ほの暗い、雨の茶室にて【天正16年5月下旬】


 軒先を打つ雨が、また少し強くなってきた。

 不規則に耳を打つ太い雨音と、丿貫おじさんが茶筅をさばく細い音。

 狭くて薄暗い茶室を、静かに満たしていく。


 ふと、皺の多い枯れたような手が止まる。

 茶碗から、茶筅がゆっくりと離れた。



「……南蛮人、やったなあ」


「……南蛮人、でしたね」



 隙間風ほど細くされた丿貫おじさんの呟きを、東様が繰り返す。

 二人の声音には、隠しようのない戸惑いが滲んでいる。

 当然か。想定していないことが、幾つも飛び出したのだ。

 海千山千の大人であっても、何一つ動じないでいられるはずがない。

 どうにか平静を装って撤退することに成功したのは、奇跡に近いことだと思えるほどだ。



「南蛮人の化粧係、ですか」


「それもお与祢ちゃんと、遜色ない腕とは」


「にわかには、信じがたいですな」



 まことに、と東様が頷く。

 私もだよ。信じられないというか、理解が追いつかない。

 私を介さずメイク技術を習得した人間が出てくるなんて、まだもっと先だと思っていた。


 でも、それよりも。

 あの顔を見た衝撃が、まだ抜けない。





 ……あん、と呼ばれたあの子、アマンダそっくりだった。





 記憶から人が消える時には、順番が決まっている。

 最初に声、次に顔、最後に思い出。

 四百年後の世界で私の側にいた人たちは、もう私の中でみんな声を失った。

 顔すら忘れた人だって、数え切れないほどたくさんいる。

 親友だったアマンダも、その輪郭をおぼろにしていた。

 同じものを見て、聞いて、笑って、泣いて。

 おばちゃんになっても、おばあちゃんになっても、お互い以上の友達はいないって断言できた。

 そんな世界中の誰よりも、私と仲良くなってくれたあの子。

 前世の親よりも、ずっと鮮明な記憶を私に刻んだ親友あの子でも、私の中から消えていく。

 そう言うものだって、時間は残酷だって、教えられるだけで終わらなかった。



 呼び水さえあれば、記憶も鮮度を取り戻す。

 こんなことで知ってしまうなんて、あんまりだ。

 



「お与祢、どないした?」


「なんでもない」



 気遣わしげにかけられた声に、首を横へ振る。

 今は動揺している場合じゃない。

 かつての親友のそっくりさんであっても、敵方は敵方。

 アマンダと杏という子は違う人間だと、自分に言い聞かせて顔を上げる。



「あの杏って子、

 織田家が連れてきたというのは本当でしょうか」


「偽りではないと思うわ」



 東様が、こめかみに人差し指を添えて答えてくれた。



「浅井の一の姫様の後見は、織田の内府様。

 女房も侍女も、あちらが用意なさっているの」


「織田の五の姫様だけでなく、

 浅井の一の姫様にもですか」



 基本的に側室の使用人にかかる費用は、側室のご実家持ちだ。

 人員の採用も給与の支払いも、わりと馬鹿にはならない。

 最近側室筆頭となった五の姫様と、中位の茶々姫様の経費を合わせたら結構えらいことになっているはずたよね。

 セクハラ内府様、やっぱり曲がりなりにも織田だからセレブなのかな。



「いいえ、五の姫様は違うわよ」


「違うんですか!?」


「五の姫様の後見は、姉君様の婿である蒲生様ね」



 五の姫様の女房や侍女は、信長公がご存命時の頃からの者と、義兄の蒲生様が付けた者ばかりだそうだ。

 これは初めて聞く、意外な事実。

 織田直系の姫だから、当然あのセクハラ内府様の後見を受けているものとばかり思っていた。


 あれ、ということは、セクハラ内府様の紐付きの側室って茶々姫様だけ?


 同じ織田の姫君である姫路の方様は、ご存命のお父さんがちゃんと後見をしてらっしゃるし。

 他に織田家縁者で、目立ったご側室はいない。



「内府様が、賭けに出られたんかもなあ」



 丿貫おじさんが、似合わない皺を眉間に刻む。

 行幸の際のセクハラで、あちらの評判は落ちに落ちた。

 だから手元の茶々姫様というカードを切って、起死回生の一手としようとしている、ということか。

 茶々姫様が秀吉様の子を産めば、外戚として地位が急上昇間違いなしだものね。



「ついでに私の対抗馬も付けて、

 私を潰そうってたくらみもあるのかな」


「おおいにあるでしょうね」



 東様が不愉快そうに肯定した。



「引きずり下ろせなくとも、価値を落とせればいい。

 そういったところでしょう」


「私も安く見られたものですね」



 めっちゃ腹立つわぁ。本気で腹立つ。

 私に紐付いていない化粧係が増えたら、私の技術の珍しさが薄れる。

 寧々様が確立したオピニオンリーダーとしての地位だって、揺らいでしまう恐れも出てくる。

 与四郎おじさんのとと屋も、巻き込みで危なくなる。

 私を通して寧々様に、極上のコスメや美容グッズを納めているというブランド商法をやっているのだもの。

 私の極太パトロンが、一気に二人も潰れたらどうしてくれるんだ。

 喧嘩売ってんのか、私に。



「ほな早めに潰しとかんとな」


「うん、でも、慎重に行く」



 おじさんの言うとおり、見過ごすわけにはいかないが、注意を払って動く必要はある。

 今ならまだ、セクハラ内府様が尻尾切り可能な状況だ。

 最優先で杏と袖殿たちを殺せば片が付く。

 特に、袖殿たちは馬鹿みたいな脇の甘さがある。

 適当な濡れ衣を着せなくても、日頃の不行状を名目に連れ戻して斬って川に流すくらい簡単そうだ。


 そうされちゃあ、私が困るんだよね。

 無許可の美容専門家が杏だけならいいが、密かに専門家を育成する組織ができていたら最悪だ。

 美容、特にメイクはわりと簡単に再現可能なスキルだもの。

 セクハラ内府様と杏、ついでに袖殿を潰しても、元になった組織に生き残られちゃ意味がない。

 ほとぼりが冷めるたびに無許可の美容専門家たちが復活する、なんてことになったら悪夢だよ。



「では、泳がせましょうか」


「可能ですか?」


「寧々様は蜥蜴の尻尾で喜ぶ方じゃないでしょう?」



 東様がにこりと笑う。

 私たちのやりとりを見て、丿貫おじさんも納得したように息を吐いた。



「ほな差し当たっては、

 あの南蛮人の身元探しやろか」



 城奥に外国人がいないこともないが、だいたいが明か琉球といったアジア人だ。

 みんな武家や商家に故あって引き取られた子で、身元がしっかりとしている。

 ヨーロッパ系の子を引き取って城奥へ入れた家があれば、一発で調べがつくというもの。

 これはおじさんに任せて大丈夫だろう。



「与四郎おじさんによろしくね」


「まかしとき、

 帰りしなに与四郎殿の京屋敷に寄っとくわ」



 それならより安心。

 与四郎おじさんのことだ。

 清い茶聖の皮をかなぐり捨てて、修羅の豪商モードで徹底的に調べ上げてくれることだろう。

 あの人は舐められると、死んだほうがマシなほど締め上げてくる。

 お茶目なだけの茶聖じゃない。

 やられたらやり返す、ハイクラスの生き馬の目をブチ抜く堺商人なのだ。



「道貫様、宗易様にお伝え願えますか」



 ふいに、東様が硬い声を発した。

 何かを思い出したのか、お顔が険しくなっている。



「なんですやろ」


「一の姫様の周りは存分になさっても構いませんが、

 もし一の姫様ご本人に関する問題を見つけたら、

 十二分に気をつけてくださいまし」



 え? なんで? もうあの人も良くない??



「理由を聞いても?」


「下手に突くと、殿下が恐ろしいからです」


「ですけど、東様。今回ばかりは……」



 不自然な物言いに、思わず口を挟む。

 羽柴ブランドのピンチだから、切り捨てもやむなしと判断するんじゃないか。

 女絡みはともかく、まだまだ秀吉様の頭は冴え渡ってるご様子だ。

 茶々姫様の周りが羽柴に泥を塗る真似をしたのなら、絶対に許さないと思う。

 そう言うと、東様はだからこそと唇を噛んだ。



「だからこそ、殿下は一の姫様を庇ってしまう」


「え……?」


「先ほど袖殿は、横暴の理由をどう言ったかしら?」


「言われずとも御心はわかって……って、まさかっ」


「殿下が内府様と袖殿たちに咎を押し付けて、

 一の姫様を庇う口実になるのでは、とわたくしは思うの」



 すべて茶々姫様の周りの暴走、茶々姫様は悪くない。

 かなりの暴論だが、解釈自体は可能だ。

 袖殿たちの管理不足に関する責任追及も、秀吉様がかわそうとすればかわせる。

 病で伏せっていてできなかった、と天下人が擁護したら終わりだ。

 それに、と少し青ざめた東様は喉を震わせる。



「それに、とは?」


「内府様がおらねば、一の姫様の身が軽くなるのに」



 消えそうなほど低くした声が、茶室に落ちる。



「……以前、そう殿下が、こぼされたことがあって」



 待って。待って待って。怖い。

 それってまさか、この件の黒幕は秀吉様って可能があるってこと!?


 今の世の女は、結婚しても死ぬまで実家との縁が切れない。

 婚家の人間となりながら、実家の人間でもあり続ける。

 ゆえに夫は妻の身柄やその財産を、思うまま自由にできない。

 意外にも後世よりずっと、妻の権利や立場が保証された仕組みになっている。

 ちなみにこれは、側室であっても機能する仕組みだ。

 秀吉様の側室である姫路の方様には、過去これにまつわるトラブルが起きている。

 姫路の方様が嫁がれた当初、彼女のお母様は織田家の新参者で出自が低い秀吉様をとても嫌っていた。

 それでたまたま帰省した姫路の方様を実家にしまい込んで、秀吉様の元へ中々返さなかったことがあるらしい。

 ようはここまで強引なことすら、妻の実家側にはできてしまうのである。


 だが、妻の実家が滅ぶか没落すれば話は別だ。

 妻は帰る家を無くして、夫しか頼れるものがなくなる。

 こうなって初めて、夫は妻を所有できるわけだ。

 身寄りがないなら誰にはばかることもないよね、ってことだ。

 

 つまり、だな?

 もし茶々姫様の後見である、内府様が消えれば。





 茶々姫様は、秀吉様だけのものになるってことなのよ。





「ま、まさかそこまで、一の姫様になさりますか?」


「わからない、でも、

 明らかに殿下が一の姫様に砕く御心は異質だわ」


「それは……」



 わかる、確かに、そんな違和感がある。

 秀吉様は茶々姫様がを哀れんで、親を殺してしまった罪悪感を覚えている。

 先日本人の口から聞いたけれど、そればかりじゃない予感がした。

 何かある。間違いなく、ある。

 寧々様や竜子様に向けられる温かくて明るい愛情とは、似て非なる情が。

 本人が自覚すらしていないだろうそれが、秀吉様の中に芽生えている。

 


「殿下の勘所がどこにあるか、わからへんわけか」



 垂れ込めた重たい沈黙を、丿貫おじさんがそろりと払う。

 雷が、瞬く。

 一瞬照らされた横顔に、笑みはない。

 わかりやすいほどに、色を無くしていた。

 


「お与祢、用心しぃや」


「う、うん」



 何度も大きく頷く。

 茶々姫様には、触らない。

 秀吉様に頼まれた引きこもり理由は探るけれど、それ以外はなるべく触れずに無視だ。



「東様も、ようよう用心を」


「もちろん、お与祢ちゃんとともに、

 すぐ寧々様への報告をいたします」


「それがよろしいわ」



 すっかり冷え切ってしまった茶を、丿貫おじさんがふくむ。



「この件、何やらけったいなことになりそやからな」



 茶の苦さか、嫌な予感にか。

 顔を歪めて、そう老茶人は呟いたのだった。




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