嵐のあと、静かなる(2)【天正16年6月中旬】
茶々姫様の局へ、足を踏み入れる。
青い畳の匂いが漂うそこは、見違えるほど素敵な空間に変わっていた。
飾られた夏の花、棚や軸絵などの調度、几帳や衣桁に掛けられた衣。
鮮やかな朱をメインカラーに据えたインテリアが、見事なバランスで調和している。
局で働く侍女や女中の衣装もそれぞれ統一されて、以前とは比べ物にならない洒落っぷりだ。
彼女らの躾も、ずいぶんと行き届いているらしい。
出迎えの女房さんに先導される私に、誰もが恭しく頭を垂れてくれる。
品の良い華やぎに満ちる局の様子に、新たな後見人の趣味と矜持がうかがえた。
茶々姫様の膝元は、もう二度と以前のような醜態を晒すことはなさそうだ。
足を進めていくと、ころころとした笑い声がいくつも転がってくる。
池のある庭に面した、茶々姫様の居室の方からだ。
誰か、お客さんが来ているのだろうか。
「江様と加賀の方様がいらしておりますの」
先導をしてくれている女房さんが、くすりと笑みをこぼして振り向いた。
「近頃はよく、主を見舞ってくださるのです」
袖殿たちが排除されて、元々お仕えしていた者が戻ってきて。
それ以来、お二人と茶々姫様の関係は、少しずつ良くなってきているそうだ。
様子を伺うような最初のお見舞いの際に、茶々姫様が詫びられたらしい。
状況に流されてしまったことや、袖殿たちを止められなかったことをだ。
江姫様たちは、それでやっと茶々姫様の胸中を想像できたのだとか。
何も話してくれないなんて水臭いと言いつつも、空白を埋めるように、茶々姫様と過ごしているみたいだ。
「それはようございましたね」
「粧の姫君のおかげでございます」
綺麗な黒髪の頭が、私へと深く下げられる。
「貴女様が手を尽くしてくださいましたから、
茶々様のお心が安らかになりました。
我らも、茶々様の元へ戻ることが叶いました」
ありがとうございます、と柔らかな声が紡ぐ。
そういえば、浅井や柴田に縁がある彼女らは、結構苦労をしていたんだったか。
蕗殿をはじめとした茶々姫様の元女房たち。
その捜索は当初、父様に頼んでいた。
山内家の長浜は、浅井の旧領に含まれるからね。
そのへんにいるんじゃないかと思ったのに、これがなかなか見つからない。
困って摩阿姫様経由で前田家に手伝ってもらって、ようやく探し当てたら当てたで、みんな苦しい生活をしていた。
雇い口が見つからなかったとか、実家が没落していたとか、わりとかわいそうなことになっていたのだ。
だが困窮しながらも、彼女らは茶々姫様のことを気にかけていた。
渡してもらった私の手紙を読んで、すぐ都へ飛んできてくれるほどに。
江姫様にまた茶々姫様に仕えるよう説得してもらおうと思っていたのに、その必要がまったくなかった。
そのくらい忠誠心が高いから、戻ってこれて感無量なのだろう。
「頭を上げてください」
「ですが」
「私はほんの少し、寧々様へ口を利いたに過ぎませんから」
女房さんの肩に手をかけて、顔を上げさせる。
誠実そうな面差しだ。今の茶々姫様の周りの人間に共通しているそれは、とても好ましく感じる。
「一の姫様のため、
また真摯にお仕えして差し上げてくださいね」
「はい……、不作法を、いたしました」
まつげにかかる雫を払って、女房さんが微笑む。
呼び戻してあげてよかったと思わせる人だ。
塞翁が馬とはちょっと違う気もするが、まあ近いようなことになってよかったよ。
気を取り直した女房さんに導かれて、茶々姫様の居室へ向かう。
居室である座敷の戸口に、まず女房さんが膝を突いた。
「茶々様、粧の姫君がまいられました」
「通してあげて」
淡い明るさに満ちた声が返されてくる。
女房さんが私に頷いてくれたので、お夏から化粧箱を受け取って入室した。
「与祢、いらっしゃい」
上の座でくつろぐ茶々姫様が、おっとりと目を細めた。
傍らには、江姫様と摩阿姫様が寄り添っている。
お茶を飲みがてら、談笑中だったらしい。三人それぞれ、リラックスしたご様子だ。
和やかな空気にほっとしながら、座敷の下手に腰を下ろして一礼をした。
「ご機嫌麗しく存じます、一の姫様」
「うふふ、良いところに来てくれたわ!
こちらに来てちょうだい?」
瞳を宝石のようにきらめかせながら、茶々姫様が手招きをする。
まるで小さな女の子みたいで可愛らしい。
微笑ましい人だと思いながらお側へ行くと、控えていた蕗殿が反物をいくつも乗せた盆を持ってきた。
「あのね、茶々ね、
今日は秋のお着物の布地を選んでいるの」
見て見て、と茶々姫様が私の前に反物を広げる。
鮮やかな蘇芳にオレンジみを帯びた山吹、リンドウの花のような青みがある紫。
柄も金糸で縫い取られた菊の花や月、秋の七草や紅葉の繊細な刺繍などばかりだ。
なるほど、季節を少し先取りしたラインナップだ。
「姉様にって、殿下が昨日お持ちになったのよ」
「でも、たくさんあるでしょう?
一人では選べないと、茶々姫様が申されて」
「
江姫様と摩阿姫様が、ねーっと顔を合わせて笑う。
茶々姫様も二人のやりとりを、楽しげに眺めていらっしゃる。
どうやら御三方、すっかり元通りの仲みたいだ。
「ね、ね、与祢も一緒に選びましょ」
膝を寄せてきた茶々姫様が、くいくいと私の袖を摘む。
「私もですか?
あの、お顔のお手入れに参ったのですが」
「お手入れは後でもいいよ?」
「後って言いましてもね」
「茶々、今は与祢とも遊びたいな」
お願い、と小首を傾ける茶々姫様のさまに、歳に見合わないあどけなさが漂う。
ついつい、いいよって頷いてしまいそうなほど愛らしい。
ともすればぶりっ子っぽくてむかつく仕草だけど、この人がやると嫌な気分にならないから不思議だ。
これが秀吉様をめろめろにする、茶々姫様の魅力ってやつか。
「姫様、なりません」
こほん、と蕗殿が咳払いをした。
私の袖を摘む茶々姫様の指を、つんつんと突く。
「布選びはまた後になさいませ」
「少しだけよ? 蕗、お願い。だめかしら?」
茶々姫様は上目遣いで乳母を見つめる。
へにょんと、柴犬の子犬みたいに愛くるしく眉を下げてだ。
すごい。可愛いの権化か。これは勝てん。甘やかしたくなる。
だが蕗殿は可愛らしい主を、めっというふうに軽く睨み返した。
「粧の姫君のお仕事を邪魔してはいけません」
「そんなぁ」
「さっ、衣を離して差し上げなさいまし」
「むー……」
乳母と姫君の、声無き争いが続くことしばらく。
押し負けた茶々姫様の桜色の指先は、そろり私の袖から離れた。
席に戻った彼女は、目に見えてしょんぼりとしている。
よろしい、というふうに蕗殿が頬を緩めて反物を盆に戻し始めた。
「それじゃ、わらわたちもお暇しよっかな」
「江、行っちゃうの?」
「お手入れのお邪魔になるといけないしねー」
腰を上げた江姫様たちに、茶々姫様が寂しそうな目を向ける。
口元を袖で覆って、摩阿姫様が茶々姫様の前に膝を突いた。
「今日のところは帰ります、
でもまた明日も選ぶお手伝いをさせてくださいな」
「ほんと? 摩阿、また来てくれる?」
「もちろんですわ」
ね? と摩阿姫様に振られて、江姫様も頷く。
「焦らなくても、時間はたくさんあるよ。
まずはお体をいたわってちょうだい、茶々姉様」
にっと明るい表情で、長姉のほっぺをつんつん突いた。
きょとんとした茶々姫様のお顔が、みるみる明るく綻ぶ。
「うんっ」
とっても元気のいいお返事に、私たちの笑みも溢れる。
そうしてさらさらと衣の音とともに、江姫様たちは退室して行った。
賑やかさの余韻が残る室内には、私と茶々姫様だけになる。
私ならば任せられる、と蕗殿もお茶の支度に下がっていった。
女中までごっそり処刑されたせいで、人手が足りていないらしい。
乳母にして筆頭女房の蕗殿までもが、侍女じみた仕事までする必要があるのか。
ずいぶんと大変なことだ。寧々様のお耳にも入れておこうかな。
もしかしたら、求人に手を貸してくださるかもしれないし。
スキンケアの準備の手を止めず、そんなことをぼんやり考える。
施術のための褥と、湯の用意はこんなものかな。
「さて、お肌の手入れをいたしましょうか」
「はぁい」
振り返って、茶々姫様に声をかける。
茶々姫様は、にこにこと素直に応じてくれた。
「痒みや痛みはございませんか?」
フェイスマッサージを施しながら、茶々姫様にお訊きしてみる。
ゆるゆると頷いて、茶々姫様はうっとりと呟いた。
「いいかおり……きもちいいな……」
そうでしょうとも。嬉しくなって、マッサージする手つきが優しくなる。
今日のマッサージオイルは、ハマナスの
ベースの白ごま油は特有の香りがほとんどなく、代わりにブレンドしたローズマリーのエッセンシャルオイルが、清々しい香りが高く出している。
もちろん、肌荒れにも効くよ。
ローズピップにはビタミンCを多く含み、ローズマリーは抗炎症作用が素晴らしく高い。
ごま油だって、肌のターンオーバーと保湿に効果バツグン。新陳代謝を上げてくれる。
強くも弱くもない力加減でリンパを流してもいるから、超気持ちいいこと請け合いだ。
それに、他人にしてもらうマッサージほど、気持ちいいものはないしね!
「ようございました。
だいぶお肌の調子も良くなられましたね」
「そう……?」
「ええ、以前に比べると見違えるようですわ」
茶々姫様の肌の荒れは、ずいぶんと改善している。
蕗殿の食事や睡眠の管理と、丿貫おじさんの治療の成果だ。
おかげで血が滲むこともないし、痛みや痒みも無くなってきている。
確実に茶々姫様のお肌は、元の白さときめの細かな美しさを取り戻しつつあった。
「なら、もうお化粧できるかな?」
「だめです、今しばらくは我慢です」
「む……まだなの……」
尖る口元を、苦笑まじりに揉みほぐす。
そのお肌にはかぶれた跡が残っている。まだまだとても、揺らぎやすい状態だ。
肌の刺激を減らすためにも、メイクはお預けにするのが吉だと思う。
「でも、あとひと息ですよ」
「ひと息ってどのくらい?」
「そんなに長くないかと、
少なくともに七夕なるまでにはできます」
やった、と目を閉じたまま茶々姫様がはしゃぐ。
「はやく与祢にお化粧してもらいたいな」
「その時は、腕を振るわせていただきますね」
「約束よ?」
もちろんさ。秋服にぴったりなメイクをして差し上げよう。
茶々姫様は天正では珍しい、ハーフっぽい系統の美人だ。
いつもと一味違うメイクを試せるかもって、私は密かにわくわくしている。
くっきり二重だから、アイメイクが映えるだろうな。
とびっきり可愛らしいお顔立ちだもの。甘くてガーリーな、ピンクメイクが似合いそう。
アイシャドウやリップのカラバリを、もーっと増やさなきゃね。
「与祢」
マッサージを終えて、オイルを落としている途中。
茶々姫様が、ぽつりと呟いた。
「ありがとうね」
リップ無しでも桜色の唇が、甘やかな吐息とともに動く。
「あなたのおかげで、またみんなと仲良しに戻れたわ。
茶々、とっても嬉しいの」
「もったいないお言葉ですわ」
苦笑気味に目礼して、柔らかい手拭いでオイルを拭い続ける。
「でもすべては、杏が私に手を伸ばしてくれたからこそですよ」
「杏? あの、南蛮人の子?」
ぱちくりと目を瞬かせる茶々姫様に、そうです、と頷く。
あの子がいたから、私が茶々姫様をお助けできたようなものだ。
大勢を向こうに回して戦う義侠心と、必要なら敵対者の言葉にも耳を傾けられる賢さ。
二つの美点を兼ね備えた杏こそが、茶々姫様救出の立役者だ。
アシストしただけの私より、あの子の方がずっとえらい。
「ですから、お礼ならば杏へお願いします」
「ふぅん」
唇に指を当てて、茶々姫様が睫毛を伏せる。
「でも、茶々は与祢の方が好きだな」
「へ?」
桜の唇から漏れた小さな声に、オイルを落とす手が止まる。
思わず、褥に横たわったままの茶々姫様を見下ろす。
傷があっても魅力を損なわないお顔が、ふわりと、花びらのように色づいた。
「茶々を治してくれたのは、杏じゃなくて与祢だもん」
「え、ええと、それは医師の治療が、功を奏して……」
「お医者様を呼んでくれたのは、与祢でしょ?」
確かに、丿貫おじさんを招いたのは私だ。
「杏の時は、ずっと痛くてつらかったのに、
与祢はあーっと言う間に痛くなくしてくれたじゃない?」
「茶々姫様、だとしても、ですね」
「違わないでしょう?」
黒真珠に似た無垢な黒の瞳に捕らえられ、私は口を噤んだ。
茶々姫様の指摘は、ある意味では間違っていない。
私が手を出してから、茶々姫様の肌の状態が上向いたのは事実である。
だけど、それと杏の献身とは別の話なはずだ。少なくとも私は、そう思っている。
どう説明したものか。良い言葉が上手く見つからず困っていると、茶々姫様が軽やかに笑い出した。
「うふふ! じゃあ、与祢が一番茶々を助けてくれたってことになるよね?」
「い、一の姫様、でも、杏だって」
「あら、与祢はとっても謙虚なのね」
むくりと茶々姫様が起き上がった。
淡い色の髪が、風にそよぐ。甘い伽羅の香が、まとわりついてくる。
白くてほっそりとした手が伸びて、私の頬に触れた。
ぬらり、と。心臓を掴まれた心地がした。
突如湧いた怖気が、私の体を凍らせる。
いいこ、いいこ、と撫でてくる手付きは優しい。
なのに、指先の冷たさがおぞましく感じられた。
せり上がりかける悲鳴を、必死に喉の出口寸前で押しとどめる。
「茶々、与祢が大好きになっちゃった」
「一の姫、様」
「与祢は、茶々のこと、好き?」
「え、っと、それは」
好きか嫌いかで言えば、嫌いじゃないけれど好きでもない。
表現のしようがなくて、口から出せる言葉が無い。
言い淀む私を、茶々姫様はじぃっと見つめる。
そして、与祢、と甘く呼んだ。
「茶々と、お友達になってくれる?」
もじもじと、茶々姫様が頬を染めて訊ねてくる。
愛らしい問いかけに、私は答えられなかった。
答えてはいけない、気がした。
悲鳴を留める喉が、干上がっていく。
カラカラで、痛みすら覚え始める。
「……恐れ多いことです」
固い唾液を飲み、精一杯の声を絞り出す。
今すぐ、寧々様の元へ逃げ帰りたい。
そんな気持ちを堪えて、ゆっくりと身を引いて白い手から逃れる。
手は、追ってこない。茶々姫様は、睫毛がけぶるような双眸を瞬かせている。
「与祢は、茶々と仲良くなりたくない?」
「いいえ、そのようなことはありません」
違う、そうじゃない。
私は茶々姫様といがみ合ったりしたいわけじゃないが、仲良しこよしをしたいわけでもない。
秀吉様のご側室と、北政所様の御化粧係として、無難に付き合えればと考えている。
けれど、正直に答えてもこの人は納得しないだろう。
違うふうに、私に都合が悪いふうに解釈してしまうかもしれない。
それは、困る。私じゃなくて、きっと、寧々様が。
「私は、寧々様のお化粧係です」
茶々姫様の機嫌を損ねてはいけない。
上手に切り抜けなければと、小さな自分の頭を回転させる。
乾いた舌を何とか湿らせて、ゆっくりと、慎重に声を転がす。
「一の姫様が、寧々様と、良き間柄でいてくださるならば──……」
水面を撫でた涼しい風が、座敷に吹き込む。
茶々姫様が、微笑んだ。
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