小鳥が鳴く、嵐がくる(2)【天正16年6月下旬】
「さて、今の茶々姫の様子を聞かせてもらいましょうか」
上座の寧々様が、ゆったりと口を開く。
銀糸の睡蓮が咲く濃紺の打掛の背筋はぴんと伸び、鳶色の眼差しは私に付き添われた杏をまっすぐ見つめている。
まわりの人間は誰しも、似たようなもの。
これから杏が発する言葉に、ちゃんと耳を傾けようとしていた。
居心地が悪そうに、杏が私を見てくる。
少し体をくっつけて、手を取ってあげる。
傷の多い手から、細い手首には包帯を巻かれている。
そこには確か、強く掴まれたらしい痣があった。
手首より上も腫れていたり、肩が抜けかけていたりした。
どこもかしこもそんな状態だから、手当ての跡がない場所がほとんどない。
丿貫おじさんから手当てを受ける前よりも、痛々しさが上がっている気がした。
「お話しして、案じなくてもいいから」
「……わかった」
耳元でひっそりと促すと、杏の横顔に覚悟がよぎる。
杏が静かに息を吸って、吐く。
「ええと、もうしあげ、ます」
杏の話を簡単にまとめると、茶々姫様は酷い皮膚疾患を患っているということだった。
原因は、使っているコスメ。
特に袖殿たちが持ち込んだ白粉や化粧水に、酷く肌がかぶれているらしい。
私と決裂してから、茶々姫様周辺は私プロデュースのコスメの供給を止められた。
令和風メイクが主流の城奥で、かなり致命的な状態だ。
焦った袖殿たちはセクハラ内府様にヘルプを出すも、とと屋の製品は手に入らなかった。
だって、与四郎おじさんは私のパトロンなのだ。
広告塔兼太客でもある私と反目するセクハラ内府様たちに、良い顔をするはずがない。
主だった紅白粉商たちも最大手のとと屋に忖度したので、内府様たちはかなり仕入れに苦戦した。
ここで諦めて白旗をあげてくれたらよかったのだが、彼らは最悪の方向で解決してしまう。
とと屋の商いに押し負けて落ち目になった商人や職人を、拾い上げてしまったのだ。
時流に乗り遅れた部類の彼らは、最新コスメのコピー製品を密造販売していた。
酸化亜鉛や合成ウルトラマリンなどは手に入らなくとも、従来の原材料でも似せることはできる。
鉛の白粉をベースに、カラー調整をしてファンデを作ったり、とかね。
これを買い上げまくって、こっそり城奥に持ち込んで茶々姫様や自分たちに使用した結果、袖殿たちは何ともなかったが茶々姫様の肌は荒れた。
あと状態のよくない肌をメイクで隠したり、ちょっとマシになったらすぐ使用再開したりの繰り返し。
茶々姫様の状態に危機感を覚えた杏が、コスメの使用中止を進言しても誰も耳を貸さない。
賎女が生意気だとしばかれるか、さもなくば無視されるだけだそうだ。
ならばと城内を荒らし回る勢いでかき集めた薬草でケアをしても、ほとんど焼け石に水。
治療して少し良くなると、すぐコピーコスメを使われるという最悪ないたちごっこだという。
……うん。
控えめに言って、ちょっとした地獄かな。
座敷にいる者は、誰も彼も絶句していた。
何やっているんだ、袖殿も内府様も。
アウトが三回どころの騒ぎじゃない。
全部アウトだ。アウトしかない。
単純に私のメンツを潰すつもりだった……ってことなんだろうか。
私の
しかし、私に与えるはずのダメージが茶々姫様に行くって、やばいって。
途中で寧々様に意見を聞かれた丿貫おじさんが、症状を聞くかぎりかなり重篤だと言い切ったぞ。
どんな悪魔のピタ◯ラス◯ッチが起きたんだよ。
「もう、ウチの手には……負えなくって、
茶々様の言うことも、あいつら聞かないしで」
「あたくしに訴え出た、ということ?」
こくんと杏は頷く。
「茶々様は、袖たちに強く出られません。
ええと、あいつら、茶々様の後見の、織田、様? が、
差し向けた者だから……」
「下手に反抗して機嫌を損ねて、
内府殿に讒言されることを恐れているってわけね」
「そう、そうなんです!」
ぽろぽろと杏の瞳が、涙をこぼす。
膝を強く掴む手を、上から握ってあげる。
ままならない喉を震わせ、杏は口を開いた。
「あの方は、あの局で、ひとりぼっちです。
好き勝手、されて、泣いています。
ウチ、ウチは、お助けしたいのに……」
くしゃりと、彫りの深い横顔が歪む。
「お願い……茶々様を、助けて……っ」
杏の、痛々しい声が座敷に落ちる。
掠れ切った嗚咽を包むように、外から雨音がし始める。
濡れた土の香りを含む空気が、座敷へと忍び込んできた。
その湿度にも負けないほど重い静謐が、少し暗くなった室内に染み渡っていく。
「……許せない」
低い、怒りに満ちた呟きが、静かさを壊す。
織田侍従様の隣に控えた、蕗殿だ。
「あの者たちっ……、
天地神明に誓って茶々様をお守りすると約したのにッ、
ふざけているにもほどがあるわッッ」
立ち上がった彼女の肩から、質素な木綿の打掛が滑り落ちる。
まっすぐに蕗殿は泣いている杏に早足で近づいた。
そうして、わななく杏を強く抱きしめる。
「杏でしたか、礼を言います」
「え……あの……」
「茶々様のために、ようやってくれました」
赤い髪を撫でながら、蕗殿は腕に力を込める。
古ぼけた浅緑の小袖の腕の中で、杏が戸惑うように蕗殿を見上げた。
「わたくしは、茶々様の乳母です」
「茶々様の、って、」
「ええ、元のね。
ゆえあってお側を辞していましたが」
蕗殿が、頭をもたげた。
杏に向けていた眼差しから、瞬く間に母のような優しさが抜け落ちる。
「北政所様、先ほどのお話、お受けいたしまする」
鋭さをみなぎらせた双眸が、ひたりと上座に据えられた。
「覚悟が決まったのかしら」
「さようにて」
目を細める寧々様に、深く蕗殿は頭を垂れる。
「浅井柴田に縁深き者がお側にあっては、
茶々様の行く先の障りになる。
そのように思うておりましたが、
大きな心得違いであったようです」
「考えを改めてくれたのね」
よかったわ、と寧々様が袖で口元を覆う。
ころころと笑う寧々様の目配せが、澄まし顔の織田侍従様に流れる。
「源五殿、蕗殿の気持ちは決まったようよ」
織田侍従様の男性にしては優美な眉の端が、ぴくりと動いた。
寧々様の鳶色の瞳と、織田侍従様の墨色の瞳が交わる。
ややあって、はあ、とわざとらしいため息が綺麗な唇から溢れた。
「わかりました、アタシがやればいいんでしょ、
茶々の後見人」
「ふふ、それでこそ前右府様の弟君」
「も〜、寧々様ったら!
三郎兄様の名前は出さないでくださいなっ!」
恥ずかしいっ、と織田侍従様は頬に両手を当ててイヤイヤとした。
「あ、でも寧々様、約束は守ってくださいね?」
「もちろんよ、織田家の家督を三法師殿に戻すことね。
屹度うちの人へ口添えいたしましょう」
「お与祢ちゃんのお手入れとお化粧もね。
忘れちゃ嫌ですよっ! こっちが本題よ!」
「はいはい、お与祢、良いわね?」
寧々様に振られて、居住まいを正す。
両手を胸の前で組んでいる織田侍従様の視線が、ぐさぐさ刺さって痛い。
目がマジだ。真剣すぎてちょっと怖いわ。
引きつりそうになる頬を、がんばって緩めながら応える。
「織田様のお望みのままに。
後ほどお伺いする日取りを決めましょう」
「きゃあ! 嬉しいっ! よろしくねっ!!」
心底嬉しげな織田侍従様の声が跳ねる。
こんな時でも全開だなあ、この人は。
茶の湯を与四郎おじさんに習う兄妹弟子という間柄、私はこの人のことを前から知っている。
が、いつ会ってもインパクトがすごい人だわ。
天正の世にもいるとは思わなかった、オネエ系なんだもん。
「な、なあ、粧姫」
「なに?」
「あのおっ……お、御人? なんなんだ??」
「一の姫様の叔父上」
「そうでなくって、あれ、あれなんなんだよっ」
「織田様の美学よ。
美しいものに触れるためには、
自分も美しくあらねばならないんだって。
それが美しいものへの礼儀なんだって」
「は……???」
完全に引いている杏に、曖昧な笑みを返しておく。
気持ちはわかる。でも不安そうにしないでくれ。
織田侍従様はこれでも、政治的な常識はある人だ。
信長の弟だけあって、わりかし能力的には優秀でもある。
ともかくオンリーワンな御人だが、信用はできる織田一族の重鎮だ。
セクハラ内府様と比べるべくもなく、茶々姫様の後見人に相応しいよ。
お顔も立ち振舞いもべらぼうに綺麗で、オネエしてても違和感が無いのが違和感、みたいな人だが。
「さて、それでは役者も揃ったことですし」
ぱちん、と寧々様が両手を叩く。
私と杏がこそこそ話している間に、大人の話が終わったようだ。
「まず、源五殿とお与祢」
呼ばれて私と織田侍従様が居住まいを正す。
「東を伴って、茶々姫をここへ連れ出してらっしゃい。
この際よ、源五殿の供回りを幾人か連れ込んでもいいわ。
男手があった方が、何かと良いでしょう」
「「はっ」」
私とともに深く頭を下げてから、織田侍従様が席を立つ。
供侍を呼び寄せに行くのだろう。
後でね、と唇を動かして片目を瞑って颯爽と退出していった。
「道貫殿もお与祢に付いていってくださる?」
「承りました」
丿貫おじさんは、おっとりと目の横の皺を深くして平伏した。
それを解くや、いつの間にか戸口に現れた弟子らしき小坊主に、薬箱を取ってくるよう申し付ける。
おじさんよ、そいつ誰だ。いつの間に弟子を持てる身分になっちゃったの、おじさん。
「蕗と杏はこちらで留守番よ」
「ウチもですか?」
驚いたような杏を、寧々様は苦笑ぎみに諭す。
「貴女は怪我人でしょう、荒事は止めておきなさいな」
「でも、これくらいかすり傷ですっ」
「まあまあ、勇ましい娘さんだこと」
面白そうに笑って、寧々様が蕗殿と顔を見合わせる。
むっとした杏の髪を、蕗殿は宥めるように手で梳いた。
「杏、お願いがあります」
「……なんですか」
「茶々様をお迎えする支度を手伝ってください」
「お迎え……」
「北政所様が、こちらの御殿に療養所をご用意くださいましたから。
支度をしながら、あなたの知る茶々様のお話を、
聞かせていただければと思うのですが」
どうかしら、と言われて杏が言葉に詰まる。
迷っているようだ。縋るような顔の彼女に、頷いてあげる。
寧々様と蕗殿のおっしゃる通りだよ。
あんたは怪我だらけなんだから、ここで大人しく待ってた方が良いよ。
「わかりました、ここに、います」
「ありがとう、ではこちらに参りましょうね」
蕗殿は杏の返事に、にっこりと微笑んだ。
怪我だらけの手を壊れ物のように取って、座敷から退出しようと促す。
珍しく困ったように眉を下げて、けれども素直に杏は蕗殿に従った。
丁重に扱われ慣れていないらしい。可愛いものだ。
戸口で振り返る杏に、しっかりと目を合わせる。
心配しないで、茶々姫様は必ず私が連れて戻るから。
去っていく二人を見送ると、座敷は寧々様と私だけになる。
「お与祢」
寧々様が私に、声を掛ける。
目が合った。アイシャドウで艶やかになった双眸が、苦労をかけるわね、というふうにたわんだ。
本当にね。こんな長丁場で、大事になってくるとは思わなかったよ。
まったくですと目で語ると、扇子で隠された口元からくすくすと笑う声が溢れた。
「委細、任せたわよ」
「承知いたしました」
一礼して、できうるかぎりの美しい所作で席を立つ。
丿貫おじさんと侍女たちを引き連れ、小袖の裾を捌いて廊下を進む。
御殿から外へ通じる渡殿に、織田侍従様と東様が待っていた。
伴侍たちも、体格の良い侍女たちも揃っている。
準備万端だ。そっと息を吸い込んで、短く吐く。
「お待たせいたしました、まいりましょう」
よっしゃぁ! けりを付けるぞーっ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます