誰が小鳥をなかせるの?(6)【杏・天正16年6月下旬】
小さな時から、育て親の白妙太夫に言われてきた。
自分の行いを映す浄玻璃の鏡。
善き行いも悪しき行いも、すべてを映す鏡であり、映った通りのものを跳ね返してくる。
ゆえに、三つ心得て生きろと、言い聞かせられた。
他人様へ不義理を働いてはいけない。
他人様に言えない真似をしてはいけない。
他人様が困っていたら無視をしてはいけない。
『ええね、杏』
他人様から目を背けちゃ、あかんよ─────
◇◇◇◇◇◇◇◇
「……たゆう、っ」
生温かさが、こめかみを伝う。
気だるい手を動かして触れると、じっとりと濡れていた。
ぱかりと開いた拍子に、目の端から涙が零れたらしい。
手の甲で、目元を拭って起き上がる。
細く開けておいた戸から、外を覗く。
月明かりが細く差す、薄暗い女中部屋が広がるばかりだった。
「まだ夜かよ」
損をした気分だ。ため息を吐いて、寝床に身を横たえる。
月の位置からして、夜明けまでまだある。
ろくな食事にありつけない身だ。せめて睡眠くらい十分に取りたい。
けれども一度起きてしまうと、目が冴える。
欲しい眠気を遠ざけてしまう、軽い空腹が忌々しい。
つい出た舌打ちが、狭い納戸に響く。それがまた鬱陶しくて、杏は頭を掻いた。
寝る場所くらい、まともにしてほしいものだ。
いけ好かない女房たちの顔が、まぶたの裏にいくつも思い浮かぶ。
しこたま杏をこき使うくせに、相応の待遇を寄越さないなんてふざけている。
誰のおかげで、まともな当世流の化粧ができていると思っているのだろう。
待遇改善の要求がてら、一度化粧を拒否してやろうか。
「……いや、だめだろ」
頭に浮かんだ乱暴な提案を、首を振って払い除ける。
下手に反抗したら、何が返ってくるかわかったものじゃない。
自分が折檻されるだけで済めばいいが、育て親の白妙に手を下されたらと思うと恐ろしい。
腹は立てても、態度に出さぬよう堪えなければ。
腕に爪を立てて苛立ちをいなし、寝返りを打つ。
やっぱり、眠れない。
夢とはいえど、白妙の声を聴いたせいだろうか。
胸がざわついて、落ち着かない。
「太夫、養生できてるのかな……」
ぽつん、と呟く。
冬の終わりに別れた時の、白妙の細面を思い出す。
名乗りのように真っ白な、不安になるような顔色だった。
杏がこの奉公と引き換えに得た大金で廓を出て、療治に励んでいてくれたら良いのだが。
肺の病は不治のものだが、空気の良いところで養生すれば進行を食い止められると聞く。
実の母も同然の白妙には、僅かでも長く生きてほしい。
一つきりの願いくらい、叶っていてほしいものだ。
『白妙太夫さん、良くなっているって』
昼間、耳打ちされた声がよみがえる。
淡い桃色の唇が、ひそりとそれを杏に囁いた。
『うちの大叔父が、診てきてくれたの。
養生が実を結んでいるようですって!』
よかったね、と黒い
心の底から安堵をしていたかのような、暖かみのある声音だった。
信じても、良いものだろうか。
今の主人を不遇に追いやる原因を作ったと聞く、あの少女───粧姫を。
白妙の病が判明したのは、冬の最中だった。
軽い咳から、あっという間に止まらない咳へ。
不調が延々と続いて、宴席に出ることも難しくなっていった。
とうとう楼主が医者を呼んで、そして言われたのだ。
一年と経たず、白妙は血の華を吐いて死ぬ、と。
楼主も杏も、楼の遊女も頭を抱えた。
白妙は美貌だけでなく、人徳も併せ持つ人だ。
見世の誰もが救ってやりたいと思ったが、肺の病はとにかく金がかかる。
手厚く衣食住を整えて、医者を付けて、真綿で包むようにしないとすぐ悪くなるのだ。
そんな大名か豪商のような療治を長く続けさせてやれる金なんて、見世を逆さにしても出てこない。
大見世とはいえども、白妙頼みでのし上がったばかりである。
白妙が抜ければ、確実に稼ぎが大きく下がってしまう。
杏の化粧と若手の遊女の奮闘があっても、すぐ今のようにとはいかない。
焼け石に水をやる間に見世が潰れるか、白妙が死ぬかの二択だ。
見世の誰もが、頭を抱えた。そんな時だった。
楼に出入りする武士から、杏の奉公話が持ちかけられたのは。
武士が仕える大名家ゆかりの姫君に仕えてみないか、という話だった。
その姫君は今をときめく関白の側室に入っており、正室たちからいじめられている。
哀れな境遇に心を痛めた武士の主君は考えに考えて、妙案を思いついた。
姫君が関白の寵愛を得て、正室たちを見返せるような刃を用意しよう、と。
ついては、その刃の役目を杏に頼みたい。
見返りに白妙の面倒は、大名家が責任を持ってきちんと見る。
杏も侍女として召し上げ、相応の待遇を与えるから、どうか。
この話に一も二もなく、杏は飛びついた。
自分の腕一つで白妙が救えるなら、安いものだと思ったのだ。
話がうま過ぎると楼主や白妙たちには止められたが、止まれなかった。
なにより、白妙の病状は一刻を争っていた。すぐにでも、療養をさせてやりたかった。
だから拙い子供なりに見世の皆を説得して、後ろ髪を引かれながらも、白妙の手を振り解いて。
杏は武士に連れられて、この城へやってきたのだ。
入った城は、広大でたくさんの女がいた。
正室や正室の派閥に属する者が贅沢のかぎりを尽くし、女中にいたるまでが奢って暮らしている。
そんな城の中で、杏が仕える姫君──茶々姫は、城の隅の小さな局に押し込められていた。
正室の化粧係である粧姫の機嫌を、損ねてしまったせいらしい。
粧姫は小大名の姫であり、正室の寵愛をかさに着て、高慢に振る舞うこと甚だしいそうだ。
大人しい茶々姫にあれこれと無理を押し付けて、周りの者が抗議すればへそを曲げて冷遇を始めた。
正室に訴えても無駄だった。
彼女は娘の如く可愛がる粧姫に加担して、茶々姫の冷遇に加担する始末だった。
武士や茶々姫付きの女房の袖たちは、そう杏に説明していた。
姫君とその周りが城の者から冷たく当たられているのは、杏もすぐ肌で感じた。
こっそりと垣間見た粧姫も気取った小娘で、とても偉そうに肩で風を切っていた。
贅沢を贅沢とも思わない振る舞いも、本当にいけ好かなかった。
だから杏は、すっかり闘志を燃やしてしまった。
かわいそうな姫君を助けて、弱い者いじめをするやつらの鼻を明かす。
痛快でやりがいのある日々が始まるのだと、気炎をあげたのだが。
日を追うごとに、それは朝顔のごとくしぼんできている。
現実と、杏が信じたこと。
その二つに決定的な食い違いがあることを、気付かされてしまった。
よりにもよって、目の敵にした粧姫に。
「くっそ」
小憎たらしいしたり顔が、脳裏をよぎって舌打ちが出る。
あの姫の世間知らずは鼻につく。
満たされた者特有の能天気さで、無意識にこちらをイラッとさせてくる。
しかし、それを補ってあまりあるほどのお人好しだ。
敵の失態を知っても、それを取っ掛かりに叩き潰すどころか、手を差し伸べて助けてしまう。
他者を貶めて嫌がらせをするような発想も度胸も、欠片も備えていない。
杏の、その背に庇っている茶々姫の不遇を自然に察せられる頭を、善行にしか使えないのだ。
そんなお人好しだったからこそ、憎めなくなった。
粧姫から、目を背けなかったせいだ。
もうすっかり絆されている。この城の誰よりも、信用してしまっている。
あの姫に手を伸ばして、助けを乞うのが自分にとっての最善だと思い始めている。
茶々姫の最善にもなるという、確証はまだ持てていないけれど。
「……ん?」
縁の方から聴こえた足音が、杏の思考の渦を断つ。
こんな夜更けに、誰だろう。
なんとなく気に掛かって、杏は納戸の細い隙間からするりと外へ出た。
雑魚寝する女中たちの間を、爪先立ちで縫ってゆく。
一人も起こさず女中部屋から、縁の方へと抜けられた。
涼しい夜風が、髪を揺らす。
足音の主は、この涼を求めたのか。
ならばと足を忍ばせて、縁の右手へ歩き出す。
女中部屋の右手を行くと、池に面した広い庭へと突き当たる。
水辺を撫でた風はひんやりと気持ちが良いものだ。
きっと、足音の主もそこへ行ったはず。
広くはない局だから、いくらもかからず庭へ辿り着く。
縁に吹き寄せる、心地良い風の中。
はたしてそこには、伽羅色の髪が流れる背があった。
「姫様」
呼びかけると、柔らかな髪がふわりと揺れる。
振り向いた今の主人……茶々姫は、杏を映した瞳を丸くした。
「あら、見つかってしまったわね」
舌をちろりと覗かせて、茶々姫は悪戯っぽくと笑う。
少女めいた仕草が愛くるしい。今宵は少しだけ、調子が良いようだ。
「寝所が暑いから、抜け出してきたの」
「不寝番の者はどーしたんですか?」
「よく寝ていたから、そっとしておいてあげたわ」
「ちょ、それダメでしょ!」
驚きのあまり、つい声が跳ねてしまった。
好き勝手する者が多い局だが、茶々姫の守りすら放棄するなんて、職務怠慢にもほどがある。
しーっと茶々姫が唇に指を当てる。
「あの子たちも疲れているのよ、
内緒にしてあげてね?」
お願いよ、と茶々姫は片目を瞑った。
ため息を吐いて、首を縦に振った。腹は立つけれど、姫の優しさを無碍にするのは気が引ける。
茶々姫は安心したように微笑んで、おいでと手招きをしてくれた。
誘われるまま、側へ行く。少しだけ離れた場所に杏が座ると、茶々姫は満足げに目を細めた。
まったく、放っておけないお姫様だ。
優れてはいない容貌に、心優しく無邪気な性格。
引っ込み思案なところもあり、他人から侮られやすそうな雰囲気がある。
けれども、悪くない姫だ。こうして混血の杏を気味悪がらず、好意的に接してくれる。
力になってやりたいと、素直に思わせてくれる人だ。
こうして言葉も無く過ごしていても、居心地が悪くない。
ちらりと茶々姫を窺う。頬も額も、痛々しいほど肌が爛れている。
でも、今夜は痒みも痛みも、さほどではないらしい。
茶々姫は穏やかな表情で、静かな夜更けの庭を眺めている。
ほっとしている杏の髪を、ゆるく風が揺らす。
「あの、茶々様」
「どうしたの?」
「その……もしかして、
今、白粉を付けてますか?
天花粉ではなくて、
恐る恐るの杏の問いに、茶々姫はこくんと頷いた。
「うん、付けているわ」
どうして。
叫びそうな声を、喉で押し留める。
軽粉とは、鉛の白粉だ。
とと屋の
茶々姫の荒れた肌には、あまり勧められない代物だ。
少なくとも肌が元に戻るまでは控え、薬効を持つ天花粉の白粉を使うべきだ。
昼間にきちんと説明をして、茶々姫も理解して使わないと言ってくれたはずだ。
それなのに、どうして。
「ごめんなさい」
茶々姫が申し訳なさそうに肩をすぼめる。
「袖たちが、寝化粧をって塗ってくれたのよ」
「寝化粧、って」
今夜は杏が、施してあげたはずだ。
蓬を煮出した薬水と、杏の手荒れ用にと粧姫がくれた橘の香りの軟膏を塗って、天花粉の白粉をはたいて差し上げた。
「違うの、袖たちは悪くないの、茶々のせいなの」
顔を顰める杏に、慌てたように茶々姫が言う。
「お化粧をしても、
まだ爛れは隠しきれないのねって言ったら、
袖たちが軽粉なら少しは隠れますわって」
「ずっと軽粉を使っていたら姫様の肌は治らないって、
あれだけウチが言ったのにっ!?」
「茶々もね、そうじゃないかしらって言ったのよ?
でも、ちょっとなら大事ないって、みんなが」
優しげな曲線を描く眉が、みるみる萎れたように下がる。
「茶々が全部悪いの、ごめんなさい」
「そんなことない!」
弱気な言葉を、即座に否定する。
茶々姫に良くないところがあるとしたら、気の弱さだけだ。
他は全部、袖たちが悪い。おとなしやかな姫君の気持ちを慮らないなんて、許せない。
落ちきった肩を撫でてあげながら、杏は茶々姫の顔を覗き込んだ。
「嫌ならば嫌と言っていいんです、
姫様は姫様なのですよ?」
「そうかしら」
「ええ、もっと自分勝手になっちゃってください」
「茶々のためにって、みんながしてくれたことなのよ?
無下にしていいものなの……?」
「もちろん、姫様がお嫌ならば、いくらでも」
粧姫が茶々姫の立場ならば、女房が意に沿わねば追い出す。
姫君というのは、それを許される身分なのだ。
しかし茶々姫は不安げに、胸の前で両手を握った。
「袖たちに嫌われてしまわないかしら」
「別にいいじゃないですか、所詮は女房ですよ?」
「でも、茶々に良くしようとしてくれているし」
「自分たちの都合良くしようとしてるの、
間違いじゃないですか」
「でも、でもね、茶々のためですって、
みんな言ってくれるでしょう?」
「口だけですって、それ」
不安を取り除こうと杏が言葉を尽くすほど、でも、でも、と茶々姫は食い下がっていく。
茶々姫はどうして、勝手な袖たちを庇うのだろう。
まったく理解できなくて、杏は途方に暮れてしまった。
使用人に嫌われるくらい、姫君に取ったら些事のはずだ。
「姫様を大事にしない袖様たちなんて、
もう
思ったままの提案を口にする。
すると、茶々姫はいきなり激しく首を横へ振った。
「だめよ、だめ、そんなことしちゃだめよ!」
「なぜです?」
「袖たちはね、三介お兄様が付けてくださった者たちなの」
「ええと、姫様の従兄君でしたっけ」
「茶々の大好きなお兄様よ、
茶々を大事って言ってくれる家族なの。
優しいお兄様が心を砕いて付けてくださった袖たちに、
いじわるなんてできないもん」
杏の奉公の口を利いた男のことを、茶々姫はずいぶんと信頼して慕っているようだ。
それもそうか。実の父母も養父も既に亡い茶々姫にとって、数少ない頼れる近親者だ。
頼らざるを得ないという部分も、大きいに違いない。
「もし茶々がいっぱいわがままを言ったら、
袖たちはお兄様へ何か言ってしまうかもしれないわ。
それで、お兄様に悪い子だって嫌われちゃったら」
黒い真珠のような瞳が、みるみる潤んでいく。
「茶々、ひとりぼっちになっちゃう……」
茶々姫の白い手の甲に、雨が降る。
ぽたぽたと、途切れることなく。
声も上げずに涙をこぼす茶々姫に、杏は悟った。
袖たちの増長は、これが原因だなのだと。
茶々姫は後見人の従兄の機嫌を損ねることを、恐れている。
大大名の従兄に見捨てられてしまえば、茶々姫は天涯孤独になってしまう。
後見人もいない側室の城における立場は、薄い氷の上に立つようなものだ。
それゆえに茶々姫は、従兄との間に立つ袖たちへ強気に出られない。
従兄へ讒言をされてしまわないよう、必死で袖たちの横暴を我慢しているのだ。
言いようのない怒りが、杏の腹の底で煮えた。
「姫様」
俯く茶々姫の手に、手を重ねる。
振り向いたかんばせは涙に濡れ、白粉が流れて酷いことになっていた。
置かれた悲惨な境遇をあらわすようなありさまに、胸がじくじくと痛くなる。
唇を噛むのをやめて、杏は口を開いた。
「お独りにならないなら、嫌って言えますか」
「……?」
「姫様が独りにならないよう、
ウチがなんとかします!」
「あなたが……?」
長いまつ毛が、宿した雫を散らして瞬く。
不安げな茶々姫を元気付けるように、杏は頷いた。
「少し待っててください」
「すこしって、いつまで?」
「夜が明けて、お天道様が空のてっぺんに昇るまで」
月が傾きつつある今からなら、朝駆けでいこう。
頭の中で、粧姫の局への順路を思い浮かべる。
粧姫が住む正室の御殿へは、朝仕事に励む女中たちに紛れたら入り込めると思う。
入ったら局の前に隠れて、粧姫が出てきたところで声を掛ければいい。
茶々姫に会いたいと言っていたのだから、会わせると言えば絶対に乗ってきてくれる。
それに粧姫の朝一番の仕事は、正室の化粧だ。
上手くいけば流れで、正室に直訴もできるかもしれない。
粧姫づてに聞く人となりが正しければ、正室はかなり懐の広い女だ。
茶々姫に好意はなくても、茶々姫の非が少ない今の状況ならば、助けてくれる可能性が高い。
それに粧姫のことだ。ちゃんと筋を通せば口添えをしてくれるはず。
少なくとも、茶々姫の悪いようにはならない。杏が、させない。
「待っててくださいね」
茶々姫の目をしっかり見据える。
「必ず、姫様を助けますから」
色々と間違えてしまったが、間違えた分はきちんと正す。
困っている茶々姫のために、手を尽くすことから始めよう。
その結果、重い罰を受けるとしても、後悔はしない。
灰色がかった青い目のまなじりに力を込め、杏は立ち上がったのだった。
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