誰が小鳥をなかせるの?(2)【天正16年6月上旬】
い、石田様ぁぁぁぁぁぁ!!!
なんっっって最悪なタイミングでしか登場できない男なんだ。
中奥で一番会いたくなかった人の登場に、頭を抱えたくなるけどそんな暇はない。
やたらと目敏い石田様のことだ。今のまま杏を尋問していたら、絶対に気づいて近づいてくる。
面倒くさい事態が、より面倒くさくなることは確実だ。
それは! それだけは! 絶対に避けねば!!
「お夏っ」
振り向いた彼女に、急いで視線で石田様出現を伝える。
ひ、とお夏の喉が鳴った。
当たり前だよね。お夏も私の巻き添えで、散々石田砲を喰らっている。
だから言わなくたってわかるのだ。緊急事態だってな。
私とお夏の目が、一瞬合う。
言葉もなく頷き合って、私は杏の上から膝を退けた。
目を見開く杏を引きずり起こし、二人がかりで小袖の髪からお尻までを軽くはたく。
お仕置きじゃなくて、汚れと埃を落とすためだ。
よし、あらかた新しめの汚れは取れた。
ちょい薄汚れてるけど、許容範囲ってことにしとこう。
後は髪さえどうにかすればいい。
差し入れから、薄くて大きな布を一枚引っ張り出す。
白×黄色×ミントグリーンのチェック柄のそれは、ヘアアレンジ用のスカーフもどきだ。
母様が作ってくれたものがあって、ちょうどよかった。
手早く広げて端を摘み、ざっくり三角に折る。
そして頂点が前になるよう、後ろからバサリと杏の頭に被せる。
小さな悲鳴が布越しに聞こえたが、無視だ無視。
振り回そうとする腕はお夏に抑えさせ、三角の底辺の両端を持つ。
うなじのところで結ぼうとしたら、ブンブン頭を振られて、せっかく被せた布がずれた。
根性あるな。使いどころはまちがってるけど。
あきれ半分、感心半分。白い貝殻みたいな耳を、軽く引っ張って注意する。
「じっとしててよ」
「嫌に決まってんだろ!
放せっ! ブス!!」
「いーやーでーすぅー」
あとブスって言うな。
苛立ちまじりに、杏の後頭部を扇子で叩く。
ぱこんと良い音がして、抵抗が少し弱まった。
「〜〜いっ、てぇな! 何すんだよ!!」
「痛くしたもの、当たり前よ」
振り返ろうとする頭を、ぐーにした両手で挟んで止める。
ちょうど曲げた指をこめかみに当て、軽く押すとまた軽い悲鳴が上がった。
後ろから杏の耳元に口を寄せて、いい? と囁く。
「すぐそこに嫌味なほど有能で、
とんっっっでもなく面倒な人が来てるの。
見つかるとエライ目に遭うわよ」
「ハァ? んなこと関わりないだろ、ウチには」
「関わりは大ありでーす」
城奥から脱走しておいて、関係ないとかないわ。
石田様じゃなくても、誰かに見つかったら即アウトだ。
城奥のルールを破った者は、最低でも体罰に処されると決まっている。
男性の刑吏の手によって、竹の束でお尻をしばかれるのだ。
一回や二回ではなくて、五十回もだよ。
容赦なく力いっぱいしばかれるから、刑を受けた人は生活に支障が出るレベルの大怪我を負う。
恐ろしいことに、運が悪ければ死ぬことすらあるらしい。
令和のバラエティ番組の罰ゲーム、タイキックどころの騒ぎじゃなくて震えるわ。
しかも、だ。羽柴の城奥においては、罪の連座制が採用されている。
部下がやらかしたら、上司も管理不行き届きの罪で一緒に罰を受けるのだ。
つまり、何が言いたいかっていうとだね。
「あなたがここで捕まれば、
浅井の一の姫様も棒叩きになっちゃうかも」
大きく跳ねた肩に、優しく手を置く。
横から顔を覗き込むと、限界まで開かれた青い瞳が私を見る。
恐れを含んだ眼差しに、柔らかく微笑みかける。
「騒ぎたいなら、それでもいいけど」
どうする? と訊ねても、杏は言い返してこなかった。
意地っ張りでも、根は素直なんだね。
抵抗がぴたりと止んで、うなだれた首に淡く骨が浮く。
その隙を逃さず、私は手を動かした。
布をもう一度当て直し、明るい髪を丁寧におおう。
三角にした布の底辺の両端をうなじでクロスさせ、一回結んで頭に固定。
余った両端の布を前に持ってきて、眉のラインで三回結ぶ。
最後に前に垂れた布を持ち上げて、前の結び目に三角の頂点部分を入れ込めばOK。
微調整して抜け感を出せば、絶妙な洒落感があるスカーフヘアアレンジの出来上がりだ。
少しサイドの髪を出す方が私好みだが、今は髪の色を誤魔化すためだから我慢しとく。
黙ったままの杏の手首を、お夏が掴む。
ゆっくり一緒に地面へ跪かせて、軽く私へ顎を引いた。
ちらりと確認すれば、石田様が集団から離れて移動を始めていた。
予想通り、奉行衆の控えの間がある方向のこっちに向かってくる。
ギリ、間に合ったかな。ほっとしつつ杏に念を押す。
「顔、上げちゃだめだからね」
だんまりだがそれでいい。
残念なことにこの子は、お口がよろしくなさすぎる。
下手に喋って、石田様のセンサーに引っ掛かったら厄介だ。
黙って顔を伏せ、跪いてやり過ごさせるしかない。
口をききさえしなければ、姿勢の良さでハッタリが効くしね。
並んでかしこまる二人から二、三歩離れて、私はクチナシの茂みに近づいた。
そぞろに歩いて花に手を添え、選ぶようなフリをする。
石田様の足音が、近づいてくる。
人の気配を背中で感じて、生唾を飲む。
そこそこ場数を踏んでも、緊張する時はするものだ。
特に今回は、ミスると手痛いことになる可能性が高い。
棒叩きは嫌だ。嫌だ。絶対嫌だ!
「おい!」
ぞんざいな呼びかけと同時に、突然足音が速くなった。
ゆっくりと首を巡らせる。
庭の側の回廊に、石田様が滑り込んできた。
キキッ、急ブレーキをかけたように止まって、私に指を突きつけてくる。
「あら石田様、ごきげんよう」
「粧の姫、庭木の花は勝手に摘むな」
いや摘んでないよ。触ってるだけだよ。
さっき杏を捕獲する時に、若干折ったかもだけど。
「ご心配なく、まだ摘んでませんから」
「まだとはなんだ、まだとは。摘む気ではないか」
「摘みたくなったら許可を取りますよ、片桐様に」
「何故某に言わない? どうして隠す?
やましいことがあるのか??」
庭に降りてきた石田様がガンガン突っ込んでくる。
あーもー! 相変わらず面倒くさい人だよ!
気心知れてはきたけれど、いつまで経ってもこいつの面倒さにはうんざりだ。
てかさ、やましい意味で花を摘むって何よ。意味わからんわ。
クチナシなんてこの季節、あっちこっちで咲いてるじゃん。
花盗人しなくてもいくらでも手に入るお姫様だぞ、こちらとら。
不満げに見下ろしてくる石田様に、わかりやすくため息を吐く。
「石田様がずけずけ詮索しまくる人だからですよ」
「詮索ではない、口ごもってぐずぐずする馬鹿を促しているだけだ」
「それを人は詮索って呼ぶんです」
「後ろめたいことでなければ、
つまびらかに話せるだろうが」
「人って遠慮もなく不躾に突きまくられたら、
反感を持って抵抗するものなんですって」
「お前は相変わらず、ああ言えばこう言う娘だな」
お前もなー?
当たっちゃいるけど、石田様には負けます。
恒例の詰問ループが始まって、頭が痛くなってきた。
早く、早く終わってぇ……。
◇◇◇◇◇◇◇◇
城奥の中。
お気に入りのサボりスポットの庭に入った途端、肩の力が思いっきり抜けた。
疲れた。めっちゃくちゃ、疲れた。
結局、石田様から解放されるまで
誤魔化そうとして、寧々様を持ち出したら墓穴を掘っちゃったんだよ。
石田様が、突然張り切り出したのだ。
もうね、極端なこだわりが爆発してた。
適当に良い感じの選んで、はい終わりってさせてくれないの。
あの花は形がイマイチとか、これは枝振りがだめとか、それは枝のフォルムが気に入らないとか。
私のチョイスをバシバシ却下して、重要書類のチェックかって厳しさで花を精査しまくった。
通りがかった片桐様が間に入ってくれなきゃ、絶対更に半刻は延長してたな。
でも、クチナシのおかげで、杏の存在に気付かれずに済んだ。
石田様も片桐様も、びっくりするほど杏へ意識が向けることはなかったのだ。
最初から最後まで、政治の話一つなくクチナシの品評会で終わった。
石田様が選び抜いた一枝を預かって、穏便にお二人とさよならして。
中奥と城奥の境の扉を抜けた瞬間は、思わずガッツポーズしたくなったほどだ。
誰にも見咎められず帰ってこれて、マジでよかったぁぁぁ……。
「姫様」
沓脱ぎの側の階段に腰を下ろして、お夏のほうを向く。
あらまあ、絵に描いたような不満顔。クールなお顔が、能面のようにむっつりだ。
「これを、いかがしますか」
お夏に腕を掴まれたまま、杏が私の前へ押し出される。
力いっぱい押された勢いで、前のめりに杏が転びかけた。
ちょっと乱暴! 慌てて私が手を出すより早く、杏は立ち上がる。
振り向きざまに目を剥いて、勢いまかせにお夏に突っかかった。
「押すなよ! 馬鹿力!」
「品のない口を姫様の前できかないでちょうだい」
「うっさいな! すかしやがって!」
細い腕がお夏に伸びた。
掴みかかろうとするけど、たやすくはたき落とされる。
杏は細すぎるのだ。背があまり変わらない私にすら、さっき力で負けていた。
歳上で背の高いお夏の敵なんかじゃない。
「口も手も減らない
浅井の一の姫様のたかが知れるわ」
「おいドブス、今なんつった!?」
一瞬でつんと鼻の高い横顔が、怒りに染まる。
杏が体ごとお夏にぶつかる。両手が今度こそ襟を掴んだ。
遅れてお夏の顔が引きつる。恐怖ではなく、腹立たしさに。
滑らかなこめかみに青筋がくっきり浮かべ、お夏も杏の襟を掴み返した。
ヤバイ。止めなきゃと思った瞬間に、ガンッと二人の額が激突した。
「茶々様に無礼だぞ、クソブス」
「あなたを放し飼いにするような、
足りていない方なのは事実でしょうが」
「ハッ、そこの陰険女の方よりマシだろ?」
「あ゛? どなたが陰険ですって?」
威嚇もあらわの低い声が二つ。
ぐらぐら溶岩を煮詰めて、無理矢理密封したかのような不穏さがぶわりと二人を取り巻く。
ふ、と不気味な沈黙が落ちる。
肌をキリキリ刺す殺気が、胃の裏を炙る。
二つの唇が大きく、裂けそうなほど開いて。
「はい! 終了!!」
飛び出しかけた罵声を、私の両手が押し戻した。
お夏たちの口に押し付けた手には、差し入れのマフィン。
アンズのドライフルーツを混ぜた、私が好きな旬のおやつだ。
ちょっと惜しいが、騒ぎになるよりマシ。
文句も抗議も何もかも、山内家の料理人謹製のマフィンに吸わせる。
手は離さない。もったいないから吐き出させない。
仲良く大きくなった二対の瞳を、しっかりそれぞれ睨みつける。
「とりあえず、落ち着こうね」
穴場とはいえ、人通りがないわけじゃない。
騒ぎすぎると誰か来てしまう危険がある。
また一悶着する体力がないから、勘弁してほしい。
「んん、ぐ!」
「お夏の気持ちはわかってるから、
ありがとね」
「ぐぅ、ぅう!」
「杏ちゃん、何言ってるかわかんない。
まあ食べてお腹を満たしなよ」
もごもご、もぐもぐ。
抗議する二人のほっぺがしぼんできたから、次はスコーンを入れてあげる。
ヤマブドウのレーズンもどき入りで、栄養たっぷり。
口の中の水分を失いまくりながら、存分に味わって黙るがいい。
「杏、食べながら聞いて」
必死で咀嚼する杏の目を、しっかり見据える。
青い瞳が険を帯びた。追い詰められた、猫の目だ。
私への反感、敵意、僅かな戸惑い。
あからさまに浮かぶ激しい感情が、複雑な輝きとして現れている。
アマンダじゃないのに、アマンダに似ている目だ。
やっぱりこのままじゃ、後味が悪くなっちゃうな。
「あのね、よくよく周りを見なきゃいけないよ」
「……」
「
「なんだよ、それ」
「自分の目で見て、自分の耳で聞いて、
自分の頭を信じて判断しなさいってこと」
握り込まれた杏の手を取る。
手のひらに、かさつきが目立つ。
お化粧係らしくない、荒れた手だ。
あまり良い衣食住を、与えられていないのかもしれない。
骨張った指を、丁寧に一本ずつ解いていく。
緑に染まった爪先に挟まっていたのは、黄色い花の破片。
城奥にだって咲く薬草の在り方を、この子は知らない。
城奥のルールと同じように、誰にも教えてもらえていないのだ。
「一の姫様を助けたいなら、
他人の言葉を信じすぎちゃだめだよ」
「っ、放せ!」
手が、勢いよく振り解かれる。
自分の手を抱きしめるようにして、杏がまた睨んできた。
信じられないって顔で、後退りをしながら。
そりゃそうか。敵の忠告なんて、耳を疑って当たり前だ。
私を無条件に信じて、なんて言いはしない。
でも、少しだけこの子の心へ引っかかればいい。
「オトギリソウ、一の姫様の局から見て、
南へずっと歩いた先の庭に生えてるよ」
翻された背中に、教えてあげる。
そこは城奥の誰もが出入りできる、共有の庭だということ。
杏も勝手に入ってよくて、少しなら草を摘んでも構わないということ。
でも庭の塀の向こうは大政所様の御殿だから、絶対に越えちゃダメだってこと。
「それとね」
遠くなっていく後ろ姿に、一番教えてやりたかったことを投げつける。
「
ひび割れた踵の足が、一瞬止まる。
けれど振り向くことはなく、杏は走り去っていく。
見送りながら、私は息を吐いた。
少しだけ苦い、息だった。
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