聚楽第天守の二人の姫【天正16年5月下旬】
天正の世にも、令和の頃のように高い建物は存在する。
例えばお城の天守閣。
我らが大坂城の天守は、五階建てだ。
金箔瓦をふいた壮麗な姿が、大坂城下のどこにいても目に入る巨大建築である。
当然のように、都の城たる聚楽第にも立派な天守閣はある。
三階建てと大坂城よりも控えめだけれど、代わりにうっとりするほど麗しい。
陽光を受けて淡く輝く、真珠を溶かしたような漆喰の壁。
透き通るように青く煌めく、
この世の何よりも鮮やかな対比が、見る者の目を奪う聚楽第のシンボルだ。
ちなみに、青い瓦には合成ウルトラマリンがたっぷりと使用されている。
合成ウルトラマリンが世に出てすぐ、秀吉様がカラーチェンジを命じたそうだ。
金と同等以上の価値がある青を、うちは贅沢に使えるんだぞってアピールのためにね。
作戦はもちろん大成功。
豊家の青い華という異名が、全国どころか海外にまで知れ渡っている。
そんな都の名華の中はというと、わりと普通だ。
聚楽第ではあるから豪華だが、目が痛くならない程度には落ち着いた内装をしている。
この天守には、人が住んでいるのだ。
きちんとリラックスできる空間に仕上げられている。
淡いパステルなイエローとオフホワイトの襖に、柱やフローリングはダークブラウン。
淡いグリーンの畳と相まって、目に優しい。
住人の好みが、ナチュラル系寄りなためだろう。
襖絵や調度なども、シンプルながらに品の良いデザインばかりだ。
おかげで天守閣は、聚楽第屈指のほっこりできる空間となっている。
階段さえ無ければ、本当に最高な場所なんだが!
最後の一段に、重たい右足を乗せる。
やっとあと一段。もうひとふんばりが、すごくだるい。
でも、ここまで来たらやるしかない。
右足にぐっと力を込めて、張りぎみの左足を浮かせる。
勢いのまま左足も最上段に置いて、一歩、二歩と踏み込む。
「着いた……!」
壁に手をついたら、気の抜けた息が肺から押し出された。
めっちゃ疲れたけれど、妙な達成感が胸を満たす。
高めに造られた石垣からスタートして、最上階の三階まで。
勾配はそこまででも長めの階段の連続は、力の有り余った子供とはいえそれなりにきつかった。
最近、ちょっと運動不足気味だったからかな。
息を整えていると、階段すぐ脇の座敷の襖が滑るように開いた。
「あ、きたきた」
「いらっしゃい、お与祢さん」
ひょっこりと出てきた可愛らしいお顔が二つ。
どちらも一〇代半ばくらいの女の子で、色違いの双子コーデが可愛らしい。
手を振ってくる彼女らが、本日私がアポを取った方々。
「加賀の方様……浅井の三の姫様……、
ご機嫌うるわしゅう」
弱々しい私の挨拶に、二人はけらけら笑った。
とりあえず、茶々姫様に関する情報収集は私が担当することになった。
東様と丿貫おじさん、それから主たる寧々様と相談しての決定だ。
触るな危険説が浮上した茶々姫様だ。
秀吉様から直接ヘルプを出された私ならば、多少の問題に触れてもセーフな可能性が高い。
こればかりは誰かに任せるわけにはいかないので、諦めて動くことにした。
杏やその背後関係は、寧々様たち大人が探ってくれているから、他にやることもないからね。
それにまた、竜子様が体調を崩されぎみで、私の仕事は一つ減ってもいる。
コスメの匂いがしんどいから、悪いけど今はスキンケアだけで、と一昨日申し入れられたのだ。
心配だけれど体調に関しては、お医者様たちの領分。
私が手を出すべきことじゃないから、竜子様にしてあげられることが無い。
気分を良くするためのアロマテラピーくらいは、と思ったけど、竜子様ご自身が覚えちゃったからなあ。
さっぱりする柑橘類系の精油をお渡しして、様子見に徹するしかないか。
余ってしまった時間は、気が進まないが茶々姫様に使う。
毎日ご機嫌うかがいアタックをするのと並行で、茶々姫様本人のプロファイリングに取り掛かった。
ご機嫌うかがいは秀吉様へのポーズだ。
時間稼ぎしつつ、ワンチャン茶々姫様に会えるかな? くらいの気持ちでやってる。
本命は搦め手だよ。人となりを確かめることで、正面突破以外の接触方法を探したい。
「それで
朱鷺色の打掛がよく似合う浅井の三の姫様──
「三の姫様は一の姫様の、
妹君でらっしゃいますから」
あなた以上の適任者、いないでしょ。
茶々姫様にとって、江姫様は末の妹にあたる人だ。
私がすぐ会える範囲にいらっしゃる、茶々姫様の二人しかいない近親者でもある。
お姫様だって姉妹は姉妹だ。歳も四つと離れすぎていないから、会話も人並みにはあるはず。
人となりを一番知っていると踏んで、真っ先にアポを取ったわけだ。
「まあそうなんだけどさー」
かいつまんだ私の説明に、江姫様は唇を尖らせた。
私の持ち込んだ
「わらわもあんまり力になれないよ」
「そんな、なぜですか?」
「茶々姉様というか、姉様の周りが苦手でね」
困ったように、江姫様は髪を掻き回した。
袖殿たちは江姫様にも、ぐちゃぐちゃねちねち口出しをしてきているようだ。
やることなすこと、茶々姫様のようになれとうるさいらしい。
江姫様にはそれが耐えがたくて、去年からずっと家出中なんだとか。
どうりで従姉の竜子様の御殿や、友人の摩阿姫様の天守に居着いているわけだよ。
「あいつら竜子姉様や摩阿姫に突っかかるし、
気分が悪いったらないのよねー」
「本当にそれですわ、
アタクシが何をしたって言うのかしらね」
江姫様と同じように、摩阿姫様も菜の花色の打掛の肩をすくめる。
何をしたも何も、摩阿姫様が茶々姫様より上の側室だから、嫌がらせされてるんだと思うよ。
摩阿姫様は秀吉様から、父君の前田利家様ゆずりの財務能力を見込まれてらっしゃる。
だから秀吉様のポケットマネーや城奥の金銭管理を任されていて、金蔵のある天守に住んでらっしゃるのだ。
容姿も背が高くて前田家共通の美貌で目立つし、城奥で確固たるポジションを築いている。
茶々姫様至上主義な袖殿たちからしたら、うっとおしいことこの上ない人間の一人なのだろう。
「そういうわけでさ、
最近の姉様のことは何にもわかんないよ」
「では、以前の一の姫様のことはわかりませんか」
「以前の姉様ぁ?」
「左様です、以前のお人柄など、
お教え願えればと」
袖殿が苦手で最近の様子がわからなくても、元の性格くらいはご存知でしょ。
羽柴に保護されるまでは、ずっとともにお育ちになったのだ。
知らないわけないですよね、と視線に気持ちを込めてみる。
「それならまあ……でもなあ……」
江姫様の黒い真珠のような瞳に、まつ毛の影がかかる。
はきはきした性格の江姫様らしくない、奥歯に何か挟まってるようなご様子だ。
側にいる摩阿姫様も、似たような妙な表情をなさっている。
何か、あるな。
「お与祢」
「はい」
僅かなためらいを含んだ声で、名前を呼ばれた。
「あのね、姉様はわからない人なの」
「わからない、ですか」
「お優しいけれど、本当に優しいのかわからない。
何かお考えのようでいて、
何も考えていらっしゃらないかもしれない」
なんだそりゃ。
ぜんぜんどんな人なのか、イメージができない。
つい首を傾げてしまうと、あー! っと江姫様が両手で頭を抱えた。
「ごめんね、わからないよね。
でも上手く言葉にできなくって」
「摑みどころがない方、
ということでしょうか?」
「うーん、そんな感じ、かなあ」
江姫様が、渋い顔で頷く。
曰く、茶々姫様は時間を重ねることに何から何まで、わからなくなっていったそうだ。
江姫様が幼い頃から柴田家が滅ぶまでは、普通に思える方だったらしい。
無邪気で、心優しくて。人並みに遊ぶし、笑うし、怒りもする。
いつも妹の初姫様や江姫様を、そっと後ろから見守っている。そんな人だった。
柴田家が健在の頃は、人質として来ていた摩阿姫様とも親しくしてもいた。
人質という立場を案じて、なにくれとなく声をかけてくれたことを、摩阿姫様も覚えていらっしゃるそうだ。
ただ、気になるところといえば、母君のお市の方様との間に、微妙な距離があったくらい。
それもまあ、常識の範囲内だったみたいだ。
亡き信長公や義父の柴田勝家様が、年頃の娘とその母にありがちなことと、苦笑いでおっしゃっていたという。
そんな茶々姫様が変わり始めたのは、北ノ庄の城が落ちてからだそうだ。
まず、感情が読めなくなった。
笑っているのに、笑っていない。
悲しんでいるのに、悲しんでいない。
そんなふうになっていくのに、無邪気さだけは変わらない。
北ノ庄での悲劇など、実は起きていなかったかのような。
奇妙な錯覚を覚えるほど、茶々姫様はどこまでも変わらぬ茶々姫様だった。
江姫様たちは、薄々おかしいとは感じていたらしい。
ただ、当時は目まぐるしく情勢が変わる時期であった。
自分のことに手いっぱいで、姉の変化を気遣えなかったそうだ。
そして、ようやく身のまわりが落ち着いてきた頃。
三姉妹が羽柴の世話になると決まった時、はっきりと違和感を覚えたという。
江姫様と次姉の初姫様は、当初羽柴家に行くことに多少の抵抗を感じた。
あたたかく三姉妹を受け入れてくれる人たちだが、三人の親を滅ぼした人たちでもあるためだ。
年若いせいもあって、江姫様たちは感情の割り切りが上手くできなかった。
しばらくは羽柴の誰に対しても、思うように接することができなくて、とても苦労したそうだ。
でも、三姉妹の中で、茶々姫様だけは違った。
最初からにこにこと、羽柴家に愛想を振りまいたのだ。
無邪気に秀吉様を慕って頼り、寧々様や竜子様へは無防備に甘える。
まるで、ずっと昔から世話になっていたかのように。
忌まわしい因縁など、一つも存在しないかのように。
「わらわも初姉様も、わけがわからなかった。
どうしてって聞いても不思議そうになさるばかりで……」
江姫様が、視線を握りしめた手に落とす。
思い返しても茶々姫様のことが、一つもわからないのだろう。
苦しそうに唇を噛んで、黙り込んでしまわれる。
気づかわしげに、摩阿姫様が江姫様に寄り添って、それから私を見た。
「あのね、お与祢さん」
言葉を引き継ぐように、オレンジのリップで彩った唇が開いた。
「アタクシが茶々姫様にお会いできたのは、大坂城で一度きりなの。
また生きてお目に掛かれることが嬉しくて、
お城へ入られた時は、真っ先に会いに行ったわ」
でも、と江姫様の肩を抱きながら、摩阿姫様も瞳を暗くする。
「茶々姫様は、アタクシをお忘れになったようだった」
「加賀の方様を、お忘れに……?」
親しくしていたのに、忘れた?
北ノ庄でそれなりの時間を過ごした相手を?
「アタクシの顔を見て喜ぶ初姫様と江姫様に、
調子を合わせているように感じられた。
妹の友人に会っている、と言えばいいのかしら?」
「ご自身と摩阿姫が親しかったことなど一度もなかったような、
そんなご様子だったのよ」
その時のことを思い出したのだろうか。
頬の色を白くした江姫様が、絞り出すように呟く。
「元の姉様のまま、違う姉様になってしまった。
昔から側にいてくれた乳母も侍女も、みんな遠ざけられちゃったから、
誰も姉様の変化に気づけなかった」
「遠ざけられたって、侍女どころか乳母の方までも?
なにかあったのですか?」
「あのあのぼんくら従兄が追い出したの。
浅井と柴田に仕えた者なんて、関白殿下の心証に悪いからって」
ぼんくら従兄って、セクハラ内府様のことだよね。
うっわ、あいついらんことしかしねーな……。
でも、茶々姫様の状況はだいたいわかった気がする。
元いた乳母や侍女が、今はそばにいない。
今は代わりに、袖殿たちアクの強い人たちに取り巻かれている。
変わり始めたのも同時期ってことは、その辺でなんかあったっぽい?
摩阿姫様のことを忘れたとか、妙に引っかかる部分はあるけれども。
まあ、そのへんはひとまず置いておこう。
「ありがとうございました、江姫様」
しんどくなるような話をさせてすまんかったな、江姫様。
申し訳なさと感謝を込めて、深く深く、頭を下げる。
「一度、袖殿たちを介さず、
茶々姫様とお会いできないか考えてみます」
「できるの? 袖殿、かなり手強いわよね?」
「ご安心を、なんとかします」
心配そうな摩阿姫様に、笑顔で言い切る。
できるできないの問題じゃないんだ。これ、仕事なんだ。やるっきゃない。
「あ、でも」
頭の中に、ふとひらめくものがある。
そうだ。袖殿封じに、江姫様と摩阿姫様に協力していただけることがあるわ。
きょとんとしたおふたりに、にやりと笑いかける。
「ちょーっとお力添えをお願いしたいことが、あるのですが」
悪いようにはしないから、ね?
二人とも、巻き込まれておくれよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます