嵐のあと、静かなる(1)【天正16年6月中旬】
風が、回廊を吹き抜ける。
どこかで蚊遣りの火を焚いているのだろう。
ヨモギなどがくすぶる、独特の煙の匂いが混じっている。
蚊取り線香とは違うけれど、趣きを感じさせる夏の匂い。
その奥に、微かな死臭のようなものが、うずくまっている気がした。
……気持ち悪い。軽く頭を揺らして、嫌な錯覚を振り払う。
刑場の臭いなんて、届くわけがない。
断末魔だって、聴こえるわけがない。
さっき河原の惨状を聞いたせいで、勝手に幻を知覚している。
ただ、それだけ。それだけだと、思いたい。
茶々姫様にまつわる騒動は、考えうるかぎり最悪の結末を迎えた。
その一点をもって、大勢の人々が秀吉様の苛烈な怒りに触れ、凄惨な末路を辿ったのである。
事の背景にいた織田内府様は、広大な所領と官位官職をすべて没収。
無位無官に落とされて、流刑の中でも最も重い遠流を申し付けられた。
流される場所は九州の果て、鬼界ヶ島だそうだ。
平家物語にも登場する絶海の孤島で、かなり過酷な土地である。
刑地へ赴く旅路も決して容易いものではなく、道中で死ぬ確率がとても高い。
ほとんど死刑みたいな地へ、先日彼は独りで送られていった。
内府様の御身内も、あまり良い状況ではない。
御正室は内府様が旅立つ前に、夫を恥じて自害なされた。
御嫡男と羽柴の養女になっていた姫君の助命を、自分の命と引き換えに願われたそうだ。
それを聞いた大政所様の必死の説得で、御嫡男は処罰を免れて大和国の寺で出家となった。
姫君についても同じだ。すぐさま聚楽第を追い出され、近江の尼寺へ入れられた。
春に決まったばかりの徳川様の御三男と姫君の婚約も、もちろん白紙である。
側室とその御子については、御家騒動防止のために、織田侍従様が内々に処刑なされた。
袖殿たち茶々姫様付きの者は、杏を除いて刑死した。
女房どころか、女中にいたるまですべてである。
織田家の中でコピーコスメに関わった家臣数十人や、製造販売を行った商人職人とともに、六条河原で磔になった。
彼らは事前に耳と鼻を削がれて洛中を引き回され、磔にされた後はそのまま河原で晒されている。
その様は地獄に生えた死体の林のようだと、見に行ってくれた佐助が話していた。
商人や職人たちのご近所さんの大部分は、畿内から追放となった。
大政所様と大和大納言様、寧々様が彼らの処刑に反対し、しまいには身重の竜子様が、自分の懐妊祝いに代えての恩赦を願い出たのだ。
多くの人はギリギリ命は助かったが、両隣と前後と向かいの家の人たちは、六条河原で磔にされた。
その他ご近所さんたちは、追放前にそれを強制的に見物させられたそうだ。
そうして彼らがいなくなった町々は、すぐに更地にされてしまった。
特に広かった堺の一帯には、後日朽ちた袖殿たちをまとめて埋めて塚を築く予定らしい。
とんでもなく酷い仕打ちだが、トファナ水を袖殿に納入していたスペイン人貿易商たちが受けたものよりはマシだ。
堺で捕まった貿易商とその部下や使用人たちは、耳と鼻を削がれて洛中を引き回された。
彼らは血臭が立ち込める街を延々と歩かされ、そして腐臭に満ちた死体の林の側で火炙りに処された。
クリスチャンが火葬を嫌う、という知識が秀吉様にあったようだ。
死を前にして神父さんにやってもらう懺悔の時間も持たせず、弱火でじわじわ炙るという惨すぎる方法が選ばれた。
苦痛と絶望にまみれた悲鳴が、かなり遠くまで響いたらしい。
絶命後は完全に灰になるまで念入りに焼かれ、川に流されたそうだ。
国内に滞在するスペイン人たちを恐怖のドン底へ堕とすには、十分すぎるほどの惨劇だった。
恐慌状態に陥った彼らは、我先にと日本から逃げ出した。
秀吉様がフィリピンにあるスペイン総督府へ、抗議文を送ったせいだ。
今回の件を日本への敵対行為、侵略を意図した行動と見做す。
スペイン人宣教師が、日本人奴隷の売買に関わっていた件も含めて絶対に許さない。
スペイン国王に、正式な謝罪を要求する。
謝罪を拒否した場合は、国内のスペイン人をすべて処刑する。
準備が完了次第、フィリピンも攻め滅ぼすぞ、と。
石田様が寧々様に報告した時、同席していた私も震え上がった酷さである。
やるとなったら、秀吉様はやる。
国内のスペイン人全員が、鴨川沿いで火炙りになる。
慌てて知り合いのクリスチャン数名に情報をリークして、スペイン人たちに逃げるように勧めてもらった。
寧々様や石田様の依頼もあったけど、ほとんど私の意思でやった。
無関係なスペイン人たちを見捨てたら、後味が悪いなんてもんじゃない後悔をする。
ちょっと眠れなくなりながら、必死でやった。
クリスチャンの方々には感謝されたが、申し訳なさがすごかった。
口を出す以外、何もできなかったから。
そうして、やっと、半月。
血と恐怖で京坂が染まる、長い時間が過ぎた。
都も大坂も、とても静かだ。
帝から庶民まで、あらゆる人が秀吉様を恐れ、息をひそめている。
なのに聚楽第だけが、明るい。
竜子様懐妊という慶事が、公表されたからだ。
家中の誰もが羽柴の前途を言祝ぎ、大きな喜びに沸いている。
秀吉様が一番大喜びで、派手にはしゃいでいるから、臣下は誰も表立って暗い顔をできないのだ。
私たちは嘆くことも、憤ることもできない。
河原に骸を晒したくないならば、ひたすら城の外の惨状に目と耳を塞ぎ、明るく振るまうしかなかった。
異様な、軋みさえも聞こえそうな世界。
その中心にいる秀吉様だけが、ただ一人変わらない。
竜子様の側に嬉しそうに寄り添い、寧々様と生まれてくる子の名前を考え、石田様に寺社へ安産祈願をさせろと命じている。
酷い肌になった茶々姫様を慰め、何くれとなく訪って甘えさせるのも欠かしていない。
私たち女房にも、侍女にも優しくて、おどけてみせては笑わせてくれる。
凄惨な虐殺を行いながら、いつもと変わらぬ陽気で楽しい天下人をしていた。
常軌を逸していると、思った。
同時に、情が深すぎる人だとも。
秀吉様の優しさと酷薄さは地続きだって、この嵐によってわかってしまった。
愛する者への溢れんばかりの愛情と、同じ質量の憤怒が内府様たちへ向かった結果がこの惨劇。
ただ、それだけのことだった。
この方の心、そこに湛えられた情には、底が無い。
海よりもなお深くて、奥へ行くほどに暗くなる。
その闇の中に、魔物が棲んでいるのだ。
秀吉様自身でさえも御せない、激情という名の、魔物が。
私は、それが恐ろしい。
いつか秀吉様の魔物が、何もかもを喰らい尽くしてしまうのではないか。
羽柴家のすべてを、史実以上に死に絶えさせてしまうのではないか。
嫌な予感で、頭を埋め尽くされそうになる。
滅びの足音が、微かに聴こえるような心地がする。
耳を塞いで、しゃがみ込んでしまいたくなる。
そんな心地が、ずっとまとわりついて離れてくれなくて。
なんだか、少し、毎日が苦しい。
「粧姫」
沈む思考が、浮き上がる。
回廊の向こうから、杏がやってくるところだった。
「杏、ごきげんよう」
「ごきげんよー、しけた顔してるじゃないか」
手を振りながら寄ってくる彼女は、小綺麗な旅装束に身を包んでいる。
織田侍従様の家臣の方に伴われているし、茶々姫様にお暇乞いをしてきたのだろう。
「なんでもないわ、暑さにちょっとやられてるだけよ」
「暑さね、ウチもしんどいわ。
都の夏ってほんっっっとうっとおしいよな」
「そうよねえ」
私たちは顔を見合わせ、くすくす笑い合う。
杏を見ていると、少しだけ心が和む。
生きて、笑っている。
袖殿たちに負わされた怪我も、もうすっかり良くなっている。
この子だけは、救えたと実感できた。
「これから茶々姫様のお手入れにいくのか?」
「うん、そういうあなたは一の姫様へのご挨拶、
終わったの?」
「今さっきな、ありがとうって礼を言ってくださったよ」
満足そうに微笑む杏は、今日をもって聚楽第を辞去する。
堺の白妙太夫さんの元へ帰って、市井で暮らすそうだ。
茶々姫様を助けて、その安全を確保できた。
もう何一つ聚楽第に未練はないと、昨日彼女はうそぶいていた。
「本当に御化粧係を辞めるのね」
「関白殿下が褒美をいっぱいくれたしな。
太夫の生活も面倒見るって約束してくださったし、
ウチがここで働く理由はもうないよ」
「ねー、里帰りしてからさ、
私のとこで奉公しに戻ってこない?」
「ははっ、お断りだね!
堅っ苦しいのはもうたくさんだわ」
すぱっと断られてちょっとがっくりする。
やっぱりだめか。意思が硬いな、こいつ。
わりと本気で誘っているのに、全然揺らがないんだから。
「あなたのお化粧の腕、
このまま市井に戻すには惜しいんだけどね」
「へーへー、ありがたいお言葉で」
「茶化さないでよ、本気で言ってるんだから!」
いろいろあったけれど、杏のメイクテクはすごい。
私もハッとさせられるほどの、本物の才能だ。
同じ話題で盛り上がって、切磋琢磨できるライバルって感じ?
これからも一緒に仕事をしたいと心底願うほど、私は杏を気に入っている。
かつての
やっと仲良くなったばっかりなのに、はいさようならは寂しすぎだよ。
「ま、太夫の病が落ち着いたら、
廓でぼちぼち化粧係をやろうかな」
「堺の廓に戻るの?」
「元いた見世がまた化粧の仕事をしないかってさ、
通いで良いってのも悪くないね」
「そっか」
杏はお母さんも同然の白妙さんから、離れたくないんだな。
なら、仕方ないか。私だって母様が病になったなら、暇乞いして山内家に帰りたくなるもの。
「杏殿、そろそろ参ろうか」
「あっ、お待たせしてすみません!」
少し離れてくれていた織田侍従様の家臣の方が、微笑ましげに声をかけてきた。
慌てて頭を下げる杏のポニーテールが、さらりと揺れる。
名残惜しいけれど、もう出立のお時間か。
「それじゃ、行くわ」
「息災でね、変なもの食べたりしないのよ」
「するか! あんたこそ病とかすんなよ。
茶々姫様をよろしくな?」
「はいはい、任かせなさい」
胸を叩いて請け負う。
寧々様の御化粧係な私が面倒を見るかぎり、茶々姫様をあんな目に遭わせたりしないよ。
「あ、手紙を書いてもいい?」
「いいけど、女手で書けよ」
「えー、なんで」
「普通の女に男手は読めないって、
何度言わせんだよ」
杏がじろりと睨んでくる。
面倒くさいけど、仮名文字オンリーで書くしかないか……。
女性は漢字を使わない風習、どうになんないかなあ。
不承不承で頷くと、ふん、と鼻を鳴らされた。
酷いぞ、杏ちゃん。
「……女手で書くから、返事くれる?」
「気が向いたらな」
「そんな! 友達でしょ!」
「勝手に友達にすんなよ」
文句まじりで軽くおでこを突かれる。
言動とは裏腹に、嫌がっていないような雰囲気だ。
素直じゃない子だ。口を尖らせると、杏にぽんと肩を叩かれた。
「それじゃ粧姫様、お世話になりました」
ご息災で、と杏は私の横をすり抜ける。
織田侍従様の家臣の方に手を引かれて、軽い足取りで歩み去っていく。
「待って!」
その背中に、咄嗟に声をかけた。
杏の足が止まった。
「私の名前、与祢っていうの」
そう名乗ると、杏が振り向いた。
きょとんとしていた顔が、晴れやかな笑みを刷く。
「与祢、またな」
「うん、杏もね」
軽く手をひらめかせて、私たちは背中を向けあった。
杏は、城の外へ。
私は、城の奥へ。
心地よい蝉時雨を、耳で味わいながら。
在るべき場所へと、迷いなく、歩みゆく。
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