誰が小鳥をなかせるの?(4)【天正16年6月上旬】
「おい、受け取れって」
ぽかんとする私に、杏がむっとして言った。
いや、ちょっと以上に驚きすぎていて、反応できんのですが。
「聞こえてんの?」
「え、うん、聞こえてるけど」
「ぼーっとしやがって、抜けてんな」
「抜けてないわよ!
ていうか、なんでこれ持ってきたの?」
このスカーフ、こないだ巻いてあげたやつだよね。
あげたつもりですっかり忘れていたから、また持ち出されてびっくりしたわ。
「はぁ、あんた親に教わんなかったのか?」
「何をよ」
「人様にお借りしたもんは、綺麗にしてお返しする。
それが道理だって、ウチは太夫に教わったぞ」
はぁぁぁ???
驚きの追撃に、私は目を丸くしてしまった。
杏の口からまともな常識が飛び出すとか、嘘みたいだ。
唖然とする私の手に、杏はスカーフを握らせてくる。
「ちゃんと
火熨斗も当てといたから」
「えっ、あ、ご丁寧に」
反射的にお礼を言ったら、杏は満足そうに頷いた。
やっぱり熨斗、ちゃんと当ててあるのか。
お風呂ついでに洗ったのかな。なんでこんなとこしっかりしてるんだ、この子。
「返さなくてもよかったのに……」
ほとんど無意識に、ぽつりと呟いてしまう。
「は?」
「布なんて私はいくらでも持っているし、
あなたが取っておいてもよかったんだよ?」
「あんた、ほんっっっと腹立つな」
心底むかつくって感じで、杏が舌打ちをしてきた。
「それ、絹だぞ?」
「だからどうしたの」
「いくらするもんだと思ってんだよっ!
馬鹿高いもんを、ホイホイ人にやるな!!」
「あ、そっか」
まさかの庶民的な正論に、なんか気まずくなる。
一枚で庶民の一ヶ月分の生活費にはなる、かも?
杏の反応を見るに、もっとする可能性もある?
それを適当に人にあげようとするなんて、庶民の杏からしたら驚愕だろう。
言われなきゃ自覚しなかったが、わりとぶっ飛んだ金銭感覚のとんでもない行為だ。
杏が怒るのも、ちょっとわかる。
「ズレてんな、あんた」
「ズレてない、市井のことは知らないだけよ」
与祢になってから、ずっと姫暮らししてきたんだぞ。
知らないものは知らないから、嫌そうな顔されても困る。
ま、でも。返してくれるって言うなら、それはそれでありがたいことだ。
懐にスカーフを入れて、腕組みしている杏に笑いかける。
「返してくれてありがとう」
「ん」
あ、杏も笑った。わりと可愛い。
というか、笑えたんだな。
ちょっと安心しながら、求肥の包みを差し出してみる。
「来たついでだし、食べてく?」
「い、いらない!」
パッと顔を背けても、お腹の音は誤魔化せないものだな。
元気に胃が動く音が、妙に愛嬌があって吹き出してしまう。
耳を赤くして横目で睨む杏に、私は自分の隣を叩いてみせた。
「求肥ね、少しばかり多めにもらっちゃったの」
「……」
「残らないように、食べるのを手伝ってよ」
ねえ、と包みを持つ手を誘うように動かす。
杏の喉元が、露骨に唾を飲んだ。おやつを前にした猫みたいだ。
にやにやしそうになるけれど、必死で堪えて「おいでよ〜」と誘う。
にやけると、杏が怒って逃げちゃうだろうしね。
「……しかたねーな」
あまりかからず、杏は陥落した。
そっぽを向きながら、私の方へ寄ってくる。
やっぱり猫っぽくていいわ、この子。
隣を開けてあげると、おずおずと杏が腰を下ろした。
私との間に空いた距離は、両手を並べて二つ分。
微妙な距離感をそのまま表したかのようだ。
「どうぞ」
「……頂戴します」
ぎこちなく、けれどしっかりと杏は私に礼を述べた。
ライムグリーンに包まれた頭を軽く下げ、受け取った包みを開く。
「待って」
求肥に伸びる杏の指先を、咄嗟に掴む。
青い瞳が、きょと、と私を見つめる。
ああ、庶民の人って楊枝を使わないんだったね……。
「素手で食べたいなら手を拭きなさい」
「は?」
「両手を出して、お水を受けるみたいにね」
やってみせると、素直に真似してきた。
反抗してこないことにちょっと感動しながら、懐にしまってあった消毒用アルコールの小瓶を出す。
「これ、消毒酒精ね」
「しょうどく? なんだ、それ?」
「手を綺麗にする薬よ、
食事やお化粧仕事の時に使う物なの」
実演した方がわかりやすいかな。
瓶を開けて、中のアルコールを手に垂らす。
ひんやりと熱を奪う冷たさを感じつつ、まんべんなく指先から手首まで塗り伸ばしていく。
「こうして両手によく擦り込むんだよ」
「……そんなもん手に塗るのも、
城の作法なのかよ?」
「うん、私が寧々様と相談して決めた作法」
「めんどくせぇなぁ」
うへ、と杏が眉を寄せる。
「でもね、このひと手間で、
だいたいの病や腹痛は防げるのよ」
「へ? 嘘だろ? 薬を手に塗るだけでか?」
「嘘じゃない。私の大叔父がお医者様で、
きちんと市井で効能を確かめられたんだから」
小まめな手指消毒って馬鹿にできないもんだぞ、マジで。
令和で疫病が大流行した時に、日本では感染予防の一環で徹底的な手指消毒の習慣ができた。
外出して帰宅したらしたら消毒、お店に出入りする時にも消毒。
メイクをする前に消毒して、物を食べる前にも消毒。
そんなふうに国民全員が消毒三昧をやったところ、地味な成果が上がった。
本命の疫病よりも先に、インフルエンザ等の各種感染症が露骨に減ったのだ。
毎年感染者が数十万を超えていたインフルエンザなんて、感染者が約一〇〇〇分の一まで激減した。
つまり手指消毒による感染予防は、最強の健康習慣なのである。
今は天然痘とかヤバイ病気が現役の天正だ。
手指消毒をやらない選択肢は、絶対にない。
だから城奥に入ってすぐ、手指消毒の導入を寧々様に進言した。
説得のために、ちゃんと統計データも用意してだ。
使ったのは、丿貫おじさんが行った検証調査の結果。
山科の屋敷のご近所一帯で手指消毒を導入してもらったところ、病を得る人が目に見えて減少したのだ。
これを証拠に寧々様の説得に成功して、今では城奥でも手指消毒が習慣化している。
そのはずなんだけど……杏、知らないのか。
「一の姫様の局で教わらなかった?」
「聞いてないし、そもそも誰もやってねーよ」
「そっかぁー……」
反抗的だとは思ったけど、消毒もやってなかったか。
そりゃ茶々姫様の元から、病気の女中が出やすいわけだ。
最近は体調を崩す人が減っていたのに、と不思議だったんだよ。
「あーもう、あのくそババァ、
どうしようもねぇな」
こんな便利なもんあるなら言えよ、と杏が苛立たしげに頭を掻く。
頭の回転が早いな。説明されただけで、ちゃんと消毒の効果を理解したようだ。
「余分に持ってるから一つあげるわ」
「……わりぃ」
「いいよ、もっと必要なら言ってね」
予備を渡して、念押ししておく。
杏一人でも、使う人間がいるといないではだいぶ違う。
袖殿たちの自爆カウンターをそっと回して、改めて求肥を勧めてあげた。
「他にね、足りてないものはない?」
「……言ったらくれるのかよ」
「食べ物や消毒酒精みたいに必要なものなら」
二人でもちもちしながら、話を振ってみる。
杏は思いの外お口が軽い、いや、素直のようだ。
話せばきちんとわかるくらいの、しっかりした知性もあるらしい。
今のノリで突っ込めば、もう少し情報を引っ張れるかも。
なんて打算をする私の前で、杏は口を引き結んで考え始めた。
「ならよ、とと屋の白粉くれよ」
「それはダメ」
「あんた今、必要な物ならくれるって言わなかったか?」
「お化粧品はあげられません」
城奥の美容用品全般は、御化粧係たる私の管理物だ。
私を通してとと屋を筆頭に厳選された商人からしか、購入できない仕組みになっている。
ちょっとやりすぎとは思うけれど、個人持ちの物を含めてね。
市場にはいまだ、水銀や鉛を使った白粉など毒性のあるコスメが生き残っている。
使用感や仕上がりの具合が理由なのだけれど、それで健康を損なったら怖い。
それで城奥の女たちを守るために、窓口を私に限定することとしたのである。
こういうシステムでやっているから、私の手の及ばないところにはコスメ等を供給しない。
無駄遣いされると予算的に困るし、変な使い方をされても健康被害的な意味で困る。
ちゃんと私か私の侍女の監督下で、購入や使用をしてくれなきゃまだ心配なのだ。
だからガンガン逆らってくる茶々姫様のところになんて、コスメ一つ渡せたもんじゃないんだよ。
「けちくせーな」
「ケチじゃなくて、安全確保のためだから」
「茶々様のこと、いびりやがって」
「いびってるつもりはございませーん」
心外な言いがかりだな。
茶々姫様をいびっても、私にメリットなんてないだろ。
誰にそんな話聞いたんだよ、杏。袖殿だろうけど、むかつくわあ。
というかね、私に従いさえしてくれたら、いくらでも面倒を見てあげるよ?
竜子様に若干睨まれそうだけれど、仕事ならば茶々姫様もサポートするのが私のポリシーだ。
弁解しても受け入れてくれそうにない雰囲気なので、とりあえず置いとくか。
「それにしても、白粉が足りないんだ」
「おう」
「でも袖殿たち、ばっちりお化粧してるよね?」
「……まぁな」
「どうやってやりくりしてるの?」
聞いた途端、杏が立ち上がった。
膝の上に乗せた求肥が、庭に転がる。
驚いて見上げた先には、少し血色が引いた白い顔。
わかりやすく揺れる瞳が、勢いよく逸らされた。
「もう行く、餅、美味かった」
そう呟くやいなや、杏は早足で廊下を戻り始める。
あーあ、まだだめか。いけると思ったんだけどな。
「ねー! 杏!」
角を曲がろうとする杏に、声をかける。
「また明日の八つ時もここにおいでよ、
お菓子持ってくるから」
「はぁ? 暇じゃねーんだけど?」
うっとおしげに、杏が睨んでくる。
「奇遇ね、私も暇じゃない」
「だったらなんで」
「さっき助けてくれたお礼させてほしいの」
いいでしょ、と重ねると杏が考える素振りをした。
さっき求肥を喉に詰めた私、グッジョブ。
杏に効きそうな良い口実になってるよ。
もう一押ししとくかな。
「実家の話とかしようよ。
白妙太夫の近況、教えてあげるよ」
「っ! ……行けたら、行く」
ほんっとに簡単に引っかかるなあ、杏ちゃんよ。
私と違う意味で城奥に適さない人間だ。
「また明日ね」
角に消えていく杏に、独り言のように呟く。
返事は返ってこなかったが、きっとちゃんと約束を守ってくれるだろう。
杏みたいなタイプの「行けたら行く」は、「絶対行く」なのだ。
「擦れるんだか、擦れてないんだか」
ひとりごち、残った求肥を一つ摘む。
騒がしさの名残りが残る庭から、空へと視線を持ち上げる。
真珠のように輝く入道雲が、西の空に浮かんでいた。
夕立が来るかもしれない。
「あの子が遊里の御化粧係って、マジなのかなー」
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