小鳥が鳴く、嵐がくる(5)【天正16年6月下旬】
ラクア・トファナ。
日本語に訳すると、トファナ水という化粧水がある。
イタリア発祥の美白化粧水で、十六世紀から十七世紀にかけてヨーロッパ圏の貴婦人たちに愛用されたものだ。
トファナ水の効果はとても高く、使用するほどに肌が白く、そして薔薇色になると文献にはある。
でも、私は試したことがない。
現代では絶対に試せない、試したくもない化粧水だからだ。
だって、原材料がヒ素───亜ヒ酸なんだもの。
「……銀の毒だと」
「浸した棒銀が黒くなりました」
「ほんなら、間違いないな」
「はい、殿下の蔵入地である石見の銀山でしたか。
よく取れるそうでございますねえ」
わりと手に入りやすいよね、亜ヒ酸。
三酸化二ヒ素の正式名称を持つそれは、銀鉱山の名産品で銀の毒と呼ばれている。
言わずと知れた猛毒で、歴史上数多の人やネズミの命を奪った毒物だ。
「銀の毒の恐ろしさは皆様ご存知でしょうが、
今一度お話いたします」
死屍累々の鳥籠を片付けさせながら、話を続ける。
トファナ水の成分である亜ヒ酸は、毒としての完成度が高い。
まず無味無臭で、水に溶けやすいのだ。
白い粉末だから砂糖や塩に混ぜても良く、味の濃い汁物や飲み物に混ぜるのもおすすめだ。
相手に気づかれることなく、さくっと盛れちゃうよ。
致死量については、これがなかなか便利な程度だ。
大人一人は殺すのに必要なのは、だいたい大さじ四程度。
多くも少なくもない量だから、じわじわ殺すために調整するのも楽だ。
例えば毎日茶杓ひと掬い程度ずつ盛って、徐々にターゲットの体調を悪くさせるとかね。
そうすると別の原因、ガンとかそういう感じの病気で死んだように見せかけられる。
本当に嫌な意味で完璧だよ、亜ヒ酸。
有名なボルジア家のカンタレラとか、中国の
とにかくもう、洋の東西を問わず猛威を奮っていた毒の中の毒である。
「ここまで、よろしゅうございますか」
わかっていても、改めて聞くと嫌になるものだものね。
一区切り私が話終える頃には、異様なほどの静けさに座敷が包まれてしまった。
「……銀の毒が、化粧に使えるんか」
秀吉様の問いが、不気味に落ちてくる。
まあ気になるところだよね。
毒物を顔に塗りつけるなんて、正気の沙汰とは思えないもの。
でも、使えちゃうんだなあ。
「肌を驚くほど白くしてくれるそうですわ」
もちろん、肌に良いわけではないんだけどね?
ヒ素は細胞障害性の毒。メラニンの生成を阻害する機能があって、これが肌に作用するのだ。
科学的メカニズムを詳しく説明するより、見てもらう方が早いか。
「白洲の方、袖殿でも誰でも良いですから、
灯りの近くへ寄せてくださいまし」
庭の役人さんたちへ頼み、秀吉様たちにも縁の廊下へのお出ましを願う。
松明が集められて、廊下の側が明るくなる。
引っ立てられた袖殿たちの顔が、照らし出される。
石田様、グッジョブ。ちゃんと顔だけは傷を付けずに尋問をしてくれたようだ。
疲労と苦痛に染まった彼女らの顔を示す。
「この者どもをご覧になって、
お気づきになられるところはありませぬか」
「顔が、黒ずんでいるわね。
肌の荒れ方も酷いのではなくて?」
「だのに、異様に白い部分もあるな」
寧々様と秀吉様が、不快そうに眉を顰める。
期待どおりの回答だ。お二人とも、的確な観察力をお持ちで助かった。
「それこそが、ラクア・トファナの効能にございます」
私が二十一世紀で確認した文献から察するに、トファナ水を使用すると、まず色素沈着と皮膚炎が発生する。
亜ヒ酸に触れることで、皮膚の
顔表面の毛細血管も傷つくから炎症も同時に起きるし、一時的には肌が汚くなる。
だがめげずにトファナ水を使用し続けると、次第にメラニン細胞の崩壊が始まる。
そして始まるのは低色素沈着、つまり白斑。
必要なメラニンさえ失ってしまった肌になっていくのだ。
これで異様に真っ白な肌にはなる。
使用時にできる毛細血管の傷で、頬が薔薇色に見えもするんだろう。
一見すればとても綺麗なのかもしれないが、まったくもって正常な肌ではない。
皮膚がんのリスクがえらいことになっている、敏感肌を通り越した虚弱肌だ。
そうなる頃には、きっと全身に慢性ヒ素中毒の症状も現れ始めると思う。
早死に一直線。ありがとうございます。
「そんなもん使ってた茶々は、
茶々は大事ないんか!?」
死を口にした私の肩を、秀吉様が掴んできた。
咳き込むように問いただす天下人の顔色は、毒を飲んだように悪い。
わかる、心配になるよね。
しかし安心してほしい。茶々姫様は大丈夫だ。
「殿下、落ち着かれませ」
「落ち着けるか! 毒を顔に塗っとったんやぞ!?」
「大事ありませぬ、一の姫様の化粧係に確かめてございます。
一の姫様は肌が繊細でいらした様子、
一度二度でお使いにならなくなったそうですよ」
だから、おそらく皮膚炎以上の害を被られてはいない。
元から茶々姫様は鉛白粉で肌が荒れ気味だったらしく、その傷に染みて派手に炎症が起きたみたいだね。
勧めてきた袖殿たちも、さすがにその状態の茶々姫様への使用継続は諦めたようだ。
トファナ水はもっぱら、袖殿をはじめとした女房たちが消費していた、と杏は言っていた。
そういうわけで、茶々姫様の被害は軽微なのだ。
丿貫おじさんが診察したところ、色素沈着も肌荒れ由来のもの程度だった。
適切なスキンケアを続ければ、長く時間はかかっても、きちんと正常な肌に戻るはずだ。
「よかった……」
青いお顔の寧々様に肩を抱かれて、ほんのわずか安堵したように息を吐く。
茶々姫様のことを大切に思っているからこそ、わかりやすく気が抜けたんだな。
寧々様も寧々様で、安心の色が見える。
命の危機に晒されるほどの目に茶々姫様が遭っていた事実に、改めてゾッとしていらっしゃるようだ。
「ですが、問題は一の姫様だけには止まりませぬ」
安心したところに悪いけれど、話を進めさせていただく。
トファナ水の悪辣さは、正しい使い方に限って発揮されないのだから。
「なに?」
「ラクア・トファナの材料を、
今一度思い出してみてください」
私の言葉に、秀吉様が息を呑む。
「殿下」
東様が前に出て、秀吉様と目を合わす。
「寧々様の御指図で、
ただいま京極御前様の御殿を清めてございます」
「た、竜子は、ややは」
端が震えている問いには、孝蔵主様が答えた。
「拙が、なか様の御殿にお移しいたしました。
何事も無く、お健やかにお過ごしです」
今度こそ崩れるように、秀吉様がへたり込む。
念願の我が子と愛する竜子様の危険まで発生していたことに、腰が抜けたみたいだ。
私もボトルの中身がトファナ水と確認した時は、発狂しそうになった。
泡を食った私の報告に、寧々様すらも一瞬冷静さを失っていらしたよ。
だってトファナ水の成分は、さっきも言ったが亜ヒ酸。
ヨーロッパの貴婦人御用達、お手軽毒殺アイテムなのだから。
あっちは離婚が簡単じゃないからね。
大っ嫌いな夫のため、悪意を込めて作った手料理にトファナ水をぽたっと一滴。
毎日続ければ夫は次第に弱っていき、献身的な妻の看護の甲斐なくさようなら。
そして妻は晴れて夫から解放されて、遺産うまうま薔薇色人生って寸法だ。
「ち、ちがう! 違います、殿下っ!」
袖殿が、上擦った否定を叫んだ。
抑え付けられ、苦しげにしながらも、必死で暴れて秀吉様の元へにじり寄ろうとする。
「たしかに、たしかにかの美顔水は使いました。
けれど、毒とは存じませなんだっ!」
振り乱した髪が、黒い蛇のようにのたうつ。
地に押し付けられ、白斑の広がる頬が泥にまみれる。
凄惨なありさまになりながら、袖殿は悲鳴じみた弁明を繰り返す。
「わたくしは京極御前様を害してはおりませぬ、
そうしようと考えたこともございませぬッッ」
「近頃竜子殿の御殿のあたりを、
貴女の侍女がうろついていたようだけど」
寧々様が、冷たく袖殿の狂乱を見つめて言う。
泥を跳ねるいきおいで、袖殿は首を横に振った。
「そ、そんなことありませんっ。
誰がそのようなことをっ!?」
「見た者は多いそうね、孝蔵主」
「はい、御前様のお側の者たちが、
たびたび不審を訴えておりました」
「ちが、それは! それはあの、杏です!
あの下賤な娘が勝手に動いていたのですわ!」
「あら、あの娘ではありませぬよ」
杏への責任転嫁を、東様が切り捨てる。
「不審な侍女は杏ではありませんわ。
御前様の御殿の周辺をうろついていたのは、
赤毛ではなく黒髪でございました。
間違いなく、一の姫様の局でも見かけた侍女でした」
「私もこの目で、しっかり確かめてございます!」
力いっぱい私も、東様の証言を肯定した。
竜子様の御殿付近をうろついていた侍女は、先だって捕らえてある。
江姫様に確認してもらったところ、袖殿の侍女で相違なかった。
竜子様の悪口を人一倍言ってた奴だって、江姫様は仰っていた。
不審物は持っていなかったけど、あやしい行動をしようとしていたのは間違いない。
薬草集めに奔走していた杏だが、こちらは竜子様の御殿の方へは行っていない。
人が多い場所なので避けていた、本人から聞いている。
実際に行った形跡が無いことも確認済みだ。
竜子様も萩乃様も、御殿付近にお住まいの皆さんも、赤毛の杏の姿を見たことがないと言っていた。
あの子は無実だ。茶々姫様のために、ただ一心に尽くしていただけだ。
袖殿の巻き添えになんて、させてたまるか。
「偽りごとを申すなぁっ!
殿下! 北政所様!
東の言葉をお聞きにならないでくださいっっ!!」
袖殿の声が、金切り声に近くなる。
「この女は偽りを言い立てておりますっ」
「……東が?」
「ええ、ええ!
東は私に罪を着せ、追い出そうとしているのです!
自らの不都合をつまびらかにされぬように!!」
ぎらつく袖殿の目が寧々様から、東様へ。
見据えられた東様の喉が、細く鳴る。
「お前の息子、大坂で辻斬りに励んでいるらしいわねえ」
「は……?」
「しらばっくれても無駄よ?
お前の息子は業病だって、誰もが知る事実じゃないの」
何、それ。東様の息子さんが、辻斬り?
ゴウビョウって、何? 病気なの??
驚いてしまって、つい東様を見てしまう。
秀吉様たちの顔にも、緊張が走る。
集まってしまった視線を振り払うように、東様は違うと叫んだ。
「あの子はそんな病ではないわ!」
「ならば先の行幸で、
お前の息子が衆目に晒した姿はなんだった!?」
「っ、あれ、は」
「隠してもわかる膿み爛れた肌、
今にも腐り落ちそうだったじゃないか」
東様が、言葉に詰まる。
狂ったように袖殿が嗤い出す。
「自らの病を癒そうと人を斬り! 血を啜り!
重ねた浅ましき業が!
お前の息子を病み崩れさせていく!」
「や、やめて」
「ああ愉快だなあ!?
とりすましたお前も、賢しいお前の息子も!
天下人の家中にいてはならぬ輩なのだ!!」
「やめて、やめてぇっ!」
「あは、あはは、ははははははははははは!!!!!」
よろめくように東様が後退る。
咄嗟に、私は東様の前に身を滑らせた。
背伸びをして、両腕を広げて、なんとか背中で東様を庇う。
そんな私たちに、袖殿はにたりと目をたわませる。
狂気に染まった嗤い声が、庭に響き渡る。
耳に痛い。一歩も動けない、声も出ない。
追い詰められた者の最後の足掻きが、こんなにおぞましいなんて。
止めたいのに、例えようのない恐怖で何もできない。
「黙れ、下臈が!」
「ヒ、ギッ」
つんざくような嘲笑が、途絶える。
庭に飛び降りた石田様が、袖殿を殴りつけていた。
凍りついた空気が、霧散する。
「牢へ戻せ! 今すぐに!!」
手拭いで袖殿の口を塞ぎ、石田様は硬直していた役人たちを怒鳴り付ける。
我に返った彼らが、大慌てで袖殿たちを引きずって庭から退出していく。
肩で息をしてそれを見送った石田様が、緩慢な動作で秀吉様や私たちを振り返った。
「見苦しいものを、お見せいたしました」
平にご容赦を、と石田様は深く頭を下げる。
秀吉様が軽く息を吐いた。呆れとも、放心とも付かない息だ。
「寧々」
そうして、寧々様を呼ぶ。
「なんでしょう、お前様」
「東を奥で休ませてやれ」
私に支えられている東様を見やり、秀吉様が寧々様に頼む。
びくりと体を震わせた東様が、殿下、と口を喘がせた。
「殿下……息子は、あの子は」
「わかっとる、狂女の戯言には耳を貸さんから」
秀吉様は東様の肩を軽く叩いて、寧々様に目配せをする。
頷いて、寧々様が東様の隣に付く。
抱えるように肩を支えて、大丈夫、と言い聞かせるように撫でさすった。
「少し休みましょう、ね?」
「です、が……」
「後のことは、孝蔵主とお与祢に任せます」
良いわね、と寧々様が私たちに言う。
黙って孝蔵主様と私は首を垂れた。
もちろんだよ。東様が落ち着くまで、側にいてあげてほしい。
満足げに目を細めて、寧々様が打掛をひるがえした。
東様を連れて、するすると座敷を去っていく。
大丈夫かな、東様。
いつも落ち着いているあの方が、あんなに取り乱すなんてよっぽどだ。
息子さんって、おこや様のお兄さんか弟さん、だよね?
我が子の病気ってだけでもしんどいのに、それについて悪意をぶつけられるなんてかわいそすぎる。
あとで私も、フォローしに行こうかな……。
「銀の毒の水を作ったのは、
どこの何者だ」
寧々様たちの衣擦れが遠くなって、完全に聞こえなくなる。
それを待っていたかのように秀吉様が、ぼそりと呟いた。
「イスパニア商人にございます」
即座に石田様が答える。
「イスパニアやと?
イスパニア商人が、三介に売り込んだのか」
「左様にて」
「以前利休居士と私が商売を断ったので、
内府様のもとへ行ったようです」
私が後を引き継いで、あらましを説明する。
トファナ水を内府様のものへ持ち込んだのは、石田様の言うとおりスペイン人貿易商だった。
そいつは昨冬の終わりごろ、私と与四郎おじさんに接触してきた。
天下人の後宮が美容に関心を持っていると知って、売り込みをかけようとしたみたいだ。
ヨーロッパの貴婦人に大人気なコスメがあるって言うから、会ってみて後悔した記憶がある。
商品紹介の開口一番、アグア・トファナ、って言ったんだもん。
アグアはスペイン語で水。つまりトファナ水だ。
馬鹿正直に言われて、警戒しないほうがどうかしている。
得意げな説明もね、やばかった。
肌が白く美しくなる、不幸な婚姻をしても心を晴らせるだって。
それもうトファナ水じゃん。
トファナ水以外の何物でもないじゃん。
気付いて即、与四郎おじさんに急いで話したよ。毒物だから絶対販売しちゃダメだって。
私の話を聞いて、おじさんも白目を剥きそうになっていたわ。
毒を売ってまで儲けようなんて、日本一の金の亡者も思わなかったようだ。
すぐに貿易商に塩をぶつけて、二度と来んなって追い出していた。
念のため、付き合いがある紅白粉商や交易商には、取引しないよう注意喚起をしておいたのだけれど……。
まさか、内府様の配下の仲介で、袖殿と取引をしたとはね。
悪夢もいいところな展開だ。
「そのイスパニア商人は捕えたか」
「堺代官所に早馬を送りました。
直に、捕縛いたします」
よくやった、というふうに秀吉様が頷いた。
今の堺代官所は、紀之介様がいる。
悪いやつなんて、絶対すぐに捕まえてくれるはずだ。
「……ならば捕縛次第、六条河原で磔にして晒せ」
秀吉様が、淡々と呟く。
まあ、そうなるよね。かわいそうだけれど、極刑になるのはいたしかたない。
天下人の側室が健康を損ねただけでなく、正室とお腹の子をも危険に晒したのだ。
この日の本において、万死に値する罪だよ。
「ついでに耳を削ぎ、鼻も削いどけ」
「承知いたしました」
「言うとくが、商人だけやないぞ」
秀吉様の目が、ぎょろりと動く。
冷たいガラス玉を思わせる瞳が、石田様の動きを止めた。
「関わりし者、すべて左様にしろ」
「すべて、ですか」
「おう、すべてだ。商人に仕えとる者どもも、
銀の毒の水の製造に関わった者も、買うた者も。
袖どもや織田家中で化粧道具の商いに関わった者もだ」
「……殿下、それでは捕らえるべき者の数が、
多くなりすぎます。
罪人は皆、吟味せねばなりませんし」
「何を言うとる? 皆、罪は重かろう?」
「左様でございますが……」
きょとんと秀吉様が、小首を傾げる。
そんな主君に、石田様は困ったように眉をひそめた。
「そのようにたくさん捕縛しても、吟味に時間がかかります。
正確な処罰を行うには、かなりの時を要しますが」
よろしいので? と言いたげに石田様が言葉を濁す。
おっしゃる通りだよ、秀吉様。今の時代はなんだって手作業なのだから。
容疑者が多すぎると、処刑にしろ何にしろ、かなりの長丁場になる。
人員にも時間にも、かなりの無駄が発生しちゃうよ。
「だから、みーんな磔でよかろうが」
「は?」
今度は石田様が、きょとんとする番だった。
にこりとした秀吉様が、みーんなだ、と両手を広げた。
「吟味の必要はない、みーんな殺せば簡単だろ?」
「で、殿下?」
「三介は上様の子だからなあ、
しかたないが遠島で手を打ってやるか」
転がった内府様を、秀吉様の足先が突く。
恐怖のあまりか失禁した彼を見て、秀吉様はぽんと手を打った。
「そうだ、代わりに商人職人の家の近所の者も捕らえようか!」
「なっ、正気ですか!?」
「ん? さすがに磔にするには多すぎるか?
ならば主だった者以外は、小屋に詰めて火刑でええぞ」
「殿下! お待ちくださいッ!」
「あ、お与祢ちゃん、心配せんでええぞ。
茶々の化粧係の娘だけは殺さんから。
質を取られて騙されて連れてこられたのに、
それでも茶々を救おうと奮闘しとったとはなあ。
まこと見上げた忠心! 報いてやらんと」
「殿下ァッッ!」
鼻唄のような命令を、石田様の怒声が遮った。
シャープな印象がある横顔が、こわばっている。
私も、孝蔵主様も同じだ。あんまりすぎる内容に、脳が追いつかない。
秀吉様の足元へ、石田様が転がるように身を投げ出す。
「なんだ、佐吉」
「それは……それは、あまりにも度が過ぎますっ」
「そうかぁ? 茶々を泣かせたばかりか、
竜子や
「ですが、ただ近くに在っただけの、
関わりなき者まで罰するなど道理に合いませぬ!」
らしくない、感情をあらわにした口調で石田様はまくし立てる。
まったくもって、正論だった。
貿易商や製造に関わった人たちが罪に問われることまでは、正当な処罰の範囲だ。
買ってしまった人たちについては、販売目的の仕入れなら罰金刑くらいは食らっても仕方ないと思う。
でも、近所の人たちにまで累が及ぶのはおかしいよ。
ただ近所に住んでいただけの罪って、なんなんだ。
完全にとばっちり、いや、難癖だ。
頭の良い石田様じゃなくたってわかるくらい、おかしい判決だ。
「殿下! どうか、どうかご再考を!!」
必死に言いつのって平伏した石田様を、秀吉様は見下ろす。
ひとつ、ふたつ。みっつ。
止まった空気が、ため息に破られる。
「そんな道理、知らぬわ」
色の無い石田様の唇が、声もなく戦慄く。
信じられない物を見たように、怜悧な双眸が揺れる。
石田様の前で、よっこいしょ、と秀吉様が腰をかがめた。
さざなみ立つ黒い肩衣の肩に、骨張った手が置かれる。
「佐吉よ」
秀吉様が、わらう。
「わしの大事なもんに手ぇ出すと、
恐ろしいことを知らしめろ」
ガラスの瞳のまま、唇の端を持ち上げて。
子のわがままを諭す父のような、とても優しい声で命じる。
「すべて、殺して、晒せ」
それは、嵐の始まりの一声。
大虐殺の始まりを告げる言葉。
私は、私たちは、それを前に。
立ち尽くすしか……できなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます