい。
しかも揉め事に居合わせた誰かが、紀之介様の頭巾の下について悪意を込めた噂を流した。
大谷刑部は
移ったらやばいからみんな縁を切った方がいいかも、ってね。
噂流した人はモラルをどこに捨ててきたんだ?
病気で大変な紀之介様に、なんて心無いことしてくれるんだよ。
見つけ出し次第、鼻の下に薄荷油を塗ってやりたいくらいムカつく。
この酷い噂はたちまち表を駆け巡り、間を置かずに東様たちの耳にも入った。
そして看病するしないで親子で揉めて、押し切る形で東様が紀之介様と面会したのが先月。
四月よりも、もう少し状態は悪くなっていた。
手どころか足の裏も爛れてしまい、痛痒くて歩きにくくなっていたのだとか。
顔どころか手、足の裏まで爛れるって、そんな病気あったっけ?
聞いたかぎりの症状は
ともかく、なにかはわからないが、酷い病気なのは間違いないようだ。
対症療法でも、有馬温泉での湯治でも治らず、むしろ悪化の一途を辿っているというから相当キツイ。
堺でも腕利きという医者にも診せたらしいが、すぐ匙を投げられたそうだ。
原因不明、たぶん業病、諦めてくださーい。
ざっくり言うと、そういう診断を下されたらしい。
「その医者、ヤブですか」
口から飛び出した言葉が、あからさまに怒りを帯びてしまう。
そりゃ紀之介様の心も折れるわ。患者を絶望させてどうするんだ、医者。
ドクターハラスメントで生きる気力をなくしたなんて、あまりにもかわいそすぎる。
あとでどこの医者か聞き出しておかなくちゃ。
与四郎おじさんに頼んで、京や大坂で二度と開業できなくしてやる。
「南蛮の医術を学んだ者らしいのだけど……」
「目新しいものを学んでいても、
名医とは限りませんよ?」
新しい物好きの医者とか、お呼びじゃないよ!
もっと実践向きの医者を引っ張ってこよう!?
ケース経験豊富で、既知ではない病気でも地道に原因を究明してくれるようなさ!
鼻息を荒くする私を眺めて、寧々様もそうよねえとため息を吐いた。
「下手な医者にかかるくらいなら、
うちの人に頼めばよかったのに」
「殿下のお口添えがあるなら、
曲直瀬様に診てもらうこともできましたよね」
「ええ、もちろんよ。
紀之介はうちの人のお気に入りですもの」
紀之介様、秀吉様のお気に入りだったんだ。
福島様をかなり可愛がってらっしゃる印象が強かったから、まるで気づかなかったよ。
少し驚いていると、寧々様がくすりと笑った。
「紀之介はね、小一郎殿によう似ているから」
「大和大納言様にですか?」
「頭も気性もね。
市松と違った形でいじらしいんでしょう」
なるほど? よくできた親戚の子なので可愛いってこと?
福島様はやんちゃで元気な子枠、紀之介様はお利口で出来の良い子枠的な感じか。
自分の右腕である優秀な弟に似ているとなれば、期待もするし可愛くなっちゃうものだよね。
もし秀吉様と寧々様に子供がいたら、だいたい紀之介様くらいの歳まわりでも不思議じゃない。特別感マシマシだ。
「ともかく! このままではいけないわ。
あの子をちゃんとした医者に診せないと」
パンッ、と寧々様が扇子を片手に打ち付ける。
「でも、どのようにいたしましょう?
紀之介はこうと決めたら、親の話でも聞きませぬし……」
「ふふ、案ぜずとも良いわ」
困り顔の東様に、寧々様が片目を瞑って笑う。
余裕たっぷりになったその様子に、私とおこや様は顔を見合わせた。
紀之介様に言うことを聞かせる方法を思いついたのかな。
例えば、石田様に説得させるとか?
石田様なら紀之介様を強引に説き伏せる、もといへし折って、曲直瀬先生の前に引きずり出せるかも。
福島様にお願いして、腕力で屋敷から強制的に連れ出すって方法もありか。
力で解決するなら、絶対あの人は向く。頼めば絶対にやってくれる。
「お与祢」
「えっ、あっ、なんでございましょう!?」
不意打ちで寧々様に呼ばれて、声が裏返る。
そんな私をくすくすと笑って、寧々様が目を細める。
寧々様のいじわるぅ……!
うらめしげにまぶたを落とすと、寧々様はさらににまにまを深くした。
「紀之介に会いたくはない?」
「……正直に申し上げてもよろしいでしょうか」
おそるおそるうかがうと、寧々様は深く頷いてくれた。
東様とおこや様のお顔を見比べると、彼女たちも頷いてくれる。
なら、ぶっちゃけても大丈夫かな?
「お許しがいただけるならば、
今すぐにでも堺へ行ってお世話をしたいです」
どきどきしながら、はっきりと気持ちを口にする。
お姫様にふさわしい言動では、はないかもしれない。
けれど、隠しちゃいけない気がする。
だって、私にとって大事なことだ。隠すべきじゃない。
聚楽第を飛び出せるものなら、すぐに飛び出したい。
堺の紀之介様のお屋敷にまっすぐ行って、紀之介様の看病をさせてもらいたいよ。
だって、心配で心配でたまらないんだもの。
治してあげられなくても、苦しいのを和らげてあげられなくても、お側にいたい。
お側にいれば手を握って、愚痴や弱音を聞いて、つらい気持ちに寄り添うことならできる。
紀之介様が一人で苦しんでいるなんて、嫌だ。
そんなの、考えるだけで私の心も潰れそうになる。
好きな人のつらさに寄り添えないのは、何より悲しいことなのだから。
必死で紡ぐ私の言葉を、気持ちを、寧々様はじっと耳を傾けてくれた。
そうして、満足そうな微笑みをこぼされた。
「ならば、許しましょう」
寧々様を、思わず見上げる。
どこか嬉しげで、いたずらっぽい表情がそこにあった。
「紀之介のもとへ行きなさい」
「よ、よろしいのですか」
「もちろんよ、貴女の気持ちはよくわかったから」
手招きをされて、おそるおそる寧々様の側へゆく。
寧々様の手が、私の手を取った。
「まだ、こんなに小さいのにねえ」
大きさを確かめるように、何度も撫でられる。
どういう意味だろうかと、お顔をうかがう。
なんでもないわ、と寧々様は首を横に振った。
「紀之介を、説得してきて」
「私が……できるでしょうか?」
「貴女をおいて他はない、とあたくしは思うの」
柔らかな曲線を描いた唇に、お与祢、と名を呼ばれた。
「紀之介をお願いね」
行ける。紀之介様の、お側に。
上手く表現できないものが、胸に込み上げる。
寧々様へのお返事が掠れてしまったのは、しかたのないことだった。
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