小鳥が鳴く、嵐がくる(1)【天正16年6月下旬】
寧々様の部屋を出た途端、ここで耳にするはずのない声が飛んできた。
「粧姫っ」
庭の木槿の茂みから、細い影が踊り出す。
影の頭を覆う白い布が、その拍子に枝に掛かって落ちる。
赤い髪が鮮やかに、薄明るい朝の空に舞い広がった。
「曲者!」
私が反応するより先に、戸口に控えていたおこや様が叫ぶ。
すぐさま侍女が幾人も庭に飛び降り、こちらへ走り寄ろうとする杏を取り押さえた。
「いてーな!? 放せっ!」
「お黙りッ、ここをどこだと心得る!?」
「知ってるさ! ご正室サマの御殿だろ!」
「ならば控えよ、痴れ者がっ」
「控えてらんねーんだよっ!
ウチは粧姫に用があるんだっ!!」
乱暴に地面に引き倒されながらも、杏はもがいて叫ぶ。
侍女たちに打たれたり、蹴られたりしても止まらない。
押さえつけてくる腕を押し返し、のし掛かる侍女を数人引きずりながら、私の方へ這い寄ってくる。
ちょ、怖ッ!? 杏ちゃんお顔すんごいことなってるよ!?!?
あんまりな杏の形相に、一瞬怯みかけたがそんなことしている場合じゃない。
庇うように前へ出たお夏の脇をすり抜けて、私も庭へ降りる。
「皆、少しだけやめて」
「粧姫様!?」
杏にのし掛かる侍女が、唖然と私を振り返る。
不審者を解放しろってちょっとおかしな命令だものね。
すまんな、気持ちはわかるが来た人間が来た人間なんだ。
「この子と、少しだけ話をさせてちょうだい」
「ですが、この曲者は寧々様の」
「勝手に寧々様のお側近くへ忍び込んだ咎は、
よくよく承知しています。
でもそれだけ急いた用向きだけ、
聞き出させてちょうだい。
私が用を聞き出した後はどうしてくれてもいいわ」
ちらりと視線を送ると、地面に這ったまま杏も頷いた。
私たちの様子にためらった侍女たちが、おこや様をうかがう。
おこや様が、難しい表情で私を見た。
今日の警備担当は、おこや様だ。
判断をどうしたものか、迷っているらしい。
不審者を放置はできないが、ただならない状況であるとはわかっているのだろう。
「おこや様」
悪いな、無理を通しておくれ。
気持ちを込めて微笑みかける。
「寧々様のお叱りがある時は、私が受けますから」
「……仕方ないなあ」
「恩に着ますわ」
ため息まじりでおこや様が手を一つ振る。
侍女たちはあからさまにしぶしぶと杏を解放した。
側へ寄って、起き上がる杏を介助してあげる。
土に汚れた顔が、痛々しく腫れていた。
腫れ方が、さっき打たれただけとは思えない。
見れば小袖から覗く手足も、傷や痣にまみれている。
「杏、何があったの?」
「局を抜け出そうとしたら、ババアどもに見つかった」
「袖殿に? 酷いことするわね、あの人たちも」
「まったくだよ、って、それより!」
私の差し出した手拭いを、ぼろぼろな手が押しのける。
その手がそのまま、地に付けられた。
「粧姫様、お願いです」
髪紐が切れて、鮮やかな杏の髪が、細い肩から背中へ流れる。
「茶々様を、茶々様を助けてくれ!
このままじゃ袖たちに、茶々様が壊されちまうッ!」
勝ったな。
切羽詰まって今にも泣きそうな杏の懇願に、私はそう思った。
もともと負ける気のない賭けだった。
勝ち以外の目が出ないよう布石したから当たり前だけど、やっぱり思い通りになると気持ちがいい。
こうして杏が自分の意思で訴え出てくれたから、私も無理なく庇ってあげられる。
もちろん茶々姫様の責任も、袖殿たちへ最大限擦りつけられる。
ほぼほぼ私が書いたシナリオのとおりだ。
心の中でガッツポーズを決めつつ、私は杏の手を取る。
「わかったわ」
不安げな杏の背中を、安心させるようにさする。
心配しなくても、悪いようにはしないよ。
ベストタイミングで来てくれて、本当にありがとうな。
「よく言いに来てくれました。
詳しい話を聞くから、こちらへおいで」
「……いいのか?」
「もちろんよ、きっと他の方も杏の話を聞きたいでしょうしね」
きょとんとする杏をよそに、お夏へ目配せをする。
やっとか、という顔のお夏が側にいたお楽に声をかけて、座敷の戸口へ歩み寄った。
左右の襖の取っ手に、お夏とお楽が手をかける。
するりと牡丹の襖が、開け放たれた。
「お聞きになりましたか、寧々様」
「ええ、はっきりと」
掛けた声に応じるように、衣ずれが複数近づいてくる。
平伏する女房や侍女たちの間から、私の主人が姿を表した。
その後ろに従うのは、三人の男女。
憤りを抑えつけたように唇を結ぶ婦人と、扇で口許を覆って目を細める男性に、丿貫おじさん。
その四人が、私と杏を見下ろす。
「杏、と申したかしら」
「は、はいっ」
「お上がりなさいな、手当てをしてしんぜましょう」
寧々様はゆったりと縁の端に膝をついて、杏に話しかける。
「手当てが済んだら、聞かせてちょうだい。
ちょうどあたくしたち、茶々姫の話をしていたのよ」
「ちゃ、茶々様の、なんの話をですか」
おずおずと、寧々様と後ろの男女を杏が見比べる。
安心してちょうだい、と寧々様はころころ笑った。
「こちらは織田侍従殿と
茶々姫の叔父君と元の乳母殿です」
ぎょっとして後退る杏の肩を抱いてあげる。
大丈夫だ。本物だよ、この二人は。
織田侍従様は正真正銘茶々姫様の叔父君で、蕗殿は浅井から柴田まで茶々姫様の側に仕えた人だ。
今日はちょうど、茶々姫様の身柄確保の最終調整のための打ち合わせをしていた。
私が昨日、杏に最後の仕掛けを仕込んだからね。
今にも一人で突撃しようとする蕗殿を止めるのが大変だったから、ちょうど来てくれてよかったよ。
知らない大人に注目されて小刻みに震える杏に、寧々様は優しげな言葉を重ねた。
「近々、茶々姫の後見と側仕えを、
こちらの二人に替えるつもりなのよ」
ばさりと黒い扇が広げられる。
隠れた艶感のあるオレンジベージュで彩られた口元から、心底楽しげな声音が溢れる。
「貴女の話、役立ちそうだわ」
ごくり、と杏の喉が喘ぐ。
寧々様から逸れない瞳に、緊張がみなぎっている。
大丈夫だろうか。声をかけてみるが、反応は薄い。
端に乾いた血の張り付けた口が、はく、と動いた。
「あ、あの、聞いても、いいですか」
「いいわ、何かしら」
「それって、茶々様、助けてくれるってこと、
ですか……?」
水の膜が張ってゆく杏の青色。
そこへ映り込んだ寧々様は、ゆっくりと首を縦に振った。
ひゅっと杏の息が詰まる。振り向いた彼女に、私は笑いかける。
「よかったね」
声を殺した嗚咽が、かさついた唇から溢れる。
ぼろぼろと涙を流し、杏は地に伏して泣き出した。
背中を撫でると、更に嗚咽が激しくなる。
杏が涙を止めることは、しばらく無理だった。
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