小鳥が鳴く、嵐がくる(3)【天正16年6月下旬】
原則として、城奥に秀吉様以外の男性は入れない。
だが、例外も存在する。
例えば、羽柴家の血縁者。
秀吉様の実弟である大和大納言様や甥っ子の近江中納言様、従弟の福島様たちだ。
彼らは寧々様に先触れを出しておけば、ノーチェックで城奥へ入ることが許されている。
もう一つは、秀吉様と寧々様の許可を得た人。
子飼いの腹心である石田様や、今ここにいる織田侍従様だ。
前者は半分秀吉様の子供のようなものだからだが、後者は特例の特例だ。
つまり、城奥内の緊急事態であるから、城奥へ入ることを許されただけってこと。
……なんだけどなあ。
「いやぁぁぁ! お下品ッッ!
なんてお下品なのかしらッッ!?!?」
茶々姫様の局の前で、織田侍従様の口から悲鳴がほとばしった。
「赤すぎるわっ! 派手すぎるわっ!
華の聚楽第にこんな部屋があるなんて……ッッ」
「お、織田様、ちょっと」
「ちょっとお与祢ちゃん見たぁ?
あの香炉と棚っ、色合わせが安っぽくない!?」
「あー……あれ……青磁を丹塗に置くのは、
確かにないですね」
「でしょ!? お下品で目が腐るわっ!
体にお下品が染み付いたらどうしましょっ!!」
両腕で体を抱きしめ、織田侍従様がイヤイヤと頭を振る。
本気で嫌がっているご様子だが、無理もない。
茶々姫様の局の完全に事故った成金インテリアは、彼の美学に反しまくっている。
美学に沿わないもの、見苦しいものは、織田侍従様の天敵だ。
基本的に美的なことに関して、妥協や我慢をしない性格なせいだろう。
天敵に遭遇すると、織田侍従様は酷く取り乱す。
東様と丿貫おじさんを除いた全員が引かせるほどだが、今日は逃げないだけまだマシだ。
本気で嫌な時は、織田侍従様は脇目もふらずダッシュで逃げるからな。
「アンタあの趣味が死んでいる花瓶、庭に捨ててっ!
そっちのアンタは落書きみたいな軸絵を破り捨てなさいっ!」
「ちょ、織田様っ? それ今やることですか?」
「やることよっ! 急務よっ!!
アナタは茶々のとこに行く前に、
この絵の具を垂らした泥水みたいな空気に侵されたいの!?」
おいいい!?
城奥に入ることを許された意味、わかってる?
ねえ? 話、聞いて?? ねえったら!!!
止める私を振りきって、織田侍従様は供侍たちに緊急模様替えを命じた。
命じられた供侍たちはというと、ちょっとどころではなく腰が引けている。
寧々様の命令そっちのけで、何やってんだあんたと目が語っている。
だが、それでも命令に従って、供侍たちは悪趣味なインテリアを撤去し始めた。
忠実な彼らの仕事は早く、あっという間に庭へ軸絵や花瓶、棚などの残骸が積み上がっていく。
盛大な破壊音と織田侍従様の騒ぎ声が、あたりに響く。
聞きつけた近隣の女たちが覗きに現れて、そして皆ぎょっと目を見開く。
城奥には珍しい男性、それも顔の良い美中年の狂乱だ。
目撃してしまった衝撃も、まあ威力が増すというもので。
びっくりさせて悪いが、そんな目で見ないでくれ。
私はこの人の同類じゃないから! 頼むから!!
「何事ですかっっ」
織田侍従様によるお下品の破壊が始まって、しばらく。
やっと茶々姫様の局の奥から、袖殿たちが姿を表した。
焦りにまみれた彼女らの顔は、ほぼすっぴんだ。
今朝は杏を折檻して閉じ込めたせいで、メイクが受けられなかったってとこか。
髪や衣服を乱していることからして、杏の脱走に気付いて探し回っていたのかもしれない。
「お与祢殿、これはなんですのっ?」
袖殿がめざとく私を見つけ、きっと睨んでくる。
その憎たらしい顔に、私はふと違和感を覚えた。
汗が浮かぶ額や頬は妙に黒ずみ、ちらほら白い斑が散っている。
後ろに控えた女房にも、袖殿と似たような者が幾人か。
病気、だろうか。感染性がないといいのだが。
近寄りたくない気持ちを抑えて、私は袖殿たちの前へ一歩踏み出した。
「浅井の一の姫様を、お連れしにまいりました」
「姫様はそなたにお会いになりません」
「あなたたちが会わせたくないからではなくて?」
わかりやすく袖殿の表情が変わった。
はいそうです、と言っているようなものじゃないか。
ダメな人だな、とため息まじりで口を開く。
「通しなさい」
「なりませぬ!」
「あなたの都合なんて知らないわ」
拒絶を切り捨てて、自分の顔から感情を消す。
もし寧々様が私なら、どう振る舞うか。
私は寧々様、私は寧々様、私は寧々様!
よし!!
「そこお通し」
後退る袖殿に、一歩詰め寄る。
「
出した自分でも、ゾッとするほど凍てついた声。
否が応でも、その場の視線が集中する。
袖殿たち、茶々姫様の女房や侍女が色を失う。
東様に織田侍従様と供侍、お夏たち侍女までもが、唖然と振り向く。
知らぬふりをして、私は歩き出す。
金縛りに遭ったような袖殿の脇をすり抜けようとした。
「っ、お待ちっ」
ハッと我に返った袖殿が、肩を掴んでくる。
じろり、と。肩を掴む手から、腕、肩、そして首へ。
見上げた袖殿は、青い顔を引きつらせていた。
「離さぬか、無礼者」
「ぶ、無礼はどちらだ、この、小娘が!」
意外とこの人、度胸があったようだ。
キレた寧々様の真似をする私にビビっているけれど、肩から手を離さない。
真正面から視線を返してやる。
袖殿は喉からくぐもった、奇妙な音を出す。
恐れを払おうとするように、袖殿は私に向かって扇子を振り下ろした。
でも、キレがない。恐るに足りない。
寧々様を演じる私に怖いものはない!
ないんだったらない!!
ちょっと悲鳴が喉まで迫り上がったけど!!!
慌てず帯から鞘ごと抜いた懐剣で受ける。
硬い音とともに、扇子と懐剣の鞘がぶつかった。
袖殿が怯んだ瞬間を逃さず、扇子を跳ね上げる。
力いっぱい振り抜いた懐剣の勢いで、扇子が宙に舞った。
「織田様、東様」
腰を抜かしかけている袖殿を、織田侍従様の方へ突き飛ばす。
「もぉっ! なにすんのっ!
急にばっちぃの寄越さないでっ!!」
汚れちゃうわ! と叫びながら、織田侍従様は袖殿を足蹴で払った。
口で文句を言いつつも、彼は倒れた袖殿の腹へ流れるように足を乗せる。
袖殿が痛みに呻く。それを織田侍従様は無視して、供侍へ顎でしゃくった。
ちゃんと任されてくれる気らしい。
呼応するように、東様も他の袖殿の仲間を捕らえるよう、侍女たちへ命じた。
「ここは任されたわ、安心していってらっしゃいな」
「ありがとうございます」
東様と笑顔を交わして、暇そうな丿貫おじさんとお夏たちに目配せをする。
彼らとともに、私は騒ぎが激しくなる場を抜けて局の奥へ足を進めた。
杏の話によると、茶々姫様の寝室は局の庭側だ。
廊下に沿って歩いていく間、私を止めに入る者はいなかった。
侍女も下女も私たちを見た端から、我先に逃げ散ってしまう。
使用人の質が、とんでもなく低い。誰も茶々姫様を守る気がないのか。
杏の言うとおり、茶々姫様はずいぶんぞんざいに扱われているようだ。
嫌な気持ちになりつつ、それらしき障子戸の前に立つ。
「浅井の一の姫様」
障子の向こうへ、呼びかける。
衣擦れが聴こえた。人の気配が、微かにする。
「……だぁれ?」
細い声。浅い息。
初めて耳にした茶々姫様の声音は、儚い響きを漂わせていた。
「北政所様の御化粧係、粧と申します」
「寧々、さまの?」
「はい。寧々様の命で、お迎えに上がりました」
はっと、息を詰める音が障子越しにした。
「戸を開けても、よろしゅうございますね?」
「だ、だめ……だめよ……!」
激しい動揺の宿る拒絶が返ってくる。
「ダメなのですか?」
「そうよ、茶々、お外へ出たくないの」
「なにゆえでしょうか」
「それ、は……茶々、茶々は……」
予想通りだ。丿貫おじさんと軽く頷き合う。
障子に向き直り、再び口を開く。
「もしや、お体の調子がよろしくないのですか」
「! ど、どうしてわかったの?」
「貴方様の侍女が、知らせてくれましたの」
そっと手を、障子戸に当てる。
私は中の茶々姫へ、噛んで含めるように語りかけた。
「寧々様の御殿へおいでませ、一の姫様」
じっと返事を待つ。
たっぷり一〇を数えるほど。
「無理よ……」
弱々しい茶々姫様の声が返ってきた。
「今の茶々は……とても、醜いの、
肌が爛れて、腫れて……見る影もなくて」
元から美しくなかったのに、という掠れた呟きが湿っていく。
「こんな汚い姿を見せたら、みんなを怖がらせるわ。
江も、寧々さまも……殿下も……、
みんなに、嫌われてしまったら……!」
痛々しい嗚咽が、障子戸の隙間から溢れ出す。
耳にした者を、落ち着かなくさせる嘆きだ。
私も、心からかわいそうだ、と思った。
この人は、不安の中で生きているのだ。
茶々姫様は、見捨てられ不安を強く持っている。
きっと、成長の過程で芽生えてしまったのだろう。
何も考えず頼れる、信頼できる大人との縁が薄かった。
妹を二人も抱えて孤児になった茶々様は、相当心を削ったと思う。
それでとにかく味方になりえそうな大人に、縋って生き抜こうと考えたのかもしれない。
相手に逆らわず、どこまでも従順で、理不尽を押し付けられても我慢する。
相手の都合の良い子になれば見捨てられないと、何かをきっかけに思い込んでしまった。
だから味方の顔をした内府様や袖殿の顔色をうかがってしまって、何一つ抵抗できなかった。
立場を悪くさせられても、見捨てられたくない気持ちに邪魔されて、周囲の誤解を解けなかった。
親の仇に愛想良くしたのも、秀吉様に縋りついて側室になったのも。
今のような状況に陥ったのも、そういうことなのだろう。
そう振る舞わなければ、味方に捨てられてしまう。命に関わるかもしれない。
そんな思考で、きっとがんじがらめになっている。
「一の姫様……」
だとしたら、私にもなんとなく理解できる。
令和の時代でも、不安定な家庭で育った人には、そういう傾向を持つ人もいた。
茶々姫様の認知の歪みを正そうとしても、簡単にはいかなそうだ。
強いトラウマから芽生えた認知は、心に深く根を張ってしまう。
熟練のカウンセラーを呼んでくるしかないっぽいけど。
「じゃ、開けますね」
私は障子戸の引き手に両手を掛けて、スパンッと開く。
カウンセラーを呼ぶなんて、悠長なことをしている場合じゃないんだよ。
というか、天正の世にカウンセラーはいないし。
茶々姫様がぐずぐず泣いて動けないなら、私の選択肢は力ずくで引っ張り出す一択だ。
かわいそうだけど、許してほしい。あんたを助けるためなのだ。
恨むならセクハラ内府様や袖殿を恨みな!
全開にした障子戸から飛び込んだ、真昼の陽射しが室内の薄闇を追い払う。
入り口から、奥の褥までしらじらと座敷全体を照らし出す。
褥の上に、若い女性がいた。
茶々姫様だ。本人の言うとおり、お顔は爛れて酷いことになっている。
ちょっとどころではなく痛そうだ。よく我慢してるな、この人。
「一の姫様、お出ましを」
唖然と私を見上げる茶々姫様の元に、すたすた近づく。
「腕利きの医者を連れてきました、
とっとと出てきて治療を受けましょう」
「いしゃ……?」
「ほら、そこのおじいさんが医者です。
ぼやっとしているけど、曲直瀬家の縁者でしてね。
肌の病の治療に長けているんですよー」
細い手首を掴んで、引き上げる。
よろめくように体を起こした茶々姫様が、ぱちぱちと私を見つめた。
大きくて、黒目がちの平行二重だ。
珍しいほど淡い茶髪が良く似合う、可愛らしいお顔立ちだ。
天正では受けない系統だが、令和目線で見ればトップレベルの美人だ。
まず間違いなく、どんな業界へ身を置いても、顔だけで食べていける顔だわ。
「寧々様の御殿でじっくり診てもらいましょうね。
茶々姫様の乳母君も杏と一緒に待ってますよ!」
「蕗がいるの!?」
「はい! 寧々様が呼び寄せられました。
また一の姫様にお仕えしてくれるそうですよ」
よかったですね、と言いながらぐいぐい引っ張る。
「ま、待って! 待ってったら!」
だがここにきて、茶々姫様が抵抗していきた。
急なことの連続で混乱しているらしい。
弱々しい力で、私の手を手首から離そうとしてくる。
「蕗も今の茶々を見たら、怖がるかも……」
「あ、ご心配なく。乳母君は絶対怖がりませんよ」
「え?」
「杏から聞いて袖殿たちに激怒されてましたけど、
一の姫様のことはずいぶん案じておられました」
抵抗する茶々姫様の手に、自分の手を添える。
「あのですね、みんなのこと信じてあげてください」
黒くて濡れた宝石のような瞳を、真正面から覗き込む。
その瞳は、風に遊ばれる花びらのように頼りなく揺れている。
うん、綺麗なおめめ。秀吉様が甘くなるのもわかる、庇護欲をそそるタイプのおめめだ。
「一の姫様が好きな殿下も、寧々様も、三の姫様も、
人として浅い御人じゃないんです。
美しいとか、美しくないとかね、
そういうので一の姫様を見捨てませんよ」
寧々様は、茶々姫様を困った子と思っている。
江姫様は、茶々姫様の挙動に困惑している。
でも、見た目が酷いことになったからって目を背ける人たちじゃない。
彼女たちなりに、茶々姫様のことを考えて、心配もしている。
秀吉様に至っては、めちゃくちゃ茶々姫様を気に掛けている。
寧々様と竜子様の怒りに触れると承知の上で、私を協力させようとした。
容姿に関係なく心を砕いているご様子だから、病気の一つ二つで捨てたりしないよ。
「ねえ、一の姫様」
私だって、あなたを見捨てない。
困っている人が目の前にいたら、できる範囲で手を差し伸べるよ。
……私の場合、寝覚が悪いからって自己中な理由なんだけど。
まあ、それはそれ。
「みんなのところへ、帰りましょうよ」
そう、声をかける。
茶々姫様の手は、やっと抵抗を止めてくれた。
「行きましょっか」
「うん……」
おずおずと頷いて、茶々姫様が褥から出てきてくれた。
「おじさん、よろしく」
「はいはい、一の姫様。
こなたへどぉぞ、ひとまずの手当を進ぜましょう」
手を引いて戻って、入り口で丿貫おじさんにパスをする。
おじさんはにこにこと茶々姫様に手招きをして、別室へ誘った。
掻きむしったか、かさぶたが破れたか、茶々姫様のお顔には少し血が滲んでいる。
そのまま連れ帰ると、注目を集めてしまいかねない。
さすがにかわいそうだから、ガーゼなり包帯なりを当ててもらってきておくれ。
お楽たち私の侍女数人に手を引かれ、茶々姫様は丿貫おじさんの先導に従っていく。
その背を見送ってから、残された私とお夏は茶々姫様の寝室を改める作業に移った。
鉛白粉などで作ったコピーコスメと、肌荒れの原因となった化粧水があるはずだ。
特に化粧水の方は、一度か二度使っただけで茶々姫様に異常が出たと聞く。
絶対、何かろくでもない材料を使っているやつだ。
回収して調べなくっちゃ。
「姫様、これでは?」
鏡台を検分していたお夏が声を上げる。
彼女が掲げた手には、大人の手のひらサイズのガラスボトルがあった。
海外からの輸入品かな? 淡い緑色で、つるんとした素っ気ないデザインだ。
受け取って揺らすと、ちゃぷん、と水の音がした。
よかった、中身はまだあった。
象牙か水牛の角らしき栓を開けて、臭いを確かめる。
特に、変な香りはない。強いていえば、ほんのりハーブの香りがするくらいか。
手近にあった空の湯呑に、少し中身を注ぐ。
色も、無い。水のような液体、ね。
「毒見をしましょうか」
「しなくていいわ」
お夏の申し出を、すぱっと断る。
予想が当たっていたら、この化粧水は口にするとまずい代物。
命懸けの毒見なんてしなくていいよ。
湯呑の液体を庭に捨てて、きっちりとボトルを閉めた。
栓はちゃんと懐紙越しに摘んで、だ。手に付着したら怖い。
「白粉や紅は確保した?」
「はい、このとおり」
「よし、丿貫おじさんたちに合流しましょう」
漏れたりしないか確認して、持ってきていた油紙と手拭いで厳重にボトルを梱包して抱える。
あとはさっさと茶々姫様の寝室を後にした。
「姫様、そちらは水ではありませんね」
道中、そろりとお夏が聞いてくる。
良い勘してるな。さすが私の腹心。
感心しながら、お夏が控える後ろへ振り返る。
そうして私は、返事の代わりににやりと笑いかけたのだった。
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